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<菊地成孔の日記 2025年4月9日記す>
ホテルからブルーノート上海までは徒歩5分だった。完全な繁華街で、東京換算で赤坂とかそういう感じだ。交通量に比して、恐ろしいほど街は静かで、到着すると何とビルの5階であり、やや仰け反るが、さらに仰け反ったのはその大きさだ。エントランスの段階で東京の4倍ぐらいある(因みに北京は東京と同じぐらい)。
全人代会場や毛沢東記念館を擁する巨大な天安門広場、その中にあったアメリカ領事館を居抜きにしたブルーノート北京は、ビルボード横浜をぎゅっと半分以下に圧縮した、要するに洒落た感じだったので、満を持して魔都上海に開店したブルーノート上海は、一体どんだけのモンだろうか、どうする李香蘭とかが出てくる映画みたいな、ダンスホール付きの巨大キャバレーみたいなモンだったら。と目眩を感じながらいざ入店してみると、出ました外装キンキラキンで中は安普請が炸裂。何せテーブル席が無い笑。
一番似ているのは高校の文
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<菊地成孔の日記 2025年4月5日記す>
上海上空から地上を見る。あれ夕焼けか?もうそんな時間だっけ?と思ったら黄砂だった。太陽光線がオレンジ色なのである。メンバーだと珠也と木村さんも花粉症である。僕を含め全員が憂鬱そうな顔をしている。上海は20年ぶりだ。
以後、花粉と関係が(ありそうで)ないので、気をつけて頂きたいのだが、20年前、僕は岩澤さんの次のヴォーカリストを探すべく、上海に行ったのだった。宿泊したのは何とフォーシーズンズのデラックススイートである。1人で行ったのに。単に贅沢というだけの話に還元するならば、あれ以上のことはもう僕の人生に起こらないだろう。僕はとてつもない着心地のバスローブを着て、日本に手紙を書いて送った。すげえ暇だったので(郵便用一式が切手まで全部揃っていて、部屋から投函できるのである)。
ドミニク・ツァイは大変な御令嬢で、どのくらいご令嬢かと言えば、フォーシーズンズのデラックススイートを用意したのは彼女の父親であり、僕は行く前に「フェアモントとフォーシーズンズのどっちにする?」という連絡を貰っていた。父親が両方の株主だったのである(出資者だったかも知れない忘れた)。
彼の仕事は京劇のオーナーだった。歌舞伎や宝塚のオーナーだと思えば良い。「京劇」はJING JU(ジンジュー)と発音されるのだが、英語ではその昔pekinese operaと言われたりしていて、ペキニーズは愛玩用犬種の一つ(チャウチャウみたいな中国圏ではなく、単に名前がペキニーズなので蔑称と言うのが正しいだろう)なので今はclassic chinese operaだけれども、要するに北京が本場で、観光客は北京京劇を観に行くのだけれども、上海にも京劇はある。そのオーナーが、70年代に<上海京劇史上最高の女優>と言われた伝説の女優と結婚した。ものすごく良くある話だ。
その夫妻の娘がドミニクだった。K-POPのケの字もない時代に、父親の判断には凄い先駆性があった。娘を日本で歌手デビューさせようというのだ。説明は無用だと思うけれども、このアイデアはアグネス・チャンやジュディ・ウォングとは違う。当時の香港と中華人民共和国についてちょっと調べてみると良い。
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<菊地成孔の日記 令和7年 3月23日>
1990年代がやってきた時、僕は、その他大勢と大して変わらなかった。すなわちこういう感じだ。「香港の返還、ソヴェート連邦の崩壊、ソマリア内戦の激化、合衆国のブラックマンデーは恐慌こそ起こさなかったが、日本のバブル経済も長く続くわけがない、不安要因はいくらもある。でも、まあ、なんとかなるだろう世界は」。
カルチャーは、僕好みのギラギラに歌舞いた80年代が飽きられ、もの凄い速度で、随分と洒落た感じになって行き、「渋谷系」と呼ばれるようになったが、全く嫌ではなかった。一般的な「90年代を代表する映画」はほとんど見ていないが、「グッドフェローズ」や「レザボア・ドッグス」みたいな、物凄く洒落ていてパワーもあるマフィア映画が出てきた事には舞い上がるほどだった。「パルプフィクション」はタランティーノの最高傑作だと今でも思っている(次がグラインドハウス)。
僕は80年代いっぱい、天職だったヒモ暮らしをしていたが、90年代に入ると、スタジオミュージシャンとしての仕事がいきなり激増して(ブラックミュージックが歌謡界のチャートに入ってきて、ファンキーなブラスセクションとかサックスソロの需要が特需ぐらい跳ね上がったのだ。デフジャムジャパンが出来ても「当然」という感じだったのを覚えている)、ヒモではいられなくなったが、楽しかった。世界はなんとかなるだろ。90年にオウム真理教が衆院選に出馬したのは、憂慮の一つにカウントされなかったどころか、当時「笑える<ネタ>」に過ぎなかった。国民全員が油断し、楽観していた。
スタジオミュージシャンズワーキングの対局に位置する、山下洋輔、大友良英という、偉大で、かつ、売るほど可愛げのあるビッグボスに雇われた兵隊(バンドメンバーのこと)ミッションとして世界中を回り始めたのも90年代だ。
今のスマホ持ちの100倍は日常を録画していた(馬鹿でかいハイエイトを担いで)、当時の僕の動画は、実はヤマダ電機で全てDVDに焼いてもらったままで、DVD-R400枚ぐらいある。あれを全て具にみたら、どんな恐ろしいことが起こるかわかったもんじゃないのだけれど、少なくとも僕が初めて楽旅で欧州に行ったのは、1993年(「ウゴウゴ・ルーガ」が始まった年)の6月13日、つまり、僕の30歳の誕生日は、ベルギーのアントワープで迎えたのだった。