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アポロ菅原インタビュー最終回「知名度のわりには……」
2021-03-06 11:00105pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー最終回です!(聞き手/ジャン斉藤)【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」④ SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー
⑤北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由⑥SWS解散とザ・マミー変身
――1996年に横浜アリーナで開催された第1回「メモリアル力道山」には新日本プロレスをはじめ、16団体が参加しました。菅原さんはIWA格闘志塾スペシャルマッチとして、ザ・マミーに変身して鶴見五郎さんと試合をしましたが、ダイビングヘッドバットに失敗して失神してしまいました。
菅原 あのときは入場した時点で「マズイな……」って思ったんですよ。マスク越しには周りが真っ暗で何も見えなかったんですよね。普段ならは2~3人、誰かがリングまで先導してくれるんですけど、あのときは誰もいなくて1人で入場したんですよ。
――あの「メモリアル力道山」は各団体の提供試合で構成されてましたが、1試合だけだからセコンドにつける選手たちは来てなかったんですかね。
菅原 そこらへんはどういう話になっていたかわからないですけども、自分は1人で入場しましたね。ほのかに見えるリングに向かって行けばいいだろう……という感じでしたけど。
――それで試合中に事故が起きてしまって。
菅原 あのダイビングヘッドバットは「このへんにいるだろう」という感じで飛んだんですよ。リングに頭を打った瞬間、カメラのシャッターのように「パシャッ」となりましたよ。
――入場から含めて何か見えづらさがあったということですか。
菅原 それはありましたね。まず会場が大きいですし。だからマミーは……そこそこのお客さんがいる会場がよろしいんじゃないですかね。こう言ってはなんですけど、マミーというのは見世物的なところがありますもんでね。あまり会場が大きいと把握できなくなっちゃうんじゃないですかね(苦笑)。
――マミーは横浜アリーナに合ってない(笑)。
菅原 現代のマミーは違うかもしれませんけど(笑)、当時のマミーはそんなにお客さんが入らない会場がマミーらしかったかもしれないですね。
――失神から目が覚めたのはいつなんですか?
菅原 担架で運ばれるときには気が付いてましたよ。自分の指が動くことを確認して、致命傷ではないなとは思ってました。
――対戦相手の鶴見さんとはお話はされたんですか?
菅原 うーん、話はしたのかなあ。控室に猪木さんが来ていただいて……
――猪木さんが!
菅原 そうです。「いいからマスクを取れ」と自分の足や指先を触っていただいて「これなら大丈夫だろう」と。俺みたいな奴のために本当に光栄なことです。プロレスラーの仕事としてはダメだったわけですからね。
――いままでそんな失敗をしたことはなかったわけですよね?
菅原 あー、ほとんどなかったと思います。アポロ菅原として失敗したことはなかったですよ。
――プロレスの中でもああいうことも滅多にないですよね。
菅原 だからこうやってみんなの記憶に残ってるんでしょうけど(苦笑)。
――この試合を長州さんが批判したことでメジャーvsインディの流れができますよね。
菅原 長州さんが「だからインディはダメなんだ」って言われたんだけど。 そのとおりだと思いますよ(笑)。
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北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由/アポロ菅原
2020-12-30 16:27150pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第5弾。北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由を語り尽くします!(聞き手/ジャン斉藤)【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」④ SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー
――前回、SWSの鈴木みのる戦を振り返ったインタビューが大好評で。
菅原 ああ、そうなんですか。
――今回も期待しています!
菅原 よろしくお願いします(笑)。
――その鈴木みのる戦があったSWS神戸大会で、北尾(光司)さんがWWEから派遣されたアースクエイク(ジョン・テンタ)相手に試合を壊すような行為に出ました。脇固めで腕を折りにいったり、目潰しのポーズで威嚇しながら、実際に目を狙って攻撃。激怒したテンタとお互い目潰しのポーズで威嚇し合うという……。最後は北尾さんがレフェリーに暴行して反則負けでした。
菅原 自分のことで手一杯だったので、あの試合自体はちゃんと見てなかったんですよ。あとからいろいろ話を聞いて……この試合は東京ドームでもシングルマッチをやってますよね。
――2日前にやってテンタがヒップドロップからの体固めで勝ってますね。
菅原 その日の晩、横綱から自分に電話があったんですよ。「神戸でも負けるのかな」と。自分は「それはないと思うけどなぁ」と言ったんですよね。だって東京ドームで負けるって影響力はありますよね。それなのに2日後にまた負けるということは、なかなか考えにくいと思うんですよ。でも、横綱は「また負けるのかなあ」という感覚でいたみたいで。いまだから言えますけど、自分は「最悪の場合、ケガしたということで会場に来なくてもいいんじゃないか」って。そんなふうに言ったんですよ。
――そんな反則アドバイスを(笑)。菅原さんからしても2連敗はさすがにないと思ったんですよね。
菅原 テンタさんがWWEでプッシュされているのはわかっていても、横綱は知名度的にもこれから日本のプロレスを背負って立つ人ですよ。
――北尾さんにとってはSWSはホームだし、相手は他団体の選手で今度はいつ来日するかわからない。
菅原 もっと他にやりようがあったんじゃないかなあとは思いますけどね。
――いまの話を聞いて驚いたのは、北尾さんとテンタの2連戦はかなり前に決まっていたわけじゃないですか。マッチメーカーから事前に試合内容についての説明はなかったということですか?
菅原 なかったんじゃないですかね。わかりません、それは。さっきも言ったように東京ドームが試合が終わった夜に、横綱は自分の所に電話をかけてきて「神戸でも負けるかもしれない」って言ってたんですよ。
――ということは事前に説明はされてないということですよね。 このカードは注目カードですけど……。
菅原 よっぽどの試合だったら事前に説明はあるかもしれないですけど。普段のシリーズなんかは16時ぐらいに会場入りしますよね。それでポンポンで了解ですよ。相手のことはわかってますから、こういう技を使ってくるから、自分がどういう風に対処するかとか考える程度ですよ。
――昭和のプロレスはエース外国人がシリーズ最終戦に猪木さんや馬場さんとシングルマッチで戦うじゃないですか。それまでにシリーズ中にタッグマッチなんかで何度か肌を合わせて……。
菅原 最後に大きい会場でやりますのでね、それに向けて持っていくっていうところはありますよね。途中の札幌中島体育センターあたりで気合いの入った試合を見せたりして。
――あのときのSWSとWWEの接触は東京ドームと神戸大会だけで、テンタと北尾さんは今回が初手合わせでした。北尾さんからすれば、2連敗後の展開はどうなるのかという不信感があっても不思議ではないですね。
菅原 そういうところはあったと思いますよね。本人が納得するかどうかは横に置いといても、 事前に説明があればまた違ったんでしょうけど。ましてやシングルマッチですからね。シングルマッチに2連敗はかなり厳しいと自分は思ってますよ。 これは風の噂で聞いたんですけども、「いくらなんでも2つはないだろう」という選手の声があったと記者さんたちから聞きました。 仮に東京ドームで負けて、神戸で勝ったとしても3:7くらいの気持ちですよ。
――プロレスは初戦で勝つことが重要ですよね。
菅原 横綱の初戦の負けが反則だったら、まだいいんですけどね。――当時SWSのマッチメーカーだったカブキさんは天龍源一郎さんのレボリューション所属。反天龍派の荒川さんが北尾さんを焚きつけたんじゃないか……という噂もありますね。<会員ページへ続く>
この続きと、斎藤裕、北尾vsテンタ、斎藤裕、所英男、西良典、スダリオ剛…などの12月更新記事が600円(税込み)でまとめて読める「15万字・記事21本の詰め合わせセット」はコチラhttps://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1980138この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック! 1記事100円から購入できます!
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北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由/アポロ菅原
2020-12-03 11:30150pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第5弾。北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由を語り尽くします!(聞き手/ジャン斉藤)【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」④ SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー
――前回、SWSの鈴木みのる戦を振り返ったインタビューが大好評で。
菅原 ああ、そうなんですか。
――今回も期待しています!
菅原 よろしくお願いします(笑)。
――その鈴木みのる戦があったSWS神戸大会で、北尾(光司)さんがWWEから派遣されたアースクエイク(ジョン・テンタ)相手に試合を壊すような行為に出ました。脇固めで腕を折りにいったり、目潰しのポーズで威嚇しながら、実際に目を狙って攻撃。激怒したテンタとお互い目潰しのポーズで威嚇し合うという……。最後は北尾さんがレフェリーに暴行して反則負けでした。
菅原 自分のことで手一杯だったので、あの試合自体はちゃんと見てなかったんですよ。あとからいろいろ話を聞いて……この試合は東京ドームでもシングルマッチをやってますよね。
――2日前にやってテンタがヒップドロップからの体固めで勝ってますね。
菅原 その日の晩、横綱から自分に電話があったんですよ。「神戸でも負けるのかな」と。自分は「それはないと思うけどなぁ」と言ったんですよね。だって東京ドームで負けるって影響力はありますよね。それなのに2日後にまた負けるということは、なかなか考えにくいと思うんですよ。でも、横綱は「また負けるのかなあ」という感覚でいたみたいで。いまだから言えますけど、自分は「最悪の場合、ケガしたということで会場に来なくてもいいんじゃないか」って。そんなふうに言ったんですよ。
――そんな反則アドバイスを(笑)。菅原さんからしても2連敗はさすがにないと思ったんですよね。
菅原 テンタさんがWWEでプッシュされているのはわかっていても、横綱は知名度的にもこれから日本のプロレスを背負って立つ人ですよ。
――北尾さんにとってはSWSはホームだし、相手は他団体の選手で今度はいつ来日するかわからない。
菅原 もっと他にやりようがあったんじゃないかなあとは思いますけどね。
――いまの話を聞いて驚いたのは、北尾さんとテンタの2連戦はかなり前に決まっていたわけじゃないですか。マッチメーカーから事前に試合内容についての説明はなかったということですか?
菅原 なかったんじゃないですかね。わかりません、それは。さっきも言ったように東京ドームが試合が終わった夜に、横綱は自分の所に電話をかけてきて「神戸でも負けるかもしれない」って言ってたんですよ。
――ということは事前に説明はされてないということですよね。 このカードは注目カードですけど……。
菅原 よっぽどの試合だったら事前に説明はあるかもしれないですけど。普段のシリーズなんかは16時ぐらいに会場入りしますよね。それでポンポンで了解ですよ。相手のことはわかってますから、こういう技を使ってくるから、自分がどういう風に対処するかとか考える程度ですよ。
――昭和のプロレスはエース外国人がシリーズ最終戦に猪木さんや馬場さんとシングルマッチで戦うじゃないですか。それまでにシリーズ中にタッグマッチなんかで何度か肌を合わせて……。
菅原 最後に大きい会場でやりますのでね、それに向けて持っていくっていうところはありますよね。途中の札幌中島体育センターあたりで気合いの入った試合を見せたりして。
――あのときのSWSとWWEの接触は東京ドームと神戸大会だけで、テンタと北尾さんは今回が初手合わせでした。北尾さんからすれば、2連敗後の展開はどうなるのかという不信感があっても不思議ではないですね。
菅原 そういうところはあったと思いますよね。本人が納得するかどうかは横に置いといても、 事前に説明があればまた違ったんでしょうけど。ましてやシングルマッチですからね。シングルマッチに2連敗はかなり厳しいと自分は思ってますよ。 これは風の噂で聞いたんですけども、「いくらなんでも2つはないだろう」という選手の声があったと記者さんたちから聞きました。 仮に東京ドームで負けて、神戸で勝ったとしても3:7くらいの気持ちですよ。
――プロレスは初戦で勝つことが重要ですよね。
菅原 横綱の初戦の負けが反則だったら、まだいいんですけどね。
――当時SWSのマッチメーカーだったカブキさんは天龍源一郎さんのレボリューション所属。反天龍派の荒川さんが北尾さんを焚きつけたんじゃないか……という噂もありますね。<会員ページへ続く>
いま入会すれば読める12月更新記事笹原圭一広報「RIZINの判定基準について説明いたします」/スダリオ剛は“スポーツの天才”だった!/和術慧舟會創始・西良典「総合格闘技がなかった時代の話をしよう」/デスマッチファイターが引退を選んだ理由とは/北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由……続々更新!https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/202012
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アポロ菅原 SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー
2020-11-01 00:00110pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第4弾。SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相を1万字で語り尽くします!【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」
――今回は菅原さんがメガネスーパーのプロレス団体SWSに入団してからのお話を聞かせていただきます。菅原さんがコーチをしていた北尾(光司)さんを通じて天龍(源一郎)さんから入団の許可を得たそうですが、面接なんかはあったんですか?
菅原 ええと、ありません(笑)。SWSの道場があった新横浜で若松(市政)さんと「キミ、来てくれるんだってね?」という話をしたことはあります。
――若松さんはSWS設立における中心人物で。給料の話もされたんですか?
菅原 給料は話はしたのかなあ。したような記憶もありますね。
――当時のSWS には唸るほど資金があって、破格の契約金をもらった選手もいれば、もらわなかった選手もいたじゃないですか。
菅原 契約金はボクはもらわなかったです。やっぱりそれは早い者勝ちじゃないですか(笑)。
――菅原さんの入団はだいぶ遅かったですもんねぇ。
菅原 まあ、そうですね。契約金をポーンともらった人も多かったと思いますよ。
――ギャラは国際プロレスや全日本プロレス、新日本プロレス時代と比べてどうだったんですか?
菅原 金額的には満足なものでしたね。SWSが一番よかったぐらいです。
――新日本をやめてよかった、じゃないですけど。
菅原 うーん、お金だけを比べると、そうかもしれませんけど。新日本でもああいうことがなければ、残ってたとは思うんでね。そこは金じゃないんですよ。
――SWSは“金権プロレス”と『週刊プロレス』がネガティブキャンペーンを張ってたじゃないですか。『週刊プロレス』の記者もじつはSWSからお金をもらっていたのに。ああいう報道はどう思われていたんですか?
菅原 どう思っていたんだろうなあ。いまだったら企業がプロレス団体を持つのはあたりまえになってきてますよね。でも、当時は馬場さん・猪木さんというかたちがあったから、企業が業界に入ってくるということに対してのアレルギーなんかがあったんじゃないですかね。
――プロレスをわかってないヨソ者が何かやろうとしてるみたいな。
菅原 そうですよね。でも、資本を投入してくれることはありがたいことですし、それがメガネスーパーだったわけですからね。俺のところに挨拶に来なかったから気に食わないじゃなくて、プロレス全体のことを考えればよかったんじゃないですかね。
――メガネスーパーが参入することに反対するレスラーなんてひとりもいなかったわけですからね。
菅原 そうですよね。歓迎する人は多かったんじゃないでしょうか。
――やっぱりプロとして高い給料を払ってくれることに越したことないですもんね。
菅原 プロの評価はやっぱりお金だと思ってるんですよ。そこに義理や人情がついてくれれば最高なんでしょうけど、なかなかそうはいかないので。「お金で動いた」と言われれば、みんなそれはそうですけど。お金で動くのは、あたりまえだと思ってますよ。
――当時はプロ野球史上初の1億円プレイヤーとなった落合博満が異分子扱いされたり、お金で動くことへの嫌悪感ってありましたからね。
菅原 あの当時の日本はまだ堅物なところがあってね、いまだったらあたりまえになってるんじゃないですか。
――そのSWSって部屋別制度だったじゃないですか。天龍さんの「レボリューション」、若松さんの「道場・激」、高野兄弟の「パライストラ」。菅原さんはどこにも所属せずにフリーでしたけど、これはどういうことなんですか。
菅原 別に理由はなくて。 本音で言えばね、横綱(北尾)がね、どこかの部屋に入るとは思ってなかったんですよ。最終的に天龍さんのとこに入りましたよね、レボリューションに。そのときにちょっとだけガッカリしたんですよ。あの中のフリーとしてやってほしかったなあという気持ちがありまして。
――SWSの中でフリーでやっていくことって居心地は悪くないんですかね?
菅原 いや、快適ですよ。フリーだから誰とでも試合はできるだろうしね。
――ああ、どの部屋の選手とも試合ができるわけですね。
菅原 フリーは自分と新倉(史裕)さんだけだったからね。そこに横綱が来てくれるんだったら面白くなるんじゃないかなと思ってたんですよ。
――SWSにも派閥はあったじゃないですか。菅原さんの立場は……。
菅原 自分はプロレスラーとしては天龍さんのことを尊敬してますから。ですからレボリューションといえばそうなんでしょうけども……そこは何か違うんですよ。天龍さんは好きですけど……というところがあるんです。
――天龍さんは好きだけど、部屋に入るのとはまた違うんですね。
菅原 横綱がレボリューションに入るとは思ってなかったから。横綱がフリーでいれば自分と新倉さんで3人で、タッグや6人タッグマッチの試合が組まれると思ってたから。プロレスラーとしては横綱より天龍さんのほうが格上なんですけど、生身の凄さというものは横綱にありましたからね。俺は天龍さんと横綱の試合が見たかったんですよね。
――天龍さんに向かっていったほうほうが面白かったかもしれないですね。
菅原 いきなりシングルはないだろうとすれば、フリー軍団として6人タッグあたりからやっていくのがよかったんじゃないかなって当時は思ってたんですよね。お客さんも天龍さんと横綱の一騎打ちが見たかったんじゃないかなって。
――SWSは仮道場が横浜にあって、そのあと新百合ヶ丘の一等地に本道場を作りましたよね。
菅原 新横浜駅から歩いて10分もかかんなかったんじゃないかな。いまだったら考えられないですけど、千葉から新幹線で通ってましたからね(笑)。千葉から快速で東京駅に出て、そこから新幹線ですよ。
――それは交通費が出るんですか?
菅原 いや、自分のお金です。 やっぱり時間を考えれば在来線で行くよりも20~30分近く違うんですよ。
――それだけお金はもらってたということですね。練習時間も部屋ごとに分かれていたんですか?
菅原 そんな感じだったですよね。新横浜のときはノビノビやってたような気がしますけどね。新百合ヶ丘の頃は雰囲気があまり良くなかったですよね。だから、なんとなく時間割をしようとかそういう話もあったみたいで。かといって、若い選手はともかくとして、みんなで合同練習というかたちではなかったんですけど。 新百合ヶ丘のときは俺が行かなかっただけかな(笑)。
――千葉からは遠いですよねぇ。
菅原 いや、通ってはいましたよ。新宿から小田急線に乗って。新百合ヶ丘の時は本当に大変で。
――SWSは天龍派vs反天龍派の派閥争いが原因で消滅に追い込まれますけど、それは新日本と全日本の出身レスラーが合わないこともあって。
菅原 プロレスはプロレスなんですけども、本当に基本的なところが違うんでしょうね。こことここが違うとは具体的には言えないんですけど。
――関西人は納豆が食べられないみたいな話がありますし、生まれ育ちで違いは出てくるんでしょうね。
菅原 それはね、秋田、千葉を経て、いま熊本にいる俺も口には出さないですけど、違和感は感じますよ(笑)。なんだかんだ日本は広いですよね。プロレスも団体が違うと空気感が違うんですよ、やっぱり。新日本と全日本だと全然違うんですよ。
―― SWSの忘年会も大荒れだったって聞きますもんね。 酒に酔って大暴れしたジョージ高野さんが周囲からボコボコにされたとか。
菅原 なんかそうだったみたいですけど、「なんだこれは……」って感じですぐに自分の部屋に引き上げちゃいました(笑)。そのあとのことはわかってないですよ。なんと言うかのかな、酒を飲んで、じゃれ合うんじゃなくてマジになってるから。お酒も入ってるからそうなったのかもしれないですけど、こんなことに関わってる場合じゃないなって。 自分の部屋は2階だったんだけど、さっさと戻って部屋で飲んでました。
――菅原さん、独特のポジションを築いてますね。 部屋別制度なのにフリーですし。
菅原 まるで俺が他人との交わりが苦手みたいな感じで言いますね(苦笑)。
――いや、揺るぎない位置を作ってるなって。
菅原 ハハハハハハハ。そういう褒め言葉は初めて聞きましたよ。次の日に「昨日は散々だったよ」なんて話は聞きましたけど、あんな揉めことを見せられたらメガネスーパーの人たちもイヤな気持ちになるでしょうね。
――ハメを外した楽しいお酒ではないわけですもんね。
菅原 別の団体同士が忘年会をやって揉めただけですもんね(笑)。昔の言葉でいうと、シャレにならないよっていう。
――そういう大人の菅原さんがいまだに語り継がれる伝説のシュートマッチをやったわけじゃないですか。1991年4月1日、神戸の鈴木みのる戦。
菅原 あー、はいはい。
――いままで菅原さんは、こういう試合を仕掛けたことはあるんですか?
菅原 自分は1000試合以上やってきてるんですけど、 そう言われれば、この試合だけですよ。ほかの試合はすべて「イエッサー!!」で従ってきましたよ。
――そんな仕事マジメな菅原さんがなぜ物騒な試合をしたのが気になるんですね。
菅原 あれは試合の3~4日前かな。新横浜の道場で偶然田中(八郎)社長にお目にかかって、ちょっとだけ2人で話をしたんですよ。
――SWSの母体メガネスーパーの社長ですね。
菅原 田中社長からは「菅原くん、今度の試合は楽しみにしてるから」と言われたんですよ。自分が「社長、今度の試合は難しい試合になると思います」と言ったら田中社長は「どうして? おもいきり、やっつければいいんじゃないの?」と。自分は「そうですね……」って答えたのが精一杯ですよ。
――それはつまり田中社長がプロレスというものを……。
菅原 自分としては対戦相手に恨みはないけど、船木(誠勝)選手や鈴木選手は「自分たちは真剣勝負で強いと」いうふうに言ってたじゃないですか。
――Uスタイルは本物志向だというプロモーションですよね。
菅原 真剣勝負で強い、と。真剣勝負ということは真剣に勝負するということだろうから、仮に自分が鈴木選手に負けたとしたら「なんだ、菅原は真剣勝負でも弱いじゃないか」となっちゃうでしょ。それがプロレス界の人間だったら、そういうふうには受け止めないんですけども、田中社長やメガネスーパーの幹部の人たちは……。
――田中社長のプロレス観は、業界人のそれではなかったというのが定説にはなってますよね。
菅原 そうなると自分の見立ては間違ってなかったということなんですけど。1万字インタビューはまだまだ続く!
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https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1970192
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アポロ菅原インタビュー第3弾「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」
2020-10-19 11:43110pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第3弾。【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
――90年代インディ多団体時代の嚆矢になったパイオニア戦志には、どういう経緯から参加されたんですか?
菅原 えっ、パイオニア戦死?(笑)。――ハハハハハハハ。たしかに戦死されましたが……。
菅原 冗談はともかく、全日本プロレスをクビになったあとは、ウォーリー山口さんのところで、ビートたけしさんのところに集まったプロレスラー志望の若者をコーチしてて。パイオニア戦志が旗揚げする半年前ぐらいに剛(竜馬)さんから連絡があって「もう一度リングに立ってやらないか」という話だったんですよ。 どうしようかなと思ったんですけど、これも何かの縁だろうと思って参加しようと。それから身体を鍛えなおして、旗揚げ戦は1989年4月30日だったんですかね。
――はい、会場は後楽園ホールですね。
菅原 その半年ぐらい前から身体を鍛え直したり、打ち合わせをしたりしてたんですけど。
――当時はプロレス団体を旗揚げするなんて考えられない時代でしたよね。
菅原 それこそ馬場さんの全日本、猪木さんの新日本、UWFぐらいしかなかった時代ですからね。いまだったら誰でもプロレス団体が作れるでしょうけど、それこそパイオニア戦志という団体名は、よくぞつけたもんだなと思いますよね(笑)。
――まさに「パイオニア」ですからね(笑)。うまくいくと思いました? 2年持たず活動停止に追い込まれてしまいましたけど……、
菅原 先の見通しを考えてやってたことではないと思うんですよ。自分たちもチケットを販売したんですけど、どれくらいお客さんが入るのかなんて見当もつかなかったし、実際にやってみなきゃわからないという感じだったんですよ。
――旗揚げ戦は2試合だけでしたよね。
菅原 自分と高杉(正彦)さん、メインは剛さんと、FMW設立前の大仁田(厚)さんの2試合だけですよね。選手を集めて団体としてどうこうっていうのは現実的には難しかったんじゃないかなあ。 旗揚げ戦一発で終わるかもしれませんし、続けるかどうかもわからない状態だったですよね。
――菅原さんは半年後の第2戦には参戦しませんでしたよね。
菅原 ええと、それはちょうど横綱(北尾光司)のトレーニングパートナーというか、コーチとしての仕事が入ったもんで。
――相撲を廃業されてプロレスデビュー前の北尾さんの。
菅原 横綱とパイオニア戦志、どっちを取るかなって一瞬悩んだんですけど(笑)、ここはやっぱり横綱でしょうという感じですよ。
――でも、パイオニア戦志の第2戦に出るのは1日だけじゃないですか。
菅原 説明すると、横綱の仕事は遠藤光男会長からお話がありまして。
――菅原さんが国際プロレス入りする際にお世話になった。
菅原 「菅原くん、横綱についてくれないか」という感じだったので。横綱もプロレスが好きでずっと見ていたらしいんですけど、それでも未知の世界ですからね。 自分も何か仕事があるわけじゃなかったから「わかりました」と。 それで横綱と一緒に初めてアメリカ本土に渡ったんですよ。
――アメリカで過ごしていたからパイオニア戦志の第2戦は出られなかったんですね。
菅原 そうなんです。
――剛さんと何か揉めたわけじゃなくて。
菅原 揉めたわけではありませんね。
――剛さんってレスラー仲間から評判が悪いところってあるじゃないですか。
菅原 うーん、そういうところもあるのかもしれませんね。
――菅原さんは剛さんに嫌な思いをしたわけではないんですね。
菅原 彼は俺がお金を持ってないことをわかってましたから(笑)。
――そういう理由!
菅原 あればあるだけ使っちゃう男でしたからね。お金を蓄えるタイプじゃないから、どうせ金はないだろうと思っていたはずだから。全日本プロレスのときに彼と3ヵ月ぐらいオーストラリアに遠征したことがあったんですよ。結局そのときに自分の性格なんかもわかったんじゃないですかね。あればパパパパパって使う奴だな、コイツはと。
――菅原さんは宵越しの銭は持たない感じだったんですね。
菅原 いまはそういう感じではないですけどね。いまはお金がないから使えない(笑)。
――じゃあ剛さんに何か酷い目には遭ってないと。
菅原 自分は彼の2~3歳、年上だったから、そういう目には遭いませんでしたけど、年下に対してああいう感じで喋られたらキツイですよね。
――それはつまり剛さんが上下関係に対して厳しいってことですか?
菅原 厳しいんじゃないですか。プロレスという世界はどうしても入った順で先輩・後輩じゃないですか。 プロ野球の場合はたしか年齢なんですよね。だからプロレスの世界はちょっと難しいところがあるんじゃないですかね。
――入った順だと年上が年下に頭を下げなきゃいけないケースがあるという。
菅原 年上の人が年下に気を使うのも変でしょ。相撲の場合はそういう世界でも番付がありますから、関係は変わってくるじゃないですか。プロレスの場合は序列はありますけど、番付はないですからね。
――プロレスの世界は明確な順位を付けられないわけですねぇ。
菅原 どうすればいいかといえば、自分の身に降りかかる火の粉は自分で振り払うしかないんですよね。そのためにもトレーニングをしたりして実力をつけなきゃいけないですよ。上の人から何か理不尽な思いをさせられたときに、跳ね返すものがないとプロレスラーはダメだとボクは思ってます。
――菅原さんにもそういうものがあったからこそ、剛さんも無茶なことは言ってこなかったんじゃないですか?
菅原 全日本で一緒になったとき初対面のあとに鶴見(五郎)さんを通して「挨拶の仕方が悪いなあ」ってきたんですよ。
――うわっ。
菅原 そのあとオーストラリアで食事をしたときに「剛ちゃんは俺よりプロレスの世界に早く入ってるから先輩なんだけども、だからってあんまり言っても俺はそうはいかないよ」って言ったんですよね。
――そういうカマシが効いてるんじゃないですか!(笑)。
この続きと、和田京平、内柴QUINTET、皇治、前澤智、瀧澤謙太、大原樹里…などの10月更新記事が550円(税込み)でまとめて読める「10万字・記事18本の詰め合わせセット」はコチラ
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【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
2020-09-02 10:12110pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第2弾。アポロが見た80年代・90年代のプロレス界とは?【前回はこちら】
アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」
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・追悼! 佐山タイガー最大の難敵・初代ブラックタイガー■斎藤文彦INTERVIEWS
――菅原さん! 前回のインタビューが好評だったので今回もよろしくお願いいたします。
菅原 ああ、そうですか。期待に添えられるかどうかわかりませんけど(笑)。
――前回は国際プロレス崩壊までのお話を伺いましたが……全日本プロレス入団後、当初は本隊の一員として行動されてたんですよね。
菅原 ヨーロッパ遠征に行くまではそうですよね。遠征に出るまで4年近くそうだったんじゃないですか。
――全日本でやってみて国際プロレスとの違いは何か感じましたか?
菅原 そんなに大きくは感じませんでしたけどね。 あまり変わらない感じでしたよ。ただ、これはもう言ってもいいですけど、国際の巡業は外国人選手と一緒に移動してましたからね。
――敵陣営の外国人と一緒に行動する姿を見せることはご法度でしたね。
菅原 途中からは分かれるようになりましたけど。全日本は日本人と外国人は別々でしたね。
――途中入団はやりづらくなかったですか?
菅原 まあ、やりづらいかといえば、やりづらいですよ(笑)。ヨソからきてるわけですから。そこは気にしてもしょうがないなぁと思ってましたけどね。
――外様の扱いも受けたという。
菅原 そういうことを気にしちゃうと「これもそういうことなのかな」って思っちゃうんですけど。自分は意外とそういう細やかさはないんですよ。「こういうこともあるさ」という感じで受け止めていましたよ。
――寮住まいではなかったんですよね?
菅原 なので毎日道場には行ってなかったですね。道場に行かない日は遠藤(光男)さんのジムでトレーニングをしたり。あの当時の道場には越中(詩郎)さん、三沢(光晴)、(ターザン)後藤なんかがいて。自分だけひとり歳が離れてるんですけど、お互いに練習で頑張れたというか。
――切磋琢磨したわけですね。
菅原 そういう格好のいい話ではないですけどね(笑)。でも、そういうことですよね。最初の柔軟運動から始めて、最後までキッチリやっていた記憶がありますよ。
――プロレス団体ってどうしても派閥というか、グループができるじゃないですか。菅原さんはどなたと一緒に行動したんですか?
菅原 いやあ、巡業でもだいたいひとりだったんじゃないですか。天龍(源一郎)さんや渕(正信)さんから、たまに飲みに誘われたりしましたけど。レスラーってあんまりつるまないんじゃないんですか。ホテルに入って少し休憩してから会場に向かって、試合をやってホテルに帰ってきて寝て。翌朝も移動で早いですからね、基本はやっぱりひとりで自由に過ごすんじゃないですかね。
――先輩レスラーの付き人をやってるような立場だと雑用で大変だけど、という。
菅原 そうですね。たとえば越中さんなんかは馬場さんについてましたから、いろいろと大変だったと思いますよ。まあ付き人の仕事がなくても巡業中は自由な時間ってあんまりないんですよ。次の日が試合だったりしますから、たまに深夜2時ぐらいまで飲むことはありましたけど。たまには、ですよ(笑)。
――国際プロレスと比べてお客さんを入ってましたよね?
菅原 それはもう入ってましたね。 国際プロレスと比べたら数段上ですよ。やっぱり、できればたくさんのお客さんの前で試合したいですからね。そういう面では、やりがいはありましたね。もちろん国際プロレスのときもやる気はありましたよ。やっぱり自分の身体が商売道具ですから、お客さんが少なくても真剣に試合はやったし、試合に備えてトレーニングをやってましたしね。
――4年近く全日本で活動されている最中、ヨーロッパ遠征に出るわけですね。
菅原 あれはどういう流れなんでしょうね。突然という感じではありましたね。先にヨーロッパ遠征に出た鶴見(五郎)さんを自分が追っかけるようなかたちで。
――ヨーロッパ遠征は乗り気だったんですか?
菅原 もともと海外修行の願望は持ってました。あとからの話なんですが 、上田(馬之助)さんが「靴とパンツだけで世界中で商売できるのはプロレスラーだけなんじゃないか」と。「そのとおりですね」って感心したんですけど。
――初体験となったヨーロッパのプロレスはいかがでしたか?
菅原 ラウンド制は日本のプロレスとは違うもんだんだなあと思いましたよ。プロモーターから「2ラウンドまではやって3ラウンドで勝負を決めてくれ」みたいな話もありましたからね。 そういうところは日本とは一緒なんですよ。 日本にも10分なら10分という単位があるわけじゃないですか。そこはヨーロッパも日本も変わらないくて、プロレスは仕事だということですよね。
――日本だろうがヨーロッパだろうが、お客さんをどうやって楽しませるかってことですね。
菅原 向こうではボクは韓国人ということで試合をやりましたね。誰のアイディアっていうわけではないんですけど、 鶴見さんがゴロー・タナカという日本人だから、もう日本人は2人はいらないだろうと。向こうの人から見れば、韓国人も日本人もよくわかんないでしょうし(笑)。
――ヨーロッパのプロレスは一箇所にテントを張ってロングラン興行を行なうんですよね?
菅原 そうですね。ひとつの場所にサーカスのような大きなテントを張っていて、巡業というより相撲の本場所と言ったほうがいいかもしれないですよ。1ヵ月くらいは同じ場所でやりますよね。オーストリアのウィーンで1ヵ月ぐらいやって、そのあと転々として、西ドイツのハノーバーで1月半ぐらいやってるはずです。
――同じ場所で1ヵ月近くやるのにお客さんがよく入りますね。
菅原 それがそれなりに入ってるんですよ。リングに上がって選手紹介するときにお客さんから、おひねりが飛ぶんですけど。向こうでは3試合目、4試合目がメインイベントなのかな。たいていタッグマッチなんですけど、試合はけっこうヒートしますから、お客さん同士でお金を出したりするんですよ。「いまこのチームにいくらお金が入りました!」とかアナウンスされて。
―― いまでいうところの投げ銭ですね(笑)。やる気もどんどん出てきますね。
菅原 そうするとまたヒートしてね、現金が飛び交うところがありましたから楽しかったですよ。試合が終わったら、そのお金でホテルのバーで一杯やるわけですよ(笑)。
――船木誠勝さんがヨーロッパ遠征のときに腕試しの相手をさせられた、みたいなことを言ってましたけど。菅原さんはそういう経験はありますか?
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アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」
2020-08-01 00:00105pt国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー。アポロが見た80年代・90年代のプロレス界とは?【1記事から購入できるバックナンバー】
俺と剛竜馬とパイオニア戦志12000字■松崎和彦インタビュー
谷津嘉章、興行という灰色の世界を語る――「プロレスとヤクザ」嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!男たちのプロレス屋形船…友情とカネが砕け散ったWJ
――アポロ菅原さんのプロレスラー半生を何回かに分けて聞かせていただきたいんですが、菅原さんは現在熊本にお住まいとか。
菅原 そうなんです。今年の4月頃からですね。それまでは関東にいて。
――まだ現役ということなんですよね。
菅原 まあ、まだやめてはないことはたしかですけどね。ちょっとヒザを痛めてまして、リングに上がるということはいまは考えてないですね。
――菅原さんは高校からレスリングを始めましたよね。 あの頃のレスリングは日の当たるスポーツじゃなかったので、失礼ですけど変わり者がやるものというか……。
菅原 いや、ホントに変わり者だったと思いますよ(笑)。中学生の頃に読んでいた『プロレス&ボクシング』の裏広告に鉄アレイやバーベルの通販が載ってたんですよ。60キロセットのやつを買って、それから身体作りが始まったんですけどね。
――プロレスファンだったんですね。
菅原 プロレスは大好きでした。プロレスラーになるためではなかったんですけど、身体は作らないといかんだろう。プロレスは無理だとしてもレスリングだったらうまくいくかもしれないなと。それで高校でレスリングを始めたんですが、隙間的なマイナー競技ですよ。 県内でも6つぐらいですよ、レスリング部があった高校は。
――プロレスとレスリングってまったく違いますよね。
菅原 もう別物ですよね。 毎日練習練習で家に帰ってからもウエイトトレーニングは欠かしませんでした。 高校の練習だけでは他人より抜け出すことができなかったと思いますよ。 ボクは大学でレスリングをやったことがないからわからないですけど、高校に関しては力があったほうが絶対に有利です。 もちろん技術は必要なんですけども。
――レスリングで大学に進む考えはなかったんですか?
菅原 ウチの家は金銭的に余裕がなかったので、大学から誘いはけっこうあったんですけども。レスリングは3年間で充分だと。それで秋田から出て千葉の三井造船という造船所で働くようになったんですね。プロレスラーになろうなんて考えもなかった。
――転機となったのはボディビルダーの遠藤光男さんのジムに通うことになったからなんですよね。
菅原 その前からジムで身体は鍛えていたんですよ。自分が住んでる場所から歩いて5分のところにボディビルジムがあったんですけど、それはもう身体を鍛えることが趣味みたいなもんで。当時ジムに通っていた方は人間的に迫力のある方が多くて。土建屋の社長とかね、ちゃんとネクタイを締めてるような人は少なくて。
――いまのようなアスリートっぽいボディビルダーはいなかったってことですね(笑)。
菅原 だからなかなかの雰囲気でしたよ(笑)。練習が終わったらプロテインよりもビール。そういう世界ですよ。
――当時のプロレス界って10代でデビューするような世界ですけど、 菅原さんは25歳と遅咲きですよね。
菅原 最初はプロレスラーになるつもりはなかったんですけどね。仕事が終わったあとによく麻雀をやったんですよ。だいたい3回ぐらいやって、誰かが泣きの1回を頼んで4回ぐらいやって。こういう生活も悪くはないけど……そういえばプロレスは好きだったけど、会場で見たことないんだよなと思って。新日本、全日本、国際を会場まで見に行ったんですよ。
――それで火がついちゃったって感じですか?
菅原 自分がプロレス界に入ってからの印象はちょっと違うんですけど、お客さんとして見ている感じだと、前座だったらなんとかなるんじゃないのかなと思ったんですよ。
――メインクラスはともかく。
菅原 そうなんですよね。それで25歳のときにプロレスをやってみようかと。遠藤会長に「プロレスをやってみたいんですけど」って相談したら「いいんじゃないか」と。会長は「どこの団体でも紹介できる」ってことなんですけど、会長は当時で国際でレフェリーをやってましたから。
――国際プロレスにしようと。入門テストはあったんですか?
菅原 これがテストだというものはなくて、冬木(弘道)選手と一緒に入るかたちになって。冬木も何もなかったんじゃないのかな。 国際としてはとりあえず人数が多くなればいいんじゃないかっていう感じだったんじゃないですか。それでも道場ではかなり厳しかったですよ。「プロレスをやりたいんだけど」って入ってきても、1日シゴかれると翌日にはいなくなってますからね。
―― 菅原さんもキツかったですか?
菅原 キツかった、と言わないといけないでしょう(笑)。
――ハハハハハハハハ。
菅原 冬木のほうがガッツはあったのかもしれないね。 常に受身の練習。何十回どころか何百回も受け身を取るし、俺と冬木の2人で交互にボディスラムで投げあってね。若松(市政)さんが腕組みしながら「やれ」と。
――身体に染み込ませる。当時のリングってめちゃくちゃ固いですよね。
菅原 練習のときはそうは感じなかったんですけど、国際プロレスのリングはいままで試合をした中では一番固かったですね。マットの下のスプリングが全然効かないから受け身をちゃんと取らないと本当に痛い。だから新日本や全日本でやったときは国際の経験があったので、まあ大丈夫だったんですよ。
――道場ではスパーリングもやるんですよね?
菅原 やりましたよ。 普通に組んでもやったし、アマチュアのパーテールポジション(四つん這いの形)からもやったし。
――国際プロレスの経営ってかなり不安定でしたよね。
菅原 金銭的にはキツかったですけどね。国際は本当にお金がなかったですからね。
――給料はどういう話だったんですか?
菅原 給料はなかったですよね。
――給料なし!?(笑)。
菅原 はい(笑)。
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