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【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】ドワンゴ会長が語る「超会議をやる本当の理由」第33号
2013-05-20 07:00220ptイベントと言えばコミケ。そう反射的に思い浮かべてしまうのは、職業病でしょうか。つきあう友達が悪いのでしょうか。 こんにちは、のぞき見のミホコです。
先日、ドワンゴ・スタッフS田さんが熱望していた「ドワンゴ会長川上量生氏と岡田斗司夫との初対談」が、実現しました。
「さりげなく毒をふりまいたトークしてますね」 「フジテレビとか日テレみたいなことをやっていいのかな?」 岡田のツッコミで見えてくる、ニコニコ動画の生みの親の世界観。
評価経済社会の勝ち組、川上量生の目から見た「ネットとリアル」「ネットとマスメディア」「ニコニコ超会議へ熱い思い」・・・
笑ったり、威張ったり、焦ったり、丁々発止の対談の中から、ネットを住処にしている川上氏が守ろうとするものが垣間見えてきます。
まずはハイライトをどうぞ!
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<岡田> 「なぜ超会議をするんでしょう?」っていう質問が来るということは、これ「本当に必要なのか?」とかいう意味ですよね。
あと、たぶん、ひょっとして意地の悪い人は、「俺が払ってるプレミアム料金のいくらかその超会議とやらに使われてるに違いない!」と。 「俺は五島列島とかに住んでてそんなとこに行けないのに、悔しい!」みたいのがあるんじゃないのかと。
<川上> そこら辺はいくつか……批判が集まる理由と僕らがやる理由っていうのはまた別なんだけど。 批判がある理由って、実際に超会議をすごい喜ぶ人たちと怒る人たちと2ついるんですよね。それで怒る人たちっていうのは “ネットに濃く住んでる人たち” なんですよ。
<岡田> 濃く、ネットの深いところに住んでる、つまり “深海魚” みたいな人たちがちょっと怒ると。
<川上> リアルイベント自体をいやがる人たちっていうのがいて、そういう人たちは反対しますよね。
<岡田> その人たちがいやがる。深海魚の人たちにとっては、表とか、明るい世界っぽく見えるわけでしょう?
<川上> まあ、そうでしょうね。 「チャラチャラしやがって!」 みたいな、だと思うんですよね。 本社とか六本木のニコファーレだとか、たぶん、そういうふうに見てるんだと思うんですけどね。
ただ僕らとしては意図っていうのは全く逆で。 こういうの、あっちこっちのITメディアのインタビューでも答えてるんだけども、今の世の中の流行りってTwitterと、あとFacebookですよね。 今、LINEとかも来てますけど。 基本これは“リアルな人たち”のツールなんですよ。
リアルな人たちのツールっていうのは、現実の人間関係があって、ネットがそういうリアルな生活を豊かにする、そういうものだっていう。
<岡田> わかってきた。
<川上> そういう人たちが今のネットの主流で。 昔は、ネットって“住処”にしてた人たちだったじゃないですか。 「ネットが俺たちの世界だ!」と思ってた人たちばっかりだったんだけども。
今は要するに、ネットが一般化することによって、リアルの世界にいながらネットも使うっていう人たちが強くなってきてるんですよ。 そういうサービスっていうのが世の中の主流になってきた。 それで、僕はその中で逆側をやりたかったんですよね。
<岡田> うん!
<川上> リアルがネットに来てるんだったら、ネットからリアルに行くってのをやりたかったんですよ。
<岡田> 「リアルでもう充実してる生活を送ってるリア充の人たちが、ネットっていうのをツール扱いしてどんどん入ってくるけども、元々俺たちはそこの世界に住んでたんだ」と。
<川上> だから僕、よくそれで例えてるのは、“アメリカのインディアン”に似てると。 要するにアメリカっていうのは……「ネットは新大陸だ!」とかって言って、インターネットが登場してビジネスマンたちが新大陸にわーっと押し寄せて来た。でも実はそれ以前から新大陸にはインディアンが住んでた。 原住民が住んでて、「ここは新大陸だ! わーい!」って言って楽しんでたんですよ。
そしたらイギリスとか旧大陸からやってきた人たちがそこでビジネスを始めて、「俺たちがこのネットの支配者だ!」みたいな感じででかい顔してる。 それが、僕が思ってるインターネット以降のネットの世界なんですよね。
<岡田> 繋がってきた。 じゃあ、六本木の本社とかニコファーレとかそういうやつも、全部リアルに対するやっぱ“政治活動”なんですよね。
<川上> いやだから……そうですよ、あれは インディアンの抵抗活動 (笑)
<岡田> つまり、主に“トキの声”を上げる方法でちょっと戦いを展開しようというのが超会議?
<川上> なんだけども、なんか、一応“政府”ともちょっと取引とかもやりつつ(笑) 微妙な感じでやってるってあたりですよね。
<岡田> じゃあ、そのインディアンたちをどうしようとしてるんですか、川上さんは。
<川上> うーん、いや、どうしようとは別に思ってないですよね。 ただ僕ね、やっぱり 「居場所を守ってあげたい」 と思ってるんですよ。
だから、僕がニコ動を作ったときに……僕、今までいろんなビジネスやってたんだけど、基本自分が楽しいと思ったサービスを作ったことなかったんですよね。 “着メロ”とか、「何かみんな楽しそうにしてるな」とか思ってたんだけど。 でも、ニコ動は「ほんとにこれは楽しいな!」と思ったんですよ。 自分も楽しいし、「たぶん、ユーザー側に行ったらもっと楽しいんだろうな!」っていうふうに思って。
5年前、ニコ動ができたての頃。もう憶えている人も大分減ってると思うんですけども、やっぱりあのときのニコ動は、誰が見ても「このサービスは 1年以内に潰れる 」と思ってたんですよ。 「 こんなサービスが許されるはずがない 」と(笑)
<岡田> 確かに、否定しないな。 そうですね、はい。 本人が言うとすごい説得力ありますね (笑) -
【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】岡田斗司夫のニュータイプ論 第30号
2013-04-29 07:00220pt2回目の登場となります。秘書室のケイゴです。前号に引き続き、便乗イベント、岡田斗司夫のひとり夜話ex「富野由悠季を語る。」の後半をお送りします。
後半は質問大会です。
・“才能があるダメ人間”、“才能はないけど良い人”にどう仕事を頼むか
・『アオイホノオ』の裏話
・なぜ気軽に宇宙旅行に行ける世界になっていないのか
・恋愛不全をもたらしたA級戦犯アニメとは
など講演にあまり関係がないものも含まれますが、興味深い内容となっております。
なお、『アオイホノオ』の裏話では、岡田斗司夫が登場する予定はないといってますが、その後、思いっきり登場してますね。2010年11月のお話ですので、ご容赦下さい。
ハイライトは皆さん大好きニュータイプ論の質問を選びました。
それでは、ハイライトをどうぞ。
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(質問者)
ファーストガンダムの頃に“純真な高校生”でした。だから、やっぱり富野さんの話をしたいです!
(岡田斗司夫)
はい、富野さんの話。ああそうだね、ずーっと富野さんの話出てこなかったもんね(笑)
(質問者)
富野さんは、『海のトリトン』やって『無敵超人ザンボット3』やって、あの“悲惨な話”ばっかり作ってきて。やっぱりそれと比べて 『機動戦士ガンダム』って何が違うのかっていうと、唯一違うのが“ニュータイプ”だと思うんですよ!
だから僕は、先ほどの富野さんの講演の中で「ニュータイプ」って言葉が出なかったのがすごく悲しくて! ニュータイプっていうのは、あの暗い暗い富野さんの中で“ほんのひとつだけの灯り”なんですよ! 僕はやっぱりあの世代だから。ファーストガンダムが高校生だったから。
ニュータイプについて、今の富野さんはどう思ってるんでしょうか? それを、あの、岡田さんの口から……
(岡田斗司夫)
いやそれは俺、わかんないよ!(笑)
でも、わかんないけども、僕たち “富野の弟子” としては、もう死んでしまった富野さんに変わって何か考えなければいけないっていう。まあ、キリストが死んだあとの十二使徒のように考えるわけです。
あの、 “ニュータイプ”について、僕がすごく面白いと思うのは、当時のスタッフが全員反対してたってこと ですね。
だから、あの今ね、僕は自分の『遺言』って本の中でも書いたんですけど。 安彦さんがですね、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の中にニュータイプを出しているのがイヤでイヤで! 「おまえらあの時、富野由悠季の足ひっぱったじゃねえか!」と。
作画の安彦さんにしても、脚本の星山さんにしても……なんだろうな? ガンダムっていうのを“まともなアニメ”として着陸させたかった。ものすごくいいアニメが出来つつあって、「俺たちは明らかに歴史に残るアニメっていうのをつくろうとしてるのに、ここでヘンなもの入れるのやめようよ!」っていう。
たぶん、それの頂点って、俺が思うに……ドズル・ザビが死んだ時に後ろに“宇宙幽霊”が出てくるじゃん? ドズル・ザビが「やらせはせん! やらせはせん!」って死んだ後で。
ええと、ガンダムを見ていない人は知らないと思うんでしょうけど、ドズル・ザビっていうですね……説明しにくいな。ガンダムの話の中には“悪役三兄弟”みたいのがいてですね。それの次男で、体がゴツイ大男がいるんですよ。で、そいつが死んだ時。
それまで“大まじめな人間ドラマ”だったのに、そいつが死んだ瞬間に、なんかその背後から巨大な悪霊みたいなものが「ワハハハ!!」って出てきて。俺、あの回見た時に真っ青になって。「ガンダム“こっち”に行くの?」、「ジオンの人って頭の中に悪霊が入ってたの?」って思ってたんですけども。
まあ、これは「ドズルの中の“悪意”みたいなものが、アムロの中のニュータイプ能力の開花によって見えた」っていうことぐらいなんです。だから大したことなかったんですけど。
たぶんこの辺ぐらいからスタッフが反感を持ち始めたんじゃないかなって、僕は思います。
で、安彦さんの『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』 に関して言うと。
当時の安彦さんはそんなにイヤだったのに、なんで自分がガンダムのアニメをリメイクしようって時に、「安彦に描かせたらガンダムはこうなる!」ではなくて、何で今更……なんだろうな? “本編の辻褄合わせ”みたいなガンダムやるのかなと。
だから、僕はもう、THE ORIGINってね、ほんっとに評価してないんですよ。 「ああ、安彦さんが描いたらこうなるのかぁ。これだったら別に“トニーたけざき”でもいいのになぁ」って(笑)
で、ニュータイプです。ニュータイプはそういうふうに、当時のスタッフ自体にも「何でこれが必要なのか?」と疎まれたものだったんですけども。
あの、 かなり早い段階から、ガンダムの話っていうのは“ニュータイプ”という概念がなくては成立しないようにデザインされてるんです。
“ガンダムのデザイン”っていう言い方になるんですけども……『機動戦士ガンダム』を、僕はついこの間、ANIMAXで1話からまた見始めたんですよ。この歳になってから見ても、発見がいくつもあるんですけども。やろうとしてたことがかなり複雑なんです。
例えば、ホワイトベースの中にいっぱい避難民が乗っていると。で、避難民が「降ろしてくれ! 降ろしてくれ!」って言うのを覚えてますか? 戦艦から降ろしてほしいんだけどなかなか都合も付かずに避難民が不満を口にする中で、やっと地球に降りていく。そういった船の中での対立が、前半の13話ぐらいまでかなり緻密に描かれてるんですね。
で、そういう対立は後半になってどこにも活きてこないから、今、ガンダムを通して見たら、あそこが全く意味がないように見えるんですね。だから、THE ORIGINでも、安彦さんはそこのところをスルーして描いてるんですよ。でも、あんなに長い時間かけて描いてるということは、富野由悠季の中では意味があったはずなんです。
あれが後半になって『母をたずねて三千里』のジェノバの人々とか、それまでのアルゼンチンとか南アメリカで会った人々とマルコの旅が合体するように。富野さんがやりたかったのは、なんだろう、“世界名作劇場のアニメ”ですから。ベースにしてたのは。全てのキャラクターが関連づけられて最後までいくやつですから。
前半に出てきた避難民ってのは何かっていうと“オールドタイプ”のはずなんですね。つまり、「彼らみたいな存在が地球人であって、そして、で、ニュータイプとして目覚める人たちがいる」っていう話。
で、最終回でそれでも富野さんがなんとかやったのがですね、『脱出』という回で、ランチ、脱出艇の中に乗ってる人たちが「アムロー!」って手を出して、アムロ君がみんなの元へ帰るシーンがあるんですけども。この中のニュータイプの目覚め方がバラバラだっていうことなんですね。
まず、カツ、レツ、キッカって三人の幼稚園児、小学生ぐらいの子たち。まあ、ニュータイプ能力はバリバリでアムロ以上になってます。あえて“度数”で表現すると、アムロがニュータイプ95だとします。で、ララァが100だとします。そうすると、この子供たちはおそらく120ぐらいいっちゃってるんですね。
じゃ、セイラさんはニュータイプ度数どれくらいかっていうと、一応、額のあたりから「パリパリッ!」っていうのが出るから80ぐらいにしよう。で、ミライさん。ミライさんも結構あったんです。でもまあ60ぐらいでしょう。
さあ、ブライトさん。20か、まあ、0かもわかんないぐらいなんですね。で、ハヤト・コバヤシとか全然出てないです。カイ・シデンとかも出てないです。メーターが表記されてないぐらいですね。あのアムロの声が聞こえただろうから、20とか30ぐらいいったかもわかんないです。
こんなふうに、あの脱出艇に乗っていた人たちはニュータイプ能力が0から120までバラバラだったんですね。
シャア・アズナブルと、そしてガンダムの話の中で悪者達が言ったことは何かっていうと「ニュータイプ達が新しい世界を作る!」ということなんです。でも、 この最終回のラストシーン、富野由悠季が目指したのはニュータイプによる新しい世界じゃないんです。ここに僕は、ものすごく感動しました。
もし、ニュータイプによる新しい世界を描きたかったのだったら、全員がニュータイプ能力に目覚めてるはずなんですね。で、「俺たちはわかり合うことができた! だから地球はダメなんだ!」みたいな話にすることもできたはずなんです。
でも、そうせずに、 「ニュータイプであろうとなかろうと、彼がもう一回帰ってきたことに心から喜んでくれる仲間がいた」。これを最後に持ってきたところが『機動戦士ガンダム』というアニメの極めて秀逸なところです。
つまり、ニュータイプというのを語るんですけども、それは“人間の才能”みたいなもんなんです。僕らが、何か一緒に作品を作ってきたとして。そこには才能があるやつもないやつも、頑張ったやつも頑張れなかったやつも、病気で休んでしまったやつもいる。でも、打ち上げの時はみんなで「よかった! おめでとう!」と言うのと同じように。
もし、“ニュータイプ”っていうふうなものを愛でる、もしくは「素晴らしいものだ!」っていうふうに語るような作品だったら、それは“ジオンの側の作品”になっちゃうんですね。
僕が面白いと思ったのが、ギレン……さっきの“悪者三兄弟”の長男なんですけども、この人がニュータイプ、人の革新っていうのを信じてるんです。まあ、実は妹のほうがもっと信じてたんですけども。「宇宙に行った我々のほうが、地球に留まった人類より進化しているんだ!」と。「それが人類を制御せずしてなんとする! 人類には一回減ってもらおう!」と言っていた。
これは何かっていうと、ギレンは“ニュータイプ”という言葉、そんな便利な概念自体は信じてないんですけども。「宇宙に行った人間の方が、種として進化している! だから人間を制御しなきゃいけない、征服しなきゃいけないんだ!」と。
後で、なんかシャアも同じようなことを言ってるし、ガンダムのストーリーラインの中でも、ついつい“目指してしまいそうな事”を言ってるんですけど。
これについて、富野さんは“共産主義革命”みたいな考え方をしているんですね。
「より共産主義の思想に近づき、マルクス思想に近づいた人間が、果たしてコミューンを作って平和な社会を作って人類をリードするのにふさわしいのか?」っていうと、共産主義革命自体は失敗したか、もしくは暗礁に乗り上げたからそうじゃない。
ただ一つあったのは、60年安保、70年安保が終わったあと、自分達を迎えてくれたのはなにかっていうと、思想とかに関係なく、仕事で結ばれた仲間たちだったっていう現実がある。
富野由悠季にはそれを描こうとしているところが、すごくあったんだと思うんです。
それを絵として見せるとどうなるのかというと、ニュータイプ能力がある人間もない人間も、全員同じポーズでアムロに対して手を広げて、「帰ってこい!」って言ってる。
それに対して アムロが、ニュータイプの能力があって戦闘能力があるから迎えられてるんじゃなくて。一人の人間、一人の仲間として帰ってくるというとこがガンダムのすごかったところだと思います。
だから、僕らが“ニュータイプ”っていうのを考える時には、“あったかもしれない理想”ですね。共産主義革命とか、もしくはバブルって言ってもいいですし、オタクブームって言ってもいいです。 僕たち自身がかつて信じていて、そして「そこに人の革新があるかもしれない!」と思ったものを思い描いて。
そして、「でも、人はそのために生きていっていいのか?」ってふうに考えることが“大人っぽいガンダムの見方”だと思います。
こんな感じで。よろしいでしょうか?
(質問者)
ありがとうございます。
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