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(本文)
昨日、映画「沈黙」を見に行った。
原作は江戸時代に起きたキリシタン弾圧と
宣教師たちの転びという歴史的事実を元に作られた遠藤周作の
有名な歴史小説である。
信仰と社会という深いテーマと、役者の熱演、監督の演出のうまさなど
作品の質としては素晴らしいもので、160分の上映時間もだれることなく
集中して見せる大作だった。
鑑賞中は終始、激しい不快感に圧倒された。
理由は、個人の尊厳が冒涜され続ける様を見せつけられるからだ。
この映画の主題はキリシタンが過酷に迫害されるが、全能の神は何もしてくれない
「神の沈黙」というキリスト教の宗教的テーマであり、個人の尊厳ではない。
作中でも語られているが江戸幕府がキリシタンを禁制にしたのは、
幕藩体制にとって危険な勢力と判断されたためだ。
当時のローマカソリックなどのキリスト教の布教が欧州の支配戦略の一環として、
利用されていたことは事実であり、世界中でイエズス会や修道士を追放する動きが
見られた。
そのため江戸時代の海外からの修道士の布教を禁圧したこと自体は、国家主権として
適切な行動だったかもしれない。
また、江戸幕府に弾圧されたローマカソリック自体が、歴史上最大級の
弾圧を世界中で行っていたのだ。
しかし、日本人のキリスト教徒を拷問して殺害していくさまなどは、
江戸幕府の残酷な恐怖政治そのものである。
江戸の250年の平和も、このような恐怖政治をもとに作られたものだったのだ。
現在の北朝鮮が徹底した密告性と、本人のみならず家族もろとも連座して罪を
負わせて強制収容所にぶちこみながら体制を維持しているのと本質的には
変わらない。
さらに、修道士たちに対する転向のさせ方もきわめて陰湿である。
修道士たちを拷問するのみならず、転ばなければ、日本人の一般信者
(キリスト教を棄教したものさえも含む)さえも殺し続ける、というものだ。
この幕府の拷問や転向のさせ方の鬼畜っぷりが際立つので、日本にキリスト教が
根付くかどうか、神がいるか、という神学的、宗教学的議論はどうでもよく思えてしまう。
非キリスト教徒からすれば、神に祈ったところで、神など存在しないのだから
祈っても何もないのは当たり前、の一言だろう。
また、転向や踏絵が神の裏切りになる、というキリスト教の考えも、
脅迫されて行われた自白や契約は無効である、
という現在の法律的観点からすれば、それほど深刻には感じない。
だから窪塚洋介が演じるキチジローが体現する迫害に直面した時の信仰の弱さ、
すぐに踏絵を踏むことなどは、信仰のないものからすれば大した問題には思えないのである。
(修道士を幕府に密告したことは問題だが)
しかし、幕府が陰湿に行う個人の尊厳を破壊し続ける内容に、
激しい不快感を覚えて、後味が悪いものになった。
キリスト教でない私がこの映画で学ぶべき点は、個人の尊厳を冒涜するような
ことは二度と起こらないようにしなければならない、ということだ。
例え、相手がオウムや統一教会のようなカルトであったとしても、信仰そのものは
認められるべきであり、規制するべきは組織的犯罪に限定しなくてはならない。。
キリスト教の迫害は、邪教(カルト)として認定され、外国の傀儡として
誤った妄想にしがみつく狂信者たちである、と判断され、弾圧が正当化されたのである。
弾圧と人権侵害は江戸幕府だけの問題ではなく、古今東西の権力が普遍的に
内包している性質である。
歴史上様々な悲劇が起こったうえで、そのようなことが繰り返されないようにするために
現在の個人の尊厳に基づいた思想信条信教の自由と基本的人権を人類は確立したのだ。
この理念だけは、後退させてはならないだろう。
もし後退させるならば、新たな悲劇が創られる。
現在の安倍政権が法案化しようとしている対テロ等準備罪(共謀罪)は
密告性と連座制という悪しき人権侵害の流れを復活させる大変危険なものである。
人間の本性が変わらないのと同じように権力の持つ本性も変わらない。
だからこそ、誰もが支配されない、支配者の存在しない社会を目指す
民主の原理を意識化した運動が常に必要になるのだ。