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2014年10月の記事 23件

【詰め合わせセット】中野巽耀、高瀬大樹、阿修羅・原、桜田一男、佐伯繁、佐野哲也、しなしさとこ!!

非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! part9は大好評インタビュー7本、7万字オーバーが540円!!   ■伝説のUWF戦士・中野巽耀は“欠席王”だった!「UWFのメンバーが話し合いをやったって、まとまるわけがないんだよ」■アンデウソン・シウバを極めた元カリスマブロガーの懺悔録! 高瀬大樹ロングインタビュー「俺は本当に悪い奴でしたよ……」 ■小佐野景弘の「プロレス歴史発見」! 阿修羅・原物語失踪後、阿修羅が身を寄せていた北海道の寿司屋に盟友・天龍が訪れた…… ■喧嘩日本一!ケンドー・ナガサキこと桜田一男の日米を股にかけたの黄金プロレス人生!!「SWSが使った金は100億円。凄くいい団体だったよ……」「メガネスーパーの田中社長が亡くなる直前、あることを頼まれたんだよ」 ■不良格闘技イベント『アウトサイダー』で超有名アマチュアファイターに”“リアル神代ユウ”佐野哲也「格闘技を続けるために警察学校をやめたんです」■無謀か、勇気か? 男・佐伯繁、大晦日さいたまスーパーアリーナに進出!「今年DEEPがやらなかったら、大晦日のたまアリで二度と格闘技興行はできないかもしれない」■女王が結婚、出産、育児を経て6年ぶりに復帰!!しなしさとこインタビュー「総合格闘技と女性の戦い」 「練習も率先してやって後輩の見本になってたから。すげえ練習するよ、高田さんは。◯◯さんとは違う。これは書いてもいいけど」伝説のプロレス団体「第2次UWF」旗揚げメンバーのひとり、中野巽耀(旧リングネーム中野龍雄)。強烈なインパクトを与えた「しゃちほこ固め」(変形片エビ固め)、博多スターレーンでの異常な人気ぶりで「博多男」と呼ばれ、白熱する好試合に必ずついてまわる鼻血姿……UWFでも唯一無二の個性は熱狂的なマニアを生んでいた。そんな中野巽耀が激走したUWFという名の格闘ロードとはなんだったのか? 現在は茨城を拠点とする中野選手に話を聞いた。「ラッシャー木村との出会い」「前田日明vs佐山サトル」「約束を破った佐々木健介」「新生UWF崩壊に黒幕がいた?」……大ボリュームの12000字インタビュー!!――中野さんの身体つきは昔と変わりないですね! 中野 じゃないと、みっともなくてリングに上がれないからね。うん。 ――いまでもトレーニングは欠かしてないんですね。 中野 もちろん! 毎日やってるよ。 ――毎日! 中野 俺の弟子があちこちにいて道場をやってるのでね。そこで指導したりして生計を立てているから、トレーニングをすることが生活の一部になってるんだよ。まだまだ引き込んでらんないよ! ――中野さんは東京から茨城に引っ越してからだいぶ経ちますね。 中野 正確に言うと10年くらいになるかもしれない。 ――試合があるたびに上京されてるわけですね。 中野 こっちに俺のことをサポートしてくれる人たちがいるので、試合で東京に行くときは車を運転してもらってるんだよ。やっぱり試合で何が起きるかわからないから自分で運転しない。試合に集中したいからさ。 ――そこは徹底してるんですね。  中野 もちろん。プロというのはそういうもんだと思ってるから。 ――中野さんはもともとは国際プロレスに入団しようとしてたんですよね。 中野 話すと長くなるかもしれないけど、中学のときからプロレスラーになりたいと思ってて。でも、プロレス界のことをよく知らないから、どうやって入ったらいいかもわからない。そのときに国際プロレスが地元で興行をやって。その興行をいろいろと世話した市議会員の方が知り合いにいてね。その人にいろいろと頼んで国際に口を利いてもらったんだよ。その市議会員は若いときに三菱電機にいたのかな。 ――三菱電機は日本プロレス中継の番組スポンサーでしたね。試合の合間にリング上で三菱電気の掃除機をかけたり。 中野 そうそう(笑)。よくおぼえてるなあ。 ――いや、伝聞だけでボクも実際に見たわけではないんですけど(笑)。 中野 それでその市議会員に連れられて、中学3年のときに後楽園ホールに国際プロレスを観に行ったんだ。控室でラッシャー木村さんに会って、市議会員と一緒に入門をお願いしたんだけど。当時の俺は身長170センチなくて体重は58キロ。いま考えたらその身体で入門は無理なんだけど(苦笑)。 ――たしかにその体格だと厳しいですねぇ。 中野 まあ何日か経って断りの連絡があったんだけど、どうしてもプロレスラーになりたかった。地元に残っていたら高校に通わなきゃいけないし、プロレスの道が遠くなるんじゃないかなって思って、卒業したら東京に行くことに決めてね。 ――それで上京されたんですか。ガッツありますねぇ。 中野 俺は3人兄弟の次男なんだよね。子供の頃からお袋に「次男なんだから家から出なきゃいけないんだよ」って言われて。だから家を出ることしか考えてなかった。あと藤波辰爾さんが中学卒業したらすぐにプロレスラーになったでしょ。「それなら俺も!」ってね。それでさっきの市議会議員の紹介で東向島にあった婦人靴関係の製造会社に就職したんだ。そこの社長が国際プロレスの後援をやっていたりしてね。昼間はそこで働いて、夜は錦糸町にあった遠藤光男トレーニングセンターに通って。そこにはアニマル浜口さんも練習に来てたよ。プロレスラーってデカイなあと思ったよね。ラッシャー木村さんに初めて会ったときもビックリしたもん。「なんだ、この身体は!?」って。 ――そうやってプロレス入りをうかがってたんですね。 中野 3年くらい働いていたかな。国際も潰れちゃったんだけど、ユニバーサル・プロレス(旧UWF)ができたでしょ。そこにラッシャー木村さんも参加されていて、新弟子を募集していると。国際に入門をお願いした当時のことを履歴書に書いたら木村さんがおぼえていてくれて、入門テストを受けさせてくれて。それがプロレス界に入るきっかけ。 ――入門テストはどんな内容だったんですか? 中野 俺のほかに全部15人くらい受けていたのかな。試験官が藤原(喜明)さん。新宿にあったユニバーサルの事務所に集まって、そこからバスに乗って場所は忘れちゃったんだけど、合気道の道場に連れられていったんだよね。 ――合気道の道場で入門テスト! 中野 そこで藤原さんが「みんなヒンズースクワットを知ってるだろ? やるぞ!!」って号令をかけて、藤原さんもスクワットをやり出すんだよね。 ――試験官の藤原さんも一緒に(笑)。 中野 またひとり、またひとり脱落していって。最終的には600回くらいやったのかな。残ったのは俺と5人くらい。藤原さんからその場で「おまえ合格な」って言われて、会社からも合宿所に入るように連絡があって。俺が合宿所に入ったのは7月1日の夏の日だったよ。 ――同期はどなたになるんですか? 中野 同期はいないよ。みんな途中でやめていった。安生(洋二)や宮戸(優光)はだいぶ後輩になるからね。 ――合宿所に先輩レスラーは誰も住んでいなかったんですか? 中野 いない。同期の連中だけ。俺が入門した当時は道場がなくて、あちこちのジムに出かけて練習してたんだよ。合宿所に前田(日明)さんや高田(延彦)さんから「明日◯◯に何時」って電話があって。たとえば新宿のスポーツ会館や湘南ジムを指定される。でも、前田さんと高田さんはたいてい約束の時間に遅れてくるんだけど(笑)。 ――そこは“プロレスラー時間”なんですね(笑)。 中野 前田さんらが到着したらスクワット500〜1000回やって、腕立て、腹筋、ブリッジをひと通りやって、タックルの打ち込みもやらされて。ヨソのジムだから、あまりでかい声は出せなんだけど。小さい声で怒られながら竹刀で叩かれたりしてたから。 ――異様な光景ですね(笑)。 中野 ジムの人間から前田さん言われてたもん。「すいませんが静かにお願いします」って。 ――では、従来の新弟子生活とはちょっと違ったわけですね。 中野 うん。毎日どこに呼ばれるのか不安だった。世田谷・大蔵の道場に落ち着くまでは1ヵ月くらいかかったのかな。 ――そのうちプロレス入りのきっかけを作ってくれた木村さんもをやめちゃいましたよね。 中野 会社の人や議員さんに言われたよね。「木村さんは出て行っちゃったけど、残って頑張らないといけない」って。言われなくても出て行くつもりはなかったんだけどね。ほかの団体に入るあてもなかったし。 ――念願の道場もできましたし。 中野 そうだね。合宿所が渋谷にあったら毎日電車で通ってたけど。ちゃんとした練習場所があったのはよかったよね。藤原さんは足立区から通ってたよ。木戸(修)さんは神奈川からかな。木戸さんはほかの先輩よりも早く来て自分のメニューをやって、日焼けして帰る。 ――あの褐色の肌はそうやって維持されてたんですね(笑)。中野 佐山(サトル)さんは三軒茶屋でスーパータイガージムをやってたから、大蔵には取材のときくらいしか来なかったよね。 ――佐山さんの加入後の旧UWFは格闘技色が徐々に濃くなっていきましたよね。 中野 俺はこういうもんだとしか思わなかったから。それはいまでも変わらないし。それが良かったのかどうかはわからないけど、べつに悔いはないよ。 ――旧UWFの客入りはどうでしたか? 中野 たとえば東京、大阪や福岡はけっこう入ってた。青森とかの田舎は酷かった。2階席なんてお客さんを数えられたから。地方の人間なんてアントニオ猪木とジャイアント馬場しか知らないからね。「ユニバーサル・プロレス」なんて言ったってわからないでしょ。 ――史上最大の悪徳商法詐欺事件で世間を震撼させた豊田商事がスポンサーだった時期もありますよね。それで一時期「海外UWF」を名乗って。 中野 あったあった。潰れるちょっと前にね。殺されっちゃったんだよね。 ――永野会長刺殺事件ですね。殺害の様子がテレビで生中継されたという……。 中野 いろいろ景気のいい話を聞いていたよ。プール付きの合宿所ができるとか、年に何回かは海外旅行に行けるとか、中国で試合をするとか。豊田商事だけじゃなくて、変な話がいっぱい舞い込んできてたんだよ。占い師が怪しい話を持ってきたりね。 ――若手の中野さんでも経営的の厳しさは感じましたか? 中野 うーん、そうねえ。先輩たちが気まずくなっていった当時は大変かなあとは思ったよね。 ――旧UWFは方向性を巡って、佐山さんと前田さんら他のレスラーたちが対立していきましたよね。 中野 性格の問題だね、単純な話。合う・合わないだったと思う。最初はそうじゃなかったよ、俺が入門した当時はね。途中で佐山さんがいろいろとやりだしたじゃない。ルールがどうのこうのとか面倒くさいことになって。そのへんからおかしくなった。 ――佐山さんは競技路線を推し進めましたよね。 中野 その前は客が入らなくても「どうにでもなんだろ」と思ってた。選手がみんなまとまってる雰囲気があったんでね。若い連中のあいだでも「前田さんと佐山さん、もし別れたらどっちにつく」なんて話もなくはなかった。冗談半分でそういう話をしたことがある。 ――それが現実になってしまったち。中野さんはどっち派だったんですか? 中野 それは言えない。ワハハハハハハ! ――あ、20年以上経ってもダメですか(笑)。その溝が深まっていった結果、前田さんと佐山さんが不穏試合をやったじゃないですか。あの大阪府立臨海スポーツセンターの現場にはいらしたんですか? 中野 うん。俺もいた。 ――どういう状況だったんですか? 中野 どういう状況って前田さんが最初から試合をする気がなかったんだよね。まともな試合をするつもりがなかった。佐山さんを潰してやるみたいなところがあって。それは前田さん個人の考えではなかったと思うんだよね。前田さんを炊きつけた人間がいる。誰とは言わないけどさ。 ――黒幕がいると? 中野 前田さんは他人の意見に左右されちゃうところがあるんだよね。それくらい純粋な人なんだけど。前田さんの個人的な考えだけでああいうことはやらないと思う。なんか裏であったんだと思う。 ――そして旧UWFは経営破綻します。潰れたときはどういう報告があったんですか? 中野 俺はテレビ番組の取材でカール・ゴッチさんのところに修行に行っていて。日本に帰ってきたら潰れてたんだよ(笑)。 ――いないあいだに(笑)。 中野 神(新二)さんが空港に迎えに来てくれて、帰りの車の中でボソボソ伝えてくるんだよ。 ――旧UWFの社員で新生UWFでは社長を務める神さんですね。 中野 それだったら日本に帰ってきたくなかったなって。見通しがないのに帰ってきたってしょうがないでしょ。ゴッチさんのところにいたほうが勉強になったし。ゴッチさんのところでは、走らされて、ロープを登ったり、ブリッジをやったり、まあ基本的なことだよね。あの人は怒鳴ったり怒ったりしないから。ゴッチさんはユニバーサル時代にも来日して何回か教わったけど、どうしてもできない選手がいるわけよ。でも、怒らないでどうにかできるように指導するからね。日本の先輩はできないと怒ったり引っ叩いたりするんだけど、ゴッチさんはそういうことは一切しなかった。たしかにゴッチさんは厳しいは厳しいんだけど、やる気のある選手にはどうにかできるように教える。それが神様と呼ばれる所以なのかなって。 ――帰国しても試合がないならそのまま残留したかったですよね。 中野 試合もないからモチベーションがない。なんのために道場で練習をしてるか意味がわかならなかったから。そんなときに新日本との業務提携話が出てきた。でも、俺は新日本に行きたくなかったら、ハッキリ言って。 ――それはどうしてですか? 中野 やっぱり新日本は“違う畑”。俺は新日本で育ってきたわけじゃないしね。UWFで試合ができないんだったらどうでもいいやみたいな気持ちだったし。 ――実際新日本のリングに上がってみていかがでした? 中野 というか、最初は安生との試合ばっかりだったんだけど。も〜〜う何回やったかわからない。顔を見るのも嫌だったよね(笑)。 ――最初はUWF同士の試合ばかりで、新日本側も様子見だったというか。 中野 新日本とUWFの上の選手同士が噛みあうようになってきて、それから若手同士もやるようになって。あのときのUWFの若手は俺と安生、あと宮戸かな。 ――新日本の若手とはかなりガンガンやってましたよね。 中野 お互いに敵対心丸出しだった。口もきかなかった。船木誠勝、野上彰の連中とタッグで戦うようになって、そこからかな、面白くなってきたのは。 ――船木さんは中野さんと試合をするようになって「打撃を勉強しなきゃダメだ」ってことで骨法に通うようになりましたね。 中野 船木選手がそう言ってた? それは当時の俺もわかってたよ。一生懸命、骨法とかに通ってたもんね。だから彼らとの試合は面白かったよ。そんな中、前田さんが長州さんの顔面を蹴った事件が起きたでしょ。 ――顔面襲撃事件ですね。「プロレス道にもとる行為」をやったとして前田さんは新日本プロレスを解雇されて。 中野 あれがなかったらUWFは新日本に吸収されていたよ。前田さんのアレでダメになった。まあ、俺は吸収されるのはイヤだったんだけどね。そうなったらやめていたかもしれない。その前に新日本とUWFの合同合宿があったり、完璧に吸収される雰囲気だったんだよ。そんな合宿、俺は嫌だったからスッポかしたんだよ(笑)。 ――我が道を歩いてますねぇ(笑)。 中野 向こうの若手の佐々木健介と仲が良くてさ、「行くのやめような」という話をしていたのに、あの野郎は約束を破って行きやがって。あとから聞いたら「長州さんが行けというから」だって。それで俺だけ坂口(征二)さんに怒られて、干されてしばらく試合が組まれなかったもんな(笑)。 ――それって新日本とUWFの親睦会で酔った選手が暴れて九州の旅館をぶっ壊した時期ですよね。 中野 あったなあ。親睦どころかみんな酔っ払って大変だった。俺と安生は途中でスッポかして何があったかは見てないんだけど。 ――あ、そこもスッポかしましたか(笑)。 中野 洗濯とか雑用があったからね。みんなができあがったときにはいなかった。旅館をぶっ壊したというのはあとから聞いたけど、みんなそれくらいストレスがたまってたんだろうね。 ――旅館を壊すほどストレスって(笑)。 中野 だって新日本にはアントニオ猪木さんに絡むレスラーがいたくらいだから。 ――後藤達俊さんが日本刀を振り回しながら「猪木はどこだあ!」って叫んでたんですよね(笑)。 中野 そうしたら後ろに猪木さんがいたというね(笑)。 ――前田さんと武藤(敬司)さんの殴り合いはどういうふうに聞いてますか? いろんな説があるんですけど。 中野 誰かが武藤さんに命令して前田さんが殴ったら、前田さんがブチ切れて馬乗りになってボコボコにした。それで武藤さんが顔を腫らしちゃって、翌日の試合を休んだという。あと前田さんと高田さんが雨の中、素っ裸でタクシーを捕まえて乗ったとか。まあ現場にいなくて本当によかったよね(笑)。 ――ほかのUWFのメンバーは吸収ムードをどう捉えていたんですか? 中野 賛成・反対のふたつに分かれていたよね。前田さんは反対だった。俺と前田さんだけじゃない、反対は。 ――高田さんは吸収歓迎派で。 中野 高田さんはそう。藤原さんもね。安生も宮戸も新日本の道場に練習に行くようになってたから。――新日本にすっかり馴染んでいたんですね。中野 俺はひとりで大蔵の道場で練習をしてたよ。神さんから電話で「もうちょっと待っててくれ。いいことあるからな」と言われていたんだけど。 ――業務提携の当時から、のちの三派分裂に繋がる亀裂はあったんですかね。 中野 あったと思う。だって我の強い人間の集まりだもん、UWFは。長く続くとは思わなかったよ。 ――でも、前田さんの顔面蹴りはある意味で吸収ムードをぶち壊したんですね。 中野 うーーーーーん、結果的にはね(苦笑)。だってあの試合後の何日かは前田さんと高田さんの仲はぎこちなかった。高田さんは新日本に残ってやっていくつもりだったから。でも、前田さんがやっちゃって。 ――でも、前田さんはわざと長州さんの顔面を蹴ったわけじゃないですよね?  

【詰め合わせセット】中野巽耀、高瀬大樹、阿修羅・原、桜田一男、佐伯繁、佐野哲也、しなしさとこ!!

【総合格闘技が生まれた時代】元『格闘技通信』名物記者・安西伸一「俺が愛したグレイシー柔術 」

90年代のプロ格潮流を振り返る大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズに「アンザイ・グレイシー」が登場! 今回のゲストは、元『週刊プロレス』の記者として“活字プロレス”シーンを引っ張り、元『格闘技通信』時代はグレイシー一族の番記者として日本にグレイシー柔術を広く知らしめた安西伸一氏。グレイシーとの出会い、ヒクソンvs安生の道場破り、『格通』が向かい合ったグレーな領域などをタップリとうかがった13000字のロングインタビューです。(聞き手/ジャン斉藤)◯安西伸一氏が司会を務める「キューティー鈴木 トークライブ」のお知らせhttp://ameblo.jp/wing1991-0807-0302/entry-11939880799.html■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■非会員でも購入できる! 単品購入できるインタビュー詰め合わせセット! part6はインタビュー6本立て税込み540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar603088・90年代を体現した男・木村浩一郎――!!「FMWとリングスで俺はこの業界をナメてしまったんですよ」・W☆ING発、リングス行き! 「足首鳴ってんどー!!」鶴巻伸洋の怪しい格闘家人生頑張れ!川ちゃん!!・川尻達也、3度目の網膜剥離……「復帰できるかはわかりませんが、悪あがきはしますよ」骨法ネタも充実!・【骨法の祭典2014】ヤノタク×中川カ〜ル「俺たちが愛した喧嘩芸骨法」・ 小林聡・野良犬の哲学「選手もプロモーターも群れてちゃ面白くないんですよ」・2014年のUWF――中村大介「それでもボクはUスタイルで戦い続けます」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402安西 (聞き手に向かって)なんで「ジャン斉藤」という名前なの? ――麻雀がめっぽう強いからです! 自分で言うのもなんですが。 安西 そうなんだ。盲牌できるの? ――盲牌はできますけど、ボクの麻雀の師匠が“雀鬼”桜井章一という人で。 安西 ああ、有名な人だよね。 ――雀鬼の教えで「盲牌は無駄な動作」ということで禁止なんですよね。 安西 桜井さんってホントに無敗だったの? ――正直、次元が違いましたねぇ。麻雀をやったことある人なら「麻雀で無敗なんてあるわけがない」と思うんでしょうけど。ボクも雀鬼と打つ前はそう疑ってました(笑)。 安西 だってツキの波ってあるじゃん。信じられないくらいあるよね。それをどう克服してるの? ――まず雀鬼は勝負になると勘がメチャクチャ鋭いんですよね。隣の卓でゲーム中の裏ドラを当てるとか。あと博打って金銭が絡むから、欲で判断が狂うじゃないですか。それは人生も同じで、我に返ると「なんであんな判断をしちゃったんだろう?」ってことで誰にでもあると思うんですけど。雀鬼は欲に心を乱さずに麻雀を打つんですよね。もちろん一流の技術があったうえでのことなんですけど。 安西 なるほどねえ。それはヒクソン・グレイシーそのものだよ。 ――本日のインタビューテーマですね。ヒクソンと雀鬼はマブダチですし(笑)。 安西 ヒクソンとは誰の紹介で知り合ったの? ――現・グランスピアー事務局局長の笹原(圭一)さんです。当時PRIDEの広報をやっていた笹原さんの個人的な趣味で対談が実現して。 安西 笹原くんがあの2人を会わしたんだ。 ――それで今日は、桜庭和志がヘンゾ・グレイシーとグラップリングマッチが予定されていたり、ヒクソンの息子クロンのMMAデビューが日本で行われるということで、かつて“グレイシー番”として名を馳せた安西さんにグレイシー一族の魅力を語っていただきたいな、と。 安西 こないだWOWOWでPRIDEを振り返る番組があって、そこで桜庭vsホイスをひさしぶりに見ましたよ。 ――伝説の一戦をあらためて見ていかがでしたか? 安西 桜庭選手のローキックは凄いなあって。あれはかなり効いていたよね。ホイスはガス欠というかエネルギーがなくなって。 ――当時の安西さんは『格闘技通信』の編集者でしたけど、桜庭vsホイスをどういう立ち位置で見ていたんですか? 安西 それはスポーツ報知の記者が読売ジャイアンツを応援するように、東京中日スポーツの記者が中日ドラゴンズを応援するように……(笑)。 ――ホイス大応援だったわけですね(笑)。 安西 ホイスをメチャクチャ応援してましたよ。あの試合の前にさ、ホイスが「時間無制限じゃないと試合をやらない」とかワガママ言ってるなんて話になってたよね。 ――ホイスは完全にヒール扱いでしたよね。 安西 そうやって煽ることでPRIDEにお客さんが入ったんならいいんだけど。ホイスをヒール扱いするのは「おかしい!!」とボクは何度も言ってたんだよ。だって、ホイスは最初から時間無制限じゃないとやらないと言ってるわけでしょ。テレビの都合とかさ、自分たちのルールでやろうとしないとワガママとか、何を言ってるんだって話で。細かいことを言うと、ホイスが出た第1回UFCのトーナメントはラウンド制だったんだけどね。どの試合も1ラウンドの短い時間で終わっちゃったから、ラウンドガールの出番はなかったんだけど。 ――安西さんはPRIDEにおけるホイスの扱いに憤ってたわけですね。 安西 あのときはもの凄く心外だったよねぇ。PRIDEからパンフレットの原稿を頼まれてさ、各選手1ページで俺はホイスの原稿。もう泣きながら書きましたよ! ――くやしくて、くやしくて!(笑)。 安西 うん。 ――さすが“アンザイ・グレイシー”と呼ばれてるだけあって、気分はグレイシー一族そのもの(笑)。 安西 ボクの心臓にはね、ブラジル国旗が入れ墨されてますよ。 ――ハハハハハ! そんな安西さんはホイスと一緒に“グレイシートレイン”で入場するなんて噂もありましたよね? 安西 あー、あれは違う! ぜんぜん違うよ〜!! ――あ、ガセでしたか(笑)。 安西 それはね、大晦日の曙vsホイスのときに谷川(貞治)くんから「安西さん、ホイスと一緒に入場させてあげるから来なよ〜」って誘われたんだけど。 ――なんだか凄く適当な計画っぽいですけど(笑)。 安西 俺はそんなにうまくいくはずがないと思ったんだよ。だって俺は柔術もやっていなし、一族の人間でもなんでもないんだよ。 ――まあ、なんの関係もないですね(笑)。 安西 ホイスだけじゃなくて周囲の人間の確認だって必要なんだからさ。「行ってもいいけど、ちゃんと話を通しておいてくれ」って散々しつこく谷川くんの留守録に入れてたんだけど。ろくに聞いてなくて根回ししてなかった。 ――安西さんのグレイシートレインは幻に終わったわけですね。グレイシートレインに加わってみたかったですか? 安西 いやあ……。それだったらあのトレインを横から見ていたり、取材したほうがいいですよね。取材していてグレイシーは面白い存在だったから。 ――安西さんは90年代初期の『格通』でグレイシー柔術を取り上げる以前は、『週プロ』でUWFを追いかけていたじゃないですか。プロレスが総合格闘技とリンクしていく流れの中でグレイシーに惹かれていったところもあるんですか? 安西 ……そんなことは考えたこともなかった(笑)。ボクはね、『週刊プロレス』にいて、いろいろな事情があって『格闘技通信』に移ることになって。当時は35歳くらいだったんだけど、長年プロレスを見てると冷める時期があるというか、人生にだって冷める時期があって。ちょうどそういう時期で、それは誰にだってあるじゃんってことにしておいてほしいんだけどさ。『格通』でもUWFは取材対象になっていたから、ボクのプロレス心は少しは癒やされていたんだけど。やっぱりプロレスが恋しくて。 ――“プロレス記者”としてありたかったんですね。 安西 なかなか気持ちが吹っ切れないで、悶々としてたというか鬱々としてたんですよ。そうやってボクがやる気をなくしていて困ったちゃん状態のときに、当時『格通』の谷川編集長が「こんな大会がありますよ」ということでデンバーに出張させてくれたんです。 ――その大会が伝説の第1回UFCだったわけですね。 安西 そう。『週刊プロレス』からはケイジ中山さんが来てたけど、ボクは『格通』でカメラも兼任してた。当時はUFCというものがよくわかってなかった。ただ、小説家の夢枕獏さんや一部の格闘技マニアはグレイシー柔術を「グラッシェ柔術」だったかなあ。ちょっと違う呼び方をして注目はしていたんだよ。 ――獏さんや漫画家の板垣恵介さんたちのグループですよね。バーリトゥードを「バーリツーズ」と呼んでいて。 安西 夢枕獏さんたちから「そういうものがブラジルにあるらしい」と谷川編集長は聞いていて。あと『ゴング格闘技』で渋沢くんがグレイシー柔術の記事を書いてたんだよね。白黒の特集記事。それに興味は持っていたんだけど、予備知識はほぼゼロ。そんな状態でデンバーに行ってみたら、いまは亡きエリオさんがいて、長男のホリオンがいた。トーナメントはご存知のとおりホイスが優勝したんだけど、そのときはなぜこの人がシャムロックやゴルドーに勝てるのか意味がわからなかったんですよ。結果的にスルスルと勝っちゃった。谷川編集長から「どうでしたか?」と電話があったときにボクはなんて説明したらいいかわからなかったんだけど。 ――グレイシーの凄さを言語化できなかった。 安西 「凄いんだよ。ガチンコで勝っちゃったんだよ。テレビゲームの世界のように」としか言えない。いま振り返れば、ホイスはごくあたりまえの動きしかしていないんですけど。で、ボクには弟がいるんだけど。その弟がね、ロサンゼルスの日系企業で働いているから帰り際に寄って。それはホリオンの道場がロスにあったからなんだけど。そうしたら弟の家から車で10分程度の距離にあって。弟は日本で空手をやっていたり、プロレスファンだったので、ちょうどいい通訳になってくれて。そのときホイスは旅行中で不在だったんだけど、エリオさんやホリオンにいろいろと話を聞けたんだよ。 ――そうやって『格通』でグレイシー柔術の紹介記事を書くことができたんですね。 安西 そのとき道場の練習を見たんだけど、柔道のように投げてどうこうという練習はしていないんですよ。みんな道着を着て芋虫みたいにゴロゴロと寝っ転がって。道着のシューティング(修斗)のようにも見えるんだけど、当時は何がなんだかわからなかったんだよ、ホントに。「面白かったんですか?」と聞かれたら「何が面白いかわからなかった」としか言えない。 ――いまなら普通に知ってることがわからなかった、と。 安西 たとえば第4回UFCでホイスとダン・スバーンが試合をして、下になったホイスが金網に追い詰められたけど、最後は三角絞めで極めた。試合後にホリオンに「下になったら不利じゃないか。ピンチだと思わなかったのか?」って聞いたんですよね。そうしたらホリオンは目を丸くしちゃって(笑)。「……そこから説明しないといけないのか?」という感じだったんですね。 ――あの当時、UFCのような格闘技イベントがガチンコで行なわれると思いましたか? 猪木さんから始まる異種格闘技戦の流れからすれば、理想の舞台だったわけじゃないですか。 安西 ……どう思ってたんだろ。記憶にないなあ。ガチンコであるかどうかの前に、当時の日本では他流試合をやっちゃいけないもんだと思っていたから。柔道家と空手家が町中で喧嘩をしたら破門になったんだろうし。それが当時の日本の考えで他流試合は夢のような話だったわけでしょ。それにボクはまだプロレス記者上がりだったから、格闘技を見る目が肥えてなかったというか、場数を踏んでなかった。格闘技の記者として修羅場を潜ってなかったから、UFCを見ても、そんなたいそうな思いはなかった(笑)。 ――「歴史的な大会が始まる!」という興奮もなく。 安西 格闘技記者としては毛が生えたというか、毛が生える前の状態だったから、なんと表現していいかわからなかった。会場にはお客さんは全然いなかったしさ、大会自体が続くかどうかわからなかったよね。ボクはそのときにホイスが勝った事実と、彼らの道場を取材してみて、グレイシー柔術が他流試合におけるセルフディフェンスを証明するために長年いろいろとやってきたことがわかったので興味は持てたけども。それがアメリカの格闘家や、ましてや日本のプロレスファン、UWFファンが「面白い!」と評価するのかわからなかった。それでもボクは必死に月2回発行の『格通』でグレイシー記事を書いていたけど、はたして世間に届くかは全然わからなかったです。 ――UFCもグレイシーもまたたく間に広がりましたね。 安西 ボクが感激したのは、地球の裏側のブラジルで、日本人がまったく知らないあいだに道着という日本文化が違ったかたちで根付いていた。日本文化を守って磨いていてくれたことに感動したわけですよ。その存在は日本に伝えたいなという思いはあったけど。グレイシーなんて大したことないとバッシングされたりさ。 ――格闘技マスコミの中にはグレイシー柔術に否定的なところもありましたね。 安西 それは空手や正統派の武道の流れがあったからだと思うんだけど。グレイシーは邪道に見えたのかもしれないですね。当時は空手なら空手を極めるのが日本人の美徳であって、武道はそれぞれの道だったわけでしょ。ほかの武道が交わることはなかったんですよ。でも、交わって相手に勝ってこそ武道じゃないかという概念が出てきて。その場を提供してくれたのがUFCだったから、ボクは俄然面白かったですよね。あと骨法の堀辺(正史)先生が「黒船が来た!」ってことで理屈でサポートしてくれたから。 ――グレイシーは『格通』の看板記事になっていったんですね。 安西 谷川編集長も面白いと思っていたから、ボクの好きにやらせてくれたんだと思う。あるとき弟がホイスを取材したとき「グレイシー柔術のためなら死ねる」と言ったんだけど、ボクはその言葉にピンとこなかったというか、大きな意味があるとは思わなかったんだけど。とくに見出しにしたい言葉がなかったから、見出しにしたら堀辺師範が凄く気に入ってくれたみたいで。「これぞ武道家のあるべき姿だ!」みたいに。 ――『格通』発のグレイシーの言葉って凄く力がありましたよね。ホイスの「兄のヒクソンは俺の10倍強い」が有名ですけど。 安西 あれは『ブラックベルト』という格闘技雑誌の中に、ヒクソンはホイスとホイラーと2対1でスパーしても負けないんだという話があって。そこに「ヒクソンは10倍強い」と書いてあったよと言うので、ボクはそのインタビューの最後にあとがきとして付け足したんです。 ――ハッタリも効いたうえに、実際に強かったんだから取材対象として面白いですよね。 安西 アメリカだと、日本から来た柔道ならともかく「ブラジルから来たブラジリアン柔術ってなんじゃらほい?」ってなるから、宣伝するため道場で他流試合を受けていたみたいなんだよね。そうやってグレイシーは柔術を広めたるために努力をしていたんだなって。そしてUFCというビッグチャンスを掴んだんだけど。 ――外から見ていると、安西さんはUWFに見切りをつけてグレイシーに走った印象があったんですよね。 安西 ボクが? そんなことないよ(苦笑)。あー…………でも、ある人と酒の席で話をしていたら「安西さんはプロレスを捨てて格闘技に行ったと思ったんだけど、根っこの部分はプロレスが残ってるんですね」なんて言われたんだけどさ。ボクはビックリしちゃって。やっぱりそんなふうに思われてるんだ。 ――と思います(笑)。 安西 うーん、グレイシーが取材対象として探れば探れるほど面白かっただけですよ。だって一族が何人いるかもわからなかったしさ。当時は家系図もなかったから、俺が嫌がられながらもしつこく聞いて回って作ったんだよ(笑)。 ――嫌がられながら(笑)。 安西 そりゃあ嫌がられますよ。 ――まあ、一族同士、仲はそんなに良くないですからね。 安西 こっちはそんな事情は知らないからさ。べつにUWFに見切りをつけたというより、グレイシーは底なし沼のように面白かったから。いまにして思えばUWFやゴッチ式、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはレスリングがもとになってるから。上になることは長けていても、下になったなら終わりなんですよ。下から攻めるとか、下から攻められたらどう防御するっていう考えがないので。しかもUWFは寝技の打撃がないでしょ。顔面パンチもない。それだとパウンドありのルールになったら通用しないですよね。その2点は大きいと思ったなあ。あとね、ボクが見てたプロレスのスパーリングって新日本やUWFもそうなんだけど、実力が拮抗してる者同士がやるんじゃなく、強い人と新人クラス、明らかに実力差がある者同士しかやらなかった。 ――実力が拮抗してる者同士のスパーは、新人同士以外はやらないわけですよね。 安西 それがほら、イジメてるわけではないけど、シゴキみたいになって、新人は先輩の実験台になりながらおぼえていったわけでしょ。正道会館勢がリングスに参戦したときに彼らに言われたんだけど、「ウチらは練習仲間とはいえ、いつか試合をするときもある。手の内を読まれるのは嫌だけども、練習のときからガンガンやりあいます」と。ところがプロレスの団体の練習はそうじゃない。 ――腕を競い合う感じではなかった、と。 安西 道場で格下相手に一本を取られたりするのが嫌だったから、先輩は後輩とはやらなかったんだろうけど。あるときからUインターでは桜庭選手、高山選手、金原選手たちが先輩後輩関係なしにやるようになって強くなっていったと思うのね。Uインターはそこから勢いがついたんだと思うんだけど。でも、本当は上の人間だって教わりたかったと思うんですよね、コーチとかがいたら。 ――Uインターとグレイシーといえば、安生さんのヒクソン道場破りの件ですけど、安西さんは現地取材されたんですか? 

【総合格闘技が生まれた時代】元『格闘技通信』名物記者・安西伸一「俺が愛したグレイシー柔術 」

【リアル神代ユウ】佐野哲也インタビュー「格闘技を続けるために警察学校をやめたんですよ」

静岡の超有名アマチュアファイター、佐野哲也。プロレス・格闘技ブログ「スイミングアイ」を運営するブロガーとして、前田日明が主催した不良格闘技イベント『アウトサイダー』に参戦。“リアル神代ユウ”のキャッチフレーズで活躍した。現在はパンクラスに参戦中である。「見る側」、「書く側」、「やる側」という何足ものわらじを履いた男を通して見える格闘技界とは? 【Dropkick今月の更新記事】読み応えたっぷりの中野巽耀、桜田一男、高瀬大樹ロングインタビュー大反響の「阿修羅・原 物語」など多数掲載  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201410■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■非会員でも購入できる大好評インタビュー&コラム詰め合わせセット! part8は大好評インタビュー5本、コラム2本、6万字オーバーが540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634380■元パンクラス社長・尾崎允実が語るU系の深層!「前田日明とも昔は仲は良かったんですよ」■小佐野景弘の「プロレス歴史発見」! 天龍源一郎vs週プロ、SWS崩壊劇を語る!■新日、ジャパン、SWSを流浪した新倉史祐が語る昭和・新日本プロレス道場伝説!SWSの真相!!■大山峻護、引退――PRIDE青春残酷物語「ハイアン、ヘンゾ戦はトラウマになりました……」■MMAオレンジ色の手帖、大好評グルメ記事 「後楽園ホール編」「新宿FACE編」■【UFC秒殺デビュー!!】佐々木憂流迦「才能はないけど、選ばれた人間だとは思いますよ」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402――佐野選手が格闘技をやるようになったのは何がきっかけなんですか? 佐野 最初に興味をもったのはプロレスなんですけど、中学生の頃、『ワールドプロレスリング』が深夜にやってたんですよ。初めて見たときにグレート・ムタvs小川直也の試合が流れていて。 ――ムタが“指”ひしぎ逆十字固めで小川直也に勝った試合ですね。 佐野 そうです、そうです(笑)。レフェリーがアントニオ猪木で。 ――あの試合は97年ですからPRIDE前夜の頃ですね。 佐野 あの当時のプロレスってテレビは夜中しかやってないじゃないですか。プロレスラーもテレビにはそんなに出てなかったし、一般的には馬場さんが『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!! 』に出演していたくらいで。アントニオ猪木はいちおう知ってる。小川直也もオリンピックに出ていたから知ってる。「じゃあこの黒塗りの男は誰だ?」って話になるんですけど、その男がいちばんカッコ良かったわけですよ。レフェリーのアントニオ猪木にいきなり毒霧をかけるわ、試合でも好き放題やって。あの試合が入り口でしたね。 ――そこから格闘技に興味を持つようになったんですか? 佐野 大学生になりまして。埼玉大学だったんですけど、関東だったら格闘技のジムや学生プロレスがあるだろうと思ったんですよ。それでサークル紹介誌を見ていたら、一面プロレスの写真や絵のサークルがあったので入ってみたら全然プロレスとは関係なくて。実際はキックボクシングだったんですよね。 ――騙されて入会したわけですか(笑)。 佐野 そうですねえ。ミットをガンガン蹴らされたりしてサークルにしてはハードでした。そこはキックだけじゃなくて最初は寝技もやってたんです。創始者が和術慧舟會のA3ジムに通ってた方で。そのうちボクは新空手に出場するようになって、空手着を着てK−1ルールで戦うんですけど、空手をやってないのに空手着を持ってましたから(笑)。あとはアマチュアのシュートボクシング。 ――大学の頃から“やる側”だったんですね。 佐野 プロレスのほうが好きだったんですけど、学生プロレスがないならやりようがないので。プロレスは見るものとして楽しむ、格闘技はやるものとして楽しむ、と。 ――格闘技をやり始めると、プロレスから離れていきがちなんですけど。 佐野 ボクの入り口はグレート・ムタだったんで。いわゆるガチだヤオだはどうでもいいじゃないですか(笑)。 ――90年代って多様性がありましたよね。プロレスも格闘技もどちらも見る層がいまよりも多くて。 佐野 ボクも両方見てましたからね。大学の英語の先生が「おまえ格闘技やってるのか?アントニオ猪木は本当に強かったんぞ!!」と力説されたんですけど。実際に強かったと思うんですけど、その頃はPRIDEもやっていてから、格闘技とは違うものとしてプロレスは楽しんでいましたね。 ――当時はK−1も絶頂期ではありましたね。 佐野 あー、大学に入る前はK−1も見てましたね。あとシュートボクシングにも憧れはありました。漫画の『修羅の門』ってあったんですけど、そこにシュートボクシングのキャラが出ていたので。 ――大学卒業後に地元の静岡に帰らず、東京に残って格闘技をやるという考えはなかったんですか? 佐野 格闘技は続けたかったんですけど、もともと警視庁に就職するはずだったんですよ。でも、警察学校に入ってみて考えが変わりまして。この環境で仕事をやりながら格闘技を続けるのは厳しいかなあ、と。警察をやりながら格闘技をやってる方もいるんですけど。たとえば静岡県でいえば関根秀樹選手。 ――ヘビー級のシュレック関根選手ですね。 佐野 でも、ボクはそこでスパッと切り替えて警察学校をやめて、地元で就職することにしたんです。それで格闘技も続けよう、と。 ――それはおもいきりのある決断ですねぇ。格闘技のために警察学校をやめるという経歴は青木真也選手と同じですけど。 佐野 そうですね。もちろん仕事というのは、生活をしていくうえでベースになるんですけど「なんのために仕事をするのか」といえば、生きていくためと、やりたいことをやることだと思うんですよ。 ――それが佐野選手にとっての格闘技だった、と。 佐野 関東のほうでも就職を考えたんですけど、地元で戻ることになって。ちょうどその頃、和術慧舟會駿河道場が沼津にオープンしたので入会しました。格闘技に人生を懸けるわけではないんですけど、継続は力なりで、格闘技を継続できる環境があるのは重要だと考えたんですね。 ――格闘技をやる環境作りっていろいろとありますよね。ジム経営、スポンサー獲得、ファイトマネーだけの生活。佐野選手のような道もある、と。 佐野 アマチュアSBで大学のときに優勝したので、仕事をしながらアマチュアSBには継続して出ていこうかな、と。駿河道場は総合のジムではあったんですけど、寝技はとくにいいやって感じで。五味(隆典)選手の名言じゃないですけど「寝技はゴチャゴチャしてわかんねーや」っていうのがあったんで(笑)。 ――就職後もアマチュアSBだけに出られてたんですね。 佐野 だから迷惑なくらい優勝してるんですよね。7回くらい(笑)。 ――アマチュアSB永世名人(笑)。 佐野 シーザー(武志)さんも「いつもありがとうな」って感じで言われてまして。 ――プロのSBに上がらなかったのはなぜですか? 佐野 プロはやっぱり強いので(笑)。 ――アマチュアSBに出続けることで飽きが出てきたりはしませんでした? 佐野 それもあって総合に出ることにしたんですよ。ジムではグラップリングも教わってたんで「出てみようかなあ」と。最初に出たのが新宿でやったアマチュアDEEP。当初は韓国人選手とやるはずだったんですよね。 ――いきなり国際戦だったんですね。 佐野 そうしたら当日対戦相手が来なくて。試合のために静岡から来たのに「相手がいないの!?」って困ったんですけど。で、当時ボクは77キロ級だったんですけど、一階級下の70キロ選手が2試合受けてくれると。その選手が吉田道場の選手で国体2位の中村謙作選手で。当日に試合が決まって、体重差もあったんでボクが勝ったんですけど。そういう縁もあるので中村選手のことは陰ながら応援させていただいてます(笑)。そのあと『アウトサイダー』に出始めたんです。このインタビューの続きと、中野巽耀、高瀬大樹、阿修羅・原、桜田一男、佐伯繁、しなしさとこのインタビューも合わせて読める詰め合わせセットはコチラ!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar654402 

【リアル神代ユウ】佐野哲也インタビュー「格闘技を続けるために警察学校をやめたんですよ」

【喧嘩日本一見参】“ケンドー・ナガサキ”桜田一男インタビュー「SWSは全部で99億円使った」

「喧嘩をやらせたら日本で一番強い」と言われたプロレスラー、桜田一男。大相撲からプロレスに転身。ナメられたらオシマイのアメリカマットでトップの地位を確立し、「ケンドー・ナガサキ」などのリングネームで暴れまわった。そして“金権プロレス”と批判されたメガネスーパーのプロレス団体「SWS」設立に深く関与。同団体崩壊後も当時メガネスーパーの社長だった田中八郎氏との密接な関係は続いたという。そんな桜田一男の怒涛のプロレス人生を14000字のロングインタビューで追った!【Dropkick今月の更新記事】読み応えたっぷりの中野巽耀、高瀬大樹ロングインタビュー大反響の「阿修羅・原 物語」など多数掲載  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201410■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■非会員でも購入できる大好評インタビュー&コラム詰め合わせセット! part8は大好評インタビュー5本、コラム2本、6万字オーバーが540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634380■元パンクラス社長・尾崎允実が語るU系の深層!「前田日明とも昔は仲は良かったんですよ」■小佐野景弘の「プロレス歴史発見」! 天龍源一郎vs週プロ、SWS崩壊劇を語る!■新日、ジャパン、SWSを流浪した新倉史祐が語る昭和・新日本プロレス道場伝説!SWSの真相!!■大山峻護、引退――PRIDE青春残酷物語「ハイアン、ヘンゾ戦はトラウマになりました……」■MMAオレンジ色の手帖、大好評グルメ記事 「後楽園ホール編」「新宿FACE編」■【UFC秒殺デビュー!!】佐々木憂流迦「才能はないけど、選ばれた人間だとは思いますよ」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402――ここのサイトの読者は「喧嘩が強い」プロレスラーのお話が大好きなんです。  桜田 フフフフフ。弱いよ、俺は。負けたから。 ――大日本プロレス時代に出られたバーリトゥードのことですね。47歳という年齢でよく出られましたよね。 桜田 あれは(グレート)小鹿が決めた企画だから。40代はキツイよ、やっぱり。いちばん元気な30代じゃないと。掴まえたら極められたんだろうけど、パンチの練習もしてなかったし。 ――あの企画の流れでブラジルにも行かれてたりしてましたよね。 桜田 1ヵ月くらい行ってたね。向こうで山川(竜司)が試合したんだけど。ブラジルは凄いよ、治安が悪くて、よくオリンピックをやるなって。「すぐそこで誰かが撃たれた」という話も聞いて。 ――あのときは平(直行)さんら総合格闘家も一緒でしたね。 桜田 あー、誰か来てたな。おぼえてないけど。危なくてひとりで便所に行けないとか騒いでたよ。俺は海外が慣れてるからなんとも思わなかったけど。 ――さすがですね(笑)。ヒクソン(・グレイシー)に会われたことはおぼえてますか? 桜田 会った。山川が出た大会はヒクソンがプロモーターだった。スポンサーがいなくなってお金がないから最後の何日かホテルを変えてくれって言われたな。練習場にも行ったけど、向こうのガキは小さい頃からやってるんだもんね。あれは強くなるよね。 ――桜田さんはマルコ・ファスの道場でスパーリングされたんですよね? 桜田 やったよ。グラウンドは負けなかった。強い奴がいたな。新日本で来てた奴。 ――武藤(敬司)さんと伝説の格闘技戦をやったペドロ・オタービオですね(笑)。話はさかのぼって、桜田さんは相撲からプロレスに転身されたわけですが、のちに全日本プロレスで一緒になる天龍(源一郎)さんやロッキー羽田さんとも角界で面識はあったんですよね。 桜田 知ってたよ。まさかあとでプロレスで一緒になると思わなかったけど。あの頃は相撲をやる人間がいっぱいいたんだよ。 ――相撲は花形スポーツでしたよね。いまは、なり手が少なくなってますけど。 桜田 ウチの立浪部屋だけで60人くらいいたから。やめてく人も多かったけど。1日でやめたりね。 ――いまは指導法が問題になってたりしますが、当時はとんでもなく厳しかったんですよね。  桜田 しごき、凄かったよ。いまだと大問題になってみんなやめちゃう。俺も何度も「つらい」と思ったけど、実家が北海道だし、帰るに帰れないから。そんな中でもイジメられる奴と、そうでない奴に分かれるんですよ。 ――桜田さん、イジメられなさそうですね(笑)。 桜田 うん。俺はイジメられない。どこに行ってもイジメられる奴っているじゃないですか。会社や学校だったり。 ――桜田さんが相撲をやめたのは、部屋内のイジメを止めたことがきっかけなんですよね。 桜田 そうそう。若い衆が入ったばっかの新弟子をイジメたから、俺が怒ってぶん殴ったんだよ。そのやりとりを見てた女将さんが親方に報告して。親方が俺にブツブツ文句を言うから「もうやめる」って。あっちは縦社会だから、説明したってダメだから。でも、何度も止められましたよ。いいところまで行ってたからね。 ――相撲に未練はなかったですか? 桜田 永源遙(日プロ→新日本→全日本→ノア)っていたじゃん。あの人は立浪部屋にいたから、遊びに行くと「いつ相撲をやめるんだ。プロレスをやろう」とか煽られてね。それでやめることになっちゃった。少しは相撲に未練はあったんだけど。 ――プロレスが魅力的に見えたところもあるんですか? 桜田 プロレスは自由に見えたよね。アメリカとかあちこちに行けるし。相撲は親方になってもずっと部屋にいなきゃならない。そういう自由はないじゃないですか。 ――それで永源さんの繋がりで日本プロレスに入られて。 桜田 練習はキツかったよね。やったことないことをやるから、やっぱし。でも、やってくうちにおぼえていったよ。その頃は山本(小鉄)さんと大坪(飛車角)さんというコーチがいて、練習には厳しいけど、普段は優しかった。当時一緒に練習していたのは藤波辰爾、キラー・カン、佐藤(昭雄)、シンガポールから(ドナルド・)タケシという奴が来てた。キラー・カンはいっつも泣かされていたよ。イジメられる役なんだよ、アイツは。藤波は練習も真面目だからイジメられない。キラー・カンは真面目じゃなかったから。それで永源さんなんかにいっつも怒られて、すぐ女のところに逃げちゃってた。あだ名が「オバケ」だったよ。身体がオバケみたいに大きかったから。 ――日本人離れした身体ですもんね(笑)。 桜田 あのときは永源さんや藤波、キラー・カンとか5人くらいで八百屋の2階のアパートに住んでいたんだよ。場所は三軒茶屋。部屋は3つあって、永源さんがひとつの部屋でベッドで寝てて、あとの部屋に俺たちが布団を敷いて寝てた。 ――永源さんは先輩だから別格なんですね。 桜田 永源さんが「タクシー!」と言ったら、みんなでタクシーを拾いに行ったよ。あの当時タクシーはなかなか拾えなかったから、誰が拾うか勝負だったよね。 ――桜田さんは上田(馬之助)さんの付き人だったんですよね。 桜田 そう。上田さんはちょうどアメリカから帰ってきたばっかだった。キラー・カンは吉村(道明)さん、佐藤は馬場さん、藤波は猪木さん。俺が上田さんだったけど、何も用事がないんだもん。付き人として凄く楽。ほかはみんな大荷物だけど、上田さんは荷物も小さいしさ。優しい人だったよ。仕事はちゃんとやるけど。 ――上田さんは仕事もできたうえに、ガチンコも強かったんですよね。 桜田 何回もやったことあるけど、メチャクチャ強いよ。猪木さんも強いです。猪木さんと上田さんは用事がないかぎり道場で来て練習してたから。馬場さんは来なかったけど。 ――そこはイメージどおりですね(笑)。当時“柔道日本一”という触れ込みで日プロに入団された坂口(征二)さんはどうでした? 桜田 坂口さんはあんまり強くない。でも、引っ張る力は凄かったね。あの身体でロープ登りしちゃんだからビックリしたよ。同じ柔道でいえばアントン・ヘーシンクも引きつける力は凄かった。 ――柔道五輪無差別級の金メダリストですね。 桜田 俺がプロレスを教えたけど、ヘーシンクにガッと引きつけられたら動けないんだから。でも、プロレスセンスがなかったね。 ――話を戻すと、上田さんはそんなに口うるさくない先輩だったんですね。 桜田 うるさいのは大木金太郎。あとユセフ・トルコもうるさい。 ――トルコさんはたしかにうるさそう(笑)。 桜田 試合が終わったらタクシーで旅館まで帰るじゃない。タクシーを呼ぶのは若い衆の仕事なんだけど、トルコは「タクシー!タクシー!!」って騒いでうるさいんだよ。早く来なかったら怒って大変だし。性格的にあんまり好きじゃなかった。悪いことばっかやってたし。悪いよ。凄く悪いよ。 ――三度も繰り返すほど悪いですか(笑)。 桜田 トルコは猪木さんや上田さんとくっついてた。 ――幻に終わった日プロクーデター計画のメンバーですね。 桜田 上田さんが全部バラしちゃったけど。 ――どうして上田さんは猪木さんを裏切ったんですか? 桜田 それは知らないけど。「猪木と一緒にクーデターをやるはずだった」ってことを芳の里さん(当時の日本プロレス社長)にバラして。その内幕を原稿用紙10枚くらいに書いてきたんだよ。上田さん、字が凄くうまいから。 ――「こういう計画を猪木が企んでいる」と。 桜田 選手全員集められて、上田さんがその原稿を読み上げて。みんなビックリしたよ。芳の里さんたちがゴルフをやってるあいだに、猪木さんと上田さんが会社を乗っ取ろうとしてたんだよ。 ――事務所に乗り込んで手続きなんかをしてしまおう、と。日プロのエースだった馬場さんは知ってたんですか? 桜田 馬場さんも知らない。だからみんな反発したよ。やっぱり乗っ取られるのは嫌じゃん。自分たちのやりやすいようにやられちゃうかもしれないから、みんな反発した。猪木が事務所に来たら叩きのめせってことで、5〜6人で待ってたんだよ。でも、来なかった。 ――猪木さんは先輩ですけど、やりづらくなかったですか? 桜田 やるとなったら仕方なかった。 ――な、なるほど(笑)。 桜田 グレート小鹿、キラー・カン、サムソン・クツワダもいたのかな。藤波はアッチ(猪木派)だから。 ――当時のプロレス界はかなり儲かってたから利権争いの面もあったんですよね。 桜田 あの頃は凄かったよ。どこで興行をやっても満員満員で。ハンパじゃないです。客が押し寄せて、大阪府立体育館の前にあった大きな鉄柱が折れ曲がったから。切符が売れ切れで「金を払うから入れてくれ!」って頼んでくる客もいたし。 ――それに日本テレビとNET(現・テレビ朝日)でテレビ中継していたわけですもんね。 桜田 テレビが2局ついてたから。事務所は代官山の一等地にあって、そこに寮も作って俺たちが住んでいたし。でも、経理の遠藤幸吉が売り上げを勝手に持って行っちゃうんだよ。 ――昭和のどんぶり勘定経営ですねぇ(笑)。 桜田 吉村さんも毎晩、会社の金で銀座で飲んでるんだもん。いっつも呼び出されてさ。「桜田、銀座にいるから来いよ!」って。そこで初代・若乃花とよく飲んだもんだよ。「おまえは有望株なのになんで相撲をやめたんだよ」なんて言われてね。 ――猪木さんはそんな乱脈経営をなんとか糺したかったんですね。 桜田 そうそう。 ――猪木さんは新日本、馬場さんは全日本を立ち上げて、日プロに残っていた坂口さんも新日本に合流しますよね。 桜田 あんときは揉めたな。キラー・カンと大城(大五郎)、木村健悟、坂口さんが新日本に行くとなったとき揉めた。 ――坂口さんたちが日プロ最後の試合のとき、桜田さんはシングルマッチでその大城さんをボコボコにしたという。 桜田 まあ最後の試合だったから。 ――やっちゃえ!と(笑)。 桜田 レフェリーの田中米太郎も向こうに行くことになってて「桜田、やめろ!」って止めるんだけど、まあやめなかったよね。 ――それは制裁的な意味もあったんですか? 桜田 うん、そうだね。 ――そ、そうですか。 桜田 大城もイジメられ役だったんだよ。俺が強いことを知ってるから手を出してこなかったね。震えてるだけでやられっぱなし。顔がすげえ腫れてたよ。坂口さんたちは試合が終わったら、会場からバタバタバタっていなくなったもんな。 ――桜田さんは新日本や全日本に行こうと思わなかったんですか? 桜田 俺は行こうとは思わなかった。芳の里派だったから。でも、上が大木金太郎だったから、なんだかんだ揉めるんだよな。 ――大木さんとは合わなかったですか? 桜田 うん。大木金太郎は変わってるし、自分本位。他人のことを考えないから。それに大木金太郎、上田馬之助、グレート小鹿がトップだから興行をやっても客が入らない。そのうち力道山の奥さんと話をして全日本と半々でやるという話だったけど、馬場がマッチメイクするからそんなわけにはいかない。結局、全日本に吸収されちゃったんだけど。 ――外様の桜田さんからすると、全日本の居心地はよくなかったんですか? 桜田 うん。上田さんと海外に行くということになって。一緒にマルベル堂でプロフィール用の写真を撮ったんだけど。それなのに上田さんはひとりでアメリカに行っちゃったんだよ。何も言わないで。理由はわからない。 ――桜田さんの初渡米は、相撲から転身したばかりの天龍さんと一緒だったんですよね。 桜田 馬場さんに頼まれて天龍と一緒にアマリロに行ったんだよ。馬場さんは「最初だけ面倒を見たらあとは好きにしていいぞ」ってことでね。天龍はプロレスに入ったばっかで何もわからなかったから。アイツをボディスラムで投げたら立ってこれなかったもんな。「こんなに痛いのか」って。天龍も最初は大変だったよ。向こうではぜんぜんメシが食えない。プロモーターはできるレスラーしか使わないから、一週間にいっぺんくらいしか仕事がない。 ――海外は自分の力で生きていかないといけないんですね。 桜田 自分でやっていくしかない。使ってもらわないとお金にならない。当時は使ってくれるところはいっぱいあったんだけどね。 ――天龍さんも食えるようになったのはだいぶあとだって言ってましたね。 桜田 最初の2ヵ月は俺と一緒だったんだけど、ひとりになったら何もわからないじゃない。俺は日本にいた頃ガイジン係だったから、だいたいのレスラーのことは知ってたんだけど。 ――そういう繋がりがアメリカで活きたんですね。当時のアメリカはどのマーケットも好況だったから稼げたんじゃないですか。 桜田 週1000ドルは稼げた。1ドル250円の時代だよ。 ――いい時代だったんですねぇ。トップ中のトップだったアンドレ・ザ・ジャイアントやリック・フレアーはとんでもなく稼いでいたんでしょうね。 桜田 彼らはもっと稼いでいたよ。アンドレなんか凄い稼いでいた。 ――アンドレが出る興行はいつも満員だから、ほかのレスラーのギャラも上がったといいますもんね。 桜田 ギャラは興行収益のパーセンテージだからね。アンドレが出ればお客がたくさん入るから、ほかの選手のギャラも上がる。アンドレは試合が終わると、バンの後ろに乗って250〜300mlのビール瓶を2ケースくらい飲んでたな。あれは凄かった。 ――怪物ですねぇ。 桜田 俺も稼いでいたけど、ホテル代は日本と違って自分持ちだからね。あとガソリン代はみんなと車を乗り合いしてたから割り勘だったし。 ――向こうは移動移動の連続で、車を持ってないと仕事にならないんですよね。 桜田 俺も最初は車を持ってなかったんだよ。テキサスにいたとき、ディック・マードッグにルイジアナに呼ばれて、そこで1年間カール・コックスのパートナーをやってた。あのときはカール・コックスの車に乗って動いてたんだよ。どこに行くのも一緒ですよ。24時間カール・コックス。 ――ハハハハハハ! 桜田 あのときカール・コックスからいろいろと教わったよ。プロレス界のわからないこともいろいろと。どうやったらお客をヒートさせることができるのか。勉強になった1年だったね。 ――そうやってアメリカマットで生きていく術を身につけて。 桜田 2年目からはひとりで移動しなくちゃならなくて新車を買ったんですよ。国際免許も取りに行ったんですけど、上田さんが一緒に来てくれて。でも、読めないじゃん、英語の文は。交通標識はわかるんだけど、よくわからない。「できるまでやっとけ」って試験管がいなくなるから、上田さんに聞いたり、隣の人間の答えを見たりね。 ――それ、絶対に合格しますよね(笑)。 桜田 それでも合格しない奴もいるんだけど。それでなんとか免許を取って車も買って、あとテキサスのダラスに自宅を買ったんですよ。3000万くらいしたかな。500坪の家だよ。 ――それくらい稼いでたんですねぇ。いまでいうと日本人野球選手がメジャーリーグで稼ぐ感じで。 桜田 あの当時は野球選手もアメリカに来てないから。あとから野茂英雄が来たけど、俺がアメリカに渡ったのは77年だから。ダラスの家はもう売っちゃったけど、グーグル(のストリートビュー)で見るといまでもあるんだよ(笑)。 ――便利な時代ですね(笑)。当時は日本人ということでナメられたりしたんじゃないですか。 桜田 そんなレスラーはいっぱいいましたよ。「ジャップ!」って見下してくるんだ。ただ、俺は負けないから。 ――力で黙らせたわけですね。 桜田 何回も喧嘩になったよ。ナイフを出してくる奴もいたけど、「刺せるもんなら刺してみろ!」って。 ――うわあ……リング上でもそんなことはありました? 桜田 いるよ。そういう奴は絶対に許さないから。もう大変だよ(淡々と) ――ホント大変そうですね(笑)。一度、叩きのめしたら噂になって手を出してこないんじゃないですか。「サクラダを怒らせるとマズイぞ……」と。 桜田 そうそう。だからギュと言わせないとダメだよ。 ――ギュッと(笑)。 桜田 それは興行を守るためでもあるんだよ。だってトップなのに強いイメージがないとお客が来ないでしょ。 ――ヒールなのに下のレスラーにナメられたらおかしいですね。リング内外で言うことを聞くように“指導”するんですね。 桜田 いや、リング外はいいんだよ。リングの中でちゃんとしてればね。俺がトップということがお客にわかるようになれば。プロレスラーがナメられちゃいけないというのはそういう理由もあるんだよね。「この野郎!」と思ったら下っ端なんかバッカンバッカンやるからね。徹底的にやるよ、俺は(淡々と)。 ――ハハハハハハ! 桜田 いるんだよ、ナメた奴が。日本人のことをバカにする奴が。 ――当時は観客も怖かったと聞きますよね。熱くなっ客がレスラーをナイフで刺そうとしたり。 桜田 何回も喧嘩したことあるよ。カルガリーで客をぶん殴ったら、怒った客が集団で待ってるんだよ。ガードマンが「外は危ない」って言うから裏口から帰ったよ。プエルトリコなんかもっと凄いよ。客が木刀を持って会場の外で待ってるから。 ――プロレス観戦に木刀持参って(笑)。 桜田 子供はみんな石を投げてくるし。危ないから5人くらいガードマンがつくんだよ。向こうの人間は正義感が強いんだろうね。ヒールが許せない。石をリングに投げられまくって試合どころじゃなんだから。 ――あまりにもプエルトリコの客が危ないから、スタジアムで興行をやるときはグラウンドに客を入れなくなったとか聞きますもんね。 桜田 それくらいプロレスは人気があった。毎週回るんだよ、同じ会場を。それでも客は入るんだから。 ――プエルトリコといえば、やはりブルーザー・ブロディ刺殺事件ですけど……。 桜田 刺されたとき同じ会場に一緒にいたんだよ。武藤(敬司)と(ミスター・)ポーゴもいた。ポーゴはベビーフェイスだから向こうの控室にいたんだけど。リングドクターが「ブロディが刺された」と言うんだよ。最初は客に刺されたと思った。 ――そんなに客のガラが悪かったらそう思いますよね。でも、実際は現地プロモーター側のホセ・ゴンザレスに刺されて。 桜田 ブロディは悪かったもん。金の面で相当、悪かった。 ――以前、新倉(史祐)さんに取材したときに「ブロディは刺されてもおかしくないことをやってた」と言ってましたね。→ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634380 桜田 俺もブロディと揉めたんだから、試合で。俺とポーゴが組んで、向こうはブロディとロッキー・ジョンソン(ロックの父親)。試合にならなかったんだから。 ――いったい何があったんですか? 桜田 ブロディが俺の竹刀で暴れたりなんだりして。それにアイツは「ジャップ!」って俺たち日本人のことを下に見るから。「俺のほうが偉いんだ!」ってプライドが高いんだ。 ――それで桜田さんがやっつけたんですか? 桜田 そうそう。 ――ブロディを! 桜田 うん。焦ったブロディは「ストップ、ストップ!」って言うんだけど、まあ止まんなかった。このインタビューの続きと、中野巽耀、高瀬大樹、阿修羅・原、佐野哲也、佐伯繁、しなしさとこのインタビューも合わせて読める詰め合わせセットはコチラ!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar654402 

【喧嘩日本一見参】“ケンドー・ナガサキ”桜田一男インタビュー「SWSは全部で99億円使った」

【王道参戦記念】“力道山三世”力のセーバーチョップの部屋「ドラゴンクエストを語る」

力道山三世、今度はドラゴンクエストを語る! 昨年プロレスデビューをはたした「プロレスの父」力道山の孫・力(ちから)。全日本プロレスにも初参戦する力の必殺技「セーバーチョップ」は、彼の愛する映画スターウォーズシリーズのライトセーバーにちなんでネーミングされており、Dropkickチャンネルでもスター・ウォーズ愛が溢れるトークを披露。その模様は→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar534228今回は無双形式で発売される「ドラゴンクエスト」についてセーバーチョップしてもらった!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■非会員でも購入できる大好評インタビュー&コラム詰め合わせセット! part8は大好評インタビュー5本、コラム2本、6万字オーバーが540円!! ■元パンクラス社長・尾崎允実が語るU系の深層!「前田日明とも昔は仲は良かったんですよ」■小佐野景弘の「プロレス歴史発見」! 天龍源一郎vs週プロ、SWS崩壊劇を語る!■新日、ジャパン、SWSを流浪した新倉史祐が語る昭和・新日本プロレス道場伝説!SWSの真相!!■大山峻護、引退――PRIDE青春残酷物語「ハイアン、ヘンゾ戦はトラウマになりました……」■MMAオレンジ色の手帖、大好評グルメ記事 「後楽園ホール編」「新宿FACE編」■【UFC秒殺デビュー!!】佐々木憂流迦「才能はないけど、選ばれた人間だとは思いますよ」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402――国民的RPG『ドラゴンクエスト』が10年ぶりにプレイステーションにカムバックして、来春発売される『ドラゴンクエストヒーローズ』はナンバリングではないですが“無双”形式のアクションRPGになるようです。というわけで、マット界イチのゲームマニアと言われる力選手に話を伺いに来ました! 力 その前に説明させていただきますと、以前インタビューでお話したスター・ウォーズと違ってドラクエに関してはマニアではありません。自分ごときがマニアを名乗ると、ドラクエマニアの方に失礼になってしまうじゃないか、と。 ――スター・ウォーズはマニアの自負があるわけですね(笑)。どこからがマニアになるんですかね。 力 そうですねぇ。セリフ集サイトや研究サイトを運営されてる方や、低レベルクリアを目指してる方はマニアになるんじゃないですかね。ドラクエはRPGですのでレベルアップがゲームクリアの手段のひとつになるわけじゃないですか。レベルが上がればラスボスなんかも簡単に倒せちゃうわけですけど。そこをあえて低レベルで進行させる方はたくさんいらっしゃいますので。 ――力選手は低レベルクリアをやったりしないんですか? 力 自分はできるだけレベルを上げて安全に進めるタイプです(笑)。攻略サイトや攻略本を読まないでクリアするというのも難易度が高いですよね。ウチの父(百田光雄)がドラクエがもともと大好きでして。1作目の頃からやってますから、自分より早かったんですよ。 ――1作目の発売は1986年。ドラクエのRPG革命は天龍革命以前のことになりますね(笑)。 力 父がまだ全日本プロレスの頃、試合が終わって家に帰ってくると、自分が寝てる横でテレビを付けて夜遅くまでドラクエをやってましたから。 ――ドラクエ好きはお父さんの影響はあるんですね。 力 スター・ウォーズもそうですし、ドラクエはウチの父との共通の話題です。父は攻略本や攻略サイトをほとんど見ないんですよ。たまにどうしても詰まってしまうときに「ここはどうやるんだ?」って聞かれたりしますけど。 ――ボクは攻略本がないとドラクエはできなかったです(笑)。 力 ウチの父は攻略サイトなしでやってるから、プレイ時間だけでいえば、自分より長いと思います。あとゲームボーイでドラクエの「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」が出て、DSで「Ⅳ」「Ⅴ」「Ⅵ」、3DSで「Ⅶ」がリメイクされてるじゃないですか。携帯機でドラクエができるようになってから、父はどこへ行くにもドラクエを持ち歩いてるんですよ。 ――ヒマさえあればドラクエですか(笑)。 力 全日本やノアの巡業バスの中でも延々とドラクエをやってたみたいですね。巡業中に1作クリアするペースで。 ――力選手のお気に入りはどのナンバーですか? 力 作品としての盛り上がりでいえば、「Ⅲ そして伝説へ…」の終盤からエンディングにかけてですかね。魔王バラモスをやっと倒したと思ったら、その上に大魔王ゾーマがいて、Ⅰ・Ⅱの舞台アレフガルドにたどり着いて、死んだと思っていた主人公の父オルテガと再会できたのに目の前でキングヒドラに倒されてしまって、そこから主人公がキングヒドラ、バラモスブロス、バラモスゾンビを倒してゾーマと対決する……その一連の流れは興奮しましたねぇ。 

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怪我、夫の自殺……シングルマザー涙の復活!キャット・ジンガノ■MMA Unleashed

Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回は怪我でTUFコーチとタイトルショットという大役を逃し、夫の自殺という不幸に見舞われながらカムバックを果たした女子ファイター、キャット・ジンガノ不屈のファイター人生! キャット・ジンガノ(32)は丸1年半を棒に振った。「この1年半に、自分でも把握しきれないくらいに、たくさんのことがありすぎた。私の周りの世界も私の人生も、すっかり変わってしまった──」 ジンガノは2013年4月にミーシャ・テイトを下してUFC女子バンタム級のトップコンテンダーの座を勝ち取った。これによりTUF18にコーチとして出演し、その後ロンダ・ラウジーのタイトルに挑戦するという運びとなるはずだった。しかしTUFの撮影開始直前の練習中に、右ヒザの前十字靭帯を負傷、結局TUF出演とタイトルショットの大役はミーシャ・テイトの手に渡る。 右ヒザの再建手術を2013年の夏にうけたジンガノだったが、右足をかばって過ごしていたために左ヒザも故障、10月に両ヒザに幹細胞注入と血小板療法を行った。春の復帰を目指して練習していた2014年1月、夫でありコーチでもあるマウリシオ・ジンガノが自殺してしまう。 不運の連続、受け止めがたい事態の連打に見舞われながら、ジンガノはどうにか体勢を立て直し、再び戦うことを選んだ。息子であるブライデン君の存在があったからだ。  

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