宣伝でのあらすじは「1960年代のニューヨーク、冬。若い世代のアートやカルチャーが花開いていたエリア、グリニッジビレッジのライブハウスでフォークソングを歌い続けるシンガー・ソングライターのルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)。熱心に音楽に取り組む彼だったが、なかなかレコードは売れない。それゆえに音楽で食べていくのを諦めようとする彼だが、何かと友人たちに手を差し伸べられ……」となっている。もし、ロマンチックな映画を期待したら、それは期待外れである。
最初に出てくる曲が「Hang me, oh hand me. I'll be dead and gone. Hang me, oh hang me. I'll be dead and gone. Wouldn't mind the hanging. But the layin' in a grave so long, poor
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
孫崎さんの評論から出てくる見方は、人間としての一つの生き方です。
競争主義社会の勝者、敗者の世界から離れ、真実の世界、すなわち勝者、敗者にとらわれない、何物にも束縛されない自然を愛し、無分別な動物を愛するのは、現実的人間の生き方として理想の姿を描いています。ただ、凡人は、物質的なもの、名誉、地位などに目がくらみ、さらっと、自然体で生きられないのが悩ましい。幸いなことに、第二の人生を過ごしている我々を束縛するものはなし。自由に生きられることは皆同じであり、大きく変わりかねない平和国家の行く末を心配するが、国会議員に届かない。君たち国会議員は誰から生活費を得、だれから選ばれているか、考えたことがあるか。米国から得ているわけでもなく米国民によってえらばれたのでもない。背信行為をしていると考えたことがないのだろうか。安倍総理はくるっている。米国の艦船に乗せて日本国民を護送する。そんなことはあり得ない。税金を払っている米国民は許さないでしょう。安倍総理は税金で国家を自衛しているという感覚がまったく欠如しているといえます。
タイトルを見てすぐミスチルの「名もなき詩」を思い出しました。この詩が大ヒットしていた時にはミスチルなんか名前も知らなかったのですが、「NOT FOUND」〜「優しい歌」あたりで発見しました。今では聞かなくなりましたが、歌詞は確かにインパクトがあると思います。連想してボルヘスの「Everything and Nothing」。神はこう語りかけます。
シェイクスピアよ、お前がその作品を夢見たように、わたしも世界を夢見た。
わたしの夢に現われる様々な形象の中に、確かにお前もいる。
お前は、わたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ。
名を持つということはある意味全能性を失うということだと思います。ここでいう名は名声という意味ではありませんが、名声と違い名を持つか持たないかは自分で選択できます。そしてきっと名を持つということは自分を解放することなんだと思います。ミスチルはこう歌っています。
ありのままの自分で生きようと願うから人はまた傷ついていく
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいているなら僕だってそうなんだ
その傷つく心こそ生きるということだと僕は思います。
>>1
「君たち国会議員は誰から生活費を得、だれから選ばれているか、考えたことがあるか。米国から得ているわけでもなく米国民によってえらばれたのでもない。背信行為をしていると考えたことがないのだろうか。」
この文章の前半についてはほとんど言うまでもないが、国会議員を選出したのは日本国民であることは自明である。それに続いて「背信行為をしていると考えたことがないのだろうか。」と問うのは唐突である。筆者にしかわからない。
「米国の艦船に乗せて日本国民を護送する。そんなことはあり得ない。税金を払っている米国民は許さないでしょう。」と仮定しているが、それはわからないよ。たとえば、ベルリン封鎖のとき、米空軍の機材を使って食料をベルリン市民に届けた行為は米国民の同意を得たのみならず、彼らにとって誇りある業績となっている。同盟国の国民を救出することは米国民にとって誇りとなるだろう。
本気で自分を変えようと思えばどんな状況であれ絶対にできます。できないのは本気でやる気がないからです。できないと言い訳しているだけです。責任を取れるのかというでしょう。責任は自分でとるしかありません。誰でもないまま死んでも誰も困らないのでそれは立派な選択です。
私はこの映画は米国の文明批判の映画だと感じましたね。
米国の問題は貧富の差だけでなく米国の都会全体に拡がるスラム社会の存在です。そういったことは日本人には到底理解できないこと。内国問題を解決出来ないのにワシントンは倫理無き世界征服主義を標榜し南米全体をスラム化し世界をスラム化しようとしている。この映画はそういった米国のヴァイオレンスに対する抗議の表現だと受け止めました。
中国やロシアの閣僚クラスが米国のすぐ隣のキューバのカストロを頻繁に見舞に訪れていますが、カストロは中国・ロシアに自信を与えるのでしょう。今、カストロの影響は南米に拡がりつつあります。米国製の政治、経済パラダイムは色あせて来ています。世界の動きをつぶさに観察しているとそのことがよく分かります。日本がそんな落ち目の米国と共に世界に挑むということはムッソリーニと手を結ぶことよりも劣ると私は思います。米国には大義がないのです。
最近、映画を観ないが、こうやって孫崎先生の評論に接すると観たくなります。私の受け止めが正しいか確かめに観に行きます。
見てもないのに僭越ですが、まあ想定内という感じです。何が本当で何が嘘なのか、映画の世界ではどうでもいい話ですが、特に驚くべきことはありません。敗北者が脱出できるかどうかは、結構興味深い話ですが、望みがないのならそうそうに引き上げるべきだとは思いますね。
でもこうやって性懲りもなく書き込んでいるのは気になるからでしょうね。片山君の方も、どうしようもない人間だと思いながらも、IWJの中継まで見てしまいます。そんな追放されたような世界に僕らは住んでいるのです。しかし状況がすべてではなく、すべてはその人間の真価にかかっています。価値のない人間なら、環境のせいではなくその人間に価値がなかったのです。どんな言い訳もできないでしょうね。
>>6
人間に価値がなかった。たいへん気にかかる言葉であり、人間に対する見方が気にかかります。
この世に生を受けて価値のない人間っているのでしょうか。知的障害者、身体障碍者を生きる価値があるかどうかの物差しで考えるべきなのでしょうか。私は、この世に生を受けて価値のない人間はいない、もしそのように考えるのであれば、因縁ということを否定することになります。因縁なき生などありません。高望みすることなく、その時望めることが何でもよい、生きることに意義を見出す生き方を求めたいのです。知的障害者でも、身体障碍者でも人生を楽しくする方法を見出すことができるのです。五体満足の人が、生きる目的を見出せないとは思いたくありません。敗者などいません。自分がそのように自分を追い込んでいるだけです。
>>7
おっしゃることはよくわかりますし、僕も書き方は良くなかったかもしれません。価値を持て生まれてこなかった人間はいません。でも生まれもって授かっている価値を自分の意志で捨ててしまう人はいますよ。現実には犯罪を繰り返す人間は多いし、人を騙しても罪悪感を感じない人間は多いですよ。人間には自分が克服すべき宿命を負っていて、その宿命に呑み込まれたり、立ち向かうこともせずに逃げ続ければ、その人間は自分がなるべき人間になることを自ら拒否するのですよ。それは環境が悪かったのではなく、立ち向かう意志を持たなかったのです。そう言う人間にいくら同情しても無駄ですよ。どこかで切り捨てなくてはいけないのです。
あなたがすべての人間に価値がありどんな人間もそれぞれの輝きを放つことができると信じるのなら、人間の悪意、そして人間の無責任さをなくす術を教えてもらいたいですね。そしてそれでうまくいくのなら僕の方が前言を撤回します。
>>8
自覚しない人の問題であれば、理解できます。人間だれでもいろいろな問題を抱えながら、問題を乗り越えて生きています。苦がまったくない人間なんて一人もいない、皆苦しみながら生きていると思います。自分だけが苦しんでいるのではない、皆苦しんでいるのだと思えば、苦は生きる上で乗り越えなければならない物ではないか。人間の悪意にいちいち反応していてはきりがないのではないか。無視するのでなく、反省すべき点は反省し、乗り越える強さが必要だと思います。乗り越えられないと、今おかれている環境を打破することはできないのですが、その時に助言してくれる先生、仲間がいるかいないかは、大きな要素になる場合があるのではないでしょうか。撤回などしなくても結構です。あなたはあなたであるのですから。
生きる価値のない人間などはいくらでもいると思うよ。
掃いて捨てるほど。
自民党という政党の国会議員名簿に目をとおしてみたら。