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2017年5月の記事 2件

<ビュロ菊だより>No.128「 「突然個人練習のスタジオ写真を撮る事が虚しくなった日+」」

 <どんどん人々が馬鹿になっている気がする(大変良い事である)>    SNS嫌いなのはもう言い飽きたが、擬似で課金でやっているこのインスタグラムもどきも、写真を撮るのに飽きてしまった。自分が如何に、日々同じ事を繰り返しているか、それは全く構わない。人生は反復である。厳密には反復とその暫時的な、目に見えないほどの揺らぎの増減である。ただ、自分で自分の写真を撮る事に飽き飽きしてしまった。ここに飽きないのがミ二マリストであろう。川原温とかボロフスキーとか惚れ惚れする。私はミ二マリストがもれなく好きだ。自分がなれないからだと思う。    私はSNSの中でも、インスタグラムは好きな方だ。OMSBが言う様に「素人のポルノだと思うと、アレは面白いですよ」というのも痛いほど解る。玄人のポルノも好きなのだからして、言わずもがなである。しかし、私は二次元でまで素人のポルノを観たいとは思わない。素人は3次元でたくさんだ。    私がインスタグラムを好きなのは、「恥ずかしげもなさ」が、他のメディアと比べると突き抜けていて、爽やかだからだ。女子高生が「インスタグラム映えする<壁>を探して、見つけるとそこで、雑誌のモデルの様なポーズを取ってスマホで写真を穫る」というのは、本気かつ当たり前過ぎて、まるで雑誌のパロディのようだし、昔からあるチェキだのプリクラだのの流通と変わらなくなって来ていると思う。彼女達は、それが表現だの発信だのいったクソッタレではなく、遊戯であり、自己満足的である事を知ってやっている。サブカルが喜びそうな物言いで嫌だが、可愛さは予め自覚的なパロディという意味で粋なのであって、ツィッターと正反対だ。あれだけ無粋で野暮ったいものはない。素人の一家言を聞いて一喜一憂する生活なんて、そんなもんは濃厚な中世か古代であろう。    あれに比べて、といおうか、あれの感覚の浸透によって。というか、この写真↓  の言いたい事は良くわかるが、同じメニューにこの写真↓が並列するのは  SNSによる言語感覚、デザイン感覚のアマチュアライズという巨大な動きが無ければ無理だったろう。そもそも「食うてみ」を「食べてみて下さい」と訳す(標準語に)いうのは、流石に要らねえだろう。という以前に、先にある「たべてみっくやい!」の逐語訳こそが「食べてみて下さい」だと思うのだが、そちらは意訳されて「どうぞ」になっている。というか、「愛情たっぷりに育てた地どりを」までは標準語だと思う。もう滅茶苦茶だ。「日本語の乱れ」というか、国語の乱れを嘆く。というのはバカのする事だ。私もとうとうバカの仲間入りである。  

ビュロ菊だより

「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。

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菊地成孔

音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。

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