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  • <ビュロ菊だより>No.134「<結構、オンステージの月だった(「月がステージの上にあった」という意味ではない)+>」

    2017-09-30 10:00  
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    <ビュロ菊だより>No.134「<結構、オンステージの月だった(「月がステージの上にあった」という意味ではない)+>」

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  • <ビュロ菊だより>No.133「<「ジャズとヒップホップが隔世遺伝だなんてバカか?」と言っていたバカが、たった数年前までには山ほどいた+>>」

    2017-09-14 10:00  
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     今丁度、2パックの自伝映画のサンプルを観ながら書いているけれども、アレを最初に言ったのがいつだったかは憶えていないが、最初に思ったのは当然、ヒップホップがこの世に生まれた時だ。ヒップホップはジャズの孫に決まっている。だから「ジャジー・ヒップホップ」なんてない、というか、ジャージ着て蛇ジャジーなんて、相手はジャ爺さんだろ。フーディストのウエアがズートと同じ遺伝子だと、観ても解らない奴は、聴いても解らない。要するに何も解らない奴だ。解っていれば偉いとか、解らない奴はバカだとか言わない。単に、解っている奴と、解っていない奴が存在するだけだ。

     

     「粋な夜電波」では、確かシーズン2で最初に言ったから、そんな事もうとっくにみんな解っていると思っていた。そしたら憤激したヤカラがいて「おい菊地とやら。ジャズの息子はジャズに決まってるし、ヒップホップの息子はヒップホップに決まってるだろ。珍奇な事を言うな」と食って掛からん勢いでツイートされた(のを、タレこまれた)。

     

     このヤカラはSNSというハードドラッグによって、匿名性だの無名性だの、認知度だの非認知度だの、強度だの発言権だの言った、ごくごく普通の社会感覚と自己愛の感覚がおかしくなってしまっているのだろう。「おい、何某<とやら>」という場合の<とやら>というのは、基本的には「知らない相手であれば誰にでも使える」言葉である。

     

     例えば、生まれてからすっとイスラム音楽を演奏し続けて来た演奏家が、自分達が演奏している音楽をエリントンがエキゾチックに引っ張って来たレコードを初めて聴いて、怒ったとする。そのときに彼が、初めて名を聴くエリントンに対し「おい、デューク・エリントンとやら。どんなつもりでこっちの音楽をチャラチャラやってやがるんだ」という事は間違っていない。

     

     しかし、無名も無名、匿名で何をやっているか、どこにいるか、性別や年齢、何が出来るのかも解らない半透明なヤカラが、あまつさえ、「その話に乗った」状態で、発言に責任が生じる、記名の有名人に対して、<とやら>というのは、解ってわざとファックであろうとしているのならば褒めてやっても良いが、知らず当然のように言っているなら笑える。

     

     というか、SNSは言語を、つまり社会や倫理を、いきなりブチ壊すのではなく、ゆっくり変形させてしまうので、まあ人類が簡単に滅ぶとはとても思えないが、私の母親の様に、言語も話せなくなったまま、生命だけは長く取り留めるだろう。

     

     松尾潔氏がドゥワップについてメディアで語ったとする。それに食いついた、半透明なヤカラ(おそらくドゥワップマニア自認)が「おい、松尾とやら」と言っているのと同じだ。恐らくヤカラは、松尾氏を知らない。なので、自動的に<とやら>が引き出されたのである。半透明な、つまり自己像のない生物にしか出来ない、極めて珍奇

     

     スマホなんか買ってしまったお陰で、能無しの言いたがりがどこまで偉く成るのか、世界が偉人と賢者だらけになってしまった今、嘆いたってしょうがない。ただ、私は宇川くんを心から尊敬するけれども「オレはネットはストリートだと思っている」という発言には全く賛成出来ない。私の判断では、ネットは阿片窟や精神病院の入院棟や、担当者の居ない託児所に似ていて、どれもストリートとはほど遠い。

     

     しかし、テクノロジーによる言語感覚の変容ほど強い物はない。私は、SNS言語にはなるまいぞ、というか、原理的になれまいぞ(やってないんだから)、と考えていたが、気がつくと20年前の文章と比べて、かなりネット的に成っている。そもそも、こんなに段落を分ける様に成るとは思ってもいなかった。私は、「アマチュアアカデミー」の歌詞カードと言わず、長編小説でさえ一編一段落で良いと信じていた。それが散文言語の未来だと信じていたのである。

     

     それが今ではこの有様だである。今更ヤカラがトヤラを間違えている事ぐらい、言っても詮無いのである。

     

     以下は焼き鳥チェーンの現在ランキング一位「トリキ」こと鳥貴族の、一部には有名な「鳥貴族のうぬぼれ」という、墨刻鮮やかなマニュフェストである。「たかが焼き鳥屋で世の中を変えたいのです」で始まる、一部には有名な、綺麗に歪んだ日本語の代表例の様なヴァースである。全分を掲げ、おそらくラジオ等では指摘するだろう。言語は勿論、言語そのもの自体も変容するが、それを駆動する心理的側面との関係性が狂う時もある。

     

     と、誤解なきよう、私はトリキを心から愛している(とくに皮タレと唐揚げ)。ダイエットの時には週に3回ぐらい行く時もある。「鶏貴族」とせずに「鳥貴族」とした段階で、トリキの成功は決まっていたと言えるだろう。言語の歪みは、当然成功も生み出すのである。 
      <「鳥貴族のうぬぼれ」> 
     

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