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記事 22件
  • 【13万字・記事詰め合わせセット】アポロ菅原最終回、宮田和幸、橋本宗洋批判、佐伯繁、AKIRA……

    2021-03-31 23:59  
    600pt
    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! part86大好評記事20本、12万字オーバーで600円!!(税込み)

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    part86
    ◎恋のマジカルRIZIN.27名古屋大会を語ろう■RIZIN広報・笹原圭一
    ◎【プロレスファン必読】RIZIN電撃参戦! 宮本和志ロングインタビュー
    ◎【巨額負債報道】ONE起死回生の策はあるのか■シュウ・ヒラタのMMAマシンガントーク
    ◎レスリングエリートをMMAファイターに育てる方法■宮田和幸インタビュー
    ◎橋本宗洋氏の武藤敬司批判原稿に関して
    ◎井上直樹はRIZIN残留か、UFCか■シュウ・ヒラタのMMAマシンガントーク
    ◎皇治のアンチ凸撃はなぜ起きたのか
    ◎アポロ菅原インタビュー最終回「知名度のわりには……」
    ◎1992年10月23日髙田延彦vs北尾光司■金原弘光
    ◎執念の20周年! DEEP100おめでとう佐伯繁インタビュー
    ◎ボクシング豪華チャリティイベントLEGEND
    ◎【UFC259】アデザニヤ、階級超えならず!!■水垣偉弥
    ◎AKIRAインタビュー「海外修行で感じた異様な新日本プロレス」
    ◎格闘技初心者・寺嶋直人40歳はいかにして修斗プロデビューを果たしたのか
    ◎ピョートル・ヤンvsアルジャメイン・スターリング不完全決着■水垣偉弥
    ◎「IWGP世界ヘビー級王座」新設■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」
    ◎神興行RIZIN27が気づかせてくれたもの
    ◎NWAの最期を看取った男ジム・クロケット・ジュニア■斎藤文彦INTERVIEWS
    ◎プロレス団体オーナーの隠された過去……彼は生まれ変わろうとしていたのか
    ◎2020年プロレス界の顔ジョン・ モクスリーが開く新日本☓AEW禁断の扉
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    RIZIN.27でスダリオ剛と対戦するプロレスラー宮本和志インタビュー!全日本プロレス入門から今回の挑戦まで1万字でお届けします!(聞き手/ジャン斉藤)


     


    ――宮本さんのRIZIN出場を予想をしてなかったプロレスファンがパニックになってるんですよ!
    宮本 あ、そうなんですか(笑)。たしかにビックリしたかもしれないですね。
    ――なので今日はいろいろと聞かせていただきます! いつ頃からRIZIN出場の話は進んでいたんですか?
    宮本  今年2021年はボクのデビュー20周年なので、その節目にチャレンジしようと去年から準備してました。自分のキャリアを振り返るとアメリカでグレート・ムタの息子「ザ・グレート・カズシ」をやったし、 和製スタイナーとしてスコット・スタイナーと組んだし、 アニマル・ウォリアーとも組んでロード・ウォリアーズをやったし、あとやれることといったら総合格闘技なのかなと。これをやんないでプロレスラーの現役生活は終われないなという気持ちがあって。それでUFCにも出られていた光岡(映二)さんのところで去年の夏ぐらいからトレーニングしていました。 
    ――突然の発表に反響はあったんじゃないですか?
    宮本 そうですね。何年も連絡を取っていない知り合いからもありました。ボクには総合というイメージはないので、みんな意外に思うのかもしれないですけど、馬場さんが「シュートを越えたものがプロレス」と言われてましたが、根はそこなので。ボクは全日本プロレス出身なんですけど、当時のコーチがケンドー・カシン(石澤常光)で。道場はそういう練習しかしてなかったんですよね。
    ――いわゆるシュートですね。全日本時代の石澤さんは指導が相当厳しかったと伝説になってますけど。 
    宮本 地獄のような毎日でしたねぇ(苦笑)。
    ――石澤さんはちょっと前にWWEでもコーチをやってましたけど。
    宮本 ボクらのときのような感じだったら、あっというまにクビですよ(笑)。石澤さんは本当に厳しかったですけど感謝してます。あの経験があったからこそ、いまのボクがあるというか。
    ――宮本さんは福島県出身で、高校時代はかなりの不良だったんですよね?
    宮本 いやあ、不良というわけじゃなくてヤンチャしていただけですよね。
    ――ボクも福島のいわき出身なんですよ。高校はどちらだったんですか?
    宮本 あ、そうなんですか。ボクは小高工業ですね。
    ――小高工業といえば、神社の境内で100人近くが乱闘するという漫画『WORST』ばりの事件が全国ニュースになったことがありましたけど(笑)。
    宮本  それはボクは関わってないですね(笑)。ボクは高校時代は相撲部だったんですけど、中学2年生のときから100キロ近くあって。まあ肥満体型でしたけど。ボクのおじいちゃんのおじいちゃんが元関脇のお相撲さんだったんですよね。
    ――そういう血筋なんですね。
    宮本 ずっとおじいちゃんから「相撲をやれ」と勧められていて。当時は尖ってたので「やらないよ」って拒否してたんですけど。高校2年のときに福島国体が予定されていて、スポーツにすごく力を入れてるということで相撲部に入って。 
    ――相撲をやりながら、ヤンチャもして。
    宮本 当時はヤンキー漫画が多かったので、影響されて剃り込みを入れたり、眉毛を剃ったり、 ボンタンを履いたり。馬場さんと面接したときの風貌!
    ――100キロ超えでその風貌だとメチャクチャ怖いです(笑)。誰もケンカは売ってこないんじゃないですか?
    宮本 けっこうケンカはやってましたね。ボクが住んでいた富岡町から小高までは電車で30分ぐらいで。その中でケンカになるんですよ。
    ――あの地域って電車の本数の少ないから、仲の悪い他高生や上級生なんかと鉢合わせになりがちですよね。
    宮本 そうなんですよ!(笑)。電車に1時間に1本しかないですし、車両もそんなに長くないですし……。ケンカがすぐ始まっちゃって、あるとき相手をケガさせちゃって傷害事件になっちゃったんですよね……。
    ――あ、事件になっちゃいましたか。
    宮本 当然ながら警察のご厄介になり、家庭裁判所行きになって保護観察処分になってですね、学校も無期停学になって。 そのとき相撲の大会に元国際プロレスの米村天心さんが来られてて。
    ――福島県の会津若松でちゃんこ屋をやっていた米村さん。
    宮本 もう亡くなられてしまったんですけど。事情を聞いた米村さんから「馬場さんの全日本プロレスに行ってみないか」って誘われて、二つ返事で「よろしくお願いします」と。全日本プロレスがちょうどそのときに、いわきの平競輪場で大会をやったんですよ。屋外の特設リングで。
    ――すごいタイミング! いわきってなかなかプロレスがやって来ないんですよね。興行ができる体育館はあるんですけど、アクセスがめちゃくちゃ悪くて
    宮本 あの体育館は山の上にありますもんね。そのとき馬場さんと元子さんと三者面談になって「すぐ学校やめて全日本プロレスに入りたいです」とお願いしたいんですけど、馬場さんは「高校ぐらいは出ないと親も悲しむだろう」と。 あらためて気を取り直して学校に戻って、卒業してから入門することになったんです。
    ―― 高校卒業すれば全日本プロレスに入門できると。
    宮本 はい。相撲部屋からも誘いがあったんですが、全日本プロレスに入ると。
    ――プロレスは好きだったんですか?
    宮本 プロレスは好きでしたねぇ。四天王プロレスや闘魂三銃士で盛り上がっていた時代なので、 そういう誘いがなくてもプロレスはやってみたいと思ってましたし。高校の昼休みなんかは、他の子はサッカーとかで遊んでるときにヒンズースクワットをやってましたからね(笑)。
    ――親御さんはプロレス入にどういう反応だったんですか?
    宮本 それはもう喜んで「入ってくれ」と。おふくろは毎週のように学校に呼び出されて怒られてましたからね(苦笑)。
    ――やっぱりワルじゃないですか!(笑)。
    宮本 まだ10代だったので、ヤンチャだったんですよね。
    ――高校卒業後、全日本に入門しましたけど、すぐにやめちゃったんですよね。
    宮本 ついていけなくて、1ヵ月もたなかったのかなあ。レベルが違うというか、世界が違うというか、すぐやめちゃって。でも、全日本に入るって地元の新聞にも出ちゃいましたから帰るわけにもいかず……。当時親父が埼玉県で仕事をしていたので、そこに身を寄せて身体作りをイチからやり直して、 もう1回プロレスをやってやると。それでなんだかんだしているうちに2年経って、 全日本プロレスからノアが分裂したときに、元子さんから連絡があったんです。当時のボクは20歳になっていて、年齢的にもプロレスラーになることを半ば諦めてたんですけどね。
    ――プロレスラーになるなら10代で、という考えがまだ残っていた時代ですね。
    宮本 『週刊プロレス』を読みながら全日本プロレスが大変なことになってるなあと思ったら、まさか元子さんから実家に電話かかってきて。
    ―― 1ヵ月しかいなかった元・新弟子に連絡をするって、元子さんも宮本さんの存在が引っかかったんですかね。
    宮本 そこはわからないですけど……最初の面談から入門するまでに2年ぐらいのあいだ、しょっちゅう後楽園ホールに見に行ったりしてて。元子さんと並んで試合を見たりとか。
    ――要するに元子さんに気に入られていた。
    宮本 しょっちゅう怒られてましたけどね(笑)。 そういうこともあって元子さんが声をかけてくれたんじゃないかなって思いますね。でも、2年ぐらい経っていたし、ボクとしてはお断りするつもりでお会いしたんですけど。実際に会ったときに元子さんから馬場さんの T シャツをもらって「事務所の片付けを手伝ってくれない?」と言われたら気持ちが傾いてしまって。 「あなたはいつから合宿所に入れるの?」「明日から入れます!」って答えました(笑)。
    ――そこで元子さんが声をかけなかったら、いまの宮本さんは……という。選手はほとんどノアに移ったらから合宿所は誰もいなかったんですよね。
    宮本 もう1人一緒に入った子がいるんですけど、すぐにやめちゃって。 合宿所に行ったら、みんなが出て行ったあとなので、すごく荒れてたんですよね。
    ――片付けて出ていなかったんですね。
    宮本  いろんな物が捨ててあったりしてて、ボクからすれば宝の山なんですけど。コスチュームや昔のジャージとか、ゴミどころか宝の山ですよ! でも結局トラック2台ぶんぐらいは捨てたのかな……。
    ――もったいないですねぇ。
    宮本 ホントもったいなかったですよね。馬場さんのスーツや革靴、小橋(建太)さんのオレンジ色のコスチュームとか。プロレスグッズ専門店が高く買ってくれたんじゃないかなって。
    ――もうひとりの新弟子がいなくなったら、どうやって練習してたんですか?
    宮本 シリーズがあると、いろんな選手が道場に来てたりしてたし、当時はシリーズが長かったので、そんなに合宿所にもいることはなかったですし。練習は最初の頃は手探りで自分でやっていたんですけど、元子さんが太陽ケアさんとジョニー・スミスの2人をシリーズが終わってからも常駐させてくれて。アメリカに帰らず半年間ぐらい付きっきりでボクのことを見てくれたんです。
    ――それは貴重な経験ですね。
    宮本  ジョニー・スミスはグラウンドのレスリングを教えてくれて。 キャッチみたいなレスリングですよね。腕をひとつ取るにしても、何十とおり何百とおりのパターンがあるんだよと。本当にためになりました。ボクの師匠はその2人で、巡業が始まると藤原組長が気に入ってくれて、付きっきりで教えてくれて。
    ――藤原教室じゃないですけど。
    宮本 藤原組長とスパーリングをやっていると元子さんが怒るんですよ。だから元子さんが見てる前ではできなかったんですけど。やっぱりシュートの練習をしちゃいけないみたいで。
    ――ああ、全日本プロレスの基本は受け身ですもんね。
    宮本 「そんなことをやるんだったら受け身の練習をしなさい」と。元子さんが来ると藤原組長が「やめだ、今日はやめだ」と(笑)。
    ――元子さんこそ王道ですね(笑)。
    宮本 元子さんにもいろんなことを教わりましたけどね。礼儀もそうです。 当時六本木の事務所に行くときは襟付きのシャツで、ズボンにシャツをインしなければいけないという厳しい掟があって。
    ――プロレスラーは身なりから正さなければいけない。
    宮本 そういった元子さんの指導があったから、社会的なことが身についたので。元子さんにすごく感謝してますね。
    ――元子さんと合わない人は合わないんでしょうけどね。
    宮本 元子さんって怒るときはめちゃくちゃ怒りますからね(笑)。愛情がある怒り方なので、あまりあとも引かないというか。
    ――全日本に残留した川田利明さんや渕正信さんとはどんなコミュケーションを取っていたんですか?
    宮本 再入団してからはずっと川田さんの付き人をさせていただいて。試合後は必ずエタノールで背中を拭いてましたね。
    ――エタノール?
    宮本  川田さんはすごく潔癖症というか、きれい好きなので、 いまを先取りしてたんですけど。全身をエタノールで消毒しないと気がすまないという方で。カット綿にエタノールをつけて川田さんの身体を拭かなきゃいけないんですけど。3週間の巡業だったらエタノールの瓶を10本ぐらい持ってかないと足りないんですよ。
    ――常備品として!
    宮本 川田さんの歴代の付き人はみんな用意してたんじゃないですかね。大好評記事20本、12万字オーバーの詰め合わせセットはまだまだ続く…… 
  • 【1000記事以上】1記事から購入できるバックナンバー

    2021-03-31 00:00  

    【アポロ菅原シリーズ】①「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」② 全日本プロレスをクビになった日③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」④アポロ菅原 SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー⑤北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由/アポロ菅原⑥SWS解散とザ・マミー変身/アポロ菅原インタビュー
    <最終回>アポロ菅原インタビュー「知名度のわりには……」
    【90年代格闘技】


    【格闘技ブームをつくった男】石井和義館長に訊く「国立競技場の借り方」
    佐山先生を修斗から追い出したと思われても仕方ない■初代シューター川口健次追悼ブランコ・シカティック…石の拳が夢見たK-1、そしてアントニオ猪木/甘井もとゆき
     シューティング初代ライトヘビー級王者・川口健次インタビュー
    佐山聡に鉄拳指導された当事者が語る「地獄のシューティング合宿の真実」「佐山先生をUFCの殿
  • 恋のマジカルRIZIN.27名古屋大会を語ろう■RIZIN広報・笹原圭一

    2021-03-26 16:00  
    130pt

    毎大会恒例! 笹原圭一RIZIN広報のインタビュー!!  今回は神興行となったRIZIN名古屋を振り返ります!(聞き手/ジャン斉藤)【1記事¥90〜で購入できるバックナンバー】
    ・「魔法の煽りVをつくる男」 RIZIN演出統括・佐藤大輔17000字インタビュー
    ・いいキ◯タマを持っていたRIZIN大晦日15000字大総括/RIZIN広報・笹原圭一・格闘技ブームをつくった男、石井和義館長に訊く「国立競技場の借り方」
    ・【必読】笹原圭一広報「RIZINの判定基準について説明いたします」


    ――RIZIN名古屋大会はめちゃくちゃ面白かったです!
    笹原 でしょ! 「人間丸出しのイス取りゲーム」、最高でしょ!?
    ――イスを増やしたいくらいですよ! RIZINって毎回面白いんですけど。今回は正直、期待値が低いところもあったじゃないですか。そこが裏切られた面白さもありましたね。
    笹原  でも正直に言うと終わった直後は「どうだ、面白いだろう!?」という手応えというか、満足感ってそんなに感じなかったんですよ。
    ――えっ、あんなに面白かったのに。
    笹原 おもいのほか皆さんが「RIZIN最高でした!」って絶賛してくれてるので、「え、そうなの?それならちょっと天狗にならせていただきます!」と鼻を伸ばしているところです(笑)。
    ――手応えがなかった理由に興味ありますね。
    笹原 試合内容は本当に素晴らしかったんですが、やっぱりボクらは興行を成功させてナンボじゃないですか。興行側として今回の名古屋大会の熱を高められたかといえば……すべてやりきれたという感覚はないので、どこかに後悔というか反省がぼく自身にあったんだと思いますね。
    ――もっとできたことがあったんじゃないか?と。まあ今年一発目の大会ですし、プロモーターとして戦いは始まったばかりという気持ちもあるんでしょうね。
    笹原 そうなんですよ。まぁでもこの程度の盛り上がりで喜んでいたら、大晦日なんて全員卒倒してますよ!
    ――大晦日の前に5月の東京・大阪2連戦の概要は固まってるんですか?
    笹原 はい。この記事が掲載される頃には記者会見が済んでいますが……5月23日東京ドーム、30日丸善インテックアリーナ大阪(大阪市中央体育館)です。
    ――東と西でビッグマッチ連発!
    笹原 新型コロナの状況によって……どこまで上限人数が解除されるのかわかりませんけど、なんかいつまでたってもはっきりしないので、「もう面倒くさい!ドームだ!」みたいな感じはあります(笑)。
    ――Uインター対抗戦時の長州力じゃないですから!
    笹原 で、東京と大阪の2大会でバンタム級ジャパンGP開幕戦を4試合ずつ行ないます。出場選手は……
    朝倉海(元RIZINバンタム級王者)
    井上直樹(日本人史上最年少UFCファイター)
    扇久保博正(元修斗フライ級王者)
    石渡伸太郎(元バンタム級KOP)
    元谷友貴(DEEP2階級制覇)
    岡田遼(現修斗バンタム級王者)
    大塚隆史(DEEP2階級制覇)
    アラン“ヒロ”ヤマニハ(パンクラスバンタム級1位)
    瀧澤謙太(パンクラスバンタム級3位)
    金太郎(バンタム級KOPタイトルマッチ挑戦者)
    渡部修斗(Fighting NEXUSバンタム級王者)
    春日井寒天たけし(HEAT二階級制覇)
    倉本一真(修斗2019MVP&ベストバウト)
    伊藤空也(GRACHANバンタム級王者)
    獅庵(元パンクラスフライ級5位)
    ――日本のバンタム級トップどころか勢揃いじゃないですか! でも、15名しかいません。あとひとりは?
    笹原 最後の1人、ジョーカーは誰だと思いますか?
    ――うーん……。
    笹原 ……今成正和です。
    ――それはいいですねぇ! こういう変化球がGPのアクセントになって。
    笹原 今成選手は、あっさり負けちゃう可能性もありますけど、誰からも一本取る可能性がある。対戦する相手からしたら、一番やりたくない相手だと思います。
    ――1回戦の組み合わせもめちゃくちゃ楽しみですよ。
    笹原  組み合わせは抽選でやろうと思っています。ガチ抽選ですよ! 
    ――まるでガチじゃない抽選が過去にあったみたいな言い方はやめてくださいよ。 
    笹原 いや、これも16人の組み合わせをあーでもない、こーでもないと考えたり、選手と交渉するのも大変なので「もう面倒くさい!抽選だ!」みたいな感じです(笑)。
    ――ファンからも「◯◯を勝たせようとしてるに違いない!」とかイチャモンをつけられないですし。
    笹原 抽選だとどの選手にも公平ですし、選手からクレームもないですから(笑)。で、その抽選方法が過去に開催した無差別級GPとか、ライト級GP1回戦の抽選で採用したディスティニーシステムなんですけど、今回はあれを上回るシン・ディスティニーシステムを開発したんですよ。
    ――……庵野秀明 じゃないですけど「シン」を付ければ、なんとかなると思ってないですか?
    笹原 (無視して)前チャンピオンの朝倉海選手だけが組み合わせを一度だけキャンセルすることができるんです!
    ――それ、ベラトールの抽選システムのパクリじゃないですか!
    笹原  違いますよ! ベラトールの抽選システムをリスペクトしてというか、参考にしたというか、まぁ限りなく似ているってだけです(笑)。
    ――ハハハハハハハハ! 麻雀と抽選のイカサマにうるさいボクから言わせると、「運」に左右されない抽選システムってガチ度がぐっと低くなるんですよね。
    笹原 いや、でもこの原稿を読んでいる頃には抽選結果が出ていますから、そこで見られる運命に翻弄されたり、あらがったりする人間模様に、皆さん酔いしれているはずですよ。東京ドームや大阪はバンタム級GP以外にも、朝倉未来、皇治、もちろんそれ以外のサプライズも含めて用意しているので、よ名古屋で大興奮した人はもう抽選会だけで鼻血出てると思います(笑)。
    ――GP出場メンバーを見ると、ワンチャンスをモノにした“持っている”選手がいますね。
    笹原 修斗で石原夜叉坊選手に勝った祖根寿麻選手を劇的KOした獅庵選手、そして下馬評を覆して田丸選手に一本勝ちした渡部修斗選手はまさにワンチャンスを勝ち取りましたよね。修斗選手はまるで負けたかのような試合後のマイクでしたけど(笑)。
    ――あのナヨナヨした感じと甘ったるい声質は、とても初代修斗ウェルター級王者・渡部優一さんのご子息とは思えないんですよ。
    笹原 いまのRIZINファンは、渡部さんの息子さんっていうことを知らない人は多いでしょうからね。
    ――渡部優一さんは三沢光晴さんと高校時代の同級生で、ホッパーキングでもあって……という話はさておき、女子格闘家の青野ひかる選手との仲もオープンにしてて。
    笹原  あのカップルの雰囲気もいいですよね。試合前日の計量後、ご飯を食べに行く2人と遭遇したんですけど、ペアルックでしたから(笑)。――キャラが立ってますね!(笑)。

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    https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar2009452
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  • NWAの最期を看取った男ジム・クロケット・ジュニア■斎藤文彦INTERVIEWS

    2021-03-26 16:00  
    130pt

    80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマはNWAの最期を看取った男ジム・クロケット・ジュニアです!

    Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
    ■KENTAがAEWに電撃登場! 非WWEで何が起きているのか■ビンスの黒衣、猪木の親友パット・パターソン

    ■晩年のロード・ウォリアーズ
    ■ロード・ウォリアーズの衝撃

    ■日本発世界…コロナ禍の近未来ビジネスモデル

    ■追悼! 佐山タイガー最大の難敵・初代ブラックタイガー

    ■WWEが体現する「ウイズ・コロナ」 の時代のプロレス■全女消滅後の女子プロレス新世界

    ■木村花さんはドウェイン・ジョンソンのようなスーパースターになるはずだった■無観客レッスルマニアが生み出した“異常な2試合”

    ■女子プロレスの景色を変えた女帝・ブル中野■マッハ文朱が女子プロレスというジャンルを変えた■棚橋弘至vsクリス・ジェリコから見る新日本・AEW提携の可能性

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    ■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期


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    ■超獣ブルーザー・ブロディ

    ■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……
    ■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜




    ■伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』 
    ■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い
    ■「現場監督」長州力と取材拒否■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか
    ――今回のテーマは先日お亡くなりになったジム・クロケット・ジュニアです。なんといってもNWA会長として「NWAの最後を看取った男」がクロケットなんですが、なぜ時代に飲み込まれていったのかをお聞きします。 
    フミ わかりました。世代によってはジム・クロケット・ジュニアという名前すら知らない、あるいは名前しか知らない人もいるんでしょうね。40代後半から50代、もしくはいま60代で80年代の記憶が鮮明に残っているプロレスファンならば、NWA会長としてWWEのビンス・マクマホンと戦った人という印象は強いはずです。いまやNWAという世界最高峰だった組織自体が神話というか伝説になっていますけど。
    ――NWAとはかつて全米をまとめていたプロモーターの加盟組織ですね。その最後の会長がクロケットで。
    フミ ジム・クロケット・ジュニアは今年の3月に76歳で亡くなりました。どうやら新型コロナウイルスが原因だったそうなんです。 
    ――ああ、そうだったんですか……。
    フミ クロケット・ジュニアは1944年生まれなのでビンス・マクマホンの1つ年上になります。名前に「ジュニア」がついてますが、 「ビッグ・ジム」と呼ばれていたお父さんのジム・クロケット・シニアは1935年からプロレスのプロモーターをやっていました。そのシニアが亡くなったのは1973年。 ようやく50年前の話になってくるんですけど、シニアは63歳で心臓麻痺で突如この世から去ってしまうんです。 クロケット家には3人の子供がいて、お姉さんのジャッキー、長男のデーブ、そして当時29歳だった次男クロケット・ジュニア。シニアの地盤を受け継いだのは若き日のジュニアだったんです。
    ――急死ということですが、跡継ぎの準備はしてなかったんですか?
    フミ やっぱりプロモーター一家ということで、お姉さんや長男もその道には入っていたんです。たとえばシャーロット・オリオーズというマイナーリーグのオーナーであったり。プロレス事業の後継者となったのはジュニアでした。地盤はノースカロライナ州シャーロットをはじめサウスカロライナ、バージニア、西バージニアの各州。いまやシャーロットといえば、WWEで活躍するシャーロット・フレアーですね。彼女はリック・フレアーの娘で、シャーロットは自分のホームタウンをリングネームにしました。そのリック・フレアーはクロケットプロモーションからスターになった選手です。
    ――所縁のある土地名からネーミングされたんですね。 
    フミ クロケットプロはお父さんの時代から統一世界王者ジム・ロンドスの派閥の流れをくむ有力なプロモーターで、戦後はNWA の加盟団体だったので定期的にNWA のチャンピオンが遠征してきましたが、シャーロットはお世辞にも大都会とは言える場所ではなかったけれど、大西洋沿岸エリアのビジネスを大きくしたのがクロケット・ジュニアなんです。70年代の半ばから80年代にかけて、ものすごく人気のあるテリトリーに成長するんですが、その理由はNWA世界チャンピオンになる前の若き日のリック・フレアーや、バカ売れする直前のジミー・スヌーカ、 WWE登場直前のロディ・パイパー、スーパースターに変貌していくリッキー・スティムボートたちがフルタイムで活躍していたからです。
    ――ブレイク前夜のスーパースター候補が集ってたんですね。 
    フミ  日本でいうとちょうど闘魂三銃士や四天王が切磋琢磨していくことによってスターになっていくのと同じような過程が70年代前半当時のクロケットプロモーションにあったんです。 フレアーがスターになるきっかけも運命的で。昔のフレアーはかなり太っていて髪の毛も金髪ではなかったですが、1975年のセスナ機墜落事故によってその人生はいっぺんするんです。
    ――同乗していたジョニー・バレンタインが半身不随になった事故ですね……。
    フミ ジョニー・バレンタインは「金髪の妖鬼」と呼ばれ、猪木さんのライバルとして東京プロレスや日本プロレスに来日していましたが、クロケットプロでもトップレスラーで有名なUSヘビー級チャンピオンでした。当時は広いテリトリーを移動するために自家用セスナ機を使うことが多かったんです。墜落事故でジョニー・バレンタインは両足を複雑骨折してしまいやむなく引退。後部座席に乗っていたリック・フレアーも背骨に大怪我を負うんですが一命を取り留め、リハビリを経て半年後にはシェイプアップして痩せた身体と別人のようなルックスで復帰するんです。
    ――事故によってモデルチェンジでしたと。
    フミ これも興味深い話ですが、飛行機に乗る直前にフレアーはバレンタインと座席を交換してるんです。フレアーが後ろに座ったことで……。
    ――そこが運命の分かれ道だったんですね……。
    フミ 生まれ変わったリック・フレアーは、当時のスターだった大ベテランのワフー・マクダニエルと戦うことによって覚醒していきます。リック・フレアーの代名詞はバックハンドチョップですよね。 日本でいえば逆水平チョップ。あれはワフー・マクダニエルと何百回も戦ってるうちに、トマホークチョップと呼ばれたマクダニエルの必殺技を自分のものにとしてアダプトしたんです。ワフー・マクダニエルはネイティブアメリカンのプロレスラーですが、リック・フレアーの「Wooooo!!」という雄叫びも、ワフー・マクダニエルの雄叫びをオマージュしたところから始まってます。 そういう背景を見ると、ものすごく面白いんです。
    ――フレアーはワフー・マクダニエルのフォロワーだったと。
    フミ  クロケットプロにはNWAフロリダからダスティ・ローデスがエース兼プロデューサーとして合流します。クロケット・ジュニアは現場のことはローデスに任せていたんです。当時のNWAは主人公がハーリー・レイスからリック・フレアーに移り変わるときで。83年の「スターゲート」というビッグイベントでフレアーがレイスに勝利したことでリック・フレアー時代が到来します。
    ――「スターケード」というイベント名がつくのは珍しいですよね。「レッスルマニア」以前ですし。 
    フミ これはダスティ・ローデスのアイディアです。「スターケード」はスターのアーケードという造語で、スーパースターの品評会というニュアンスでした。いまではビッグイベントにこういったタイトルがつくのはあたりまえになってますから、プロデューサーのローデスには先見の明があったということですね。フレアーがNWAのエースとなったこの翌84年からビンス・マクマホンによる WWE全米侵攻がスタートするんです。
    ――ハルク・ホーガンをエースにして。 
    フミ WWEにはジミー・スヌーカやロディ・パイパー、リッキー・スティムボードも移籍。 NWAもなんとか対抗するんですけど……。まずNWA の本拠地と呼ばれていたミズリー州セントルイス地区が潰れてしまうんです。翌年にはセントラルスイーツ、フロリダ地区も倒産するんですが、それらをクロケットプロが買収していきます。
    ――だからNWAは生き永らえてるように見えて。
    フミ NWAというのはひとつの団体じゃなくてローカルごとの団体の加盟組合です。全米各地のローカル団体が加盟して、その地区を1人のNWA世界 チャンピオンを回りながら運営されていくという70年代までは成立していたビジネスモデルだったんですが、それがWWEの全米侵攻作戦によって破壊されていきます。倒産していく各地方のNWA系団体をクロケットプロが引き継ぐことで 、クロケットプロの存在が大きくなっていきますが、NWAという組織が形骸化していったのは事実です。そしてクロケットプロは84年からNWA世界チャンピオンだったリック・フレアーと独占契約を結んでしまったんです。 そうなるとフレアーはこれまでの王者のように各地をサーキットすることはなく、基本的に1年中クロケットプロで試合をすることになりました。
    ――こうしてクロケットプロとNWA がイコールになってしまったんですね。

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  • 神興行RIZIN27が気づかせてくれたもの

    2021-03-22 18:00  
    110pt
    この記事はRIZIN27を語ったDropkickニコ生配信を編集したものです(語り:ジャン斉藤)【1記事から購入できるバックナンバー】・相撲MMA最弱を破壊するか!? スダリオ剛は“スポーツの天才”だった!
    ・【宗教と幻想、システム論】修斗は朝倉未来に勝ったのか
    ・TEPPEN判定はあるのか〜ジャッジを巡る議論〜/高崎計三
    ・偉大なるグラップラー、ハビブ・ヌルマゴメドフの凄さ/水垣偉弥
    今日はですね、プロレス格闘技マスコミで一番仕事部屋がおしゃれだという評判のジャン斉藤邸からお送りいたします。 オマエはいきなり何を言ってるんだ?っていう話ですけど。先日、吉田豪さんの『紙プロ同窓会』に出演したんです 。いつもはこうやって音声だけですが映像付きで出たところ、ボクはそういう声を決して見逃しませんでした! これから「仕事部屋がおしゃれ」を看板にして頑張っていこうかなと思ってます(笑)。
    ところで『紙プロ同窓会』ではホントはもっといろいろなエピソードをしゃべりたかったんですけど、 ボクが出演したパートは殺伐ムードだったので。ボクはこれまで格闘技はトラッシュトークで煽るだけじゃないんだって話はしてきましたけど。この番組に出演するにあたって、宣伝ツイートを一切しなかったこともあってスリリングな展開になったという。 そこには紙プロの歴史や出演者との関係性があったり、あまり出演に乗り気じゃなかったこともあって宣伝ツイートをしなかった結果、ヒリヒリした空気になったのかなと思うんですけど。 話の内容も紙プロの包括的なもので。たとえば吉田さんがストロング小林さんを取材したときボクは担当だったんですが、小林さんが吉田豪さんのことをものすごく気に入ってしまって「原稿チェックはFAX じゃダメ。必ず家まで原稿を見せに来なさいね!」と何度も念を押されて。吉田さんは当然行かず、結局ボク一人に原稿を見せに自宅まで出向いたんですけど。ひとりで行くのが何か怖いから、ボクの知り合いで殺人術を学んでる奴に「お願いだから一緒に来てくれ」って頼み込んで同伴してもらった……っていうエピソードも話したかったんですけどね。
    闇雲に煽れば緊張感が出る……っていうことじゃないモデルケースにはなったと思うんですけど、それは今回のRIZINにもつながってくることですよね。浜崎さんの戦前の仕掛けは、トラッシュトークっていう枠組みに収めちゃいけないと思うんですね。なんて言うんですかね、トラッシュトークやセルフプロデュースって「盛り上げるためにあえてやってます」っていう安易さが付いて回りますよね。浜崎選手の場合は、女子格闘技の歴史や自分の立ち位置を踏まえたナチュラルストーリーですからね。こういうカードこそ見応え、語りがいがあるんですけど……今回のRIZIN27って超大爆発したわりに、事前の期待感が超低かったですよね。

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  • 「IWGP世界ヘビー級王座」新設■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2021-03-22 18:00  
    110pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「IWGP世界ヘビー級王座」新設です!




    <1記事から購入できる連載記事! クリックすると試し読みできます!>武藤敬司と秋山準、Wタイトル奪取&入団の衝撃秋山準の“三冠外し”マイクとは何か
    杉浦貴……いいときも、悪いときも、ノアで戦い続けた男
    G1、チャンカン、N-1……秋の3大リーグ戦・総括


    追悼ロード・ウォリアーズ
    SWSは企業プロレスだったのか『ゴング』と東スポの元記者が語るプロレスマスコミ黄金時代/小佐野景浩☓寿浦恵一
    名子役から名優へ…中嶋勝彦
    デビュー戦から見た木村花というプロレスラー
    小川良成…孤独と苦難から生まれた「孤高のテクニシャン」新型コロナ禍の中のプロレスW-1活動休止、NOAH新体制、全日本はWWEと接近?追悼“喧嘩日本一”ケンドー・ナガサキ
    【14000字対談】小橋建太☓小佐野景浩「あの頃の全日本プロレスを語ろう」
    新生NOAHは何が変わったのか?
    獣神サンダー・ライガーと山田恵一プロレス者の青春「竹内宏介とザ・マニアックス」ケンドー・カシンの数奇で偏屈なマスクマン人生日本のプロレスを変えた「浅井嘉浩」という男革命戦士・長州力、笑顔でリングを降りる――追悼・青木篤志さん望月成晃×小佐野景浩〜空手家がプロレスラーになるまで〜三銃士、四天王、UWF、邪道…平成のプロレスを変えた5つの勝負ジャイアント馬場没20年追善興行と飯塚高史引退試合北尾はなぜ大成しなかったのか■柴田惣一☓小佐野景浩 マスコミ大御所第2弾柴田惣一☓小佐野景浩 プロレスマスコミ大御所対談「スクープ合戦はガチンコの闘いだった」多発するプロレスラーのケガを考える愛すべき元横綱・輪島が戦った全日本プロレスの2年間全日本プロレスの「うっかり八兵衛」が明かす全日本秘話プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さんあの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん
    中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生WARからイッテンヨンへ! ライオン・ハート時代のクリス・ジェリコ
    「情」で生きる佐々木健介の激烈人生! 
    プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! 猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿

    ――小佐野さん、今回はIWGPヘビー&IWGPインターコンチネンタル王座が統一されて「IWGP世界ヘビー級王座」が新設されたことについて聞かせてください。飯伏幸太がそのIWGP世界ヘビー級の初代王者として認定され、IWGPインターコンチネンタル王座は封印されたことにファンからは賛否の声が挙がっています。
    小佐野 飯伏幸太がベルトを2つ持った時点で「今後どうやって防衛していくのか」という話は出てくるよね。別々に防衛戦をやっていく手もあるだろうけど、飯伏に挑戦できるなら皆IWGPヘビーのベルトが欲しい。 そうするとインターコンチのほうはどうなるの? というモヤモヤがある中で、飯伏が「ベルトを統一したい」と言い出したのは自然の流れなのかなと。 
    ――全日本プロレスのようにインター、UN、PWFを「三冠王者」としてまとめちゃったケースもあるじゃないですか。あの三冠統一はどういう経緯だったんですか?
    小佐野 あの三冠統一は確たる理由はなかったんですよ。 
    ――えっ、なかったんですか!?
    小佐野 統一されたのは89年でしょ。 その前年から統一に向けての試合はたびたび行なわれていて。鶴田さんがインター、 天龍(源一郎)さんがUN、 スタン・ハンセンがPWFのベルトをそれぞれ持っていたんだけど、「3人のチャンピオンの中で誰が一番強いのか?」という流れから始まって、天龍さんがハンセンから PWFを奪って2冠に。そして鶴田さんに勝ってインター王者になった(ブルーザー・)ブロディと天龍さんが三冠統一戦をやったんだけど決着がつかない。最終的にブロディを破ってインター王者に返り咲いたジャンボ(鶴田)が天龍さんからUN&PWFの2冠を奪ったハンセンに勝って三冠統一したんだけど。当初はマスコミも「三冠統一王者」という認識ではなかった。それぞれ「インターは何度目の防衛、UNは何度目の防衛……」という公式記録がついていて。 
    ――ということは、当初は「初代・三冠統一王者」ではなかったんですね。
    小佐野 そう。ジャンボの初防衛戦のときも「三冠統一王者」という扱いではなかった。そのあと天龍さんがジャンボに勝って三冠王者になるんだけど、 そこから初代がジャンボで、2代目が天龍さん……ということになり、三冠王者として防衛戦がカウントされていった。
    ――それは全日本プロレスが公式に三冠王者として認めたんですか?
    小佐野  そこは覚えてないんだけど……バラバラに防衛するんではなく、統一していくんだという流れになったね。
    ――そこはなんとなく……って感じだったんですね。
    小佐野 世界タッグ王座のベルトはインターナショナル・タッグとPWF世界タッグを統一したものなんだけど、このときはちゃんとした発表があったんです。NWAとPWFの了解を得て「両団体が認可する世界タッグ王座にします」と。三冠のほうは謎なんだよね。3本のベルトでそれぞれタイトルマッチをやったほうが興行的にはいいでしょ? たとえば、ひとつのシリーズの中で大阪でPWF、福岡でUN、東京でインターの防衛戦ができる。それなのになぜ三冠を統一したのかは、すごく不思議なんですよね。
    ――現場の小佐野さんでさえ謎だったと。それぞれのベルトの権威が失われつつあったりしたんですか?
    小佐野 それはなかったかな。 そもそもベルトよりも選手の価値のほうが高かったから。鶴龍にハンセン、ブロディ。 彼らがチャンピオンでいるわけだからベルトに寄りかからないで試合ができたわけだよね。 ベルトの格でいえばインター、UN、PWFの順だったかな。 インターは伝統のあるベルトだし、 UNはアメリカから持ち込まれたもので。 PWFはお手盛りなんだけど、力道山家から譲られたベルトで初代がジャイアント馬場。 
    ――しかし、三冠統一に馬場さんはどういう思惑があったんですかね。

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  • ピョートル・ヤンvsアルジャメイン・スターリング不完全決着■水垣偉弥

    2021-03-20 11:00  
    110pt
    北米MMAを知り尽くした男・水垣偉弥が語るピョートル・ヤンvsアルジャメイン・スターリング不完全決着(この記事はニコ生配信されたインタビューを構成したものです)【1記事から購入できるバックナンバー】
    ・内柴正人が出るなら出ません……矢野卓見、QUINTET出場辞退騒動を語る



    ・佐伯さん、KINGレイナはどうなるんですか!?

    ・【RIZIN24の裏側】RIZIN広報・笹原圭一の1000倍返しインタビュー・アポロ菅原インタビュー第3弾「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」


    ――UFCバンタム級タイトルマッチのピョートル・ヤンvsアルジャメイン・スターリングは4R目にヤンがグラウンド状態のスターリングに反則のヒザ蹴りを放ってしまい、スターリングは戦闘不能に。反則負けで王座交代という決着でした。
    水垣 ホントにビックリしましたね。 
    ――反則決着シーンはあとで語ることにして……反則で王座を失ったとはいえヤンの強さが浮き彫りになった試合でしたね。
    水垣  スターリングは試合全体を通してキツかったですよねぇ。個人的に勝負どころだと捉えていたのは、レスリングの強いスターリングがヤンの足を触ったところなんですよ。スターリングは相手の足にさわれば強い選手で、ヤンの場合はさわられても体勢を切り替えてテイクダウンさせないのが特徴としてあって。 
    ――さわると強いスターリングと、さわらせても強いヤン。
    水垣 どっちに傾くのかな……となったときにスターリングが序盤から足をさわったのに、あっさり諦めるというか、ヤンの身体から離れてしまうシーンがあって。これはヤンに流れが傾くかなと思って見てました。
    ―― それはヤンのテイクダウンディフェンスが優れていたから、っていうことなんですか。
    水垣 そうですね。そこはすごい細かいところなので見ててもわかりづらいんですけど。組んだときの腰の角度や体重のかけ方なんかで、テイクダウンを狙った選手が「これはダメだな……」と思わせるような身体の使い方ができるんでしょうね。ただ意外だったのはスターリングが打撃でガンガン攻めていたじゃないですか。
    ――1Rと2Rの打撃の手数でいえば、スターリングでしたね。
    水垣 ヤンってどの試合でも1Rは様子を見るんですよ。 3Rマッチでも1Rは様子を見ちゃったりするし、今回はタイトルマッチで5Rだから必ず1Rは様子を見てくると考えたスターリングが確実に1Rを取りに行く戦略を組み立てたのかなと。
    ――スターリングのパンチに対してヤンをガードを固めて対応してましたね。
    水垣  ヤンは自分の目に頼らないで、手でしっかりガードを固める印象がありますね。
    ――ジャッジの印象はどうなんですかね?
    水垣 いや、かなり悪いと思いますよ。ヤンは1R後半にパンチを当ててバックを奪いましたけど、あのシーンがなかったらスターリングのラウンドだと見てました。
    ―― 2R以降がヤンがゲームを支配していくような印象を受けました。 
    水垣 徐々にペースを掴んでいきましたね。ただ、2Rもスターリングのラウンドだったと思うんですけど。手数を出していたし、ケージに押し込んでる時間もすごく長くて。 印象だけでいえばスターリングのラウンドだったと思うんですけど、このあとの展開を考えたらスターリングは苦しくなるなって見えちゃう内容でしたね。
    ――このままだとヤンの牙城が崩せないんじゃないかという。

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  • 格闘技初心者・寺嶋直人40歳はいかにして修斗プロデビューを果たしたのか

    2021-03-20 11:00  
    110pt
    修斗2021年の一発のイベントで注目を集めたのは、40歳にしてプロデビューをはたした男のアグレッシブな戦いぶりだった。その男は静岡県・御殿場で格闘技に出会った。【1記事から購入できるバックナンバー】・平本蓮のアメリカ修行先5つの候補はこれだ!!■シュウ・ヒラタのMMAマシンガントーク・キラー浜崎朱加、降臨!! 「浅倉カンナ選手が強くなっている感じします?」・朝倉兄弟とYouTube論■菊地成孔・いざクレベル狩り!! 摩嶋一整インタビュー
    2021年1月31日、 プロフェッショナル修斗公式戦。第2試合に修斗フライ級のデビュー戦対決が行なわれ、勝者と敗者がそれぞれ生まれた。話題をさらったのは敗者のほうだった。ありふれた勝負のコントラストの境目がぼやけて見えてくるのは、その敗者がなんのバックボーンもないまま36歳で格闘技をはじめ、40歳という遅咲きでプロデビューを飾ったからだ。
    その敗者の名は、寺嶋直人。静岡県・御殿場の格闘技ジムSUBMIT MMA所属。神奈川県・横浜市に生まれた寺嶋は高校時代はバスケットボールに明け暮れ、高校卒業後は都内で働きながら地元のクラブチームでバスケに打ち込んでいた。36歳にして格闘技と出会うことになったのは、サラリーマンの習わしとも言える転勤である。
    「静岡の御殿場に異動になってからは人の繋がりもなくなってしまい、 どこかでバスケができるかなと思って調べてはみたものの、そんなところもなく。身体は動かしたいなとは思っていたので……」(寺嶋)
    運動目的で寺嶋が通い出したのはSUBMIT MMAの前身、ゴールドジム御殿場の「格闘技スクールSUBMIT御殿場」。ジムの主宰は室伏兄弟(カツヤ、シンヤ)。寺嶋の挑戦は静岡で格闘技に打ち込んできた室伏兄弟とも重なり合っていく。室伏兄弟の2人は揃って修斗で活躍し、弟のシンヤは2014年には第4代修斗世界フライ級王座に輝いている。ゴールドジム御殿場のインストラクターだった2人は、ジム内に「格闘技スクールSUBMIT御殿場」を開講し、週2~3回指導。寺嶋はそこではじめて格闘技に触れたが、デイリーでトレーニングが積めるジムではなかった。兄のカツヤは常設ジム設立以前を振り返る。
    「格闘技スクールSUBMIT御殿場は2009年から2017年までやってました。それ以外にも、選手志望の方向けに御殿場から車で30分ぐらいの裾野市の駅前でも指導してたんです。日本拳法の道場をやっていた方が、もう使わないからってことで建物を格安で貸してくれたので、そこを自分たちでリノベーションして練習スペースにして。そこでは週1回やってましたね」(室伏カツヤ)
    室伏カツヤ2つのジムではそれぞれ50名ほどの会員を指導(重複会員もいた)。室伏兄弟が常設ジムの設立を志したのは、ゴールドジムに通っていた実業家の「キミたちがお金を貯めておじいさんになってからジムを出しても、そんなに集客はできない」という一言だった。その言葉に刺激をうけた室伏兄弟は3年かけて資金集めに奔走。裾野道場の指導も週1日から2日間に増やした。現在SUBMIT MMAが居を構えるビルの2階は、室伏がゴールドジムへの通勤の際に目をつけていた物件だった。https://submitmma.jp/室伏の念願がかなって格闘技スクールSUBMIT御殿場はSUBMIT MMAに名称をあらためて2017年10月にオープン。静岡で格闘技に出会った寺嶋は、静岡で格闘技を根付かせようとしていた室伏兄弟のもと、毎日トレーニングを通える環境に身を置けることになり、ますます格闘技にのめり込んでいく。
    「最初はグラップリングマッチに出てみないと誘われて、次はビギナーMMA。そこである程度成績を収めたら、次はアマチュアMMA。この段階でプロで、という意識は全然思ってなくて。アマチュア修斗でも勝てることがわかってきて、これはもしかしたらプロに行けるかもしれないなと」(寺嶋)
    寺嶋は競技の階段をひとつひとつ踏んでいき、MMAをはじめて3年で2019年にプロ昇格を果たした。ところが新型コロナの影響でデビュー戦の先行きが見えなくなり、他のイベントでのデビューも頭をよぎった。
    「代表ともそういう話はしたんですけど……やっぱり苦労して昇格した以上、修斗で試合をしたいという自分の意思もあって、もうちょっと待ってみようと。やっぱり修斗に思い入れもありますし、ここまで頑張ってきていまから他のイベントに……というのも自分の中でもしっくりがこなくて」(寺嶋) 
    修斗プロデビュー戦決定の朗報は昨年12月に訪れた。新型コロナウィルス感染予防対策として当日計量の契約体重。寺嶋は試合当日に室伏カツヤの運転する車で上京し、デビュー戦に臨んだ。
    「試合間隔が1年3ヵ月ぐらい空いてしまったので、緊張という緊張はそんなにしなかったんですけど。当日計量だったので、そこまでキツイ減量もなかったので変な感じというか。 高揚感を味わう余裕はなかったんですけど、 やっとここまで上がってこれたなっていう」(寺嶋)
    試合は開始直後から寺嶋が攻勢をかける。カーフキックを浴びせ、フックの連打で仕留めにかかる。テイクダウンで上になり、1ラウンドは確実に寺嶋がポイントを得た。しかし、2ラウンドになると相手の打撃を浴びて劣勢に。一時はトップポジションをキープするがスタンドに戻され、フックを被弾。連打をもらい足元がおぼつかない寺嶋はスタンディングのままレフェリーに試合を止められた。40歳の男が4年かけてたどり着いたプロのステージは2R4分23秒で幕を閉じた。
    「試合直後は反響もあって嬉しい部分もあるんですけど……負けたことはめちゃくちゃ悔しいです。 ちょっと落ち着くと“負け”だけが残ってるので。次は絶対に勝たなきゃいけないかなあと思いますね。40歳という年齢は深く考えずに生きてますね。いいところはよく受け止めて(笑)。若い子よりは人生経験はあるので、それを含めてが総合格闘技なんじゃないかなと……」
    転勤によって格闘技と出会った寺嶋のもとに、プロ昇格前後に会社からふたたび転勤の打診があった。寺嶋は退職を匂わせて断った。
    「会社からは転勤を断るのはありえないんだけど、ぐらいのことは言われたんですけど。もし話が進むんだったら、仕事をやめてもいいですよぐらいに返したので(笑)。もし都内に異動になったら格闘技はやらないかもな……って。やっぱりここで格闘技を教えてもらって、いろいろな思い出もありますし。単純に格闘技をやるっていうことだけじゃなくて、ここだから格闘技をやれているっていう気持ちのほうが大きいですね。」あと3年、4年できたら。10試合はやりたいですね」
    「人生経験を含めてが総合格闘技」ならば、格闘家として自分を育んだ御殿場で戦い続けることが寺嶋にとって強みになるのだろう。人間を支えるのは肉体、そして精神である。御殿場に残ると決めた寺嶋を預かる室伏カツヤは、東京と地方の格差をこう語る。
    「東京と比べて圧倒的にプロ志望が少ないことですね。近隣のジムはどこも遠くて車で1時間近くかかるので出稽古もあまりできないです。ただ、ボクら兄弟は静岡で生まれて静岡で選手活動してきて、弟は修斗のチャンピオンになったので、やり方次第なのかなと思います。それに3ヵ月にいっぺん青木真也選手に来てもらってセミナーをやってるんですけど、そのときは近隣のジムの現役の選手たちもやってくるんですよね。 青木選手の技術練が終わったあとは、みんなで練習会をやったりしています」
    佐山聡がシューティングを志して36年あまり。総合格闘技はMMAという名称で世界各地に広まっている。地方在住の格闘技初心者の30代後半の男性がこうしてプロファイターとして拳を振るえるようになったのは――アメリカからは大きく遅れは取っているとはいえ――格闘技という土壌が豊潤な証といえる。寺嶋と同じSUBMIT MMAに通う22歳の自衛官は今年の3月で自衛隊を退官。格闘技に打ち込める職業に転職し、プロ転向を目指しているという。格闘技観戦の魅力のひとつは非日常空間にふれることだが、格闘技そのものにトライすることは、もはや日常である。どこの町にも室伏のように畑を耕す人々がおり、寺嶋のように芽を咲かす選手たちがいる。あなたの身近にも寺嶋直人がいるはずなのだ(ジャン斉藤)<ここから寺嶋選手と室伏カツヤ代表のインタビューを続けてお送りします!>左から室伏カツヤ、寺嶋直人、室伏シンヤ
    ――寺嶋さんはサービスエリアで働いてるんですね。
    寺嶋 サービスエリアのレストランの料理長です。
    ――一番偉いじゃないですか!
    寺嶋 いや、自分の上に店長がいるので(笑)。いまのサービスエリアは5年目ですね。横浜出身なので、もともとは同じ会社の都内のお店で働いてんですけど、異動で御殿場に移って。けっこう異動の多い職業ではあるんです。
    ――お仕事をされながら格闘技をはじめて3年、40歳でプロデビューされたことに驚きました。
    寺嶋 正確にいうと36歳で総合格闘技をはじめて、3年目にアマチュア修斗の全日本大会で成績を収めてプロになったんですけど。新型コロナで試合が組まれないまま40歳になってしまったんですが、こないだの試合でデビューできて。ジムの階段の踊り場からは天気が良ければ富士山が一望できる
    ――36歳で格闘技を始めたのはどういう理由なんですか?
    寺嶋  もともとバスケットボールをずっとやっていたんです。高校卒業後も地元のクラブチームに入って半分真面目、半分遊びみたいな感じで続けていて。御殿場に異動になってからは人の繋がりもなくなってしまい、 どこかでバスケができるかなと思って調べてはみたものの、そんなところもなく。 身体は動かしたいなとは思っていたので。
    ――それで総合格闘技のジムに。
    寺嶋 昔から格闘技は好きで見てはいたんですよ。深夜にやっていた佐藤ルミナさんと宇野薫さんの試合やPRIDEも見てて「いつかはやってみたいなあ」と思いながらもバスケットをやっていたので。そのバスケをやる機会が失われてしまったので「格闘技をやってみようかな」と。だから御殿場に異動してなかったら格闘技をやってないですし、ここにジムがなかったら……。
    ――偶然が積み重なったんですね。

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  • AKIRAインタビュー「海外修行で感じた異様な新日本プロレス」

    2021-03-17 17:00  
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    野上彰として新日本プロレスでデビューしたAKIRAインタビューシリーズ第2弾(聞き手/ジャン斉藤)前回はこちら・新日本プロレス入門、野上彰だった頃/AKIRAインタビュー
    【1記事から購入できるバックナンバー】・沢村忠から天心vs武尊まで…キックボクシングの始まりと、その光と影■細田昌志☓高崎計三
    ・プロレスの青春! 新日本プロレス学校の最後を見届けた男■渡辺宏志・プロレス格闘技界運命の1991年■斎藤文彦INTERVIEWS

    ――AKIRAさんは新日本プロレスでデビューしたあとも今後の不安はあったそうですね。
    AKIRA やっぱり、身体の線の細さが気になっていたんですね。しばらく自分に自信が持てなかったです。いま思えばデビューしたからって「これでバンバン行けるぜ!」と自信持って戦っているヤツなんかいないんですけど。
    ――でも、あの当時の新日本って入門するのもハードルが高いし、デビューするのも大変で。そこにたどり着いた時点で相当凄いというか。
    AKIRA まあでも、UWF騒動だジャパンプロレスだで人間が少なくなっていた時期でしたから。中堅層や若手のホープは軒並みいなくなっちゃってましたからね。
    ――逆にやりやすかった部分もなかったんですか?
    AKIRA うーん、ある程度、分別のある上の人がコントロールしてくれて、何かしらのカリキュラムがあって育ててくれるならよかったんですけど……もう猿山みたいな感じでしたからね(苦笑)。
    ――ハハハハハハハハ!
    AKIRA 2個上の後藤(達俊)さんとかが仕切っちゃうわけだから、もうグチャグチャですよ。
    ――後藤さんは酔っ払うと包丁が投げつけるわけですからね(笑)。デビュー前から巡業にはついて回ってたんですよね?
    AKIRA 新弟子時代からついてました。いつだったか、同じ年に入門した船木(誠勝)選手が巡業中に「どっかでデビューさせてやる」という話があったらしいんですけど。そのときに船木選手はリングシューズを持って行ってなかったらしくて怒られたという話がありましたね。
    ――つまり、シューズは最初から用意しておかなくちゃいけないんですね。
    AKIRA ボクも靴を履きながら練習してたり準備はしてましたからね。当時の新人は、なぜかみんな黒パンツに黒シューズでしたけど。
    ――それは「デビューさせるから用意しろ」と言われるんですか?
    AKIRA 「ボチボチだから用意しとけ」という感じです。それも全部特注だったんで。当時、新日本にジャージとかを卸してくださっていたスポーツ屋さん、「スワロースポーツ」というお店なんですけど、みんなそこに頼んでました。いまはお店もたくさんありますけど、当時はレスリングパンツなんかはその「スワロースポーツ」さんが仕切ってまして。あの新日本の白線ジャージを作っているのもそこだけでしたから。
    ――となると「注文=プロになる」という高揚感もありますよね。
    AKIRA いやあ、どうなんですかね。ボクは「よし」というよりも「……大丈夫かな?」という感じだったというか。新弟子で辞めちゃう人だけじゃなく、デビュー後に何試合かやってから辞める人もいると聞きましたんで。
    ――AKIRAさんは誰の付き人だったんですか?
    AKIRA ボクは2年ぐらい坂口征二さんに付かせていただいて、そのあと3年ぐらい藤浪辰爾さんに付いてましたね。
    ――坂口さんはどんな方でした?
    AKIRA 木村健悟さんや藤波さんからはよくお小遣いをもらっていたんですけど、坂口さんはそんなには(苦笑)。
    ――あら(笑)。
    AKIRA 猪木さんは何かの機会に私物をくれたりすることがあって。お下がりのイッセイミヤケの服を持ってきてくれたりしてましたよ。撮影か何かで1回着たら、もう着ないんでしょうね。合宿所に持ってきて「着ていいぞ」と。
    ――全日本や新日本の付き人は巡業に行くと「洗濯代」と称して、けっこうまとまったお金をもらったりしていたと聞きますね。
    AKIRA 藤波さんのお小遣いはその洗濯代という名目ですけど、坂口さんの場合は本当にきっちり洗濯代の額だったりするわけで(苦笑)。
    ――文字どおりの「洗濯代」! 誰の付き人になるかで懐事情は変わるんですね。
    AKIRA でも、坂口さんはちゃんと面倒は見たがってた人みたいですよ。坂口さんって石原軍団とかに憧れてたりするんで。大好きなんですよ、渡哲也さんとか。巡業バスの中で『西部警察』だったかな? 朝バスに乗ると、みんなまだ眠いから「寝かせてくれ」という感じなのに、『西部警察』を録画したVHSテープを持ち込んで再生して「バキュンバキュン」とか派手な音させて。藤原喜明さんはよくそれにキレてました。
    ――「うるさいぞ」と(笑)。
    AKIRA 藤原さんは後ろほうの席なんですけど、ちょうどスピーカーがあるんですよ。だから、傘の尖ったところでスピーカーを壊そうとしてましたから。というか、壊してましたね(笑)。
    ――ハハハハハハハハ! 藤原さんの破壊ぶりのほうが石原軍団っぽい。
    AKIRA 坂口さんは石原軍団に憧れていたから、たとえば選手たちを盆と正月は家に呼んだりとかね。まあ、ボクは付き合いが悪いんで、一度断っちゃったんですけど。
    ――副社長のお誘いを断れるんですか!
    AKIRA 巡業先で「腹減ってないか? メシでも食いに行こう」と誘われたこともありましたけど、それも断ったことありました。いま考えればとても優しい方だったんですけど、当時は「早く寝かせてくれ」という思いが勝っちゃって「まだ仕事残ってますんで」と。坂口さん、ちょっと寂しそうでしたね。「行きます!」と言っていれば、また違ったレスラー人生だったのかもしれないですけど……そういうところがボクはダメでしたねえ。
    ――その後の面倒見も良くなったり。
    AKIRA そうですね。坂口さんはその場にふさわしいというか、どちらかというと盛り上がる人を連れて行きますね。酒を飲むのがあんまり好きじゃない人は「じゃあ、いいや」と。そこは気遣いをしてくださる方でした。
    ――試合のほうは手応えを感じつつあったんですか?
    AKIRA デビューしてから最初に高揚感があったのは、やっぱり船木&野上組vs安生洋二&中野龍雄組でしたね。
    ――UWF勢が新日本に戻ってきたときの。
    AKIRA 手応えというのは、あの時期ぐらいからですけど。でも、本当にいまと昔ではプロレスの仕組みが全然違うというか。最初の頃はすべてが手探りなんですよね。
    ――いわゆるフリースタイルを超えた勝負というか。
    AKIRA こっちのさじ加減で「もうお客さんが満足しているな。これ以上、お互いに出すものないな」って探りながら着地点を見つけたり。
    ――それ、ホントに難しい試合じゃないですか!
    AKIRA どっちも退かないとなると、試合が永遠と終わらないという。
    ――新日本プロレスの前座が15分一本勝負でドローが多かったのはそういう理由で。
    AKIRA 橋本真也選手との試合では腕ひしぎをかけられたんですけど、「ここで終わるわけにはいかない」ってギブアップしなかったんですよ。そうしたら、最終的に腕ひしぎの腕を離してもらえなくて、ヒジを捻挫してしまったということもあったりしましたね。
    ――すごいなあ……前田日明さんが新日本前座時代を誇りにしてるのは、格闘技を超えた勝負をしてきたからなんでしょうね。
    AKIRA だから緊張感ありましたよ。あの当時、アメリカの有名なスポーツライターが新日本を見にきていて、それを見抜いてました。「前座のヤングボーイたちがそういう試合をやってるから、上の試合が成立するんだ」と。だから上のカードもある程度ショーとして成り立つものが、リアルに写るんだと書いてました。
    ――正直、それはそれで怖いプロレスですよね。
    AKIRA いや、怖いですよ。いつ誰がどうなるかわからないじゃないですか。
    ――後年になって小川直也vs橋本真也の1・4事変なんかがありましたけど、当事者でさえ先の見えない試合は前座では普通にあったということですよね。
    AKIRA ただ、15分間だけだし、そこまで背負っているものはないので、ダラダラした試合で15分引き分けになることもあったんですけど。ボクはあんまりダラダラしたつまんない試合は見せたくなかったので、そこは妙にお客さんの空気を読みがちで。そのままプロレスをやっていたらまったく成立しなくなるんで。
    ――そこで大人の態度を取れるってすごいですよ。背負ってるものがないといっても、相手がUWF勢となると話が違ってくるじゃないですか。
    AKIRA やっぱりボクらもデビューして1~2年のわりにはそれなりの意識があったので一生懸命でした。いま思うと、あの頃の一生懸命さというのは、とても素晴らしいことをやってたなと思ったりしますよ。その後のチャンピオンシップの一生懸命さとは、また違った意味があったなと。10代後半だったりするのでフィジカル的にも最高潮ですし、いくらでも動ける身体だし。お客さんに対するサイコロジー的なものはそれほど考えられなくても、身体が続くかぎり動こうとしたことに関しては、もう奇跡的なものを作っていたんじゃないかなとは思います。だから、その思いというのは、何かの取材で安生選手や船木選手と会っても「あの頃が原点だね」という話をしたりしますね。
    ――何かを残した手応えがあったということですよね。
    AKIRA ただ、やっている本人は盛り上がりはそんなに感じてなかったし、ただただ一生懸命で。身体や体力で負けちゃいけないということで、その準備のために等々力不動の階段を20往復ぐらいして、本当に一生懸命でした。
    ――そういう意味では、新日本の選手って特殊な前座の環境で鍛えられていたわけですね。
    AKIRA まあ、そうなんだろうけど、そこは従来のプロレスとは違うものになっちゃいますけど
    ――そこは受け中心の全日本プロレスとの違いというか。
    AKIRA だから世界基準で言ったら、新日本出身のレスラーと戦う相手は困っちゃいます。絶対に「何この人?」って戸惑ったと思いますよ。
    ――いわゆる“固いレスラー”すぎて。
    AKIRA 海外修行のときには、みんなそういう経験があったと思いますね。
    ――AKIRA選手は海外修行としてヨーロッパに行かれましたね。
    AKIRA そうです。坂口さんからは「メキシコだからな」と言われていて、それを断ったことがありました。
    ――またしても坂口さんの話を(笑)。
    AKIRA いま思えばメキシコでよかったんでしょうけど……メキシコのルチャというのは、約束事で成立するアクションショー的な部分が大きいじゃないですか。
    ――新日本の前座とはまったく違いますよね。
    AKIRA つい最近までUWF勢と試合してて、リアルなプロレスを追求している空気があったのに、またそこに行っちゃうのか、と。しかも当時のメキシコは治安も衛生状況も悪かったというか。そういう話を保永(昇男)さんがいつも面白おかしくバスの中で言うわけですよ。「あんなところ行くもんじゃない。行っても一銭にもならなかった」とか。
    ――これから行く身としては冗談とは受け取れない(笑)。保永さんもメキシコの経験があるから、あのうまさがあったように思えますけど。
    AKIRA ブラック・キャットさんがお膳立てしてくれてたんでしょうけど、それを聞いちゃうと「スミマセン、行きたくないんですけど」と(苦笑)。そうすると、坂口さんも優しい人だから「ああ、そうか」ということで、行き先がヨーロッパになったんですよね。
    ――そんなことが許されたんですね(笑)。たしかに当時は格闘技思考が強かったから「ルチャなんて」というムードはありましたもんね。
    AKIRA アームドラックですら「どうなの?」という空気がありましたよね。リッキー・スティムボードとかキレイで派手でカッコいいんだけど、それを真似ようとしたら練習すら付き合ってもらえなかったですから。全日本だったらバンバンやったんでしょうけどね。だから、ボクらの世代はあんまりやる人いなかったですし、あってもロックアップでゴロンと自分が倒れて引き込むようなものはあるけどもという。
    ――90年頃にそのリッキー・スティムボードが新日本に初来日してグレート・ムタとのドリームカードが組まれましたけど、お客受けが悪かったですよね(笑)。
    AKIRA まあ、いまだったら絶対に面白がれるんですけど、お客さんも巻き込んでそういう価値観になってましたよね。本当、難しいですよ。

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  • 【UFC259】アデザニヤ、階級超えならず!!■水垣偉弥

    2021-03-14 12:00  
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    北米MMAを知り尽くした男・水垣偉弥が語るケイプと夜叉坊はなぜ負けたのか(この記事はニコ生配信されたインタビューを構成したものです)【1記事から購入できるバックナンバー】・ケイプと夜叉坊はなぜ負けたのか■水垣偉弥
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    ――無敗のUFCミドル級王者アデザニヤがライトヘビー級王者ヤン・ブラホビッチのタイトルに挑戦しましたが、いいところがなく判定負けでした。水垣さんはどのような試合展開を予想されていたんですか。
    水垣 前半はアデザニヤがパンチが当てていくんだろうなと。スピードや打撃の技術はアデザニヤのほうが上だと思ってましたから。目の良さやステップを活かしてアデザニヤがコツコツとパンチを当てていくと思ってました。ただし倒しきれなくて消耗するので、後半になるとブラホビッチが捕まえ出すんじゃないかな……と思ってたんですよね。
    ――序盤からアデザニヤの打撃がそこまで冴え渡る感じではなかったですよね。
    水垣 当ててるんですけど、クリーンヒットはしてなかったんですよね。下がりながら当ててるというか。ブラホビッチのプレッシャーが強かったのか、アデザニヤは自分のかたちは作れなかった印象ですね。ブラホビッチはリーチが長い選手ですし、アデザニヤが思い描いたとおりに攻められなかったのかもしれないです。
    ――空間認識設定も優れ、オリンピックレスラーのヨエル・ロメロのプレッシャーにも退かなかったアデザニヤがこうなってしまうのは、階級の壁が厚かったということですね。
    水垣 ミドルとライトヘビーって10キロも差があって、階級超えの挑戦の中では体重差を一番影響を受けやすいと思うんですよね。
    ――ライトヘビー級がヘビー級に、フライ級がバンタム級に挑戦するのとはわけが違ってくるという。
    水垣 まさかアデザニヤがテイクダウンされるとは思わなかったですね。ミドル級ではロメロのテイクダウンをしっかりさばいてたじゃないですか。5ラウンドやって1回尻餅をついたぐらいでロメロのテイクダウンを完封してたのに。

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