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<菊地成孔の日記2024年10月28日記す>
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<菊地成孔の日記2024年10月28日記す>

2024-10-28 11:00
  • 15

 3年越しで「天使乃恥部」を完成させ、久しぶりでいつもの街中華に行ったら、なーんと、客が僕しかいなかった。この店は外から中が見えるタイプで、昨日まではいつものように客でパンパンだったのであった。

 

 「えー。どうしたのかな」僕はそんなに不安が強い方ではない(精神分析を受けてからは特に)たいていのことはどうにかなるだろと思う方だが、いつでも客でいっぱいの店がさ、行ったのは夜の9時とかよ。まるで人類が滅亡したかのようだ。日曜の夜とはいえ。だ。

 

 まあまあ、そのうち客も入ってくるだろう。それで結局、だらだら11時まで居た。エビスの中瓶1本、茄子の唐揚げ、エビ蒸し餃子、豆苗炒めと、クォーターポーションの北京ダック、サンラータンの刀削麺。いよいよ明日から、「コロンボ研究」の前書きから執筆に入る。膨大な資料とメモをまとめていると、「M/D」よりも厚いかも?と思えてくる。

 

 とうとう僕が会計を済ますまで、客は1人も入ってこなかった。えー、なにこれ気持ちわるー。またコロナでも流行ったのかしら。

 

 雨がそぼ降っていて、僕は、ラディカルな意志のスタイルズのパーカーを着ていて、フードを被り、歩いて帰ることにした。

 
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他5件のコメントを表示

菊地さん、こんばんは。
コロンボ本の執筆、がんばってください!
あらためて見ると、「南米のエリザベス・テイラー」という題名は、
すごいイマジネーションの産物ですね。
ライブおつかれさまでした。今回は行けませんでしたが、
また、いつか必ず参加させていただきます!(CLISPも!)

No.7 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>1

 今、僕や田畑さんも含めて、結構な人々をグルングルンに振り回している「憐れみの3章」ですけど笑、僕の経験値としては「ものすげえ興奮して人に話しても、あまりわかってもらえない」という笑、もので、だからこそこんなに興奮するんだ。と思っていますし、田畑さんの興奮が非常によく伝わったきます。御説は非常に緻密な論考で、一概視しては失礼とは思うのですが、全てその通りだと思います。

 ご質問、並びに、ご指摘外の話だけすると、何がすごいって、前作と並行して制作していたという事実ですね笑。前作は、まあまあ普通に、というか、神が可視化するネヴァーランドの、つまりハリウッド映画ド直球だったと思うんです。多くの鑑賞者が普通に欲情していました笑。

 スピード制作、そして、神の可視から透明化、という離れ業を可能にしたのは、ランティモスはかなり積極的なAI使用肯定派で、前作ではエンドクレジットにも音楽にも(音楽側=ミア・レヴィ側は否定していますが笑、絶対に使っています笑)使用、本作は例のダンスにも間違いなく使われていますし、生成AI特に動画の生成の、正体不明の属性として、欲情を制圧的に去勢し(「AI動画にはリビドーがない」という風説を、そっくりそのままトレースしていると思いますね)、愛をはじめとする森羅万象が、「今、生成された」という感に対して、全く臆していない。その「臆さない」感が、クセナキスからマリア・カラスを繋ぐ(ここを繋ぐ人いないですけど笑)、ギリシャ線だとしか思えない。のですが、何せギリシャ文明に関して、実のところ考現学というか、現代的な解釈というのは無きに等しいので、どうやってアプローチしたら良いのかがわからない。その圧倒的な達成感がランティモスの恐ろしいところだと思います。

 Hymnに関しては、これは僕の仕事だと思いますので笑、かなり調べてみましたが、正直まだ調査中で、反復になりますが、コロスも含め、「古代ギリシャ音楽」に対するアプローチは、考古学ガチ勢(楽器の複製、空間の複製、演奏者、歌手の複製、を追求し抜く閥)と、巨大駄菓子化(いわゆる「エリザベステーラーのクレオパトラ」に代表される、エキゾチックOST)の2派しかなく、どちらも帯に短し何とやらで、本作の「ピアノ=思いっきり平均律」と合唱、というスタイルがどんだけ斬新か、については、もう日本人の評は予め諦めるしかなく笑、海外の映画系ブロガーの中でも、音楽に関してガチだなあと思うものを見ても、書いてあること田畑さんと一緒で笑、「コロスだということはわかるが、それ以外何もわからない、古代ギリシャごか現代ギリシャ語かどうかすらわからない」とあって笑、要するにこれは、ある映画が提示したアポリオに対し、世界文化が平等に壁に当たっている状況なので笑、ランティモスって発狂しているのではないかと思いますね笑。

 OSTから音列を採っても結局、さほどのクラスタリングはなく(そこは逆クセナキス的ですが)、平均律内で採れてしまうので、最低でも18世紀以降の=後期バロック以降の古代ギリシャ音楽、と、こう書いていても神託が降りてくるばかり、と言った感じなのですが笑、御説の通り、ジェースキンフェンドリクス(ケンブリッジには音楽専攻どうやらあります。学閥が現場に存在するほどいたかどうかは分かりませんが、履歴に書いてある音楽家やエンジニアが散見されるので)のスコアは、驚くべき直線性を保っていて、80年代を席巻した、ニューシンプリシティの発展的な継承だと言えます。これは、エビデンスありませんが、フェンドリクス×ランティモスの幸福な合意である気がします。前作で「音楽にもっと色々言いたい」と思った節があるので。

 ただ、一回しか見ていないので、流通OST版と、映画作品内における整音のセンスと技術は判断できません(記憶力の限界で)。今、AIによってどれぐらいコレが生成できるかラーニングのアプローチを変えてトライアウト中です(ピアノと歌ぐらいは平然と生成するんで=最新界のラジオデイズ参照)。

 「夢度数」ですが、やはり本作は20世紀映画的な夢度数はゼロに近く笑、かといって21世紀の夢感、とも言えず、これはあまりに物語が盤石なせいもあるんですが、新・現実主義というか笑、アビチャッポンのメモリアを睡眠時と覚醒時に2分割して、覚醒時を煎じ詰めた様な感覚がしますね。

 いずれにせよ、20世紀の清算速度が、AIを媒介に高速で進むことは間違いなく、いささか日記との符合に強権布帛だとはいえ、「刑事コロンボ研究」はキーで入力して書き上げるつもりですが、20世紀の生産を20世紀の話法と記述法で行うわけで(通路はあるのですが、それはまだ企業秘密というか笑)、あらゆる20世紀的な批評基軸を外して行けるか、今、脳が爆発しそうな状態です笑。

No.8 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>2

 スンマセン<すみません「白鯨」はメルビルだと思います!>コレはもちろん、了解しています。了解しています。ちょっとこれ、全て書き上げてから出ないと説明ができないんで笑、とりあえず伏せておいて下さい(すげえ簡単にいうと、あえて誤認識や錯誤を入れて、後書きで全部バラすので笑)というか、秘密にしておいて下さい笑。

 ポルフォーリ説は、江川卓→手塚治虫、と、20世紀の神々が保証してしまい、あろうことか原作者のリンクがNHKのインタビュー(「私のコロンボ」という特番)で、良い湯加減で断言してしまっているので笑、20世紀のミステリオタの定理になっているのですが、私感では絶対に違います笑。というか、上記の流れは「倒叙という形式(江川卓)」「コロンボというキャラ(手塚治虫)」と、本来分別されるべきバイウエイが液状化してしまっているので(江川は、最初に犯罪描写があり、次に法廷描写に移り、エンタメぐらい心理戦がある「罪と罰」を「さながら倒叙式ミステリー、例えば「刑事コロンボ」のような」と言っただけで、ポルフォーリはコロンボだけの原型ではなく、それ言ったら、論破王としてのひろゆきさんとかもみんなポルフォーリになっちゃうんで笑)、一回整理しないといけないです笑。

このことは「倒叙とは何だったのか?」という前書きで否定的に分析するので、原点(ドストエフスキー)に当たってみて下さい。倒叙型ミステリーは図式的に変換されたラブロマンスで、ラブロマンス小説が読みたくとも読めない心性に訴えています。僕はアガサクリスティもハーレクインロマンスの派生だと思っていて、まあまあ、誰でも面白く読める本にしようと必死ですね今は笑
 

 

No.9 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>3

 いや、コレは単にケアレス落としですね笑。いずれにせよ「の力」のあり方は、相当ズルズルにしない限り、同じ偏向推移を見せると思いますね。

No.10 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>4

 リードとリガチャー笑。なんで吹っ飛んだのかわからない笑。

No.11 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>5

 香りは淫夢にかなりダイレクトに影響出しますんで笑、その、大変よろしい淫夢は羨ましい限りですし、ありがたいです笑(AKBの歌詞が「僕」というのは、秋元康の古典性を示していると思いますし、僕の「色悪」も一種の古典で、ただ「色悪」は、アイドル=偶像にやられている歌ではなく、文字通り「色悪」=3流とわかっているんだけれども、やられてしまう。という現象を描いているので、アレは演奏も作曲もエグいですけど、やっぱ作詞がエグいと思っています。演歌歌手の人にカヴァーしてもらえないかな。という、予めあり得ない夢を託していますね笑)

No.12 3日前
userPhoto 菊地成孔(著者)

>>7

 痛風さんこんばんは!

 そうですねえ。ものすごいイマジネーションというか、コレは出店がケネス・アンガーの「ハリウッド・バビロン」なんですけど、ルペ・ベレスの葬儀、のルペ・ベレスが実際「ベネズエラのシド・チャリシー」とか何とか言われていたんですよね。

 「なんでエリザベステーラーか?」というチョイスに関しても、ケネス・アンガーに依拠しています。子役出身でゲイのケネス・アンガーが、肥満を主たる「醜形化」のロマンティーク(まあ、「腐敗」「死」ですね端的に)をエリザベス・テーラーに見出しているので。制作段階でプイグがリタ・ヘイワーズ(オーソンウエルズの嫁)を召喚的に引用していることは知っていましたが、「そんなのいっぱいあるだろ」と思っていたら、音楽だとバウハウスの「ベラ・ルゴシは死んだ」と、プリファブスプラウトの「スティーブマックイーン」と、僕の「南米のエリザベス・テーラー」だけでした笑(題名にしているのは。歌詞に織り込むのは数えきれないほど。肖像権と関係あるんですかね?)

No.13 3日前

>>8
 ご返信をいただきありがとうございます!

 ひとつ気になったのですが、前作(『哀れなるものたち』)の音楽担当者もジェースキンではなかったでしょうか? 菊地さんが “音楽側=ミア・レヴィ側” とお書きになっているのは、『関心領域』のミカ・レヴィのことなのでは?
 私自身もこれら2つを映画館で観て、「ああ、“現代音楽ふうの劇伴家と映画監督との幸福な関係”について、ヨルゴスとグレイザーでは完全に明暗別れたな」と思っていただけに、もし菊地さんのなかでこれらの作曲家が混ざっていなのだとしたら、その事実自体が興味深く思われます(私は『関心領域』に関して、「音楽自体は素晴らしかったけど、途中で中途半端に切り貼りされる音楽の効果についてはまったく理解できなかったぞ。グレイザーってミカが出してきた劇伴のうちオープニングとエンディング以外は全部ボツにしたんだよな? 映画自体は賞賛されたものの、それでよかったのか? というか、ミュージックビデオ出身の監督が音楽家に得させてあげられないってどういうこと?」と義憤に近い感想を抱いただけに、『3章』でのランティモスとジェースキンの、もはやマリアージュとすら軽率に言えない結晶ぶりに救われた気分になりました)。
 私もミカ・レヴィの『関心領域』提供楽曲からは直接的にクセナキスを連想し、かつランティモスの “本作の「ピアノ=思いっきり平均律」と合唱、というスタイル” にも直感的にヤラれた者で、前者が微分音クラスタやレガートで平均律を解体するような作風で/後者は平均律の権化のようなピアノのみでも平然と根源的恐怖を提供できている。という差異を踏まえた上で、「フォーマルな装い=ピアノと合唱で20世紀的な音楽を解体または更新しようとしているジェースキンのほうがよっぽど凄いし怖い」という一応の結論に達しました。

 菊地さんからいただいたご返信のうち、 “OSTから音列を採っても結局(〜)”から始まる段落は、まさに私が聞きたいと思っていた内容でした。2024年現在において、音楽を演奏する側も/聴取する側も、我々が享受しているのは平均律という西欧起源のディシプリンを前提としていて・かといってその調性自体を破壊したところで即座に面白いものが生まれるとは限らないんだ。という事実をもっと当たり前に認識したほうがいいと常々思っていましたが、ジェースキンが『3章』の一部で見せた「ピアノ単音のみ。しかも連打。楽器自体のアンビエンスもふんだんに録れてる」スタイルは、まさに平均律を逸しない音なのにこれだけヤバいというフォーマル主義の極致を聴かされたような気がして、文字通り総毛立ちました。あれがいわゆる駄々っ子系ギターノイズ(←それ系の音楽ジャンル全てを否定するわけではありませんが、「チューニング無視、6弦全部掻き鳴らしながらすごいディストーションとエコー、ボーカルはずっとギャーって叫ぶ」系のスタイルは、既成のルールを破ること自体への小児的な快楽があられもなく、少なくとも私には良く思われません。だからこそジェースキンのフォーマル主義に惹かれたのでしょう)とは違って冷厳と効果的かつ恐ろしく響くのは、「あくまで単音」だったからだと思います(←菊地さんの“80年代を席巻した、ニューシンプリシティの発展的な継承”という御見立ては慧眼そのものだと思いますが、もしかするとデペッシュ・モードもしくはニュー・オーダー的な「ピアノに1本指」スタイルの直接的な継承でもあるのかもしれません笑)。本来、平均律を食い破る悪魔の楽器であったはずのギターの真なる意味での左翼性がいつのまにか飼い慣らされて、一方でジェースキンのようなクラシック畑の若手が平均律の権化ことピアノであれほど恐ろしいことをやる。という私の見立ては解り易すぎますが、しかし2024年現在の音楽表現の歴史性について何らかの引っ掛かりにはなるはずだと思います。
(↑書きながら気づきましたが、私はノイズ系音楽と平均律内フォーマル歌唱音楽の両方を平然と行き来しながら活動を続けているミュージシャンとして、マイケル・ジラとジェースキンの間に親和性を見出していたのかもしれません。この「平然と行き来する」というのが何よりも重要に思われ、これは精神医学や心理学によるケアのみではカバーできない「適応不全な個人が外界から潰されずに生きてゆく方法」の基礎をなす要素ですらあり、「本当にずーっと終生その表現をやっていた。他分野を横断できなかった」類の20世紀的アウトサイダーとの差異も含め、表現に携わる人々が文字通り “優しさの諸種類” を駆使して相互に助けあうための自然な知恵の一端が示されているように思われます。私としてはこの括弧内で書いたような「失調」が文字通り音楽の「調性」と関係あるものとして連結されたことが最も衝撃的で、その考えに至らせてくれたジェースキンの作品に対しては畏敬するしかありません。)

「夢度数」についても御回答ありがとうございます。菊地さんが仰った “新・現実主義” は、今まで自分が述べてきたジェースキンのフォーマル主義とも直接噛み合うように思われ、平均律/無調 や 現実/悪夢 のような2分法としてとらえず(そのように分けた時点でかならず止揚が発生してしまうので。リンチの『ツイン・ピークス』や『インランド・エンパイア』に対して「物語的な整合性」を与えようとする人々の心性は、このような「止揚したがり」の態度として最も退屈なパターンだと思います)、ひとまず自分が含み込まれているフォームのなかで突き詰めてみる。というスタイルで行くところまで行った意味で、本当にランティモスとジェースキンの相互関係は幸福なものです(いわゆるフェリーニとロータみたいな、仲睦まじいツーカーの関係とは温度が全く違っているのも、まさに21世紀的だと思いますけども笑)。私個人としては、「物語を律するもの」と「音楽を律するもの」の両方が、失調によるカタルシスを燃料とするのではなく、前代からそのまま相続されるかたちで出てきた(←それも20世紀なんてチャチな近視眼ですらなく、平均律以降やギリシア劇以降のレベルで笑)。というのが、『3章』に対して現状で呈しうる最も適切な賛辞かと思います。人間の理性(←チェスタトンが言った通り「狂人とは、理性以外のすべてが失調した状態の者」であり、狂気も理性の一形態で、その姿は『3章』本編でも複数あらわれています)とは何と豊かなのだろう、と思わずにはいられません。貴重にもほどがある応答の機会をいただき、心より感謝いたします。

No.14 3日前

>>12
ありがとうございます。音と重なると香りマジヤバイです。新しい扉が開きそうです。今日はリハビリにつけていきます。(色悪の意味を知りました。なるほど。「音程もね」と歌い出す八代亜紀さんの声が頭の中で鳴りました)

No.15 3日前

> 「私は、選挙民の皆様に、一切の改革を行わないとお約束します!!いやしません!!この国の政治には問題はない!!現状維持!」

10年後ぐらいに米倉涼子がこれ言ってくれたら、ここまで溜めておいた白票とまとめて、全部彼女に入れるかもしれません笑。

「コロンボ研究」、今はまったくわかりませんが、菊地さんの文章や観点が好きなので是非書き上がるよう祈っています!
※遅効性があることは知っておりまして、いまやっとハッスルに関するテキスト(『あなたの前の彼女だって〜』)が読めるようになったので、いつかは内容や主張も理解できるかも

No.16 2日前
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