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  • 【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】ネット民は日本の最下層だ! 「だが、それがいい」第18号

    2013-01-28 07:00  
    220pt
    もうネットなしの生活には戻れそうにない無銘のマサフミです。
    前回に引き続き大阪市立大学大学院特別講義「岡田斗司夫と、これからの豊かさを考える」後半の模様をお届けします。

    先ごろ川上量生氏の言葉として押井守氏に引用された「日本では最下層の人間が全部ネットにぶら下がってる。これが日本の特殊事情だ」という発言が物議をかもしました。
    小林よしのり氏は『道徳の時間』対談で「日本という国には“庶民”がいなくなって“大衆”ばっかりになっちゃたよ」と発言されました。
    講義後半ではこのお二人の発言を受けとった岡田斗司夫が何を考えたのかを見てみましょう。

    私も最下層民ってことですね。
    何をするでもなくネットを覗き情報を集めては、事件や有名人を見て批判したり揶揄したり悪口を言ったりしてしまいますからね。それは情報に左右されている大衆の姿でもありますね。

    やっぱり最下層民も大衆も嫌だなあ。どうせなら庶民よりもやっぱり上流階級がいいですよね。そんな上流階級が本当はどのようなものだったのかは、ぜひ書き起こし全文で御覧ください。
    上流階級、本当にそれがいい?

    それでは後半の模様をお送りします。まずはハイライトからどうぞ。


    ************************************
    日本には「最下層民」なんていうのが今のところ存在しない。そこにあるのはただ単にだんだんだんだんお金が少なくなっていった中流だけなんです。みんなちょっとでも上に上がろうとしちゃうんです。だからみんな苦しいんです。 下層階級とか最下層民なんてちょっとでも上に上がろうと努力したりなんかしませんよ。ちょっとでも上に上がるとは働くということですから。働くよりは生活保護をくれ、酒をくれ、博打させてくれしか考えないものなんですね。どの国の最下層民も。

    【1:09:56~1:12:55】

    でも今の日本の「下流階級向け」っていうふうに川上さんが言ってるようなものについて、メディアはどういうふうに言ってるのかというと「いかに負け組にならないのか」「いかに自己啓発するのか」、あと、「どうやれば安く済むのか」っていうような、まだ上昇志向があることばっかりなんですね。そういうことからも、 日本には「最下層民」なんていなくて「貧しくなった中流があるだけ」だっていうのが、僕の考えです。

    で、ここまでは「下層」の話でした。「日本には最下層民がネットに集まっている」に関して僕が思ったのは、そうではなくて「貧しくなった中流」しかいないからだというのが答えです。みんな人との関わりが大事で、人に遅れるのが嫌です。何せ、中流ですから。 みんなが持ってるものを自分も持ちたいと思う。それが中流の行動様式ですから。
    だからスマホやパソコンや携帯という情報機器を持って、周りの情報を得ているんですね。

    その結果、 酒とか博打などのお金がかかるストレス解消策ではなくてネットの悪口というお金のかからないストレス解消法を見つけただけなんですね。 これもおそらく酒や博打に比べて同じ程度には有害なんですよ。ネットで人の悪口を言うっていうのはその程度には有害なんですけども、でも酒や博打程度には楽しくて、酒や博打よりは遥かにコストがかからないんですね。

    だからといって、ネットで人の悪口を言うことだけ考えてだらだらしてるやつもあまりいないところが日本のおもしろいところです。だって 日本で人の悪口ばっかり言ってる人たちというのは必ず2ちゃんねるとかどっかで「こんなことやってて俺は駄目なんだよなあ」というふうに、自分自身を卑下するようになります(笑)。それは最下層民の行動様式ではないんです。 だから、すねた中流がいるだけなんです。貧乏な中流か、貧乏な結果すねた中流がいるだけであって、日本は徹底的に中流国家であることは変わりがない。

    「いやいや、そうでなくて上流階級はいるでしょう。経済の格差はこんだけあるんだから、上流階級はいるんじゃないのか」というのに関しては、じゃあここから話します。ここまでは「下層」に対して光を当ててきました。じゃあ上流っていうのは何なのか。

    【1:12:55~1:15:01】

    「上流階級」の前に、日本はじゃあさっき中流と言いましたけども、どんな人たちがいるのかというのに関して、ついこの間、僕、小林よしのりさんと対談しました。そこで出て来た話をさせてください。

    小林よしのりさんは『ゴーマニズム宣言』というマンガで一時期すごいブームになりました。その前は元々『おぼっちゃまくん』っていうマンガで少年ジャンプで一山当てたマンガ家ですね。20世紀の終わりぐらいに『ゴーマニズム宣言』っていうので大ブームになって、あとオウム真理教と徹底的に戦って、現在は言論活動のようなマンガを描いておられます。

    で、彼がこの間対談した時にすごくおもしろかったのが、 「いつの間にか日本という国には“庶民”がいなくなって“大衆”ばっかりになっちゃたよ」とおっしゃったんですね。 すごくおもしろかった。僕はそんなふうに考えたことがなかったんです。「“庶民”と“大衆”との差は何ですか?」と訊いたら、「いや、簡単だ」と。小林さんは原子力発電所反対だからこれを例にとるんですけども、「例えば原子力発電所を考えてみよう」と。

    生活実感としてどうかというと、高度成長時代に原発なんて1つもなかった。1970年の大阪万博の時に初めて東海村で原子力発電所の雛型が完成したわけだ。ということは、高度経済成長っていうのはいつまでかっていうと1968年とか69年なんですね。つまり日本が1番活気があって経済成長したことに対して原子力発電所っていうのは何ら寄与していない。役に立ってない。じゃあその後はどうなのか、現在はどうなのかっていうと、現在の家電ってどんどん省エネ化してるじゃない。どんどんどんどん省エネ化していって、昔のタイプの冷蔵庫とか昔のタイプのエアコンに比べて50%とか70%しか電気食わなくなってる。僕らの社会というのは徐々に徐々に、実は何年か前から電気をあまり使わない社会になりつつある。で、現に今年の夏なんて、原発稼働がゼロになっちゃった。ゼロになって結局困ったかというと困ってないじゃない。こういうのが「庶民の知恵」だ。というふうに、小林さんは言いました。

    「庶民」というのは何かっていうと、それが客観的かどうか、科学的かどうかっていうのを考えないんですね。現に自分たちの経験と照らし合わせて、「高度成長時代の時は原発はなかった。だから今いるかって言われたら別にいらねえんじゃね?」と実感できることだけで考えて、現に今家の電気代というのはどうなっているのかって、それだけしか見ない。

    今年と去年と、5年前10年前と比べて電気代はどうだったか。確かに明らかに下がってるんですね。僕自分で電気代払ってますけど。下がってるんですね。
    ということは、僕らの生活というのは徐々に徐々に電気を使わない方にいっていると。これが「庶民」の自分の足元しか見てない時の考え方です。

    でも、今、学校の先生とかがどういうふうに教えてるのかというと「原発に関しては是非あるんだけども原発を止めてしまうと電力不足で困る」というふうに、中学とか高校の先生でも教えちゃってる。それを小林先生は批判します。何でかというとそれは「庶民の知恵」じゃないだろうと。 中学とか高校の先生なんて「庶民」じゃねえか、と。なのに何で自分の家の電気代とか自分が子どもの頃の経験に照らし合わせた自分の足元からの発言っていうのができなくなっちゃってんだ。 何でかっていうとみんな「大衆」になっちゃったからだと。

    「大衆」とは何かっていうと「マス」だ。「マス」とはどういうことかというと、扱われやすくなった民衆のことだ。と、小林さんは定義します。 「民衆」っていう人々の大きい状態があって、それぞれはみんな自分の生活実感があるんです。例えば大阪の人と東京の人は考え方が違う。東京の人に受けるようなことをやっても大阪では受けなかったりする。農家で受けるようなことをやったら都会では駄目と言われる。都会で受けるような政策を言ったら農家では反発される。それは当たり前だと。何でかというとそれぞれが「庶民」だからですね。自分の生活実感があるから「そんなことやられたら農家は困ってしまう」「うちは困る」っていうふうに「庶民の知恵」として反対するわけです。

    ところがそういう 生活実感から人間を切り離して情報だけで扱えるようにした状態。それが「大衆」だと、小林さんは定義するんです。 「大衆」っていうのは何かっていうと大衆向けの報道機関、マスコミってやつですね、「マス」ですから。マスコミに与えられた情報っていうのをそれが本当だと考えてそれを合理的に呑み込もうとする人たちっていうのは、塊として動くと。だからいきなり何か「反対だ!」っていうふうに言ったら動き出す。ネット右翼が騒ぎ出すとネット右翼の方に行くし、今なんか「竹島問題だ!」と言うと竹島問題の方に行く。それは何でかっていうと 自分の生活実感として近所にいる中国の人、韓国の人、俺の友達の中国人、韓国人というふうに考えずに、いきなり情報で得ただけの「韓国とは」「中国とは」という知識だけで判断しちゃう。この状態を小林さんは「大衆」というふうに呼んだんです。

    僕は何か「これはおもしろいな」というふうに思ったんです。僕のそれまでの発想にはこんな考え方がなかったんですね。「庶民」対「大衆」なんていう対立軸がなかった。

    では、小林さん。「知的大衆」っていう言葉どう思いますか?っていうふうに訊いたら、
    「“大衆”は知的なものに決まってるじゃんか」 というふうに言ったんですね。

    「知的」っていうのは何かっていうと情報でコントロールされやすくなった状態で、さっき僕が話した「人」が「人材」になるのと同じく、「民衆」が知的になって「あっ、俺はもう“庶民”じゃないんだ」もしくは「何も知らないんじゃないんだ。情報弱者じゃないんだ」というふうに自覚を持った状態が「知的大衆」なんですね。