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<ビュロ菊だより>No.135「<「そして最後の舟は行く」+>」
2017-10-21 10:00220pt
「そして舟は行く」は1983年、フェデリコ・フェリーニが死の10年前に発表した作品である。これはフェリーニで唯一のオペラ作品、つまり台詞の殆どが歌で表現される異形の作品で、ピナ・バウシュの好演を始め、語り始めると尽きぬ事は無いが、私のフェリーニベスト5は「8 2/1」「甘い生活」「アマルコルド」「ローマ」「そして舟は行く」である。原題は「E la nave va」。豪華客船で航海する、その航海中に第一次世界大戦が勃発する。という夢の様なストーリーで、現在でもレンタルは比較的簡易なので、是非ご覧頂きたい。
因に私がティポグラフィカの楽曲名に冠した「そして最後の舟は行く/And them last ship going」が、この映画からインスパイアを受けている事は言うまでもない。あまり指摘されない事だが、ティポグラフィカには乗り物を曲名に織り込んでいる物が多く「無限電車」「スクールバス」「時代劇としての高速道路」等々、「そして最後の舟は行く」が収録されているアルバム名「フローティング・オペラ」も、リヴァーボートの上で上演されるミンストレスショーの事で、ジョン・バース(小説家)の代表作のタイトルである。
フランスの作曲家、オネゲルが指揮者のアンセルメに捧げた、交響的断章「パシフィック231」も乗り物を題材としている。この語は蒸気機関車の車軸配列の事らしい。オネゲルは機関車フェチである。「マニア」と書かなかったのは、私が知る限り、マニアックの中でも、機関車に対するそれは、かなり性的なフェティッシュに近い。ティポグラフィカのドラマーだった外山明は私に「電車の車両と車両を繋ぐ蛇腹が、直進の時でさえ、ゆっくりゆっくり動くのがヤバくて、子供の時にずっと見ていた」と発言している。機関車は、特にトンネルへの挿入と抜去がペニスとヴァギナに比喩され易く、律動が微妙に形を変えながら継続する事等、セックスそのものととても近い。セックスをしていると、女性の中に乗車している様な気になる。これは胎内回帰への願望だとされる。
しかし、蓮實重臣は、「パシフィック231」を豪華客船としてイメージしていた。彼は生前、クロード・ソーンヒル楽団の代表作についてこう語っている「音楽が与えるイメージの広がりは素晴らしい。降雪を描写したとされるクロード・ソーンヒルの<スノー・フォール>を聴いて、自分は豪華客船の就航をイメージする。その速度感は洋上を、係留するホーンの持続音は汽笛に聴こえる(大意)」
更に彼は、自らのユニット「パシフィック231」の立ち上げの際、こう語っている。「このユニットでやりたいのは、海っぽい感覚のもの。太平洋の上を漂ってみたり、深く潜ってみたりするような音楽。僕ら(*「パシフィック231」は蓮實重臣と三宅剛正によるユニット)の音楽で、海を渡って知らないどこかを旅行する様な気分になってもらえれば。豪華客船での世界一周を楽しんで欲しいです(書き取り)」
豪華客船の旅、と言われて、皆さんは何を思い出すだろうか?タイタニック号に乗船していた唯一の日本人が、細野晴臣の祖父だった事は有名であろう。「パシフィック231」は、その細野の個人レーベル、「デイジーワールド」からリリースされていた。
まったくお気づきになられていないと思うが(それは仕方がない)、私は今、感極まって落涙しながらこれを書いている。蓮實重臣の「お別れの会」は、豪華客船によるクルージングとして行われた。私は喪服を着てその、恐らくこんな豪華な客達と、こんな豪華な客船でクルージングする事等、一生無いだろうと確信しながら、東京湾沖に、鷲掴みにした花びらを投げた。それから私は陸に上がり、WWWXに向かったのだ。
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<ビュロ菊だより>No.134「<結構、オンステージの月だった(「月がステージの上にあった」という意味ではない)+>」
2017-09-30 10:00220pt -
<ビュロ菊だより>No.133「<「ジャズとヒップホップが隔世遺伝だなんてバカか?」と言っていたバカが、たった数年前までには山ほどいた+>>」
2017-09-14 10:00220pt
今丁度、2パックの自伝映画のサンプルを観ながら書いているけれども、アレを最初に言ったのがいつだったかは憶えていないが、最初に思ったのは当然、ヒップホップがこの世に生まれた時だ。ヒップホップはジャズの孫に決まっている。だから「ジャジー・ヒップホップ」なんてない、というか、ジャージ着て蛇ジャジーなんて、相手はジャ爺さんだろ。フーディストのウエアがズートと同じ遺伝子だと、観ても解らない奴は、聴いても解らない。要するに何も解らない奴だ。解っていれば偉いとか、解らない奴はバカだとか言わない。単に、解っている奴と、解っていない奴が存在するだけだ。
「粋な夜電波」では、確かシーズン2で最初に言ったから、そんな事もうとっくにみんな解っていると思っていた。そしたら憤激したヤカラがいて「おい菊地とやら。ジャズの息子はジャズに決まってるし、ヒップホップの息子はヒップホップに決まってるだろ。珍奇な事を言うな」と食って掛からん勢いでツイートされた(のを、タレこまれた)。
このヤカラはSNSというハードドラッグによって、匿名性だの無名性だの、認知度だの非認知度だの、強度だの発言権だの言った、ごくごく普通の社会感覚と自己愛の感覚がおかしくなってしまっているのだろう。「おい、何某<とやら>」という場合の<とやら>というのは、基本的には「知らない相手であれば誰にでも使える」言葉である。
例えば、生まれてからすっとイスラム音楽を演奏し続けて来た演奏家が、自分達が演奏している音楽をエリントンがエキゾチックに引っ張って来たレコードを初めて聴いて、怒ったとする。そのときに彼が、初めて名を聴くエリントンに対し「おい、デューク・エリントンとやら。どんなつもりでこっちの音楽をチャラチャラやってやがるんだ」という事は間違っていない。
しかし、無名も無名、匿名で何をやっているか、どこにいるか、性別や年齢、何が出来るのかも解らない半透明なヤカラが、あまつさえ、「その話に乗った」状態で、発言に責任が生じる、記名の有名人に対して、<とやら>というのは、解ってわざとファックであろうとしているのならば褒めてやっても良いが、知らず当然のように言っているなら笑える。
というか、SNSは言語を、つまり社会や倫理を、いきなりブチ壊すのではなく、ゆっくり変形させてしまうので、まあ人類が簡単に滅ぶとはとても思えないが、私の母親の様に、言語も話せなくなったまま、生命だけは長く取り留めるだろう。
松尾潔氏がドゥワップについてメディアで語ったとする。それに食いついた、半透明なヤカラ(おそらくドゥワップマニア自認)が「おい、松尾とやら」と言っているのと同じだ。恐らくヤカラは、松尾氏を知らない。なので、自動的に<とやら>が引き出されたのである。半透明な、つまり自己像のない生物にしか出来ない、極めて珍奇
スマホなんか買ってしまったお陰で、能無しの言いたがりがどこまで偉く成るのか、世界が偉人と賢者だらけになってしまった今、嘆いたってしょうがない。ただ、私は宇川くんを心から尊敬するけれども「オレはネットはストリートだと思っている」という発言には全く賛成出来ない。私の判断では、ネットは阿片窟や精神病院の入院棟や、担当者の居ない託児所に似ていて、どれもストリートとはほど遠い。
しかし、テクノロジーによる言語感覚の変容ほど強い物はない。私は、SNS言語にはなるまいぞ、というか、原理的になれまいぞ(やってないんだから)、と考えていたが、気がつくと20年前の文章と比べて、かなりネット的に成っている。そもそも、こんなに段落を分ける様に成るとは思ってもいなかった。私は、「アマチュアアカデミー」の歌詞カードと言わず、長編小説でさえ一編一段落で良いと信じていた。それが散文言語の未来だと信じていたのである。
それが今ではこの有様だである。今更ヤカラがトヤラを間違えている事ぐらい、言っても詮無いのである。
以下は焼き鳥チェーンの現在ランキング一位「トリキ」こと鳥貴族の、一部には有名な「鳥貴族のうぬぼれ」という、墨刻鮮やかなマニュフェストである。「たかが焼き鳥屋で世の中を変えたいのです」で始まる、一部には有名な、綺麗に歪んだ日本語の代表例の様なヴァースである。全分を掲げ、おそらくラジオ等では指摘するだろう。言語は勿論、言語そのもの自体も変容するが、それを駆動する心理的側面との関係性が狂う時もある。
と、誤解なきよう、私はトリキを心から愛している(とくに皮タレと唐揚げ)。ダイエットの時には週に3回ぐらい行く時もある。「鶏貴族」とせずに「鳥貴族」とした段階で、トリキの成功は決まっていたと言えるだろう。言語の歪みは、当然成功も生み出すのである。
<「鳥貴族のうぬぼれ」>
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<ビュロ菊だより>No.132「<本書は、私の二冊目の映画批評書である。私は幸福な観客ではない+>」
2017-08-13 10:00220pt
口唇が遅れてすみません。間違えた。更新が遅れてすみません。と、先日のトークイベントでの廣瀬純氏のパンチラインを流用してみたが、流用部は「口唇/更新」の部分ではなく「遅れてすみません」の部分だ。廣瀬氏は「遅れてしまった事に間に合う喜び」はダメだと言っている。曰く、交通事故で死んでしまった恋人の遺体を見て泣く、曰く、東日本大震災の現場に炊き出しに行く、曰く「自分さえこうしていれば、こうはならなかったのに」という悔恨、こうした物は総て「嬉しい」のである。そんなもんに淫してしまったら反省しろ、そして「間に合わなかった事に間に合わない」事、例えば、ドキュメンタリー映画用の器材を総て揃えて、2011年3月に、福島に行かずに、群馬でドキュメントを撮っていた青山真治を称揚する。という論法である。青山真治や黒沢清を称揚する廣瀬氏の「日本映画に関する感覚」には違和感を憶えるが、それ以外の総ては親和感しかない。「最終的にクソが出て来る映画」と「クソだらけの世界から始まる映画」の二種類がある、というのは至言である。まあ、こういった話は今回の最後に出て来る。
更新が遅れているのは申し訳ない限りで、単に夏バテとか、詰まらない理由もあるのだろうが、既に世界を覆い尽くさんとしているインスタグラマラスな価値観の定着に辟易しているので(とかいって、「TABOO レーベル」のインスタグラム始めますけどね。アルバム売る為に)、気の利いた写真を上げて、文章を添える。それに何の意味があるのだろうか?といった、間違った感慨を抱いている。どう間違っているかというと、ここは課金性で、主に私のファンの皆さんから料金を頂いているのだから、「写真と解説」の意義は固定されて揺るぎない。揺るぎないのは良くわかっているのだが、それでも嫌になるほど、つまり理性的な理解をブッチ切るほど、世界はインスタジェニックとかインスタグラマーだとかいって、まあ、自分も似た様な事を10年以上もやっていた訳なので気持ちは解る、なのでアホかとは決して言わないが、「猫も杓子も」という言葉があり、これは神主から小坊主まで、女から子供まで、寝ているガキも起きているガキも、といった意味だ。この例えの中だけでさえ「寝ているガキ」以外、全員がインスタグラムをやっている。神主のインスタグラムは見たくなくもないが、音楽家であるだけで自分を表現しているのに、更に表現や発信をする必要があるのか?という問いは、自分の中でも正解は出ていない。「試しに、この連載を文章だけにしてみたらどうだろう?」と思う時もあるのだが、ほぼほぼ80:20ぐらいで、「だったら写真だけの方が遥かに良い」と言われるだろう。
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<ビュロ菊だより>No.131「<最近、映画館のバックヤードにばかりいる>+」
2017-07-18 10:00220pt
<「素敵なダイナマイトスキャンダル」整音>
マイメン冨永監督が5年越しの夢である、末井昭氏の一代記「素敵なダイナマイトスキャンダル」を完成した。私は音楽を担当し(小田朋美氏と共同)、ちょっとだけカメオ出演もしている。最近、当欄での口を慎めと言われているので慎むが、どう少なく見積もっても、音楽は最高である。私が手がけた実写の劇伴の中でも間違いなく最高峰に入る。
写真は暗くて見づらいだろうが、整音(映画には夥しい数のサウンドトラック=音楽だけでなく、台詞、状況音、効果音、等々が入っているので、それをミックスダウンする事)用のスタジオである。普通の大きめな映画館の後ろに、音楽スタジオのブースがくっついている様な所で、初めて行ったし(基本的に、音楽家は整音には手が出せないのだが、これは古い慣習で、出そうと思えば出せる。私はガンダムから整音に携わる様になったが、映画館ではやらず、アニメ屋さんの、小さな整音ブースでやる)、第一にとても面白い仕事だし、第二に、フランソワ・ミュジーが何をしていたかーーー特に、プロトゥールス前夜のソニマージュ工房でーーーといった事がリアリティを持って迫って来る。
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<ビュロ菊だより>No.130「<アルバムとライブの連発の後は映画音楽>+」
2017-07-01 10:00220pt
<「ブルージャイアント」って何だ?2>
生徒の皆さんに楽器を選んで頂くと、各機種に数本ずつ実物が出て来る。サキソフォンも今では工業生産品で、出荷される際にきちんと検品されているとはいえやはり楽器だ。実際に吹いてみると、かなりの差がある(優劣ではない。質差、というより、鳴りの傾向の問題)。なので、実際に購入する直前のインフォームドコンセントとしてワタシが実器を吹奏し、感想を述べ、ファイナルチョイスをして頂く事にしている。1日がかりになるが、仕事の中でも最も楽しいものの五指に入る。ただ、楽しい事というのは往々にしてそれなりのリスクがある。この仕事をやると、一番良く鳴って、自分の好みの傾向の良品があると、欲しくなってしまうという事だ。売春宿だと思えば良い、舎弟を連れて乗り込み、女将に数名ずつ(以下自粛)。仕方が無いので「これが一番良いですねえ(プップー)。いやあ、凄くスムースで正確だなあ(ブブブブブー)。うん、これが一番良いです。ので、ワタシ買います(笑)」というオヤジギャグを一日中繰り返すことになる。
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<ビュロ菊だより>No.129「<1人で行くのと11人で行くのと+」
2017-06-10 10:00220pt -
<ビュロ菊だより>号外『ライブ3週に4回連続(DC/PRG/HOLIDAY2/菊地成孔DUBSEPTET/JAZZDOMMUNISTERS)』
2017-05-20 08:00
どうもどうも。ご機嫌いかがですか?(株)ビュロー菊地ならびにTABOO LABEL代表の菊地成孔でございます。なかなか夏になりきれないですよね。梅雨に至っては引退したかの様です。地球も変わって行きますね。大人になりきれないですね。あなたもワタシも地球も。
とまあ、そんな、無理矢理なまでにエコロジカル風な出だしになったも故無き話ではありませんで、私、少なくともこの15年間、つまり、少なくとも40代に入ってからは記録となります。3週間に4回連続でそれぞれ別ユニットのライブを行います。保つかなあ体(笑)。
ご贔屓筋の皆様に於かれましては、左はラジオ主体のゼロ円ファンの方から、右は可処分所得を全部突っ込んで下さる過激派の皆様まで、幅広くいらっしゃるとは思いますが、やっぱりそうですね、理性的に考えて、全部来るべきでしょうね。全部来るのが良いと思います。はい(笑)。
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<ビュロ菊だより>No.128「 「突然個人練習のスタジオ写真を撮る事が虚しくなった日+」」
2017-05-12 10:00220pt
<どんどん人々が馬鹿になっている気がする(大変良い事である)>
SNS嫌いなのはもう言い飽きたが、擬似で課金でやっているこのインスタグラムもどきも、写真を撮るのに飽きてしまった。自分が如何に、日々同じ事を繰り返しているか、それは全く構わない。人生は反復である。厳密には反復とその暫時的な、目に見えないほどの揺らぎの増減である。ただ、自分で自分の写真を撮る事に飽き飽きしてしまった。ここに飽きないのがミ二マリストであろう。川原温とかボロフスキーとか惚れ惚れする。私はミ二マリストがもれなく好きだ。自分がなれないからだと思う。
私はSNSの中でも、インスタグラムは好きな方だ。OMSBが言う様に「素人のポルノだと思うと、アレは面白いですよ」というのも痛いほど解る。玄人のポルノも好きなのだからして、言わずもがなである。しかし、私は二次元でまで素人のポルノを観たいとは思わない。素人は3次元でたくさんだ。
私がインスタグラムを好きなのは、「恥ずかしげもなさ」が、他のメディアと比べると突き抜けていて、爽やかだからだ。女子高生が「インスタグラム映えする<壁>を探して、見つけるとそこで、雑誌のモデルの様なポーズを取ってスマホで写真を穫る」というのは、本気かつ当たり前過ぎて、まるで雑誌のパロディのようだし、昔からあるチェキだのプリクラだのの流通と変わらなくなって来ていると思う。彼女達は、それが表現だの発信だのいったクソッタレではなく、遊戯であり、自己満足的である事を知ってやっている。サブカルが喜びそうな物言いで嫌だが、可愛さは予め自覚的なパロディという意味で粋なのであって、ツィッターと正反対だ。あれだけ無粋で野暮ったいものはない。素人の一家言を聞いて一喜一憂する生活なんて、そんなもんは濃厚な中世か古代であろう。
あれに比べて、といおうか、あれの感覚の浸透によって。というか、この写真↓
の言いたい事は良くわかるが、同じメニューにこの写真↓が並列するのは
SNSによる言語感覚、デザイン感覚のアマチュアライズという巨大な動きが無ければ無理だったろう。そもそも「食うてみ」を「食べてみて下さい」と訳す(標準語に)いうのは、流石に要らねえだろう。という以前に、先にある「たべてみっくやい!」の逐語訳こそが「食べてみて下さい」だと思うのだが、そちらは意訳されて「どうぞ」になっている。というか、「愛情たっぷりに育てた地どりを」までは標準語だと思う。もう滅茶苦茶だ。「日本語の乱れ」というか、国語の乱れを嘆く。というのはバカのする事だ。私もとうとうバカの仲間入りである。
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<ビュロ菊だより>No.127「北欧が割り込んで来る+」
2017-04-12 10:00220pt
<池尻大橋アプティ>
今年は言うまでもないがジャズレコード100周年であり、更に言うまでもないがロシア革命100周年であり、エラ・フィッツジェラルド生誕100周年であるが、個人的に最も重要な事は「飲酒10周年」である。私は実家が飲み屋で幼少期から酔客の世話をしていたので、酒の匂いがゲロの匂いと結びついていて、とにかく酒は一生飲まないと思っていた。
気がつけばチェインスモーカーになっていて、2008年ぐらいまではゴロワーズの両切りを一日に6箱吸いきっていた。サックスを吹いている以外の時間は、常に煙草をくわえていたので市川崑ばりである。市川崑で一番好き映画は言うまでもないが犬神家の一族だ。
何せ風邪をひいて酷く咳き込んでいる時でも、パニック発作で外を歩き回りながら震えている時でも煙草は旨かった。そんな私と煙草の深い仲を裂いたのはマイコプラズマ肺炎である。流石に肺炎で煙草は吸えなかった。想い出深いのは、このことを精神分析のセッションで報告した時である。無限喫煙は通常、口唇期が抜けきれない人の病症的な習慣だとされる。私はそのことを分析医に訊ねたのだが、分析医は「いやあ、肺炎になったら口唇期もへったくれもないでしょう」と、珍しく笑って言った。腕が吹っ飛んでも無意識は働くのか?親の遺伝子はどこまでが生物学的なパスで、どこまでが文化的な感染なのか?基本的な事が結局解らないというのは凡庸さのひとつに数えられる。
私の人生から煙草が下手に退場し、代わりに上手から登場したのはアルコールである。私は所謂「味は好きだが、酔うので飲めない」派。だったのだが、いきなり何杯飲んでも全く平気になった。私の人生はこうした「唖然とする様な変化が平然と起こる」事の連続で出来ている。
いきなり酒が飲める様になった私がしたことが「想いっきりワインを飲みながらフランス料理やイタリア料理を食う事」であったのは、ここまでお読み頂ければ首肯頂けるであろう。そして私にはワインの師匠が2人出来た。1人は「クレッソニエール」のメートル(当時)であった杉原氏で、もう1人が現在は「ブリッコラ」のカメリエーレ(当時)であった原品氏である。
原品氏は現在、押しも押されぬひとつ星、神谷町「ダ・オルモ」の店長であり、杉原氏は様々な店を彷徨った後、現在は池尻大橋「アプティ」のメートルである。杉原氏を知る人ならば、氏がどれだけ強烈な個性の愛されキャラであるかは御存知であろう。今でも自分のフッドからは遠場である池尻まで足を伸ばす。この日は、レコード探偵ボブこと中村君が5月から引っ越すので、そのお祝いに来た。メニューの品数は絞られており、総てが旨い、というスタイルなので、特に何をお勧めする訳ではないが、ボルドーのむっちりした赤でカスレを喰っていれば間違いない。
しかし、いかな「えー、54ですか!全然見えませんねえ」と言われ続ける、魔女の魔法がかかったままの私でも、中身はちゃんと老けているので、カベソーやシラーがヴェールで2杯以上飲めなくなった。寝るか胃がもたれてしまうのである。まあ10年でボルドーの赤は上からその上までみんな飲んだので、もう未練は無い。これからは果敢に焼酎に挑んで行くか、日本酒とテキーラで生きて行くかである。加齢というキーワードに照合する限りに於いて、現実的なのは前者だ。しかし解らない。今年の年末あたり、私は毎日ボルドーを2本飲まないと酒を飲んだ気がしなくなる様になるかも知れない。私の人生はこうした「唖然とする様な変化が平然と起こる」事の連続/反復で出来ている。
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