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【結城登美雄の食の歳時記#3】忘れちゃいけない名脇役の大麦(麦編・その3)
2013-02-27 08:0584pt「麦」といえば、これまで2回にわたり触れてきた小麦を想像しがちですが、大麦も忘れてはいけません。今回は麦編のラスト、「大麦」がテーマです。麦にちなんだユニークな神社も登場します。※会員(月額525円)の方は全文購読できます。非会員の方は有料記事(80pt)となります。(会員になるには携帯キャリア決済、カード決済が可能です。個別記事を購読する場合は、ニコニコ動画にログイン後、ニコニコポイント80ptにて購入し御覧ください。ニコニコポイントは500円から購入可)* * * * *
結城登美雄の食の歳時記<麦編・その3>宮城の小麦の生産量は南部小麦の岩手には及ばないですが、そのかわり大麦が東北の中ではダントツに一番です。特に六条大麦は2,170トン(2012年)を生産しています。東北全体の収穫量は2,350トンですから圧倒的に宮城が六条大麦で頑張っていることがわかります。六条大麦はどんなふうに食べられるかというと、一番は麦茶です。夏には煎った麦茶を何杯も飲みます。日本では、緑茶が一般化するまではお茶と言えば麦茶のことだったと言われています。そういう麦茶を今なお宮城の大麦が支えています。また大麦は押し麦にして、ご飯と一緒に麦飯として食べます。牛タンは麦飯と一緒に食べるのが宮城のスタイルです。これは宮城の麦の文化の一端を表しているものかもしれません。大麦を煎ってから石臼などで粉にすると「こうせん」というものになります。昔はこれがおやつでした。茶碗に入れてお湯を注いで練って食べます。「またこうせんかよ」と思ったものですが今では懐かしく思われます。そのこうせんを使ったのが -
【結城登美雄の食の歳時記#2】宮城の麦がなぜ田園から消えていったのか(麦編・その2)
2013-02-23 07:2084pt前回の<麦編・その1>で、日本の麦生産が減っている現状に触れた結城さんは、「農家の人と私たち消費者が力を合わせて増やしていくことができないでしょうか」と投げかけました。今回は生産と消費が手を携えていくヒントとして、宮城の豊かな伝統食を使ったイベントに触れていきます。※会員(月額525円)の方は全文購読できます。非会員の方は有料記事(80pt)となります。この機会にぜひ会員になっていただけると幸いです。(会員になるには携帯キャリア決済、カード決済が可能です。個別記事を購読する場合は、ニコニコ動画にログイン後、ニコニコポイント80ptにて購入し御覧ください。ニコニコポイントは500円から購入可)* * * * *
結城登美雄の食の歳時記<麦編・その2>2006年1月22日、登米市の市役所近くの公園を開場に「第二回全国はっとフェスティバル」(2012年第九回開催、現在も継続中)というのが開かれたそうです。ニュースでみたら大盛況だった様子が映っていました。全国の「はっと」があつまって、「いろんな種類のものを食べたよ」という人も多かったようです。私もじつはこのはっとについては推進母体になった登米はっと街道作りの手伝いをちょっとしたことがあります。これは地域の食文化、あるいは宮城の食文化を見直そうとして始まったものなんです。意外なことに、宮城は米所と思われていますが、かつては麦どころでもあったわけなんです。僕もその会に関わりながら、ちょっとびっくりしたことがあります。昭和31年頃まで宮城県内の農地の多くは水田だったのですが、全体の3分の1は畑地だったのです。水田面積の2分の1、およそ5万5000ヘクタールが畑だったんです。現在の一面に田んぼが広がっている風景を思う人にはちょっと意外に思うかもしれません。畑の中で当時一番植えられていた作物は大麦と小麦でした。その畑の60%ちかくが麦畑だったのです。昭和30年頃代に農村にいらっしゃった方は田んぼと同時に麦畑の風景を見て育ったんではないかと思っています。秋にお米の収穫が終わると今度は畑に麦の種をまいて冬に麦踏みをして、「麦秋」といわれる初夏に麦の収穫をする。収穫の直前に大豆を麦の間に植えるのです。そうして鳥などについばまれないようにしました。そんな風にして一年に2つの作物を輪作していたのが宮城の昭和30年ごろまでも農業の姿でした。そういう意味で田んぼでお米、畑で大麦と小麦、そして大豆。これが宮城の田園風景でした。お米は売って現金にかえ、
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