• このエントリーをはてなブックマークに追加

2014年7月の記事 26件

【単品販売】木村浩一郎に鶴巻伸洋、川尻達也、骨法の祭典! インタビュー詰め合わせセットpart6

非会員でも購入可能! 単品購入できるインタビュー詰め合わせセット! part6は大好評インタビュー6本立て税込み540円!! これまでの詰め合わせセットはコチラ大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ2本立て!・木村浩一郎「FMWとリングスで俺はこの業界をナメてしまったんですよ」・W☆ING発、リングス行き! 「足首鳴ってんどー!!」鶴巻伸洋の怪しい格闘家人生頑張れ!川ちゃん!!・川尻達也、3度目の網膜剥離……「復帰できるかはわかりませんが、悪あがきはしますよ」骨法ネタも充実!・【骨法の祭典2014】ヤノタク×中川カ〜ル「俺たちが愛した喧嘩芸骨法」・ 小林聡・野良犬の哲学「選手もプロモーターも群れてちゃ面白くないんですよ」・2014年のUWF――中村大介「それでもボクはUスタイルで戦い続けます」90年代のプロ格シーンを検証する「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ。今回語っていただくのはサブミッションアーツレスリングの王者の肩書きを引っさげてプロレス界に登場した木村浩一郎だ。FMWでプロレスデビューした木村浩一郎は、インディ団体W☆INGを経てリングス参戦という異次元な流浪をはたして、そこで物議を醸す初試合を行なった。そしてバーリ・トゥードジャパンでのヒクソン・グレイシー戦、猪木UFO軍団との遭遇、伝説のプロレス団体WJと、他に類を見ない格闘技人生を歩んできた。数々の逸話から垣間見える、腕っぷしの圧倒的自信とともにあの時代を振り返ってみよう。 木村 なんでいまさら俺のインタビューなの?  ――90年代総合格闘技を振り返るインタビューシリーズをやってまして木村さんのお話を聞きたかったんですけど、連絡先がわからなくて。 木村 もう昔の連中とはぜんぜん連絡を取ってないんだよ。 ――それで元・骨法の北條(誠)さんにインタビューをしたら木村さんと接点があるようだったので連絡先をうがかいました。取材するにあたって昔の木村さんのインタビューを読み返したんですけど、けっこう踏み込んでますよね。 木村 俺のインタビューが? ――「これは表に出していい内容なのかな……」って感じで(笑)。 木村 そんなに凄いことを言ってた?(笑)。そういえば、そのインタビューがもとで◯◯さんに文句を言われたんだよな。ぜんぜん気にしなかったけど。だって何も知らない外部の人間が言ってるわけじゃないからね。当事者が言ってるわけだし。 ――木村さんは90年代のプロレスや格闘技どちらにも深く関わってますよね。 木村 どうなんですかね。そこは意識してたわけじゃなくて自分が好きなことをやってただけですから。 ――そもそもあの当時大学生がプロレスデビューするって異色だったじゃないですか。 木村 そうですよね。さきがけですよね(笑)。でも、最初に出たのは格闘技だけど大道塾なんですよ。北斗旗に個人エントリーしたのが始まりで。高校のときにレスリングをやってて沖縄国体で3位とかになったけど、大学に行ってまでレスリングをやろうとは思ってなかったんです。それはなぜかというと頑張ってもオリンピックに行けるわけじゃないから。高校で必死こいてやったのに大学でまたつらい思いするのはイヤだったし。それで大学にいた頃、たまたま大道塾の北斗旗があってルールで投げが許されている。「これは俺でもいけるんじゃないか」ってことで個人エントリーしたらオッケーになって。 ――通るもんなんですね。 木村 そこでのちに俺が関わるサブミッションアーツレスリングの麻生(秀孝)さんが大道塾と業務提携してたじゃないですか。麻生さんは俺と同じ大東文化大学出身だから大学つながりということもあって、書類を見た東(孝)先生が麻生さんに相談したら「面白そうだから出してみれば」という裏話があったんです。そんなことで俺の名前がメディアに初めて出たんですよ。 ――それは大学何年生のときですか? 木村 大学1年か2年かな。1989年。それでのちに中量級で優勝する酒井(修)という選手と一回戦で闘ったんですけど。俺が案の定タックルで持ち上げたり投げたりして打撃はぜんぜん食らわなかったんですよね。でも、旗判定で俺の負けになったんです。そうしたら会場中からブーイングが起こって。 ――この判定はおかしい、と。 木村 代々木第二の会場。俺も判定に納得いってなかったんですよ。ダメージを負わしてるのになんで負けなんだ?と。それで本部席の東先生に食ってかかったんです。 ――あの東先生に! 木村 そうしたら横にいた麻生さんが「面白い奴だな。ウチに来ないか」ってことでサブミッションアーツレスリングに行くようになったんですよ。 ――当時のプロレスファンにはサブミッションアーツレスリングは馴染み深いんですけど。あれってどういうスポーツだったんですか? 木村 組み技の集大成です。ポイント制で帯を付けて、相撲でいうところの押し出しのルールもあって。「ここが崖だったら死んじゃうだぞ」というか。そこで3連覇させてもらったんですけどね。で、その頃、麻生さんと大仁田(厚)が闘う話があったんですよ。 ――それも凄い話ですね(笑)。 木村 それはいつのまにか立ち消えになったんだけど、そこから「FMWに出てみる?」っていう話になって。大学の夏休みに1シリーズだけ出ることになったんですよね。それがプロレスデビュー。 ――プロレスの練習はされてたんですか? 木村 ぜんぜんやってない(笑)。 ――あらら。麻生さんとのつながりがあるとはいえ、プロレス未経験の大学生をよく出しましたね。 木村 だってその頃のFMWは素人みたいなのがいっぱい上がっていた時代じゃないですか。それで一週間で9試合やったかな。最終戦でリー・ガクスーのベルトに挑戦して負けるというね。その試合レポートが『ゴング』と『週プロ』で1ページ載ったんですけど。それが姉貴に見つかっちゃって親父に怒鳴られるという(笑)。「おまえは大学に行って何をやってるんだ!?」と。 ――家族からすればビックリしますよね(笑)。 木村 FMは1シリーズとはいえ、いろいろありましたよ。最終戦の茨城で(ターザン)後藤と徳田(光輝)がリング上でガチケンカしたり。 ――何があったんですか? 木村 何があったかは知らないですけど、お客さんが見えないところまで来たら普通は収まるじゃないですか。でも、控室に戻ってきてもやめないからみんなで止めたんですよ。 ――ターザン後藤さんってFMWの現場監督ですよね? 木村 FMWの長州力じゃないですけど、そんな感じ。それで9試合いえどもプロレスをやってみて、俺が思い描いていた世界とは違ったんですよね。もうちょっとちゃんとした世界だと思ってたんですよ。 ――中を覗いてみたら幻滅しちゃったんですか。 木村 サブミッションアーツでチャンピオンになって格闘技が強いという触れ込みだったけど。俺はプロレスが初めてなのに何も教えてくれないし、やってる人たちもプロレスというものを軽々しく扱ってる感じが伝わってきたんですよね。ちょっと力を入れれば後藤に泣きつくバカもいて。「木村が本気でやってきた!」とか意味がわからないですよ。だって身体を張るのがプロレスラーでしょ。急所を外してもバチバチやるもんだと思ったんですけどね。だからリー・ガクスーと試合をやってたほうが楽しかったです。アイツもバチバチくるし。 ――プロレスの基本がない格闘家同士ということもあって。 木村 そうそうそう(笑)。当時のFMってスパーやっても誰も俺にはかなわなかったし、後藤は俺と一切スパーリングをやらなかったですね。俺のことを知らない◯◯◯は勘違い野郎で、当時俺の身体が細かったから「スパーやろう」と言ってきて。まあガチガチにイジメてやりましたけどね。 ――木村さんってイケイケですね(笑)。 木村 やっぱ弱い奴にえらそうにされたくないんですよ。 ――ちなみにFMWのギャラってどれくらいだったんですか? 木村 1試合、税金1000円天引きの9000円。お金に関してもそんなに魅力はないじゃないですか。初っ端が新日本とかちゃんとした団体だったら、ちゃんとプロレスに向き合ってたかもしれないですけど。FMだったからプロレスをナメてしまったところはあったんでしょうね。いま振り返ってみて俺はこの世界を2回ナメてるんだなって。1回目はFMW、2回目はリングス。長井(満也)戦ね。 ――リングスの長井戦は卒業試験を控えて練習してなかったのにそこそこ健闘してしまったという。 木村 あの試合は大学の卒業試験前でぜんぜん練習できなかったんですよ。それなのに毎日練習してる長井と互角に闘えたことでナメちゃったんですよね。俺はそこで負けたらリングスジャパンに入る気持ちはあったんです。イチから格闘技をやろうかな、と。でも、蓋を開けてみたら「……なんだよ、リングス」って感じで。 ――しかし、FMW、W☆ING、リングスという流れも凄いですよね。しかも大学生がですよ(笑)。 木村 大学生なのに発言が物議をかもしましたからね。「格闘プロレスは簡単だ。プロレスのほうが難しい」ってことを『ゴング』のインタビューで言ったんですよ。プロレスを馬鹿にする奴がいるけどやってみろ、と。当時は修斗や格闘プロレスがプロレスにいろいろ言ってたじゃないですか。俺はプロレスも格闘技も両方やったから、プロレスの難しさがわかるんですよ。だってUWFとか格闘プロレスは基本スパーリングだから。 ――当時UWFはどう見てたんですか。 木村 ファンの頃はUWFをガチだと思ってましたね。俺が高校2年から大学1年くらいのときがUWF絶頂期で。前田さんが裏アキレスでジュラルド・ゴルドーに勝ったでしょ。でも、あのかたちを何度やっても極まらないんですよ。そのへんで「何が違うのかな。わざと外してるのかなあ」と考えてたんですけど。でも、実際にサブミッションアーツレスリングに入って勉強したらすべてわかって。 ――当時は格闘プロレスの人気は高かったわけですから、そういった発言は勇気が入りますね。 木村 U系絡みの人からはいろいろ言われましたよ。だって格闘プロレスを否定をしてるわけだから。でも当時は格闘プロレス全盛だったかもしれないけど、俺らに普通のプロレスを求める時代でもあったじゃないですか。俺は「それはできない」と言ったんです。もっと練習を積んで人様に見られても恥ずかしくなかったらやるけど。当時の俺は格闘色は出してましたしね。 ――W☆INGでは齋藤彰俊さんと徳田さんの3人で「格闘三兄弟」という触れ込みでしたね。 木村 齋藤彰俊あの人もトンパチだから(笑)。俺より年上なんですけど、初対面の第一声が「木村くん、寝技より打撃のほうが強いと思うんだ」って言われたんです。それでカチンときちゃって(笑)。俺は寝技のエキスパートという触れ込みだったじゃないですか。だからスパーでバチバチ極めたんですけど。俺の場合はタックルでもできるから打撃を怖がらないで踏み込めたんですよね。いまでいう総合格闘家の走りみたいなもんで。 ――レスリングベースで関節もできるプロレスラーはほかにご存知でした? 木村 当時はいないんじゃないですかねぇ。修斗にはいっぱいいたんでしょうけど。それにいまみたいにメジャーとインディが交流することもないから、よくわかってない人はいっぱいいましたよ。WJに行ったとき◯◯は俺のことを知らないから「スパーリングやるぞ」と言ってきて。そ足払いしてから腕十字をあっという間に極めてやったんですよ。それ以来、俺とは一切スパーをやってくんなかったす。WJといえば、安生さんとやったときはヤバかったあ……。安生さんはホント強かった。 ――さすがUWFのポリスマンですね。 木村 当時は安生さんは前田さんを殴った件の流れがあったから、リングスに上がってた俺のことを「前田派」と呼んでたんですよ(笑)。噂で「安生さんは凄い強い」と聞いてたんですけど、実際に自分でやってみないとわかんないから「お願いしま~す!」とふざけた感じでやってみたら、もうね、ことごとく返された。ヒョイヒョイと。強かったなあ……(しみじみと)。安生さんの悪口言う奴がいるんだったらやってみって。あんなヘラヘラしてて本当に強いんだから。 ――話は戻りますけど、どういう経緯でリングスに参戦することになったんですか? 木村 第2次UWFが三派に分裂して前田さんはひとりになっちゃったでしょ。それで日本人のスパーリングパートーナーを探してたみたいんですよ。その頃、リングスには治郎丸(明穂)さんという方がいて。 ――当時前田さんのブレーンだった方ですよね。 木村 次郎丸さんはサブミッションアーツレスリングの名前を付けたりして、麻生さんとのつながりがあったんです。それで麻生さんを通してスパーリングパートナーの打診をしてたんですよ。でも、麻生さんはそれを俺に一切知らせてくれなくて。そんとき俺はW☆INGに上がってて、それで麻生さんにもお金が入ってたから。 ――麻生さんはマネジメントとしての立場があったんですね。 木村 それで大学に歩いて行くときに友達の家に寄ったら、近くのコンビニに偶然、次郎丸さんがいたんですよ。そうしたら凄く怒ってて。「こっちはおまえのことを思って推薦してるのに。前田もオッケーしてるんだから」って。こっちはそんなこと知らないからビックリですよ。 ――大スターの前田日明が待っているとは思いませんよね(笑)。 木村 そうそう(笑)。そんなことで晴れてサブミッションアーツレスリング所属としてリングスに参戦したんですよ。 ――リングスデビューはグロム・ザザ戦ですよね。 木村 そこで俺が◯◯◯を破ったという話になったんだよね。 ――デビュー戦からとんでもないというか……(笑)。昔のインタビューだと次郎丸さんに命令されたことになってますけど。 木村 そうそう。次郎丸さんに騙されたというか。試合開始30分前くらいに「浩ちゃん、今日はコレで行っちゃって」って言われて。 ――30分前に(笑)。 木村 「前田には話を通してあるから」ってことで。 ――それってザザは知ってるんですか。 木村 いや、知らないですよ。 ――……それ、よくやりましたねぇ。 木村 俺も当時若くてイケイケだったから。いま思えばザザがゴルドーみたいな奴だったらヤバかったですよね。 ――修羅場になっていたというか。 木村 いま思えばだよ。だって仕掛けちゃったのは俺なんだから。 ――でも、ザザはヒカルド・モラレスをバーリ・トゥードで封印しちゃうくらいのオリンピックレスラーですよね。そんなに大物に大学生が仕掛けるとか何をやってるんだって話で(笑)。 木村 ホント笑っちゃうよね(笑)。ホントにイケイケだったんだなあ……。 ――それは格闘プロレスはあまりやる気がなかったこともあるんですか? 木村 というわけでもないよ。次郎丸さんから「やれ」と言われたからやっただけで。もともとUWF好きの前田日明ファンだったんだから。 ――競技じゃなかったことに不満はなかったんですね。 木村 自分でどう消化したのかどうかは忘れたけど、結局スパーリングみたいな試合をやってもお客さんは喜ばないから。そうことじゃないですか。試合では技術は見せる。いざとなったら刀は抜けるけど、お客の前では試合内容で満足させる。だから俺はいまでもお客を呼べる奴がいちばん強いと思ってるから。でも、やられたらやる。仕掛けられたら仕掛ける。これは俺が当事者じゃないからわからないですけど、橋本真也が小川直也にやり返すことができたら、ひょっとしたらあの試合はどうなっていたかはわからないじゃないですか。そこはハートの強さが求められるわけだし。 ――小川直也が橋本真也にシュートを仕掛けたと言われる“1・4事変”ですね。 木村 俺はザザ戦後に前田さんから40分お説教(笑)。マジで。まさか次郎丸さんに言われたとは言えないから、そこは黙ってて。だって前田さんの怒りは尋常じゃなかったから。 ――主催者からすれば許される行為じゃないですね。 木村 でも、俺はそう言われたからやっただけで。試合中に熱くなってキレたわけじゃないから。 ――ザザはどうでした? 木村 力が凄く強かったですよ。最後ネルソンをやられてバキバキって音が鳴りましたから。それで「死んじゃう!」と思ってギブアップしたんですけど。でも、ザザがいちばん面食らったんじゃないですか。 ――そりゃそうですね(笑)。 木村 ザザが片足タックルに来たところに頭を押さえてヒザをドカーンと入れましたから。 ――……よ、容赦しなかったんですねぇ。 木村 こっちだって行かないと。 ――レフェリーはどんな反応だったんですか。 木村 そこは次郎丸さんがちゃんと言ってた。 ――次郎丸さんはどういう意図があったんですかね。 木村 ガチをやりかった。それだけでしょ。 ――それでコントロールできる木村さんを指名して。 木村 じゃないですか。若林(太郎)さんは俺とザザの試合を見てリングスに入ったんですよ。 ――のちに修斗の番頭と呼ばれる若林さんですね。 木村 リングスの初期は次郎丸さんと若林さんとふたりでいろいろやっていて。あのふたりは大学の先輩後輩だから。若林さんがまだ電通にいる頃、次郎丸さんが「ガチでやるから」って言ってたけど、若林さんは「そんなことはありえない」と思って見に来たら俺がザザと第一試合からホントにやってて。だからよく言われますもん。「浩ちゃんがあそこでガチをやんなかったら電通をやめなかったよ」って。 ――そのあとの木村さんの試合はどうだったんですか? 木村 そのあとの長井戦もガチだし、実験リーグもガチだし、外人との試合もガチだし。俺の試合は全部ガチですよ。でも、俺らばっかガチなのは不満があってやめたんです。それでこんなにギャラが違うなんて馬鹿らしいよねってことで。 ――リングスジャパン勢との技術交流はあったんですか? 木村 ないす。俺はずっとサブミッションアーツレスリングで練習してて。試合前にロシア人とスパーはやってましたよ。ヴォルク・ハンとかメチャクチャ強かったなあ。あと合同練習でヴォルク・ハンが突然トップロープに上がって「イノキスタイル!」って叫んでたんですよ。そうしたら前田さんが「ノーノー!ノー、イノキスタイル!」って止めててのは凄い面白かった(笑)。 ――プロレスといえばそういうもんだと思ってたんでしょうね(笑)。 木村 で、さっきも話した長井戦は4年生の卒業試験前だったから。当時はバブル真っ只中でリングスのギャラもよくて、この試合で秒殺されたらリングスジャパンに入ろうかななんて考えてたんですよ。試験勉強ばっかりしてたし練習はできてなかったし。それでも戦えちゃんだからどうなのかなあって。しかも当時のリングスはバーリ・トゥードじゃなかったけど、俺がずっと上だったからね。タックルでぶっ倒して極めきれなくてスタンドに戻されて。それが22歳のときでしょ。その1~2年後だからね、バーリ・トゥードが出てきたのは。ヒクソン戦は25歳のときだけど。 ――リングスで続けたい気持ちはなかったんですか? 木村 もういいやって。お金もある程度もらえたし、夢もかなえたし。まあいろんな経験できたことだけでも面白かったんですけどね。そこそこ認められたこともあって、格闘技オリンピックで前田さんとエキシビジョンマッチもやらせてもらえたじゃないですか。あれは寝技はガチ、立ちはプロレス。それで前田さんに極められなかったから、そこでまた勘違いしちゃったんですよ……。 

【単品販売】木村浩一郎に鶴巻伸洋、川尻達也、骨法の祭典! インタビュー詰め合わせセットpart6

【所英男、ベラトールと電撃契約!!】スコット・コーカー「一般視聴者に対してMMAの面白さを訴えることができる偉大なファイターだ」

逆境ファイター所英男がアメリカの大手MMA団体ベラトールと契約! ベラトールといえば、アメリカの巨大複合メディア「バイアコム」を後ろ盾にして、世界最大のMMA団体UFCを追走中。最近首脳陣が入れ替わり、元ストライクフォース代表のスコット・コーカーが代表に就任。日本の格闘技界とも縁のあるコーカーということもあり(こちらの記事を参照)日本人選手獲得の可能性が取り沙汰されていたが、第一弾がジャパニーズMMAを代表する格闘家との契約となった。今回の所英男の契約の背景を当ブロマガではおなじみ、山本KIDや堀口恭司ら多くの日本人選手のマネジメントを務める石井史彦氏に語っていただいた。 7月度更新インタビュー&コラム一覧 【過去記事詰め合わせセット・各¥540で販売中】最新part5 地獄の合宿から前田日明襲撃事件まで!山田学が無謀な冒険を続けた理由/元・骨法の内弟子・北條誠「矢野くんも皆さんも骨法を誤解しています」/骨法黎明期を知る男、漫画家中川カ〜ルが見た骨法変節の瞬間/中村和裕がPRIDE崩壊後に見えたもの――「悲惨だな、俺には何も残ってないなって思いましたね」 part1 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」/朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー   part2 菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」/矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」 part3【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」/小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」 part4①エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」/ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る/平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」/クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★スコットは即決でした。「所英男ならすぐに契約しよう――!!」――石井さん、このたびベラトールと電撃契約した所英男選手について聞かせてください。 石井 はい。所選手はですね、VTJで判定を巡っていろいろとあったじゃないですか。 ――所選手サイドは判定結果を不服としてVTJから事実上の撤退をしましたね。 石井 あの頃、所選手は周りの人間を通してUFCに契約の提案をしていたそうなんですね。結局VTJで負けてしまってたことで目標を失ない。格闘技そのものへの愛情も失いかけていたようなんです。私はあるきっかけで所選手と会う機会があってやる気を出させるためにも「もう一度UFCを狙ってみよう!」ということで海外マネジメントをすることになったんです。それで9月のUFC日本大会までに1試合勝てば、契約の可能性はゼロではないと踏んだんですよ。 ――ああ、9月のUFC日本大会出場を狙ってたんですね。 

【所英男、ベラトールと電撃契約!!】スコット・コーカー「一般視聴者に対してMMAの面白さを訴えることができる偉大なファイターだ」

「日本大会幻の水垣vsクルーズ」「日本人女子UFC契約第2号は?」/シュウ・ヒラタのMMA地獄耳

日本人UFCファイターランキング最高位・水垣偉弥などをマネジメントするシュウ・ヒラタ氏が、世界のMMAシーンをわかりやすく解説! 先日、シュウ氏がゲスト登場した『Dropkickニコ生』配信の模様を再構成してお届けいたします! 「UFC日本大会で幻に終わった水垣vsドミニク・クルーズ」や「日本人女子UFC契約第2号の行方」、そしてUFCに導入される「ユニホーム制度」とは何か――? 7月度更新インタビュー&コラム一覧 【過去記事詰め合わせセット・各¥540で販売中】最新part5 地獄の合宿から前田日明襲撃事件まで!山田学が無謀な冒険を続けた理由/元・骨法の内弟子・北條誠「矢野くんも皆さんも骨法を誤解しています」/骨法黎明期を知る男、漫画家中川カ〜ルが見た骨法変節の瞬間/中村和裕がPRIDE崩壊後に見えたもの――「悲惨だな、俺には何も残ってないなって思いましたね」 part1 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」/朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー   part2 菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」/矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」 part3【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」/小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」 part4①エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」/ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る/平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」/クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法  ――アメリカのシュウさん、聞こえますか~? ヒラタ もしもし、大丈夫です。    ――シュウさんの話はいつもマニアックで面白いという大反響ですので、今日もよろしくお願いします。 ヒラタ ありがとうございます。しゃべれる範囲で(笑)。   ――はい(笑)。本日7月18日現時点で佐々木憂流迦選手がUFCと契約するというニュースが流れています。憂流迦選手はシュウさんがマネジメントしていると聞いていますが、どんな進捗状況なんでしょうか。 ヒラタ じつはついさっきサインした契約書をズッファに送りました。 ――あ、そうなんですか! ヒラタ 1時間半ぐらい前に確定しましたね。8月23日のUFCマカオ大会でデビューします。 ――しかし、来月とは急な話ですね。 ヒラタ そうなんですよ。5週間前と緊急オファーになるんですけれども。要は佐々木選手とはずいぶん前からUFCとの契約に向けてやりとりをしていて、UFCのマッチメーカーであるショーン・シェルビーとも話をしてたんですけれども。佐々木選手は修斗の世界タイトルを取ってケジメをつけてから海外を狙おうという感じだったんです。それが最近になって彼のほうでも心変わりがあったらしくて。UFCに行けるんだったら行きたいという話になったので、そこから交渉を再開したんです。 ――UFCとしてはウエルカムだったんですか? ヒラタ はい。話を受けてショーン・シェルビーも試合枠を探し始めたんですよ。ただですね、いまはどの階級も選手枠がいっぱいなので、新規契約したくないがUFCの考えなんですけれども。ケガで誰かが欠場したりして試合枠が突然空くことがあるわけなんですよ。なので、5~6週間前のオファーでも受けられるように体重調整を常にしておかないと、いまのUFCと契約するのは難しいんです。憂流迦選手の場合は、たとえば今回の8月を急すぎるということで断ってもいいんですけれども、次にいつ試合ができるか保障がなかったんですよ。本来ならば9月や10月のほうが理想なんですけれども、11月とか12月にズレ込むようだと憂流迦選手の試合感覚が空いちゃうじゃないですか。 ――どこかでもう1試合くらいやっておきたい感じですね。 ヒラタ 憂流迦選手はいま頻繁に試合をしているので、そのモードのままUFCに行ったほうがいいんじゃないかなってことで。 ――憂流迦選手には日本版TUF出場の話もあったんじゃないですか? ヒラタ 当然あったでしょうね。けど日本版TUFはまだ詳細も明らかにされていないので。現時点で言えるのはバンタムとフェザーの2階級のリーグ戦。リーグ戦はAとBに分けて4人総当りさせて、AとBの勝者が優勝決定戦を行なう。そのフォーマットは変わるかもしれませんが、一番みなさんが興味があるのは選手の選択だと思うんですよね。 ――そうですよね。 ヒラタ 基本的にはパンクラスやDEEPの団体さんの協力も得ると。たとえばパンクラスだったらチャンピオンの石渡伸太郎選手、DEEPは大塚隆史選手が絡んできて、残りはオープントライアウトでピックアップできると面白いんじゃないかなと思うんですよね。 ――今回の日本版TUF計画にはどんな思惑を感じますか? ヒラタ 正直なところ、代理店の電通さんがしっかり力を入れているなと感じます。今回で3回目ですし、何かムーブメントを起こさなくてはいけない表われが日本版TUFだと思うわけですよ。基本的には電通さんにがんばっていただかないと、日本ではUFCをやれなくなってしまう現状はあると思うんですよね。TUFはテレビ局がつかないと成り立たないプログラムなんですよね。ですから、協賛会社が「はい、これ制作費と番組枠買い分ね」みたいな感じでポーンとお金を出してくれることがなければ、現在の日本で、北米や南米と同じTUFをやるのは不可能だと思うんです。だいたいTUFなんて日本の視聴者たちのあいだでは無名、つまりブランドバリューはないわけなんで。それに、TUFにしてもアメリカやブラジルでやっているようにファイターをひとつの家に住まわして、携帯などをすべて没収して外部との接触を2ヶ月断ち切らすとかって日本では難しいと思うんですよね。 ――ちょっと厳しいですね。ヒラタ ですから今回は電通さんが頑張って日本版TUFという企画を進めたんだと思うんです。けどUFCが要求するやり方に対応し、UFCという会社のカルチャーに従いながらも、日本という市場も把握しなが動かないといけないんで、それは一介のファイトプロモーターよりも、代理店やメディア・カンパニーの仕事だと思うんです。ここで一つ面白い話があるのはTUF優勝者の契約って、普通の新規よりも長期契約のうえにギャラアップ率が悪いんですよ。 ――あ、そうなんですか(笑)。 ヒラタ じつはそうなんです。TUFは超人気番組なんで、そこで選手のことを有名にしているわけだからという理由もあるので。その一番いい例がこのあいだバンタム級でチャンピオンになったTJディラショーですよ。彼はTUF出身ですけど、同じ階級の水垣(偉弥)選手のほうが2万ドル以上も稼いでいますからね。 ――怖いですね、契約社会。 ヒラタ ただTJの場合はチャンピオンになった翌日にUFCのオフィスに呼ばれて契約をし直したしたらしいですから。それは当然だと思いますけど(笑)。 ――その水垣選手も大一番が決まりましたね。元王者のドミニク・クルーズ戦。これをクリアすればチャンピオンシップですか? ヒラタ 水垣選手の上にランキングしているのはユライア・フェイバーとラファエル・アスンサオくらいしかいません。ですから本来なら対アスンサオでも良かったとは思うんですが。ユライアはこないだタイトルにチャレンジしたばかりですし、ドミニクは負傷のためタイトル返上を余儀なくされた大スター選手ですから。ランキング的にはトップ10から外れてますけど、水垣選手が今回ドミニクに勝てばタイトル挑戦できる可能性は非常に高いと思うんです。あとは水垣選手の世界市場での人気、そしてファンだけでなく一般社会での認知度をもっともっと上げるのはどっちの試合か? となると、やっぱりクルーズだと思うんですよね。ファイトスタイル的にはアスンサオの方がやりやすかったかもしれないですが、最終的に決めたのは水垣選手自身なんです。 ――この試合は日本大会で行われる噂もありましたけれども。 ヒラタ 水垣選手本人は「どこでもいい」って言ってたんですよ。ボクはぶっちゃけ「ハントvsネルソン下ろしてこっちをメインに」とお願いしてたんですけれども。だって元世界チャンピオンのクルーズとやるわけですし。 ――しかも挑戦者決定戦の意味合いもありますし。 ヒラタ だけどクルーズっていうのはアメリカではスターですし、勝った選手がタイトルマッチに進む可能性は非常に高いわけじゃないですか。タイトルマッチのPRを含めて考えると、PPV大会のメインカードでやったほうがいいんですよね。 ――今回の日本大会はファイトパス中継で全米の放送はなしですね。 ヒラタ それでもボクとしてはやってもいい思ってUFCに働きかけたので。やろうと思ったのは真実ですよ。前例を作ってやろうと思ったんですよ。ネット中継の大会だろうがタイトルマッチをやったっていいじゃないかと。 ――ファイトパス大会の価値を高めますしね。 ヒラタ こういうことをいうとUFCが怒るかもしれないけれど、スポンサー営業をしている我々からしたら、ファイトパスの大会って最悪なんですよ(苦笑)。  

「日本大会幻の水垣vsクルーズ」「日本人女子UFC契約第2号は?」/シュウ・ヒラタのMMA地獄耳

2014年のUWF――中村大介「それでもボクはUスタイルで戦い続けます」

21世紀にUWFにこだわる男、中村大介が北千住に格闘技ジム「夕月堂」をオープンした(入会金無料キャンペーン中!)。中村大介といえば、一本勝ちを追求し、常に動き続ける回転体で数多くの名勝負を生んできた。しかし、現代MMAにおいてUスタイルは勝つためにには不必要なもの、非常に効率の悪いものとして“絶滅危惧種”と化している。そんな時代にいまでも中村大介がUスピリットを持ち続けられる理由とは?   7月度更新インタビュー&コラム一覧 【過去記事詰め合わせセット・各¥540で販売中】最新part5 地獄の合宿から前田日明襲撃事件まで!山田学が無謀な冒険を続けた理由/元・骨法の内弟子・北條誠「矢野くんも皆さんも骨法を誤解しています」/骨法黎明期を知る男、漫画家中川カ〜ルが見た骨法変節の瞬間/中村和裕がPRIDE崩壊後に見えたもの――「悲惨だな、俺には何も残ってないなって思いましたね」 part1 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」/朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー   part2 菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」/矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」 part3【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」/小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」 part4①エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」/ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る/平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」/クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法  ――ちょっと前にオープンした中村大介選手のジム『夕月堂』ですが、名前のイメージどおり内部はちょっと和風な作りなんですね。 中村 はい(笑)。そこは狙ってやってるんですけど。ちゃぶ台のあるスペースではくつろいだり、練習が終わったらビールを飲んだり。 ――すぐにピンとこなかったですけど、夕月堂の「夕」はUWFのUなんですね。「月」は……。 中村 「Uが好き」っていうダジャレです。それで夕月堂です(笑)。 ――あ! 言われて気が付きました(笑)。 中村 ハハハハハハ。 ――「月」はどういう意味なんだろうっていろいろと考えちゃったんですよね。中村選手の師匠・田村(潔司)さんがパトリック・スミス戦直前に「月になる男」というコピーで『週プロ』の表紙を飾ったことがあったから、それも関係してるのかなとか。 中村 ああ、それもあるんです(笑)。いろんな意味があって。 ――中村選手はここ北千住にお住いなんですか? 中村 この付近ではないんですけど。北千住で育ったんです。なのでジムをやるなら地元でやりたいと思ってて。 ――いま都内は“格闘技ジム戦争”ですよね。 中村 北千住駅の反対側には宮田(和幸)選手のジムがあるんですけど。まだ宮田さんにご挨拶をしていなくて(笑)。ジムに入会してくれた方は地元の方が多いですよね。 ――ジム経営の基本は地元密着ですね。 中村 いまだとわざわざ電車に乗って通うのは難しいですよねぇ。ボクが北千住に住んでいたときに神奈川のU-FILE CAMPまで週3回通ってましたけど。あの頃は都内にそんなに格闘技ジムはありませんでしたし。 ――ジム経営はいつ頃から考えていたんですか? 中村 引退後にはやりたいなって思ってたんですけど。実際に選手としてやってるときに出すことになったのは、以前U-FILEの赤羽ジムを任されてたんですけど、そこを閉めることになったんですよ。そこからバイトを始めたんですけど。 ――それまでジム指導員として生活されてたんですね。 中村 はい。ちょうどその頃に子どもが生まれまして。働きながら現役を続けていこうと思ってたんですけど、そうすると仕事が忙しくてだいぶ格闘技から離れちゃったんですよね。 ――築地市場で働いてたんですよね? 中村 あ、そうです。朝の仕事なら昼間に練習ができるかなっていう考えで。朝は築地、昼は出稽古に行ったりしてたんですけど、かなりシンドくて。甘い考えでした(笑)。 ――どんなスケジュールだったんですか? 中村 仕事は築地場内の配達なんですけど。小型トラックで場内を行き来して。早朝4時から11時くらいまで働いて。そのまま練習して家に帰って寝たりしてました。 ――どれくらいの期間そんな生活スタイルだったんですか? 中村 それは1年半くらいですね。時期でいうとDEEPで岸本(泰昭)選手や北岡(悟)選手と試合をしていた時期で。実際あのときは格闘技で結果は出せなかったですし、格闘技と生活をうまく両立させるには、ジム経営がいちばんいいんじゃないかって。 ――人生の転機って就職、結婚、出産になりますね。 中村 ボクもそんなに深くは考えてないんですけど、子供が生まれて変わったと思います。そのためのジム設立だったりしますし。ボクら世代で結婚や出産を経験してる選手もいたり、上の選手だと引退する方も多くなってるじゃないですか。ただ、ボクは選手同士のつながりがほぼないので、そういった話はまったくできてないんですけど(苦笑)。 ――Uはやっぱり孤高なんですかね(笑)。 中村 U-FILEの中にもほかの選手と交流してる人はちゃんといたんですけど、孤高のイメージはありますよね。そんなかでもボクは引きこもってたんで(笑)。あと「周りは敵だ!」という意識も強くて。いずれは試合をするかもしれないのであんまり仲良くできないという気持ちがあったんです。みんな敵というかライバルというか。それで外部と交流しなかったら、こんなにつながりのない人間になっちゃって。 ――反面やりやすさはあったんじゃないですか? 中村 そうですね。それはあったと思います。もともと性格的にうまく人間関係を広げられるタイプじゃないし。一時期言っていたのは「U-FILEの練習だけで世界に勝ちたい」と。そこの意地があったからここまでやってこれたところはありましたし。 ――中村選手はUWFの初期衝動を持ったままMMAで闘ってる選手のひとりですよね。90年代プロ格直撃世代の代表というか。 中村 ああ、ありがとうございます。光栄です(笑)。 ――でも、いまの時代だとUは完全に傍流だからこその意地もあるんですか? 中村 それはありますよね。いまの流れに染まりたくないという思いは強いです。でも、ここ最近は結果は出ていないので悩んでるところであるんですけど。このまま行くのか、それとも……。ただ、いま変えるなら10年前からそうしていればよかったんでしょうし。 ――Uにこだわったからきたからいまの中村選手があるわけですよね。 中村 ホームランか三振かみたいなほうが面白いですね。まだまだ理想は遠いですんですけど。 ――そんな中村選手がUにハマったきっかけはなんですか。 中村 UWFインターナショナルですね。その前は新日本プロレスが好きだったりして、プロレスは物心がつく頃から見てたんです。それで高田(延彦)さんのことは知ってたんですけど。ある日、テレビを見ていたらUインターで高田さんが北尾(光司)さんが試合をしてて。「あの高田選手がいまはこんなものをやってるんだ」ってそこからです。 ――あの試合はいままでのプロレスとはまたカラーが違いましたよね。 中村 あの試合はラウンド制でしたし。それにあの北尾さんの巨体をハイキック一発でなぎ倒して。あれは衝撃というか、誰でもUインターのファンになると思うんですよ。 ――通常のプロレスではありえない特殊な結末で。 中村 そこからUインターのファンになったんですけど。某新聞で毎大会10組20名のチケットプレゼントをやっていて、応募すると毎回当たるんですよ(笑)。いちばん多いときで友達8人で行きました。のちのち聞いたら応募してる人には全員に送ってたらしいですね。 ――そのおかげでいまの中村選手がある感じで(笑)。 中村 毎月武道館に行ってましたね(笑)。その頃は中学生でしたし、Uインターのやることって中学生の心を鷲掴みにするんですよね。賞金1億円を積んだりとか(笑)。 ――ベイダーを呼んできたりUらしからぬ面白さもありましたね。 中村 田村さんの試合で好きなのはベイダー戦なんですよ。いちばん興奮した試合ですね。どう見てもベイダーはデカくて怪物じゃないですか。それを田村さんがキックで追い詰めていって。Uインターが好きになったきっかけは高田さんだったんですけど、すぐに田村潔司ファンになってしまって。当時若手の成長株と言われて、なんかもう存在感が違いましたね。 ――ストロングスタイルの見地からすると田村さんって理想のプロレスラーですよね。強くて試合も面白くて。 中村 そうなんですよね。とにかくカッコいい。U-FILEに入会してから10年以上いさせていただきましたけど、いまだに田村潔司ファンです。最近はお会いできていないですけど、お会いすると「お、田村潔司だ! カッコいいなあ!!」ってウットリしちゃいますよね(笑)。 ――ハハハハハハ! 田村さんってフォルムが変わってないですよね。 中村 ああ、変わってないんですよねえ(しみじみと)。いまだに若いですし、ああいう大人になりたいですよね。いま田村さんは45歳でボクとは10歳くらい違うんですけど。ボクが10年後あんなふうに身体をキープできてるかどうかはわからないですよね。  

2014年のUWF――中村大介「それでもボクはUスタイルで戦い続けます」

WWEスーパースターへの茨の道、KENTAの冒険始まる■MMA Unleashed

Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回はプロレスネタでお届け! WWE入りしたKENTAの立ちはだかる3つの壁! 7月12日、WWE大阪大会のリング上で、ハルク・ホーガンとジミー・ハートに迎えられる形で、KENTA(35)のWWE入りが正式発表された。 一昔前までは思いもつかないような、歴史上初めての、日本のメジャー団体エースのWWE移籍である。90年代にWWEは小橋建太に興味を示したこともあったが、小橋が実際にNOAHを蹴って海を渡るなど、メンタリティとしてあり得ることではなかった。 WWEにしても、これまでなら180パウンドの日本人選手の獲得に興味を示すはずもなかった。獣神サンダーライガーでさえ、WWEのレーダーにはかかることはなかった。しかしWWEでは来年にも日本でWWE Networkをスタートする予定であり、現在では日本人のトップスター選手を必要としている。 KENTAはさしあたっては、WWEのファーム団体NXTに所属することが発表されている。これに伴いCSチャンネルJ-Sportsでは、NXTの日本での放送開始を発表している。 WWEが前回、小柄な外国人選手をファンファーレで迎え入れた事例には、ミスティコ(WWE入団後のリングネームはシン・カラ)がある。WWEはメキシコで人気が高く、アメリカ国内にもメキシコ系の住民は多いため、メキシコのトップベビーフェイスの入団は、KENTA入団と比べても、よりビッグなニュースであった。しかし結果からいえば、WWEでのシン・カラ売り出しは失敗に終わった。そもそもCMLLとアメリカのプロレススタイルの差が大きかった上に、母国でセレブ的な存在であるシン・カラはエゴを棄てられずスタイルを合わせようとしなかったとされる。WWEも、シン・カラをいきなり本戦で起用し、移行期間を設けなかった。シン・カラがまるで英語を学ぼうとしなかったことも問題だったとされる。  

WWEスーパースターへの茨の道、KENTAの冒険始まる■MMA Unleashed

【キッズ・リターン】 小林聡・野良犬の哲学「選手もプロモーターも群れてちゃ面白くないんですよ」

ギスギスした男が帰ってきた!? 「野良犬」の異名で一時代を築き、引退後は全日本キックのGMとしてシーンを支えていた小林聡。全日本キック消滅後はキックから遠ざかっていたが、このたびKrushを主催するグッドルーザー運営のキックイベントZONEのGMとして現場復帰することに。ZONEの旗揚げ戦は11月9日(日)後楽園ホールで行われる。現役時代はキックボクシングに拘りK−1に背を向け続けた小林聡。ZONEではどんな世界観を築き上げるのか。プロとしてのあり方やその哲学をうかがった(聞き手/橋本宗洋) 7月度更新インタビュー&コラム一覧 【過去記事詰め合わせセット・各¥540で販売中】最新part5 地獄の合宿から前田日明襲撃事件まで!山田学が無謀な冒険を続けた理由/元・骨法の内弟子・北條誠「矢野くんも皆さんも骨法を誤解しています」/骨法黎明期を知る男、漫画家中川カ〜ルが見た骨法変節の瞬間/中村和裕がPRIDE崩壊後に見えたもの――「悲惨だな、俺には何も残ってないなって思いましたね」 part1 中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」/朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」、他インタビュー   part2 菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所だった」/矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」 part3【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」/小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」 part4①エロマンガ家・師走の翁が語る「JKリフレプロレス技事件」/ヤノタク、再び骨法と堀辺正史を語る/平成の仕掛け人・永島勝司「アントニオ猪木と北朝鮮」/クロン・グレイシーのMMAデビューを10倍楽しむ方法 ――小林さんは11月9日に始まるキックボクシングのイベントZONEのGM(ゼネラル・マネージャー)に就任されましたが、以前GMだった全日本キックが消滅して以来の現場復帰ですよね。 小林 そうですね。2009年の『野良犬電撃作戦』が最後の大会で5年ぶり。今回のZONEも「え? いま全日本キックの続きをやるの?」という反応が気持ちよくはあるんですよ。「はあ、いまさら何?」みたいな。 ――そういう反応をされると逆にやる気が出るっていう。そこは小林聡らしいというか。 小林 他人と真逆を行きたがるのはダメなところではあるんですけど(笑)。そんな自分をおもいきり楽しんでますよ。ZONEをやることに対してムカついてるヤツもいると思いますしね。そうやって、誰かの感情をくすぐることは好きですし。 ――5年も経つと格闘技界の景色もずいぶん変わってますよね。小林さんが現役を終えて、全日本でGMをやるようになった頃の大きなニュースというと、PRIDEが活動休止したのが2007年の4月で。 小林 PRIDEの最後の大会は観に行きましたね。『やれんのか!』はどうだったかなあ。 ――PRIDEは会場まで観に行かれたんですね。 小林 PRIDEの広報やってた笹原(圭一)さんと繋がりがありましから。俺が現役のときにあまりにも「K-1に出ないのか?」という声があったでしょ。それで苦肉の策に走って「K-1じゃなくてPRIDEに出ます!」。 ――ハハハハハハ!  小林 それでホントにPRIDEに出ようと笹原さんと交渉してたんですよ。あの頃は何回もPRIDEの事務所に行ったなあ。『ハッスル』でRGのセコンドにつくという絵作りでも行ったし(笑)。 ―― DSEにいちばん近かったキックボクサーでしたか(笑)。 小林 それで宮田(充、現Krushプロデューサー、当時全日本キックのスタッフ)さんもPRIDE事務所に行って話をするところまでいったんですけど。結局そのときはPRIDEの世界観ができあがってたから。いまさら立ち技の試合を入れるわけにはいかないみたいな感じで。 ――「総合ルールだったら」という。 小林 そうそう。向こうは俺に総合しかやらせる気がないんです。そのために立ち技1枠を作るわけにはいかない。五味隆典vs小林聡とか言われちゃって、階級ぜんぜん違うのに。ボクシングの徳山(昌守)と五味がやるなんて話もあったけど。 ――大晦日の噂のカードでありましたね。徳山さんはさらに階級が下ですけど、当時のメジャー戦線はそこらへんはけっこう雑で。 小林 それで笹原さん、俺の押しに弱って最後なんて言ったと思います? 「……小林さん、なんでK-1に出ないんですか?」 ――ハハハハハハ! そこまで立ち技をやりたいなら。 小林 それを言われたら元も子もないんだけど(苦笑)。あの一言は効いたなあ。 ――小林さんが「K-1に出ないのか」と言われていた時期って小林さんが注目されてた時期であり、K-1の全盛期だったじゃないですか。 小林 モロですよ。魔裟斗全盛時代だったから。俺のスポンサーからもしょっちゅう「K-1に出ないのか?」って言われましたよ。その葛藤との闘いでしたね。 ――葛藤はあったんですか? 小林 スポンサーのおかげで生活してるわけでしょ。そのスポンサー10人中10人がそう言うわけですからね。 ――やっぱりスポンサーとしても応援してる選手には目立ってほしかったんでしょうね。 小林 そうでしょ。純粋に「K-1で見てみたい」という気持ちじゃないですか。そんだけK-1は勢いのあるイベントでしたから。いま振り返ってみても、あの状況は凄く苦しかったですよね。やっぱり有名になってお金はほしかったし、モテたいし、そりゃあプロなんだから欲はありますよ。それがなくなったら「プロなんてやめちまえ!」って話で。だけど、それを踏まえたうえで「K-1ふざけんな!」という意地だけでやってたから。そこはホントにやせ我慢をしてたというか、K-1に出ない理由を作るのが大変でしたね。出る理由はみんなあると思うんですけど。 ――出るときはなんとでも言えますよね。 小林 そこが大変だったなあ。いまの選手ってそういうリング外では、か弱いというか。ちょっとジムと揉めて干されるとやめちゃたり、すぐに離れたり。意地やたくましさがないから試合もおもしろくないんじゃないかなあ。 ――小林さんがK-1に出たくなかったのって、あらためて考えるとどんな気持ちだったんですかね? 小林 なんなんだろうなあ……。 ――ルールや階級の違いもあるんでしょうけど。 小林 それもあるけど。でもまあなんかイヤだったんですよ、K-1にケツを振るのは。あの頃はK-1に出る奴が多かったじゃないですか。たしかに「出ときゃよかったかなあ」という気持ちもありますけど。出ないことのほうが自分の財産として残ったと思うし。 ――最終的に関わらなかった小林聡がいる、と。 小林 そこは胸を張って生きていけますよ、これからも。たしかにK-1に出てたら知名度は上がったでしょうし、スポンサーのつき方も違ったでしょうね。まあでもそこで出なかったから、いまこうして“全日本キックの続き”ができるんでしょうし。そういう意味ではK-1は俺のためにできた団体じゃないからっていうのはあるし。 ――K-1の主役だった魔裟斗選手とは全日本キック時代に少しだけかぶってますけど、交流はあったんですか? 小林 魔裟斗がK-1で有名になったあと雑誌で対談したくらいかな。あたりさわりのない対談。 ――あたりさわりのない対談(笑)。魔裟斗選手も、小林さんがK-1に出たら面白いと思ってたみたいですよ。 小林 体重10キロ違うでしょ(笑)。 ――でも、無理やり階級を上げて出てる選手もいましたよね。 小林 そこまでして出たい気持ちもわかりますけどね。 ――全日本キックを主戦場にして、キックボクシングに拘ってた佐藤嘉洋選手もK-1に出ましたよね。 小林 全日本キックでお互い意地を張ってやってきたところもあったんですけどね。だからあのときは佐藤くんに対して言いたくないことまで言いましたよ……。もうひとりの自分が「そこまで言わなくてもいいでしょ!?」って思ったけど、佐藤くんは同志だと思ってたから「ふざけんな!」っていう気持ちがあって。当然、周りのスポンサーも「あの佐藤も出たじゃないないか」ってなりましたし。  

【キッズ・リターン】 小林聡・野良犬の哲学「選手もプロモーターも群れてちゃ面白くないんですよ」
Dropkick

プロレス格闘技マガジン『Dropkick』公式チャンネルです。【更新コンテンツ】スペシャルインタビュー/斎藤文彦INTERVIEWS/小佐野景浩の「プロレス歴史発見」/プロレス点と線/OMASUKI FIGHT/アカツキの『味のプロレス出張版』/大沢ケンジ/二階堂綾乃/オレンジ色の手帳/中井祐樹日記/ジャン斉藤……のコラムなど。週一の音声配信もやってます!

著者イメージ

Dropkick編集部

プロレス格闘技のトピックを扱うブロマガです。

メール配信:なしサンプル記事更新頻度:ほぼ毎日※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ