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  • 【岡田斗司夫のニコ生では言えない話】ダウンタウン革命以降のお笑い最前線は、今やひとり喋りだ第58号

    2013-11-11 07:00  
    220pt
    映画『R100』公開記念ニコ生で、松本人志と岡田斗司夫の対面が叶わなかったのは残念でした。無銘のマサフミです。
    『岡田斗司夫のひとり夜話in大阪「帰ってきたひとり夜話」』2回目になります。

    今回話題の中心は松本人志。
    岡田斗司夫のお笑い論、映画論、松本人志論をたっぷりとお楽しみ下さい。

    さて、今後いつの日か、岡田斗司夫と松本人志の邂逅はあるのでしょうか?
    岡田斗司夫はこれからも、ひとり喋りで舞台をつとめてまいります。皆様どうぞご贔屓に。

    それではハイライトからどうぞ。

    ************************************
     あの、僕、『はれときどきぶた』がギャグアニメ界で革命を起こしたと思っているんですけども。
     なんでかって言うと、それまでのギャグアニメっていうのは、はれときどきぶた以降、笑えなくなっちゃったんですね。
      タツノコのタイムボカンシリーズの『ヤッターマン』とか、『ゼンダマン』とかあの辺のものを、今見てもほとんど面白くないのは何故かっていうと。
     もう、全然“スピード感”が足りないからなんですよ。

     なんでスピード感が足りないのかっていうと、演出家が無能なわけでもないし、その当時のスタッフがダメやったからでもないです。
     ただ単に、その当時“笑う”というは「段取りがあるもの」と思われていたからなんですよ。
    「Aがこういうふうに言って、Bがこうボケて、Cがツッコミ入れて。で、もう一回Aがボケ倒す」っていうのは、段取りがあるから笑えると思われていたんですが。
     紳助竜介の漫才っていうのは、その段取りを破壊する“スピード”で来たんですよ。

     笑いというのは“価値観の破壊”っていうのはそうなんですけど。
    「それにはスピードというものが関係してくる」っていうのを証明したので。
     紳助竜介っていうのは、ツービートが破壊したお笑いを、完全な“スピード社会”にしちゃったわけですよね。
      だから、紳助竜介の時代以降、お笑いというのは、“誰もがわかるもの”ではなくて、“わかる人にしかわからないもの”になっていったんです。


     で、さあ、そこへ登場してきたダウンタウンっていうのは何かっていうと。
     彼らが行った最大の革命は「台本っていうのが全く見えない」ことですね。

     この紳助竜介の漫才でも、なんだかんだ言って“仕掛け”っていうのかな?
    「お互いにこういう打ち合わせをしてやっているんだろうな」っていうのがちゃんと見えるんですけども。
      ダウンタウンの漫才っていうのは、「ホンマにこれ打ち合わせしたんか?」って疑ってしまうぐらいの“リアリティー”があったんです。

     そのリアリティーっていうのは何かっていうと、お互いが相方を笑わそうとするんですね。
    「どういうふうにボケたろか?」とか、「ツッコむ時に前回やってないツッコミやって、こいつ慌てさせたろか?」みたいなものがあって、その微妙な舞台上の空気が僕らをドキドキさせるわけです。
     まあ、そういう意味では、何回見ても同じシーンで同じことをやっている“映画”と、生やから一回ごとにやり取りがちょっと違う“舞台”の差みたいなものがある。


     で、ダウンタウン以降の漫才師は、たぶん、“テツ&トモ”とか……あの、「ヤホーによれば〜」っていうネタをやってるの何でしたっけ?
     あのコンビの名前。

    「ナイツです」(客席)
     ああ、“ナイツ”ね。

      ナイツとテツ&トモ以外の漫才師って、全員シナリオが存在しないような顔してますよね。
    「こういうふうに言ったら相手がびっくりした顔してツッコンでくる」っていう段取りが、出来るだけ見えないように。
     つまり、“ダウンタウンタイプの漫才”にもう席巻されてしまったんですね。

     僕らにしても、いまだにダウンタウンタイプの漫才っていうのが一番スタンダードな漫才だし、面白いものだと思っている。
     で、その結果として、漫才師がいつまでもネタができない時代になってしまった。
     だって、あの“自然に見える喋り方”っていうのは、同じネタをずっと続けるのを許してくれないんですね。
     だから、“ブラックマヨネーズ”にしても、「もうネタができない!」っていうことになってしまうし、他の漫才師も、ある頂点を極めたら、バラで売っていって、お笑いバラエティーとかで生きていかざるを得ないんですね。
    “中川家”とか“次長課長”みたいなものがいつまでも漫才をやろうとしても、僕らが、ダウンタウンが昔起こしてしまった革命、“その場で喋ってる感じ”をリアリティーを持って聞くという形がある限り、シナリオを感じさせてしまったら、もう僕らはそこに“お約束感”しか持てないようになっているんですね。

      で、たぶん“劇団ひとり”とか“バカリズム”がやっている一人喋りとか一人演劇っていうのは、それをあえて利用して、「シナリオがあるのかも分からないんだけども、たった一人で演ることで、見てる人間の関心・主観を、一人に持ってくる」ことによって、新しい形を模索している最中やと思うんですけど。

     まあ、話が、すいません。えらい長くなりました(笑)