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娘、孫崎玲(米大学准教授)「玲の南カルフォルニア便り、#5完全菜食主義者であること」 左右社。
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娘、孫崎玲(米大学准教授)「玲の南カルフォルニア便り、#5完全菜食主義者であること」 左右社。

2016-01-20 07:36
  • 11

 

I 人間には行方不明の時間が必要です、というのは茨木のり子さんの詩の一行。

  そもそも研究者だから、授業とミーティング以外行方不明みたいな生活をおくっていると言われるかもしれない。それでも、後期資本主義経済のめまぐるしい時間の流れから自由になり、個人としての一切の過去の憂いと未来への恐れに付随する想いから意識的に離れ、また現在の葛藤も悲しみも怒りと相撲をとるのをやめて、そのかわりに、長くて安定した呼吸をする、ただの生き物にもどる時間が必要だ。そうしないと、自分という存在が放つ光が鈍くなってしまうように思う。

  ヨガをする。良質の呼吸と重力で血液やリンパ液の循環と栄養素の分配を促進することだけに集中する。あと、植物を見にいく。良質な酸素と草花の美しさをただただ取り込む時間があれば、それ以上の贅沢は私にはいらない気がする時がある。

  人間の神経や血管のようにはりめぐらされる

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左右社「玲の南カリフォルニア便り♯5」、心温まります。

茨木のりこさんの詩「行方不明の時間」は、面白い新鮮さを感じる表現です。普通に言えば、「知ってことさらに犯す」人間だけに与えられた心の自由を、時間空間を超えた領域「自然法爾」の世界にゆだねる、何とも言えない心やすらかな気持ちがわいてきます。

自分のものでありながら、自分のものでない身体の在り方を突き詰めていくと、「自然食品」の効用がおのずから追求できる。食品の流通が世界的な競争の原理におかれれば、安全な食品を供給している日本も、米国の現実に直面することであり、実際に米国で生活しておられる孫崎玲さんの話は、明日の日本の姿でもある。これから、富者と貧者の大きな格差は食品の安全性が確保できるかどうかにかかっている。端的に言えば、生命の長短が決められるということでもある。

最後の言葉、「私を通して呼吸し続ける誰かの果しえなかった夢」の実現、孫崎さんにとって、うれしい言葉なのでしょう。親子のきずなを垣間見ます。

No.2 107ヶ月前

「おじさんはもっと若い頃に勉強しとけばよかったなあって、馬鹿だったなあって本当に思う」と、私も若い人に言ってます。トホホ。
かつてキューバのアレイダ・ゲバラ女史(医師)が来日講演で「父は私に『勉強せよ。そして、勉強するということは、その分野で一番になるということだ』と激励しました」旨語っていたと思いますが、アレイダさんの強さと重なります。
私もまだ10代の頃は黄緑野菜嫌いで食卓に毎度肉料理が無いと文句を言っておりましたが、酷いアレルギー性鼻炎が一向に治らず、ついに家族から玄米菜食を強制される羽目になり、しかし、気が付くと件の鼻炎が殆ど治っていました。一、二年あるいはもっと掛かったかもしれませんが。やがて偏食を止めるだけに緩めてしまいましたが、最近自分の周囲では「心筋梗塞で倒れた。もう肉は控えるしかない」等々の話が少なくなく、こうした記事も読ませて頂くにつけ、また玄米菜食に戻る決意を迫られる思いです。

No.3 107ヶ月前

文脈がジャンプする不思議なエッセイを書く人だと言う印象だが、文体としては確立しているから、まあいいのかなと言う気はする。考えてみれば、生命は生命を食べることでしか生きられない。食べれば死んでしまう動物においては、生命を奪うことで自らを生きながらえている。それはある程度仕方のないことだが、食べることのみを追求して、奪われる生命を顧みない現代人は、もう一度命と言うもの似ついて考え直さなければならないのかもしれないと思う。ほかの生命を奪ってまで生きるのだから、彼女のいうようにできうる限り精一杯努力して生きなければならない。それが生命として守るべき最低限のスタンスだ。自分の人生は、孫崎さんやその娘さんのように、成功を勝ち取った人生ではなかったけれど、できうる限りの努力と悔いのない選択をしてきたとは思っている。それが今の自分を支えているのだと思う。

失敗があるのは当然だ。失敗をしたときの問われているのは、それをどう乗り越えるかと言うことだ。感情を捨ててクールな振りをして生きるのは、失敗に喰われた人生だ。それは全くを持って乗り越えてはいない。たとえ難破したように自分を見失うことがあったとしても、もう一度本当の自分を見つけなければいけない。それは絶対にしなくてはいけない。本当の自分に至る道を歩いていれば、そこに導かれていると言う感覚が現れるはずだ。偶然も君を助けてくれるだろう。人間の歴史はまだ終わるわけにはいかないのだ。

No.4 107ヶ月前

豚肉だろうが牛肉だろうが自然食品である。

肉そのものが健康に悪いわけではないく、調理法と食べ方の問題だ。
健康の観点では、肉を減らすより、炭水化物(糖質)を減らす方が良い。

うちの年寄りは、O型の家系で胃酸の量が通常より多いのが原因か、
よく肉を食べるが、両方とも90越えでピンピンしている。

むしろ親父の方が主食中心の食事により、糖尿病になってしまった。

長野県民は、昔からピンコロ死(ピンピン生きて、コロッと死ぬ)を
理想としているが、寿命に肉食が関係しているとは到底思えない。

文学とは素晴らしい。

記事に何気なくご本人の「優越意識」を織り交ぜていても、それ以上の
美しい詩が書かれていれば、人々は魅了され賞賛を送ってしまう。

その娘の記事を、抵抗も無く紹介してしまう御父様もまたご立派だ。

この世界には素朴で純粋な方々が多いようで、何よりである。

No.5 107ヶ月前

素朴で純粋でいられない方も多いようで、人生の根本的不平等とそれに起因する怨恨も絶えないのは残念な事だ。読者が完全菜食主義者に移行するのが無理だとしても、このエッセイの最後の一行は感嘆に値するほど素晴らしい文だ。

No.6 107ヶ月前

心の柔軟性、豊かさを実感しながら生きることが大切であるが、安倍首相を見ても、己の価値観にしがみついて、他人の価値観を認めようとしない民主主義とは逆の方向を目指しているのは非常に残念です。ひとりひとりが、視野を広げて幅広く見られる環境が、どんどん崩れている現状は、日本人の心の退廃化が進んでいるともいえる。人間が人間の心を失えば、情緒性皆無のロボットに過ぎない。さりとて、ロボットに勝てない。人間存在価値の崩壊です。私たちは、真剣に考えなければいけないのではないか。

No.8 107ヶ月前

younghope氏も最後の一文に注目しておられて、誰かとは父親の事と解釈されていますが、すなおに読めば「若い頃勉強しておけばよかった」と述懐を漏らした笑顔のおじさんを指すわけで、父親の事を指しているとは読めませんね。むしろ、誰かという言い方をすることでそのなかには無論、父親も入るかも知れないのですが、もっと普遍的にあるひとの想いが別のひとのなかに流れ込んで、生き続けていく可能性、あるひとの夢がほかのひとのなかで受け継がれて行くという、誰しもが思い当たる出来事、しかしとりわけ重要な意味をもつ個人のなかの出来事についてさりげなく指摘しているので、これを単に父親へのメッセージと解しては狭い読み方になってしまうと思います。

No.9 107ヶ月前

>>9
その通りでしょう。異論ありません。私も父親ですから、「うれしい」という父親としての感性が働きすぎたようです。

No.10 107ヶ月前

鼻に掛けた態度に、皮肉で返すのは、庶民のお約束ってやつです。

「地球は美しい、生命は美しい、そして私も美しい」

このような文であっても、立派な詩でしょう。
私は娘さんの文学に文句をつけているわけではありません。

得意分野を武器にし、人より優れた面に優越感を持つのは私だって同じ。
みんな同じ穴のムジナです。

屁理屈ばかりで、ジョークや皮肉の一つも理解できない、
本当に頭の固い人達だ。

感性を養う努力をされることをオススメ致します。

No.11 107ヶ月前

なんだかな~。読んでいて悲しくなってしまった。文字を書くということは2つの側面がある。他者に伝えるという側面と
自分自身に向けて何事かを意識させるという側面とである。この2つの側面が重畳することで、人間は考えることが可能になる。この文章の書かれている内容を問う以前に、この人は思想したことがあるのか?という想いに襲われてしまって、最後まで読んだけれど、「無残」としか言いようがなかった。知的無残、という言葉を送るしかありませんでした。ごく普通な人は
多分「いい加減にしなさい!」と一言ですますことをこんな風に書き連ねてみました。

No.12 107ヶ月前
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