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記事 20件
  • 【詰め合わせセット】山本宜久、ジャンボ鶴田、木村ミノル、ターザン山本、麻生秀孝、渋谷莉孔

    2014-12-31 23:59  
    550pt
    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par11は大好評インタビュー7本、8万字が540円!! ①【ヤマヨシかく語りき】山本宜久17000字「ヒクソンと戦ってるとき放送禁止用語が聞こえてきたんです……」「高田さんとの最後の会話はいまでも忘れられないですね……」②小佐野景浩の「プロレス歴史発見」ジャンボ鶴田編「馬場さんの信頼を失い全日社長の座が消えたジャンボは怪物になったんです」③K−1のビッグマウス、魂の叫び! 木村“フィリップ”ミノル「いまの格闘技界はお客さんの目線を気にしすぎです。クソですよ!」④【総合格闘技が生まれた時代シリーズ】ターザン山本「佐山サトル、前田日明、船木誠勝、石井館長がプロ格という怪物を作ったんですよ!」⑤サブミッションアーツレスリグとは何か? 「強い奴はだいたい友達」麻生秀孝は格闘技界のゴッドファーザーだった!!⑥地下格闘技の英雄が語る“チカカク”の恐るべし実態――渋谷莉孔「覆面を被って1vs2で戦ったこともありますよ」 ⑦「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さん■アナタはなぜブログを更新するのか②昭和のクラシックプロレスを追求するプロレス考古学ブロガーのプロレス観とは?◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ! 今回はヤマヨシこと山本宜久が登場!!
    91年にリングス入門。恵まれた体格とトンパチな性格は“前田日明の後継者”として将来を嘱望され、95年にはヒクソン・グレイシーと対戦。リングスでは常に最前線で戦い続けた。リングス離脱後はPRIDEに参戦。高田道場に身を寄せたこともあり、前田日明と高田延彦に仕えた男でもある。最近ではDEEP大減量試合が大きな話題を呼んだヤマヨシ。いったいあのガリガリぶりは何があったのか? それではイッキシンテン(PRIDE18イズム)、ダイナミックな格闘技人生を振り返っていただきましょう!――山本さん、20年前からフォルムが変わってないですね。
    山本 あ、変わってない? そう言われると悪い気はしない(笑)。
    ――練習は欠かしてないんですか?
    山本 練習はずっと変わらないですよね。ボクの日課は毎日走ることから始まりますからね。それは新弟子の頃から変わらないですよね。 
    ――ちゃんとスーツで決めていますし、それは……。
    山本 あのね、我々は一歩外に出たらいつもスーツなんですよ(キッパリ)。そこは前田(日明)さんの教えを受け継いでいるんですよね。
    ――待ち合わせ場所にスーツ姿で現れたとき「これは前田日明イズムなのかな」と思いましたけど。やっぱりそうだったんですね(笑)。
    山本 イズムかどうかわからないけどさ(笑)。「チャラチャラした格好」という言い方はおかしいかもしれないけど、そういった格好では人前に出られないよね。
    ――いまの格闘家は基本はTシャツですからね。
    山本 まあ、いいんじゃないですか。そこは人それぞれですから。
    ――要するに山本さんの世代は生き方を含めてプロのあり方を徹底的に教育されてきたわけですよね。
    山本 リングス道場に入った頃からそうやって生きてきましたよね。いまは昔の道場というかたちがなくなったわけじゃないですか。最近では体罰が問題になってるかもしれないけど、我々の頃は日常の出来事として普通にありましたからね。もちろんボクもそういう世界だと覚悟を決めて入ったわけですし。
    ――練習はかなり厳しかったんですよね。
    山本 あの頃はアホみたいに練習をやってましたよね。前田さんから命令されたことに対してなんの疑問を抱かずにやってましたから。毎日スクワット1000回はあたりまえだったし。
    ――さすがですねぇ。
    山本 いまは筋肉が破壊されてどうのとか非合理的なことかもしれないけど、あの頃の練習は凄く大事だったと思いましたよ。筋持久力的にもそうだし、精神的にも必要。そこで自分の限界を決めなかったことで生き残れたと思いますね。
    ――リングス道場の1日はどういうものだったんですか?
    山本 朝10時くらいに練習が始まるじゃないですか。当時は鶴見のほうに道場があったんですけど。10時近くになるとGTRのエンジン音が聞こえてくるんですよね。「ブオンブオン!」とフカしてね(笑)。
    ――前田さんの登場なんですね(笑)。
    山本 あのエンジン音を聞いてみんな気が引き締まるというかね(笑)。「今日も一日始まるのか……」と。怖いわけではないんですけどね、1日の始まりがGTRのエンジン音だったという。そこから13時くらいまで基礎練をみっちりですよ。ひたすらスクワット、ひたすら腕立て伏せ、ひたすらブリッジ。
    ――聞いてるだけで疲れますねぇ。
    山本 あの頃は前田さんが直接指導する機会が多かったですから、道場には常に緊張感があってピリピリしてましたよね。
    ――やっぱり前田さんの指導は厳しかったんですか。
    山本 何事に置いても厳しかったですね。あるときランニングから帰ってきたら前田さんの眉間にシワが寄ってたんです。「おまえら、こっちに集まれっ!!」と。なんだろうと思ったら、いきなりビンタ。理由は道場の窓を閉めてランニングに行かなかったから(笑)。
    ――うわあ(笑)。
    山本 前田さんは新日本プロレスの道場で教えられたことを自分たちに叩き込んでるわけですよね。やっぱり人間って経験に基づいたことを教えるわけじゃないですか。
    ――新弟子時代の一番失敗ってなんですか?
    山本 うーん、多かったですよね(苦笑)。1日だけ前田さんの付き人をやったことあるんですよ。そのとき前田さんは大阪で仕事があって。前田さんは新横浜の駅で崎陽軒のシウマイ弁当を必ず買うんですけど。前田さんから1万円渡されたから1万円分のシウマイ弁当を買ってきたんですよね。そうしたら前田さんが「誰がこんなに食べるんねん!1個でいいんや!!」と。
    ――ハハハハハハ!
    山本 で、大阪の仕事が終わって宿泊先のホテルを出るじゃないですか。前田さんの部屋で荷造りして、一緒にタクシーに乗ったんです。前田さんのスーツケースは2個だったんですけど、1個しか持ってきてなくて……。結局前田さんの付き人はそれっきりでした(笑)。
    ――1日で付き人失格ですか(笑)。
    山本 実際は成瀬(昌由)が前田さんの付き人だったんですよ。そのときはボクが代打だったんですけど、1日でクビですね(笑)。
    ――リングスでは新弟子になっても、過酷な“プロテスト”を合格しないとデビューできないですよね?
    山本 ああ、プロテストね。ありましたよ。とりあえず最低でも体重が90キロ以上ないとダメなんです。あとはスクワットのノルマが3000回。
    ――1セット3000回!
    山本 腕立て伏せが1000回。縄跳び2時間。ブリッジ30分。
    ――き、聞いてるだけで吐きそう(苦笑)。
    山本 それをクリアしないとプロデビューできないんですよ。
    ――いまそんな条件だったら誰もデビューできないですねぇ。
    山本 強い弱いはべつにして、それをまっとうすることに意義があるんですよね。いまの人たちはそんなことをやらされたら疑問を持つでしょ? 「それが強さに関係あるの?」って。ジムで会員さんにそんな指導したらみんないなくなっちゃうじゃないですか(笑)。
    ――“お客様”にスクワット1000回はちょっと……(笑)。
    山本 ボクが高田道場に所属していたときも大変でしたね。それまで「新弟子」に教えることはあっても「会員」に指導したことはなかったんですよ。スパーでへたり込む会員さんがいたから「何休んでるんねん!」って怒ったりしてましたからね(笑)。
    ――新弟子指導そのものじゃないですか!(笑)。
    山本 あとは「サンドバックをひたすら蹴っとけ!!」って。そうしたら翌日には半分くらいの人数に減っちゃってね(笑)。
    ――ハハハハハハ! 話を戻すと山本さんはそんな過酷なプロテストに合格したんですね。 
    山本 ブリッジ30分なんて首がおかしくなるよ。30分だよ?(笑)。あのときはボクと成瀬以外にもう1人、新弟子が生き残ったんですけどね。でも、プロテストがダメだったのかな。その子はデビューできなかったですね。
    ――そこまで生き残るのも大変ですよね。そもそも最低でも体重90キロって(笑)。
    山本 ひたすら食べまくりましたよ。ノルマがあってちゃんこ5杯、どんぶり飯5杯なんですよね。
    ――お酒もたらふく飲まされたんですか。
    山本 よく飲みに連れて行かれましたね。お酒にしてにも美味しく飲むんじゃなくて、誰が見ても「凄い飲み方だな!」と驚かせなきゃいけない。常にそういう意識を持って飲んでいたかもしれないですよね。ビールだったいきなり10杯頼んで全部一気飲み。
    ――ハハハハハハハハハ!
    山本 一気飲みというか、一口飲みですよ。「あの人たちは普通じゃないよね……?」「店のお酒がなくなっちゅうんじゃないの?」って思わせる。飲み以外のことでも、24時間そういうふうに見られることを意識してましたからね。
    ――全身プロレスラーだったんですねぇ。そんなリングス時代ですが、山本さんの若手時代で印象深い試合は「バーリトゥードジャパン」のヒクソン・グレイシー戦になります。当時はヒクソンにどういう認識があったんですか?
    山本 安生(洋二)選手がヒクソンのところに道場破りに行って、血だらけになって帰ってきたじゃないですか。そういうこともあって「彼はどれくらい強いのか」という気持ちがあって。やっぱり世界最強じゃないですけど、一番を目指してましたからね。強いと思われてる選手ならやってみたいな、と。
    ――リングスとはルールが違うということで、前田さんが高阪(剛)さんを山本さんのスパーリングパートナーに指名してヒクソン対策を練っていたとか。
    山本 うーん、練ってはないよね。練習はしてたけど。あの頃、後輩でグラウンドの技術で飛び抜けていたのは高阪でしたからね。それよりもあの当時は(アレクサンドル・)ヒョードロフさんの存在が大きかったんですよ。
    ――ロシア伝説のサンビスト! 
    山本 リングスの道場ってもの凄く環境に恵まれていて。ムエタイのコーチも招待してたし、身体をアフターケアする専属トレーナーもいて。寝技はヒョードロフさんや(ニコライ・)ズーエフが臨時コーチで教えてくれたりして。ちょうどヒクソン戦の前だったかな。ヒョードロフさんからコーチを受けてたんですよ。
    ――当時のヒョードロフさんは50歳近くでしたけど、寝技は信じられないくらい強かったそうで。
    山本 凄かったですねぇ。寝転がって無防備で「ほら、極めていいよ」と。それで極めようとしても逆にやられちゃいますから。ロシアのサンボには腕ひしぎをやろうとしても、逆に極め返すという技術があって、いろいろと奥が深いんですよ。あとはえげつない技もあって。肋骨に指を入れるとか、尻の穴に指を入れるとか。ヒョードロフさんの技術は純粋なスポーツとはまた違うんですよね。
    ――あの年齢でバーリトゥードに出て、序盤は圧倒したりしてましたからね。
    山本 あの歳で試合に出る負けん気の強さも凄いですよね。若い頃に出たらもっと凄かったでしょうけど。だって川で泳いでる鯉を鷲掴みで捕まえるんですよ。
    ――それ、人間じゃなくて熊の仕業ですね(笑)。
    山本 リングス道場の裏の川に鯉が泳いでたんですよ。ヒョードロフさんは川の中に手を30分くらい突っ込んでジッとしてるんです。それで鯉に近づいてきたら……バッと手づかみで捕まえてましたからね。
    ――ハハハハハハ! ホントですか?(笑)。
    山本 これ、ホントですよ。その現場は見てないけど、ヒョードロフさんの姿が40分くらい見えなくて「どこに行ったんだろう?」と探したら、でっかい鯉を捕まえてきて。「おまえらには世話になってるから今日はご馳走を作ってやる」と(笑)。それで鯉料理を振る舞ってくれたんですよね。 
    ――そんな怪物とヒクソン対策を練ったんですね。
    山本 相手はテイクダウンが得意で、倒したらパンチで殴って極めてくる。「じゃあ倒されければいいだろ。なんでもありなんだからリングを活用しよう。倒されないようにロープを使えばいい」というアドバイスをされたんですよ。
    ――あのロープ掴みはヒョードロフさんの発想だったんですか。
    山本 当時はなんでもありだからロープを使おうがなんでもよかったでしょ。スポーツだからとか正々堂々とか潔さとか関係なくて、ヒョードロフさんは相手をどう倒すしか考えてなかったですから。
    ――さすがスポーツを超えた戦いをしてきた方ですねぇ。実際にヒクソンと戦ってみてどうでしたか?
    山本 実際リングに向かい会ったときに「ちっちゃいな」と思ったし、威圧感もなかったし。なんにもなっかった。
    ――感じるものがとくなかったと。
    山本 闘争心も感じられなかった。いざゴングが鳴って戦闘態勢に入ると、彼の目力が印象に残ってますよね。目の圧力じゃないけど、それが相手に対してプレッシャーになるんでしょうね。
    ――山本さんはヒクソンの首を捕らえてフロントネックロックの体勢に入りましたね。手応えはあったんですか?
    山本 あのときね、ボクの頭の中でお金が弾いたんですよ。ピコピコピコってゼロが増えていって(笑)。
    ――ハハハハハハ!
    山本 それくらい手応えがあったし、技は入ってましたよね。お客さんも凄く沸いて。でも、その一方で冷静な自分もいるんですけど……なんかね、放送禁止用語が聞こえてくるんですよ(笑)。
    ――クククククク。
    山本 必死にヒクソンの首を絞り上げているのに、リングの外から「チ◯ポ出せ!チ◯ポ出せっ!!」っていう怒鳴り声が聞こえてくるんですよね(笑)。
    ――ウワハハハハハハハハハハハッ!!
    山本 「は? チ◯ポ出せ? なんでヒクソンと戦ってるのにチ◯ポを出せなきゃアカンの?」って思ったんですけど。
    ――神聖なる日本武道館でチ◯ポは出さないですよねぇ(笑)。じつは前田さんのアドバイスだったんですよね。
    山本 そのときは意味がわからなかったですけどね。あとから前田さんが言うには「フロントネックロックで締めあげたときに腰を突き出せ! そうしないと深く極まらない」と。それで「チ◯ポ出せ!」と叫んでたそうなんですけど。そのときは「誰だよ、こんな大事なときに変なことを叫んでるのは!?」とかしか思えなかったんですよね(笑)。
    ――ヒクソンの首を取りかけているのに(笑)。
    山本 しかもヒクソンのコーナーから聞こえてくるわけですからね。まさかそんなところに前田さんがいるとは思わないじゃないですか。わざわざ相手のコーナーのところまで行って「チ◯ポ出せ、チ◯ポ出せ!!」と(笑)。
    ――それくらい大興奮してたんでしょうね(笑)。
    山本 アナウンスで佐山(サトル)さんに自分のコーナーに戻るように注意されてましたけどね(笑)。
    ――「チ◯ポ出せ!」と叫ぶ前田さんを注意する佐山さん!
    山本 フフフフフ。テレビでは放送できないですよね。
    ――それ以降、MMAではロープ掴みは禁止になりましたね。
    山本 ただね、ひとつ言いたいのはフロントネックのあとにボクはスタンディングアームバーを極めかけたんですけど。そのとき彼はロープを掴んで逃げてるんですよね。
    ――ヒクソンもロープ掴みをやっていた、と。
    山本 あと彼はボクを抱えて場外に落とそうとしたでしょ。まずそこで注意1。最後に蹴り飛ばして場外に落としたでしょ。注意2回で反則負けなんですよ(笑)。
    ――しかし、山本さんは修羅場を潜ってきてますねぇ。
    山本 あの頃はナメられたくないと。誰とでもやってやろうと。
    ――リングスオランダもそうですけど、当時は荒くれ者が多かったですよね。
    山本 試合をしててもね、オランダの選手は緊張感がありましたよね。
    ――最近亡くなったハンス・ナイマンにしても……。
    山本 (さえぎって)えっ、ナイマン亡くなったの? 
    ――あ、ご存知なかったんですか。残念なことに射殺されてしまったたんですよ……。
    山本 射殺……ウソ!? いつの話?
    ――1週間くらい前の話ですけど……。
    山本 そんなことが……オランダで練習したときにナイマンのところにも行ったんですよ。(ディック・)フライが迎えに来てくれて、夜はナイマン夫妻がバーベキューを開いてくれて。ナイマンが「俺が浮気したときにコイツに背中を刺されたんだよ」なんて言ったら、カミさんも「半殺しにしたわ!」ってなんて冗談をやりとりしてて……。戦友のご冥福をお祈りします……。
    ――向こうの格闘家はバウンサーも兼ねてるから物騒な話に巻き込まれやすいんですかね……。
    山本 (クリス・)ドールマンが“飾り窓”に連れて行ってもらったことがあるんですけど。あそこは夜になると用心棒がいっぱい立ってるし、ガヤガヤしてるんです。こっちで言うところの新宿歌舞伎町みたいなもんで。そんな場所をドールマンが歩くと、バウンサーや群れてる人たちがサーッと離れていくんですよ。
    ――モーゼの十戒状態!
    山本 それでみんなドールマンに頭を下げてるんですよね。
    ――どれだけ大物なんですかね……。藤原敏男先生の壮絶特訓、安生洋二の前田日明襲撃事件、PRIDE・1高橋義生一触即発、呪いすら感じる高田延彦との最後の会話、癌との戦い、交通事故、DEEP大減量試合の理由、田村潔司への思い、山本憲尚の改名の陰にはB'zの存在が……!?  
  • 「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さん■アナタはなぜブログを更新するのか②

    2014-12-29 00:00  
    55pt
    OMASUKI FIGHTさんやオレンジさんといったプロレス格闘技ブロガーがコラムを連載中のDropkickメルマガ。ほかの有名ブロガーさんの生態にも迫ってみようということでスタートした「アナタはなぜブログを更新するのか」。「多重ロマンチック」主宰の漁師JJさんに続く第2弾は「プロレス桃源郷へのいざない」小泉悦次さんです。クラシックなアメリカンプロレスを追いかけ続け、『Gスピリッツ』にも寄稿する小泉さん。プロレス考古学の道を探ります。
    ☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412☆非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせセット」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043――まず小泉さんの年齢とプロレスを見始めた年を教えてください。小泉 今年(2014年)で満54歳です。プロレスを初めて見たのは1968年の8歳の夏で、テレビで馬場vsボボ・ブラジルを見たんですね。――75年生まれのボクからすると、馬場vsボボ・ブラジルは神話の世界ですね(笑)。小泉 ブラジルがロープに首を挟まれて……と、いま振り返るとずいぶんと情けない試合なんだけど、当時はかなり盛り上がってたんですよ。猪木さんがワールドリーグ戦で優勝する前の年。ジャイアント馬場全盛の末期。あの人はね、全盛期があったんです(笑)。――68年が馬場全盛の末期ですか。小泉 辛うじて全盛期だったかなあ、と。馬場は衰えてからが長すぎたんですよね。商売上、それでもトップに居続けることは仕方なかったんですけど。――全盛期を見ちゃうと、その後の馬場さんは物足りないですか?小泉 少しづつ衰えていったから気が付かないんだよね。スピードにしても体型にしても。柳澤(健)さんの『1964年のジャイアント馬場』じゃないけど、アスリートとしては64年あたりが絶頂期だったんじゃないですかね。その頃の馬場の試合は見ていないから、なんとも言えないですけど、情報を拾っていくかぎりでは、当時何人かいたトップのひとりですよね。トップというのはNWAのルー・テーズ、WWWFのブルーノ・サンマルチノ、AWAのバーン・ガニアら世界王者、チャンピオンじゃないレスラーでフリッツ・フォン・エリック、ディック・ブルーザーらまでが含まれた中で。――その頃はどうやってプロレス情報を入手してたんですか?小泉 本ですよ、雑誌。『プロレス&ボクシング』と、あと『ゴング』が創刊した年なんですよね。あたりまえのように2つプロレス雑誌があったんだけど、ひとつは創刊したばかりだったというね。当時は街の本屋さんが多かったから、立ち読みです。子供でお金がなかったから立ち読みで暗記する。――新聞のプロレスの扱いはどうだったんですか?小泉 新聞の扱いでいえばね、スポーツニッポンが大きかったんですね。あとから『東スポ』もプロレスを扱ってるということを知ったんだけど。スポーツニッポンを取り扱う毎日新聞の販売店が近所にあって、テレビで試合を見て感動した翌日に買いに行くとかね。――テレビに新聞とプロレスが身近にあった時代なんですね。小泉 ボクの場合はプロレス以外の娯楽も一挙に来たんです。68年11月末から12月にかけて東京12チャンネルで女子プロレスとレトロのプロレスアワー、そしてローラーゲームがスタートしたのかな。相撲、野球、ローラーゲームのファンになったんだよね。――昭和娯楽の集中豪雨という。小泉 小学生2年だったんですけど、それって男の子が漫画から現実のヒーローに興味を持つタイミングなんですよね。ちょうどウルトラセブンがつまらなくなり始めたときで。なんだか理屈っぽくなってさ。――ウルトラセブンは深い話が多かったですね。小泉 子供には重い話で、ウルトラマンにあったシンプルな魅力がなくなちゃって。そこで飛びついたんがプロレスや野球なんだよね。――とくに野球は国民的スポーツでしたね。小泉 ON(王貞治、長嶋茂雄)に江夏(豊)、村山(実)。アニメ『巨人の星』が土曜日にテレビ放送していた影響も大きかったでしょうね。――いまも昔もテレビの力は大きいんですねぇ。小泉 テレビの翌日は学校でもプロレスの話題でもちきりだから。学校が終わったら空き地でプロレスごっこをやってね。三本勝負で結末は決まっているけど、先輩とやるときは低学年は一本は取らせてもらうんですけどね。近所に子供をかわいがるお婆さんがいて、裁縫の片手間にデストロイヤーっぽい覆面を作ってくれたり(笑)。――当時のプロレスはそこまで世間に根ざしていた文化だった、と。小泉 あと講談社から『ぼくら』という少年雑誌が出ていて。そこに『タイガーマスク』を連載してたんですけど。その『ぼくら』の付録に名刺サイズの小冊子がついていて、プロレス豆百科だったときがあったんです。それを夏休み中、繰り返し繰り返し読んでおぼえまくって。小学2年の夏休みが終わった段階で、プロレス4団体のチャンピオンの名前はすべて言えたし。覆面レスラーや事件史とかも書いてあって。ビル・ミラーとカール・ゴッチが控室でバディ・ロージャスを殴ったという事件も豆百科に載ってるわけですよ。当時はカール・ゴッチの評価は高くないので、ビル・ミラーの功績として扱われているんだけど。「なかなか挑戦を受けないバディ・ロジャースを控室でめった打ちにした」と(笑)。――実際は興行戦争が原因なんですよね(笑)。当時は私設ファンクラブも多かったと思うんですけど。小泉 ファンクラブはね、中3のときに全日本プロレスの私設ファンクラブに入ったんですよ。○○○という名前のね。会費を送ったんだけど、まあ梨の礫だったよね(笑)。☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ
     
  • 必読!UFC独占禁止法違反集団訴訟とは何か?■MMA Unleashed

    2014-12-26 08:22  
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    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回のテーマは大事態に発展しそうなUFC独占禁止法違反集団訴訟についての情報総まとめ! あなたはどちらを支持する? ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
    ☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412
    ☆試し読み可能! 非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせセット」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043


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    「カン・リーなど v. Zuffa」反トラスト法違反集団訴訟の情報まとめ

    〜不気味な同時多発訴訟の様相に

    UFCファイターのカン・リー、元UFCファイターのネーサン・クオーリーとジョン・フィッチは12月16日、サンホセにあるカリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所で、ズッファの反トラスト法(注1)違反を提訴する集団訴訟(注2)を起こした。
    訴状で原告は、UFCが包括的かつ反トラスト的な手法で、MMAプロモーション市場での独占と、MMAファイター市場での買い手独占(モノプソニー)を強めていることに対し、損害賠償と差止請求を求めている。
    原告側弁護士は記者会見の席上、「UFCの反トラスト法違反行為のため、UFCファイターは、競争的な市場で本来得られるはずの収入のごく一部しか得ることができていない。その過酷な職務にもかかわらず、ボクサーと比較しても、MMAファイターの報酬は極めて低い。UFCは、選手がライバル団体で試合をする権利を極端に制限し、ライバル団体によるトップファイターの獲得を違法に阻害することで、競争を排除している。UFCはまた、選手の氏名や肖像に関する権利を永久に保持するという違法な契約を選手に強要し、その結果選手の収入機会はますます狭くなってきている。このような不正を正し、業界に健全な競争を取り戻さなければならない」などと、今回の訴訟の趣旨を説明している。
     
  • 【衝撃発見】「のどち◯こ」は英語でどう呼ぶのか?■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO⑯

    2014-12-26 08:13  
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    新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、試合出場を目論む模様をイラストレポートすることになった当コーナーです! ☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412☆試し読み可能! 非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせセット」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043とある先生のクラスでは、腹筋を鍛えるため授業の最後に皆で古今東西をしながらバランスボールで足上げキャッチボールをします。そのクラスには時々日本語のほとんど話せない外国人のMさんが参加するのですが、なんとか古今東西できないものかと考え「体のパーツ」なら我々英語が話せない組もいけそう!ということで、「体のパーツ(英語)」でやってみました。結果は10回も続かずに終わってしまったのですが、ここで私はどうしても気になったことをMさんに聞いてみました。この部分は英語で何と言うのか。
     
  • 【K−1毒舌王】木村“フィリップ”ミノル「いまの格闘技界はお客さんの目線を気にしすぎなんですよ」

    2014-12-24 20:33  
    110pt
    Krushを運営する株式会社グッドルーザーの手によって再出発が図られた新生K−1。11月3日に代々木第二体育館で65kg以下の世界トーナメントが行われ、1月18日には60kg以下の初代王座決定トーナメントが開催。同大会で65キロ以下初代王者ゲーオ・フェアテックスとワンマッチで対戦するのがこの木村“フィリップ”ミノルだ。父親がイタリア系ブラジル人、母親が日系ブラジル人という木村。KrushでKOを量産するトップファイターとしての実力に加えて、どうにも止まらないビッグマウス……
    とにかく凄い自信で気持ちがいいです!☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412☆非会員でも購入できる「大好評インタビュー詰め合わせセット」シリーズ一覧http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar672043――木村選手はブラジル出身のハーフで3歳まではブラジルに住んでいたんですよね。
    木村 ブラジルの思い出はあんまりないですよね。犬と一緒に庭を駆け回っていた記憶があるんですけど。それは俺の中の勝手なイメージだと思っていたら、その当時ブラジルに住んでいた親戚と日本で会ったときに「ミノルくんは犬と一緒に遊んでいたよね〜」と言われて。ああ、あの記憶は本物だったんだって(笑)。ブラジルの記憶はその程度なんですよ。
    ――ブラジルにはたまに戻ってるんですか?
    木村 それが1度もないんですよ。時間があったら帰ろうかなあとは思ってるんですけど。ずっとジャパンです。
    ――ブラジルのどこに住まわれてたんですか?
    木村 自分が住んでいたのはサンパウロとかだったんですけど。おばあちゃんの家はクリチバというところにあって。
    ――ヴァンダレイ・シウバやマウリシオ・ショーグンを輩出したシュートボクセアカデミーがあるところですね。
    木村 シュートボクセのすぐ近くだったみたいです。
    ――来日してからハーフということで同級生にからかわれたりしませんでした?
    木村 はい。小学生の頃は「ハロー!ハロー!!」と声をかけられましたね。いやいや、俺は英語はしゃべれねえからって(笑)。中学や高校くらいになるとハーフということで羨ましがられたんですけど。
    ――その顔立ちだとモテたんじゃないですか?
    木村 ぜんぜんモテないです。10歳の頃からキックボクシングのジムに毎日通ってたんで。練習と学校の繰り返しなので何もなかったです。いまの自分のほうがモテます(笑)。
    ――いまがモテキですか(笑)。キックは10歳の頃からやってたんですね。
    木村 3歳の頃におもちゃのグローブを買ってもらって、遊びでサンドバックを殴ってたんです。で、映画でジャン・クロード・ヴァンダムを見て、戦うことに憧れたんですね。K−1とかを見たわけじゃなくて格闘技はそこからです。
    ――きっかけはアクションスターだった、と。
    木村 住んでいたのは山梨だったんですけど、近くのキックボクシングのジムに入ってそこからK−1の存在を知りました。その頃は「プロになるまで7年もあるのかあ……」と思ってましたけど。
    ――木村選手は過激な発言も多いですよね。「俺以外の選手はカス」とか(笑)。
    木村 ずっと格闘技しかやってこなかったので、そこはシビアの目線を持っちゃいますよね。もちろん、こう言えば盛り上がるんだろうなとは思いますけど、あれは素の自分ですね。
    ――そこは誰かの影響を受けたりするんですか?
    木村 あー、とくにないですね。誰というわけじゃなくて、生き残ってるトップアスリートはみんな自信家なので。自分の主義主張を打ち出すのは悪いことじゃないのかなとは思いますね。
    ――MMAのトラッシュトーカーだと、チェール・ソネンという選手が有名なんですよ。
    木村 MMAはよく見てます。フランク・エドガーが大好きなんですよ(笑)。ボコボコに殴られて失神寸前まで追い込まれた試合があるじゃないですか。
    ――グレイ・メイナード戦ですね。
    木村 そうそうそう! そこから逆転した姿に心を奪われました。それにMMAから勉強することも多くて。自分の芯はボクシングの技術なんですよ。だからいろんなボクサーの試合を見ますし、ペース争いを学ぶためにムエタイのビデオを見たりするんです。で、MMAはここぞというときの仕掛け、動かない試合を動かすということに関して凄く勉強になるんですよね。キックは3Rしかないから、ラウンドが長いボクシングと違って慎重に慎重に進めてペースを掴むことは難しいじゃないですか。そうなったらMMAみたいに一気に流れを変える技術が重要になってくるんですよね。
    ――ギアの入れ方が参考になるんですね。
    木村 はい。流れを変えたいけど、勢いだけで突っ込んでもやられちゃいますよね。MMAの選手はキック、パンチ、タックルとか、すべてを気をつけながら仕掛けるところが勉強になります。ユライア・フェイバーとかポンと間合いに入って勝負を仕掛けるし、エディ・アルバレスもパンチでの勝負のかけ方とか、絶対にチャンスを見逃さない。パンチャーじゃないですけど、ベンソン・ヘンダーソンも爆発力もあってバネの使い方がうまいなって。
    ――あたりまえですけど、そこは闇雲に勝負を掛けてるわけじゃない、と。
    木村 ギャンブルは誰もできるんです。やろうと思えば誰だって打ち合えるじゃないですか。自分が思うのは、打ち合うにも技術が必要だし、KOを狙うにも技術が必要だし、判定勝ちも技術は必要なんです。やっぱりどんな試合も何かしら技術を持って見せないとお客さんには伝わらないと思うんですね。イチかバチかの殴り合いはアマチュアでもできる。プロなら技術的な殴り合いをしなくちゃいけない。乱打戦になってもそこに技術というベースがあれば、それはプロとして一級品なんです。
    ――お客さんを意識しただけの乱打戦はプロの試合ではない、と。
    木村 ぜんぜん違いますね。技術が何もない選手同士がただ打ち合っても響かないですよ。そのときは盛り上がるんですよ、たぶん。その瞬間は「凄いな!」と思うんでしょうけど、絶対に心には残らないです。でも、いまの格闘技界って選手も関係者も「盛り上げなきゃ!」とか言いすぎなんですよね。クソですよ、そんなの!
    ――そこまで言いますか(笑)。
    木村 いまの格闘技界のダメなところですよ。お客さんの「つまらない」という言葉を気にしすぎなんですよね。☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語など、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ 
  • ハリウッド産柔術魂!『レッドベルト 傷だらけのファイター』■高橋ターヤンのバトル映画地獄編⑩

    2014-12-22 11:32  
    55pt
    映画ライターで北米MMA事情通の高橋ターヤンがプロレス格闘技関連の映画を紹介するコーナー。今回は『レッドベルト 傷だらけのファイター』を取り上げます。
    ハリウッドでは、時たま制作意図はまったくわからないが、「この映画にこの俳優たちが!?」という豪華スターが集結する映画というものがある。
    それは制作側の人脈の結果というパターンがほとんどであるのだが、例えばジーナ・カラノの初主演作『エージェント・マロリー』は、CBSで放送されたジーナに惚れこんだアカデミー賞監督スティーヴン・ソダーバーグが、自身の映画の常連俳優であるチャニング・テイタム、マイケル・ダグラスだけでなく、機会があればソダーバーグ映画に出たかった系のユアン・マクレガー、マイケル・ファスベンダー、アントニオ・バンデラス、マチュー・カソヴィッツのような豪華スターが集結。非常にスケールの小さな作品の中で誰も彼もがジーナ嬢にブッ飛ばされて蹴っ飛ばされるという不思議な映画となっている。
    今回ご紹介する『レッドベルト 傷だらけのファイター』もまさにそんなタイプの映画である。 
  • 【関節技の帝王】サブミッションアーツレスリング総帥・麻生秀孝インタビュー

    2014-12-21 22:34  
    110pt
    関節技講座ビデオシリーズ、リングスやW☆INGに出場した選手たちの所属名……90年代プロ格者ならば一度はその名前を聞いたことがあるであろう「サブミッションアーツレスリング」。今回の「総合格闘技が生まれた時代」シリーズはそのサブミッションアーツレスリング総帥麻生秀孝氏だ。関節技の帝王は旧ソ連サンボから昭和・新日本まで、幅広いネットワークを持つ格闘技界のゴッドファーザーでもあったのだ。
    ☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412――サブミッションアーツレスリングの道場に初めて来ましたが、1階は道場、この2階は麻生先生の会社事務所になるんですね。2階はご自宅だと勘違いしてました。
    麻生 自宅は別にあるんだけど、ここも俺の持ちビルなんだよね。昔、ある関係者が「意外と小さい道場なんですね」なんて言ってたけど、何を言ってるんだって感じだよ(笑)。いまもそうかもしれないけど、ほとんどの格闘技道場は場所を借りてる場合が多いじゃない。
    ――麻生先生はご自分で建てられたんですね。
    麻生 ここを作ったのは45〜46歳だから1990年頃か。坪単価137万くらいだったかな。
    ――麻生先生は昔からやり手だったんですねぇ。
    麻生 そのうちマンション管理の事業もやるようになって、いまでは20世帯くらいあるのかな。
    ――格闘家、実業家でそしてプロレス方面にも顔が広いわけですよね。
    麻生 プロレス関係で言ったらね、俺はプロレスラーに憧れがとくにはないし。それはプロレスを悪く言ってるんじゃなくてね。だけど、いろんな意味でプロレス界とは関わりがあって。スーパータイガージム時代の佐山(サトル)くんのパンツも俺が作ったこともあったし。ジャパン女子のユニホームも俺が作ったこともあるんだよ。どこかにプロレス関係の写真があるはずなんだけど……野末陳平さんとの写真とかさ。
    ――WWF常任理事だった野末さん!(笑)。
    麻生 (机の中から写真を探し出してきて)これは藤原喜明さん。大蔵にあったUWF道場で撮った写真かな。
    ――うわっ!カッコいいですねぇ!!
    只者ではない雰囲気が伝わってくる麻生氏と藤原組長のツーショット。関節技をかけられたわけでもないのに身体が痛くなってくる……麻生 藤原さんは俺の1歳上で同期生みたいなもんだよね。藤原さんは関節が好きでよく研究してたよ。俺が編み出したヒザ靭帯固めなんかを教えたんだけど。
    ――麻生先生が格闘技を始めたのはどういうきっかけなんですか?
    麻生 格闘技を始めたのは遅いのよ。高校1年生のときね、友達がみんな柔道部に入るから俺もやってみたんだけど。初めて柔道をやるにも関わらず、3年生の黒帯のキャプテンより強かったわけよ。「こんなもんじゃ話にならない」って柔道部には入らなかったんだけど。
    ――もともと強かったんですね。
    麻生 俺は広島県の呉市出身でね。『海猿』っていう映画があったでしょ。あの映画の中で隊員がトレーニングをする200階段がウチの家に行くときにあるんだよ。毎日あそこを5往復くらいしてたの。だから体力には自信があってね。高校生が出るような地元の相撲大会で小学生なのに5人抜きしたり。
    ――高校生に勝つ小学生ですか(笑)。広島の呉というと映画『仁義なき戦い』でも有名ですよね。
    麻生 もう凄かったですよ。東京では「やんちゃ」という言い方をするけど、正直言って我々の呉市の「やんちゃ」とはレベルが違いますからね(笑)。
    ――仁義なき街を生き抜いたわけですね(笑)。
    麻生 俺は大学に進んで柔道をやることが決まってたんだけど、ケンカがあると呼ばれるんだよ。コッチは3人しかいないの相手が30人来るとか来ないとかさ(笑)。
    ――3vs30!!
    麻生 まあ何人来たっていいんだけど、ケンカして事件になると大学の話がマズくなるじゃない。「面倒だなあ……」と思ってたもんだよ(笑)。
    ――結局高校で柔道はやられたんですね。
    麻生 2年生の夏休みになったときに柔道部の友達が黒帯を取ったというから、俺も入部して1週間後に黒帯審査に出たんだよ。受け身もよくわからないのに5連勝して黒帯。
    ――さすがですね(笑)。
    麻生 柔道部に入って1年もしないうちにチャンピオンになって、大東文化大学でも柔道をやることになったのね。柔道は5段のままなんだけど、それはある問題があってね。大学時代に他人の名前で試合に出たんだよ。
    ――え? どういうことですか?
    麻生 東洋大学の同級生が埼玉県予選で優勝したんだけど。ケガをしちゃったから「代わりに全国大会に出てくれ」って頼まれたの。それで俺が代わりに出て全国で3位になっちゃったんだよ。
    ――替え玉出場ですか!(笑)。
    麻生 そうしたら応援する人がさ、「あれ、本人じゃないぞ!?」と気付くじゃない(笑)。でも、その場は強引に通して賞状ももらえたんだけど、あとから大学から試合にはもう出せないという話になって。その大学時代に朝霞の自衛隊体育学校に柔道の練習で行くときがあって、そこの先生に「サンボという格闘技があるぞ。面白いからやってこい」と言われて新宿スポーツ会館でサンボをやるようになったの。
    ――“元祖スポセン”なわけですね。
    麻生 そのときはね、ビクトル古賀さんが来てたよね。
    右が伝説のサンビスト、ビクトル古賀氏。――伝説の日本人サンボマスター! 一度取材したことありますけど、当時の共産圏以外の選手で初めて認められたサンビストだったそうで。
    麻生 古賀さんとは一緒に海外遠征に行ったもんだよ。話が飛んじゃうけど、前田(日明)選手がリングスをやめるときに夕刊みたいなプロレスの新聞に書いてたよね。俺がロシアの選手を呼んだって。
    ――夕刊みたいなプロレスの新聞というと『ファイト』ですかね。
    麻生 リングスのオープニングのときかな。写真を撮るから前田選手と堀米(奉文、当時日本サンボ連盟会長)さんと握手してくださいと言われたんけど、俺は言ったよ。「ふざけてるんじゃないぞ。俺が何をしにきたかわかってるのか。蹴飛ばしに来たんだぞ!」ってね。
    ――え? いったい何があったんですか? ☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ 
  • 「CMパンク、UFC入り」情報を追う■MMA Unleashed

    2014-12-19 10:39  
    55pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回のテーマはWWE元スーパースター「CMパンクのUFC電撃契約」に関する現地情報まとめ! ☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412
    UFC181のPPV放送中、元WWE世界ヘビー級チャンピオン、CMパンクことフィル・ブルックス(36)がUFCと契約したことが発表された。PPVの第1試合が終わり、会場が暗転すると、解説のジョー・ローガンが、スーツ姿で登場したパンクをテレビ視聴者に紹介したのである。この画面は会場のビジョンには映し出されず、テレビ中継だけで流された。
    パンクは、今年1月26日の「ロイヤルランブル」を最後にWWEを離れていた。6月に現WWEディーバのAJリーと結婚したが、まさに挙式当日にWWEから解雇通知が届いたというから、パンクとWWEとの関係がいかに冷え切っていたかが伺われる。
    シカゴに育ったティーンエイジャー時代から、UFCとプロレス、両方の大ファンだったとパンクは語っている。プロレスの道を選んでここまでやってきたけれど、いくら成功しても、MMAにチャレンジしていないことにはずっと後悔があったのだという。「僕の知り合いなら、僕がずっと前からMMAをやりたいと言っていたことは知っているはずだ。だから今回のUFC入りの決心はすごく簡単だった」とパンクは語っている。
    これまでに多くのプロレスラーがMMAに参戦してきた。シルベスター・ターキー(ザ・プレデター)、ケン・シャムロック、ダン・スバーン、桜庭和志、ボビー・ラシュリー、バティスタ、バンバン・ビガロらには、しっかりしたアマレスのバックボーンがあった。ショーン・オヘアといった選手でも、ストリートファイトでならしたという経歴があった。ところがパンクには格闘技のバックボーンが何もない。ヘナー・グレイシーに柔術を習っていると伝えられているが、経験は2~3年、WWEのツアーの合間をぬっての練習ということもあり、数か月おきに1、2週間通っている程度なのだという。格闘技経験どころか、プロレスラーとしてもタフガイとは言いがたく、バックステージでケンカをしたとか、酒場で暴れたと言った逸話もほとんど残されていない。
     
  • 日本式トレーニングは淘汰されていくのか■大沢ケンジ

    2014-12-19 09:46  
    55pt
    和術彗舟會HEARTS総帥・大沢ケンジの格闘技界解説コーナー。今回はフィギュアスケートの羽生結弦衝突転倒事件を入り口にお話を伺いました!☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412――羽生結弦の“衝突転倒事件”についてお聞きしますが、強行出場したことが賛否を呼んでいますね。
    大沢 こういうことを言うと批判されるかもしれませんけど、ハッキリ言いますよ。…………大丈夫ですよ、あれくらいっ!!(大声で)
    ――格闘技のプロから見て問題ありませんか(笑)。
    大沢 ボクは古い人間かもしれないですし、あくまでボクの考えですよ(笑)。格闘技とフィギアスケートが違うと言われればそれまでですけど、格闘技に長年携わってきたボクが何度か映像を確認したうえでいうと、羽生くんの足元はフラフラはしてなかったから大丈夫です。羽生くん自体はフニャフニャしてましたけど(笑)。
    ――フラフラとフニャフニャは違う、と。
    大沢 そりゃあんなスピードでぶつかったら危ないですし、痛いですよ。演技をやろうとしたらパフォーマンスは落ちますよ。実際に羽生くんは演技中に何度も転んでますし。格闘技だってダウンした選手の動きは悪くなるじゃないですか。
    ――ダウンしたあとに本領を発揮するのはフランク・エドガーと三崎和雄くらいですね(笑)。
    大沢 格闘技以外でもサッカーでは選手同士がぶつかって頭を打って血が出てるのに包帯を巻いてプレーを続けますよね。そこはプロとして本人や周囲がそう判断したんだなっていう。たとえばボクシングはパンチでぶっ飛ばされてフラフラになって、起き上がったらレフェリーに「やるか、やらないのか」って問いだたされますよね。そこはボクシングと一緒で本人がやるか、やらないか決めることなんで。そこはプロとして本人の意思に任せますよね。☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ 
  • 格闘家が作る激ウマグルメ5撰■MMAオレンジ色の手帖<File⑫>

    2014-12-19 09:30  
    55pt
    格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! File⑫は「格闘家が作る激ウマグルメ5撰」!! 「クゥーチャイ」、「マーシャルアーツカフェ 犬拳堂」、「表裏」、「カリーシャワー」、「503cafe」を紹介します!☆山本宜久17000字ロングインタビュー、ジャンボ鶴田物語、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!  入会すれば今すぐに読める12月度更新記事一覧 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412アスリートに付き物なのが引退後の「第二の人生」「セカンドライフ」。格闘家だとジムの経営者やインストラクターとして後進を育成したり、普通のサラリーマンになる例が多いでしょうか。その中でも注目したのが飲食店経営。懐かしいところでは、PRIDE全盛期に大相撲から『武士道』のリングに上がった玉海力のちゃんこ屋や、高田延彦統括本部長がプロデュースした「モンゴリアン・チョップ」など、意外と転身例があります。最近では元格闘家(現役もいますが)が実際に腕を振るって、試合以上に観客の舌を震わせる名料理人・名プロデューサーが台頭。ボリューム満点の豪快なメニューだけでなく、繊細な味付けに思わず舌を巻く事もしばしばあります。これは掘り下げないわけにはいかないでしょう。そこで今回の「オレンジ色の手帖」は格闘家が腕を振るう名店、激ウマグルメを一網打尽にしていきたいと思います。まず1軒目の名店は吉祥寺にあるタイ料理店「クゥーチャイ」。自ら厨房に入るのは新日本キックボクシングで活躍した深津飛成さんです。深津さんは日本フライ級とバンタム級で王者に就いた輝かしい実績の持ち主。ダウンを奪われても前に出る魂のこもった試合でファンを魅了してきました。その熱い試合には勝村周一朗をはじめ多くの格闘家が心酔するほどです。そんな深津さんの作るタイ料理。それはもう試合ばりに熱い!まず楽しんでほしいのが「香り」。深津さんも「吉祥寺で一番香るタイ料理店」を自負しているように、料理ごとにパクチーやジャスミンなど、特徴的な香りがゴングと同時にラッシュをかけてきます。タイ料理店はかなり巡りましたが、その中でも極めて独創的。他のどこにもない香りと雰囲気が立ち込めています。さらに際立つのが素材の良さ。土下座して仕入れたという50日鶏を使用したガイヤーン(タイ風鶏もも肉の焼鳥)はプリプリした絶妙の歯応えから鶏肉の旨味がジュワッと溢れ出ます。そしてマグロの刺身よりも保菌率が低い無菌豚「芳寿豚」を使ったムーマナオ(タイ風豚しゃぶ)も絶品。軽く炙ってニンニク、唐辛子、パクチーでお刺身感覚でいただくと幸せという言葉しか出てきません。こんな豪華なタイ料理をリーズナブルなお値段で味わえるのはクゥーチャイだけでしょう!熱い男の香るタイ料理、ぜひお試しください。