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記事 50件
  • 追悼・青木篤志さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2019-06-16 10:24 16時間前 
    95pt
    作/二階堂綾乃
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は、先日お亡くなりになった青木篤志さんを語ります。




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    「プロレス取材の難しさ」
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    ――全日本プロレスの青木篤志選手がバイク運転中の事故でお亡くなりに……。

    小佐野 信じられられないです……。亡くなる前日の6月2日に全日本プロレスの試合が神戸であって、私も解説の仕事で会場に行ってて。青木の試合の解説をしてるんですよ。彼は翌日の3日に東京に帰ってきて、夜にメディア出演の仕事に行くときに……こんなに突然、人っていなくなっちゃうんだって。彼はエネルギーの塊、生命力に溢れていた人だったから余計に。

    ――病気で衰えながら亡くなったわけじゃないですもんねぇ。

    小佐野 プロレスラーとしてもチャンピオンカーニバルでは五分の戦績を残して、ジュニアのベルトにも返り咲いて防衛戦も決まっている中で……本当に言葉も出ないですよ。身内だけでお葬式は執り行われたんですけど、私の場合は神戸で会ったっきりですから、実感がまるでないのでお悔やみの言葉もツイッターで書けてないんですよね。  

    ――小佐野さんは青木選手との付き合いは長いんですか?

    小佐野  私は彼のデビュー戦のときから取材してるんですよ。2005年NOAHのクリスマスイブ興行。この日のNOAHは毎年趣向を凝らした企画でファン感謝デー的なノリなんだけど。試合の組み合わせはクジ引きで決めて、青木は同じデビュー戦になった太田一平と組んで、三沢光晴&田上明と戦ったんだよね。

    ――ビッグネームとのデビュー戦だったんですね。

    小佐野 太田一平も山梨学院大学でレスリングをやっていたんだけど、青木もレスリング出身。これは本人から聞いた話なんだけど、中学の頃はサッカーをやっていたんだけど、鶴田vs超世代軍の試合を見てプロレスラーになりたいと思うようになって。それで高校からレスリングを始めたんですよ。 高校卒業後は自衛隊に入ってレスリングは続けていたけど、身体は小さいし、体重もないからプロレスラーは諦めて。レスリングは続けつつ、その頃は総合格闘技に興味を持ってたそうなんです。

    ――その頃は総合格闘技ブームでしたもんね。

    小佐野 総合は階級別でしょ。99年のレスリング社会人オープンのフリー69キロ級で優勝してるから。体格的にプロレスは無理だけど、総合ならできるんじゃないかと。その自衛隊時代には、のちにNOAHで一緒になるマイバッハ谷口と1年間、同部屋だったりしたんですね。

    ――マイバッハ谷口選手とは同じ2005年にNOAHに入門してますよね?

    小佐野 そうなんだけど、2人とも入り方は別々だった。 谷口のほうはアテネオリンピック出場がダメになったところでプロレス入りを杉浦(貴)に相談してね。

    ――自衛隊のレスリング繋がりですね。

    小佐野 谷口はひとりでテストを受けて合格した。青木の場合は、じつはレスリングを一度やめてるんだよね。青森駐屯地に転勤になって自衛隊の仕事だけは続けていて。その青森に赴任する前に杉浦から「ここまでレスリングを頑張ったな」ということで酒を飲みに連れて行ってもらったときに、青木が「じつは子供の頃からプロレスラーになりたかったんですよ」と口にしたら「じゃあNOAHのテストを受ければいい」と。でも、青木は踏ん切りがつかなくて青森駐屯地で1年を過ごして、また何かの機会のときに杉浦と飲んだら「おまえ、なんでテストを受けないんだ!?」と怒られて。 その店の外に出たら、たまたま丸藤がいて「試験を受けてみたらいいんじゃない?」と。それでようやく青木も「……じゃあ受けさせてください」と決意したんだって。

    ――いろんな人との出会いがプロレスラーの道を切り開いたんですねぇ。<会員ページへ続く>

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  • 【プロレス歴史発見・特別編】望月成晃×小佐野景浩〜空手家がプロレスラーになるまで〜

    2019-05-20 18:21  
    108pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は特別編! ドラゴンゲートの望月成晃選手がゲストです! 1万字でお届けします!

     






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    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み! 猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿




    小佐野 知り合ってずいぶん経つよね。94年1月の北尾道場(のちに武輝道場)旗揚げのときからだから25年近く。
    望月 長いですよね。あの当時、プロレスマスコミといえば、元『東京スポーツ』の柴田(惣一)さんか、小佐野さんなんですよ。こういう言い方はアレなんですけど、当時『週刊プロレス』さんは北尾道場に冷たかったんです(笑)。
    小佐野 ああ、北尾さんは『週プロ』と仲の悪かったWARに出ていた理由もあるんだろうね。
    望月 それに当時は士道館所属の空手家で、プロレスラーというわけでもなかったんですよね。空手着のまま試合に出て「正直この世界でやっていけるのかな」と模索しているうちに1年過ぎたんですけど。 たまたまスーパーJカップに出れて、1回戦で大谷(晋二郎)さんに負けたんですが、当時『週刊ゴング』の編集長だった小佐野さんから『ゴング賞』をいただいたんです。
    小佐野 あったねぇ。なつかしい。
    望月 あの『ゴング賞』をもらったことで「プロレス界でやってけるかもしれない」と思ったし、初めてマスコミの方に認めていただけたんですよ。その記憶がハッキリとある。『ゴング賞』がなかったら、ここまで続いたかわからないんですよ、正直。
    小佐野 そういえば、『ゴング賞』のときは、天龍さんや北尾さんからも家にお礼の電話をもらったよ。べつにエコヒイキしてあげたんじゃないんだけどね。ある日の後楽園ホールでは、望月選手のお父さんから声もかけられて(笑)。
    望月 ハハハハハハハ。ああいう賞って直接対決はしないで競わされてる部分があるので、そこで評価されるのは、とてつもなく嬉しいことでもありますよね。
    小佐野 とくにデビューして1~2年目の頃は何も勲章がないわけだからね。
    望月 そうなんですよ。「どうせもらえないだろう……」ってヒネてるぐらいでしたもん。
    小佐野 あの当時は北尾さん自体が色眼鏡で見られてたよね。
    望月 「プロレス界の敵」みたいな扱いでしたよね。 ナチュラルヒールのイメージ。
    小佐野 その弟子だったわけだもんね。
    望月 しかも空手しかできない(苦笑)。北尾さんがWARに上がったときは、付き人をしながら出入りさせていただいて。北尾さんのパートナーがいないので、ろくにプロレスを知らないままWARの試合に出ることになったんですよ。
    小佐野 フフフフフ。
    望月 しかも超ヘビー級の北尾さんのパートナーですから、必然的にヘビー級の試合に放り込まれて(笑)。いやあ、経験がない中で大変でした。WARのファンの皆さんは熱かったので、プロレスラーとして認めてもらえてなかったですよね。「こんな奴をリングに上げるな!」ていう罵声も浴びてました。
    小佐野 WARの両国国技館のときの野次は酷くなかった?
    望月 凄かったですねぇ。6人タッグの1DAYトーナメント。デビュー3戦目でタッチワークすらわからないまま試合に出たんですよ(笑)。1回戦は石川(孝志)さん、北原(光騎)さん、維新力さんチームとの試合で。こっちは北尾さんと、全日本のチャンピオンの方だったんですけどね。
    小佐野 小林明男だ。
    望月 ちょっとだけプロレスに出て、空手の世界に戻られたんですけどね。ボクは北原さんと長めに戦ったんですけど、北原さんって蹴りをさばけるじゃないですか。
    小佐野 シューティング出身だからね。
    望月 いいようにあしらわれて、最後は丸め込まれてワン、ツー、スリーで1回戦敗退。ファンから「オマエら、二度とリングに上がるな!」という罵声を耳にしましたね(苦笑)。
    小佐野 ボクも初めは純粋な空手家だと思ってたからね。取材してみたら「なんだ、プロレスが大好きじゃないか」と。
    望月 ボクはUインターで高田延彦さんが北尾さんをハイキックでKOした試合を見て大興奮してたクチですからね(笑)。
    小佐野 それが必殺技の「最強ハイキック」になってるんだもんね(笑)。
    望月 空手家スタートじゃないんですよ。 ボクがプロレスファンだった時代は全日本プロレスと新日本プロレスの2つしか団体がなくて、身長も180センチないと入門できない。なので普通に就職してプロレスファンを続けてたんですよね。
    小佐野 そんなとき高田のハイキックに衝撃を受けて。
    望月 たまたま職場の近くに士道館があって「空手の大会に出る人生もいいかな」と思って。そうしたら士道館の添野(義二)館長と北尾さんのマネージャーが昔からの知り合いで、北尾道場の旗揚げ戦に出られる選手がいないか?と。そこでボクが選ばれたんです。「たまたま」がたくさんあったわけですよ。
    小佐野 高田延彦に憧れたのに北尾さんの弟子になるっていうのも凄い話だよね。
    望月 北尾さんとスパーリングをやったときは、口には出しませんでしたけど心の中では「やったあ!」と(笑)。興奮しながら見た試合を自分で再現できたわけですからね。 
    小佐野 ハハハハハハハ。凄いなあと思ったのは、ちゃんとプロレスを教わったわけではないでしょう。受け身にしろロープワークにしろ。
    望月 そうなんですよね。偉そうに言うわけじゃないですけど、25年やらせてもらってますが、誰にも教わらないまま来ちゃいましたねぇ。
    小佐野 独学だよね。それは凄いよ。
    望月 闘龍門(ドラゴンゲートの前身団体)に合流してからは、受け身をしっかりしないといけないって意識するようになりましたけど。ボクがデビューした頃って攻撃力さえあれば、お客さんも熱くなって一喜一憂してくれたんですけど。いまは攻めも受けも自在じゃないと評価されない時代になってますよね。
    小佐野 攻防をしっかり魅せないといけないってことだね。
    望月 闘龍門になってから、そこはもの凄く意識しましたね。それまでは何も意識しないまま、新日本プロレスさんとかでも試合してたんですけど(苦笑)。
    小佐野 デビュー戦の相手が、スープレックスマシーンのタズマニアックだったよね。バッカンバッカン投げられて(笑)。あの試合は凄かった。
    望月 あれ、最初は士道館の同門同士で空手のエキビションマッチをやるという話だったんですよ。その時点で空手を始めて5ヵ月目だったんですけどね。
    小佐野 えっ、そんなもんだったの?(笑)。
    望月 そうなんですよ。だって高田vs北尾が92年11月。ちょっと独学で鍛えてから93年5月に入門して。 
    小佐野 デビュー戦が94年の1月だから、たしかに5ヵ月だ。士道館の代表として出てたけど、月謝払って道場に通ってたわけだもんね。
    望月 ボクは添野館長の直弟子だったので目にとまりやすかったんでしょうね。「エキビションマッチはなくなった。その代わりにプロレスラーとの異種格闘技戦になったからな」と(笑)。 
    小佐野 全然違う話になっちゃった(笑)。
    望月 「できるか?」とか聞かれないですよ。こっちも「押忍!」で断れないですから。 
    小佐野 それで北原みたいな格闘系の選手だったらまだいいんだろうけど、スープレックス系だもんね。
    望月 受け身なんか習ってないですからね。脳天から投げられて(苦笑)。
    小佐野 我々としては大変面白く見てたんだけどね。「豪快に投げられてるなあ~」って。
    望月 いまでも覚えてますが、3分足らずで終わった試合が『ゴング』さんでカラー1ページで扱ってもらいましたから(笑)。
    小佐野 それだけインパクトがあったということだよね(笑)。
    望月 正直、身体が壊されるんじゃないか……というくらいの思いでリングに上がったんですけどね。大怪我もしなかったし、「プロレスをやれちゃうんじゃないのかな」って。小佐野 でも、1年後に『ゴング賞』をもらったときも、そこまで試合は経験してないでしょ?

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  • 三銃士、四天王、UWF、邪道…平成のプロレスを変えた5つの勝負■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2019-04-02 17:03  
    90pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「三銃士、四天王、UWF、邪道…平成のプロレスを変えた5つの試合」についてです!




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    ――今回は小佐野さんが選ぶ「平成のプロレス名勝負5選」をおうかがいします! ……が、その前に。豊田真奈美さんの発言で話題になっている「オリジナルの技を使っていいか否か」論争についてもぜひご意見をうかがいたいな、と。
    小佐野 ああ、豊田真奈美のジャパニーズ・サイクロン・オーシャンの件ね。
    ――豊田さんはあのオリジナル技を藤本つかさ選手と日高郁人選手に継承したということですが、スターダムに参戦中のビー・プレストリーという外国人レスラーがとくに所縁のない試合でフィニッシュホールドとして使って、決まり手に載ってしまったと。それで豊田さんが「いかがなものか」ということで声を挙げたということですが、技によっては使用を控えたほうがいいという考えは昔からありますよね。
    小佐野 まあ、「あの人の技だから使わない」というのは、マナーとしてあるよね。でも、結局スタン・ハンセンのウエスタンラリアットから、長州力のリキ・ラリアットやジャンボ鶴田のジャンボ・ラリアットが生まれ、そこからみんながあたりまえのようにラリアットを使うようになって定着したでしょ。使うんだったら大事に使っていけば、それでいいと思うんだよね。
    ――古い話でいえば、80年代の全日本プロレスで天龍(源一郎)さんが延髄斬りや卍固めを使っているのを見て、子供ながらに「猪木さんの必殺技なのに、大丈夫なのかな??」ってドキドキしてました(笑)。
    小佐野 ましてや、全日本の人間がアントニオ猪木の必殺技を使うわけだからね。でも、天龍さんは結局「全日本のくせに猪木のマネをするヤツ」ということで存在感が出てきたわけだから。
    ――フックになったわけですね。
    小佐野 そういう意味では天龍さんも掟破りな人だったんだけど。いまだと、やっぱりみんなレインメーカーは使いづらいんだけど、いま大日本プロレスの『一騎当千』に来ているジミー・ハボックという外国人レスラーが、アシッド・レインメーカーという名前で、レインメーカーに似せた技を使っていたりする。まるっきりレインメーカーではないんだけど、ムーブ的にはレインメーカー。
    ――外国人の場合は、たぶんそんなに気にしてないんでしょうね。
    小佐野 結局プロレスの技なんて限られているから。そこからバリエーションをつけてみんな工夫して使っているけど、モノは考えようで、たとえば誰かが使うことによってその技は継承されていくわけだから、むしろへんな名前をつけて使われるよりは、元祖の名前で使ったほうがオレはいいと思うよ。今回の件で豊田真奈美が気分を害したというのは理解できる。でも、それだけ。
    ――つまり、いいとか悪いの問題じゃないと。
    小佐野 誰かが使うことによって10年、20年と技が残っていく中で「これって最初は誰が使ってたの?」と。そうすると「豊田真奈美」という名前がずっと残っていくわけだから。オレはそういう解釈ですよ。
    ――となると、今回議論になったことはある意味でよかったかもしれませんね。豊田真奈美のオリジナル技を日高選手と藤本選手が継承していた、ということすら知らなかったファンもいたりしますから。
    小佐野 技を編み出したのはその人かもしれないけど、その先もその人のものであるということではないから。ただ、作った本人が「大切に使ってほしい」という気持ちはわかる。ラリアットを使いだした小橋健太をハンセンが呼びつけて「使ってもかまわないけど、フィニッシュの一発だけにしろよ」と伝えた真意はまさにそこだからね。
    ――軽く使うんじゃないぞ!と。
    小佐野 ちょっと細かいフレーズは忘れたけど、アメリカのことわざに「その人を模倣するというのは、その人への最大のおべっかである」という言葉があるみたいなんですよ。だから、ハンセンだって長州がマネをしようが、小橋がマネをしようが、それは自分に対する尊敬だと捉えているから。
    ――90年代・新日本の若手レスラーがみんな長州さんのスタイルになっていったのと同じなのかも。
    小佐野 だから、とくに技を使うことに問題はないんだよ。たとえば同じ大会のメインイベンターの必殺技を使っちゃいけない真意は、同じような試合が続いちゃうという理由もあったと思うんだよ。だって、一つの大会で同じフィニッシュが続いたら、やっぱりファンとしては物足りないもんね。
    ――昔のFMWもデスマッチ系はメインだけというかたちでしたもんね。
    小佐野 豊田真奈美がそういうことを気にするのは、彼女は誰の技もパクらないからだよ。だって、彼女は女子の試合を観ない人だもん。
    ――だからこそ許せない感覚があった。
    小佐野 まあ一番早いのは技を伝授してもらうということだけど。たとえば、バックドロップをルー・テーズに教わったとかね。
    ――「ジャンボ鶴田のバックドロップはテーズ式だ」と言われると凄みを感じますよね。
    小佐野 実際にあのテーズ式のバックドロップを食らったハーリー・レイスが激怒したからね(笑)。レイスが「もう一回やってみろ!」ってジャンボの控え室に殴り込んできたらしくて。
    ――ガハハハハハハハ!  たしかに鶴田さんのバックドロップは本当に危険でした。
    小佐野 誰かの技をやるんだったら、完璧に自分のものにして使ってほしいということですよね。たとえば、いまみんなが使っているノーザンライト・スープレックスだって、あれは本来の馳浩のノーザンライトじゃないから。本当は両腕をフックして投げてワン・ツー・スリー。あれは両腕をロックしているところに馳のオリジナルがあるわけだけど、いま両方固めて投げる人いないもん。脇と片腕だけ固めて「ノーザンライトだ」と言っているけど、あれは違う技だから。
    ――つまり、継承するのが一番ベストけど、そうじゃない場合はその選手が今後どうやってその技を使っていくのかが問われるということですね。
    小佐野 だと思う。やっぱり技を独占することは誰にもできないわけだから。
    ――いよいよ本題に入りたいと思いますが、平成が終わるということで、小佐野さんが選ぶ平成の名勝負ベスト5をお願いします!
    小佐野 今回は「平成のプロレスを変えた5つの勝負」という視点で選びました。名勝負かどうかは見た人によるし、格闘技戦とか総合格闘技は入れず、純粋にプロレスの試合のみということで選んでいます。
    ―― まず1つ目はなんでしょう?
    小佐野 最初の試合は、1995年10月9日東京ドームの武藤敬司vs高田延彦です。
    ――おお~、新日本プロレスvsUインターの団体対抗戦!
    小佐野 そうです。団体対抗戦で最大規模だったと思うし、長州力の「Uを消す」発言どおりになってしまったわけですからね。
    ――たしかにUは消えましたねぇ。
    小佐野 UWFというのは昭和の終わりから平成にかけて、プロレス界にいろんなものを投げかけた運動体であり、スタイルであり、思想だった。結局、武藤vs高田を境に、UWFというのはプロレスの一つのスタイルなんだという方向に落ち着いていっちゃったと思うんですよ。UWFをとりまく論争に、この武藤vs高田で決着がついた歴史的な試合だと思いますね。
    ――非常に納得です。ちなみに当時第一線で取材をされていた小佐野さんからすると、Uという運動体の扱い方は難しくなかったですか? プロレスとしてなのか、格闘技として扱うのか。
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  • ジャイアント馬場没20年追善興行と飯塚高史引退試合■小佐野景浩の「プロレス歴史発見

    2019-03-04 12:33  
    90pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「ジャイアント馬場没20年追善興行」「飯塚高史引退試合」についてです!




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    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿
    ――先日素晴らしい引退試合を行なった飯塚高史選手は、平成を走りきった数少ないレスラーのひとりですよね。
    小佐野 昭和デビューのプロレスラーで、あれだけ元気な選手はなかなかいないよ。 四天王はいないし、三銃士にしても武藤(敬司)は長期欠場中で、蝶野正洋は実質リタイヤしてるようなもんだから。飯塚はヒールに転向してときに身体をガッチガチに作り直したでしょ。
    ――まだまだできるんじゃないか……って思わせる肉体ですよね。
    小佐野 引退試合を見てて思い出したんだけど、80年代後半の新日本は小橋建太の対抗馬として飯塚を売り出したんですよ。89年に長州とタッグを組んで烈風隊に勝ってIWGPタッグ王者になったでしょ。
    ――ありましたねぇ。
    小佐野 あれは異例のことだったんだよ。それまでの新日本では、新弟子から入った選手が上の選手とタッグを組んでチャンピオンになるなんて考えられなかったから。というのは、全日本プロレスがノンキャリの小橋を売り出したからなんですよ。まだシングルで1勝もしていない小橋が馬場さんとタッグを組んでアジアタッグに挑戦したり、ジャンボ鶴田と組んでメインで天龍さんと戦ったりしてね。
    ――あのときの小橋は全日本プロレスでは異例の抜擢でしたね。
    小佐野 新日本プロレスの現場監督だった長州力が全日本のやり方を見て「ウチは飯塚だ」と思ったはず。 飯塚がベルトを獲ったときに全日本の担当記者や関係者は全員そう思ったからね(笑)。長州さんも全日本が新しい売り出し方をしたから気にしてたってことだよね。それまでの全日本はノンキャリアの新人があそこまで大々的に抜擢されることはなかったし、一度は書類選考で落とされた小橋が売り出されたわけだから。
    ――飯塚もそれだけ期待の若手だったわけですね。
    小佐野 飯塚は若手の中では身体が大きいほうだったこともあったからね。馳浩と一緒にサンボ留学もさせてね。
    ――でも、なかなか……エル・サムライやAKIRA(当時・野上彰)との闘魂トリオやJJジャックス(AKIRA)もうまくいかず。
    小佐野 飯塚本人の性格が大人しいということがよく言われるけどね。何かのテレビ番組でライガーが飯塚に強烈なダメ出しをしていたのが印象的で。「オマエは自己主張しないからダメだ!!」と。当時の新日本は、自分で考えてガンガン自己主張していかないと上にはいけなかった。長州力という強烈な現場監督相手にも自己主張する。 会社からきっかけを与えられてるだけじゃダメだったんだよ。それは越中詩郎のあがき方なんか見てればわかるよね。
    ――反選手会同盟(平成維震軍)は取り残されたベテランレスラーたちが長州さんの許可を取らずに勝手に始めたものですね。
    小佐野 それもムチャクチャな話なんだけどね(笑)。でも、そうやって何か自己主張していかないと、流れから置いてかれるのが当時の新日本。だって先輩からすれば闘魂三銃士という強烈な後輩がいるし、後輩からすれば闘魂三銃士は強烈な先輩なんですよ。自己主張しないと自分のポジションなんか、あっという間になくなっちゃうんだもん。団体には大きな方針はあるんだけど、ファンやマスコミを味方にして盛り上がれば、会社も長州力も認めざるをえないからね。


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  • 柴田惣一☓小佐野景浩 プロレスマスコミ大御所対談「スクープ合戦はガチンコの闘いだった」

    2018-12-11 12:01  
    108pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は東京スポーツの名物記者として活躍し、テレビ解説者としても有名な柴田惣一氏をゲストに迎えてお送りします! 12000字のプロレスマスコミ大御所対談!! 



    <1記事から購入できる連載記事! クリックすると試し読みできます!>多発するプロレスラーのケガを考える愛すべき元横綱・輪島が戦った全日本プロレスの2年間全日本プロレスの「うっかり八兵衛」が明かす全日本秘話プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さんあの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん
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    癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!  猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
    「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー

    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――小佐野さんと柴田さんがいつからのお知り合いなんですか?
    柴田 もう長いよね〜。ボクは1982年に東京スポーツ入社ですよ。
    小佐野 俺は先に『ゴング』でアルバイトでやってたけど、その当時は月刊誌の編集者だったから、毎日張り付いている新聞記者とはスタンスが違うわけだよね。会場に頻繁に顔を出すようになったのは1984年に『週刊ゴング』になってからで。
    柴田 東スポに入った最初の頃は忙しくて周りを見る余裕がなくて。しばらくしてからいろいろ話をするようになったんだよね。
    小佐野 あとから『ゴング』の全日本担当として現場に行くようになったでしょ。柴田くんは馬場さんと並んでニコニコしゃべってるから凄いなあと思ってね。こっちは馬場さんに全然相手にされなかったんだから。口も聞いてくれないし。
    柴田 そうだっけ?
    小佐野 そうだよ。馬場さんには話しかけても適当にあしらわれる。からかわれるというか、まともに取材を受けてくれない。本当に困っていたら、そのシリーズのオフに初めて「小佐野くん」と普通に接してくれるようになった。馬場さんは1シリーズだけ新人記者の様子を見ていたってことだよね。
    柴田 ああ、それはわかる。馬場さんは敵か、味方かを分ける人だから。いったん認めると凄くフレンドリーなんだけど。 
    ――当時は試合がないときでも、新日本や全日本の事務所にそれぞれ担当記者が詰めていたんですよね。
    柴田 そうそう。担当記者が事務所に詰めていたし、我々の時代は事務所の出入りが自由だから。
    小佐野 いまは新日本の事務所に取材に行っても、入館証を持っていないからトイレにだってひとりでは行けないんだよね(笑)。
    柴田 ハハハハハハ。
    小佐野 昔は社員の机の上に重要資料とかがポンと置いてあったりするわけだから(笑)。ハッキリ言って会社としてどうかとは思うけどね。
    柴田 ボードには切符が何枚売れているとか実数が書いてあるしね。それは団体が我々のことを信頼していたっていうことでもあるんだけどね。
    小佐野 まあこっちも余計なことは書かなかったから。
    柴田 あの頃はプロレスマスコミしか集まってなかったからね。いまはプロレス以外のマスコミも取材に来るわけでしょ。あんな自由に出入りさせるわけにはいかないよね。外には出したくない機密情報もあるよ。
    小佐野 昔は会場の控室にも自由に入れたし。自由とはいっても、そのレスラーによってハードルはあるんだけどね。
    柴田 控室で石油ストーブにあたりながら、猪木さんや坂口さんらと普通に茶飲み話できてたから。ある時点になったら、我々は控室から出て行く。
    小佐野 そこは阿吽の呼吸。「そろそろ出ましょうか」と。
    柴田 そういう信頼関係があったんだけど、あるときからガラリと変わったよね。
    小佐野 新日本は長州さんが現場監督になってから。全日本の場合はしばらくOKだったんだよ。三沢光晴体制になってもオープンだったんだけど、NOAHになってから現場を仕切るようになった小川良成が「これがマズイ」ということで厳しくなった。
     
    柴田 そこはね、FMW時代の大仁田(厚)選手が良くも悪くも変えちゃったところはあったよね。大仁田選手がマスコミを抱え込むために、いろんな情報をどんどんしゃべるようになっちゃったんですよ。「◯月◯日に何か事件が起こるよ」とかね。
    小佐野 FMWからすれば会場へ取材に来てもらいたいからね。『ゴング』の編集部にも電話があったんだよ、「ここで何が起きますから、ぜひ取材を」って。当時の新日本や全日本はテレビマッチのときは会場取材してたんだけど、テレビ放送のないFMWがどうやってマスコミに来てもらうかといえば、事前に何かが起こるって先に伝えるしかないんだよね。
    柴田 そうすると新日本・全日本になかなか踏み込めなかったマスコミは、FMWを応援するようになるよね。
    小佐野 そのFMWも大仁田が離れてからエンタメ路線になって、プロレス以外のマスコミが取材に来るようになったから、さすがに冬木弘道が「これはマズイ」と。プロレスを知ってる人間だけならいいけど……ってことで一時期、規制を設けた。
    柴田 それが古き良き時代だったかどうかはなんとも言えないけども、まあそういう時代でしたよね。
    小佐野 ネタが欲しいときには道場に行って一緒にチャンコを食べればいいし。
    柴田 そうそう(笑)。事務所に行くか、道場でチャンコを食べるか。
    小佐野 チャンコの味のリクエストなんかもしちゃったりね(笑)。当時はシーリズオフになっても、『ゴング』は週に1冊作らなきゃいけなかったからね。選手を連れ出して変な特訓をやったり。
    柴田 わけのわからないことをやらせたよね(笑)。
    小佐野 当時は携帯なんかなかったから、選手の家に電話するしかない。選手の奥さんが電話に出ちゃったりしてね。
    柴田 選手との付き合いはダイレクト。当時は団体も何も言わないわけですよ。
    小佐野 ああ、じつは週刊誌の場合はそうじゃなくて、全日本は許可がないと取材するのはダメだったんだよ。
    柴田 ああ、そう。
    小佐野 会場での取材は自由だったから、電話で取材したんだけど、会場で話を聞いたことにしてね(笑)。
    柴田 ああ、なるほどね。
    小佐野 元子さん(ジャイアント馬場夫人)にいろいろ言われたけどね。「控室でこんなに長く話をしてた?」って(笑)。全日本がうるさくなったのは、輪島さんが入団してから。元横綱のプロレス転向ということで、一般マスコミも全日本に取材に来るようになっちゃったからね。団体側からすれば勝手に取材されるのは困るし、どうしても原稿チェックしたくなるわけですよ。
    柴田 でも、新聞の場合はいちいち許可をもらってる時間はないからね。
    小佐野 そこは週刊誌からすれば羨ましかったよね。プロレス界自体がチェックを厳しくやり始めたのは、UWFインターの宮戸(優光)くんからだよね。彼は原稿チェックが厳しかったから。
    柴田 新聞の場合はそんな面倒なことを言われたら「じゃあ、載せませんから」って感じだったし。
    小佐野 まあそうなるよね。あの原稿チェックによって高田延彦は非常につまらない男になっちゃったんだよね。高田延彦の地が出たのは『ハッスル』に入ってからですよ(笑)。昔から面白い男だったんですけどね。
    柴田 選手を変にガードをしちゃダメってことだよね。
    小佐野 なるべくその選手の口調は残したいわけじゃない。「俺」が「私」に変えられちゃうだけでも硬い内容に見えちゃうから。 
    柴田 そこは「こっちに任せてくれ!!」って言いたくなるよね。こっちは普段から話を聞いてるから、あらためて取材しなくても選手が何を考えてるのかはわかるから。
    小佐野 いまは団体のチェックもあたりまえだし、けっこう大変だよね。
    ――選手もSNSで直接、発信できちゃう時代でもありますしね。
     
    小佐野 あの長州現場監督時代の厳しい中でも、選手はみんな言いたいことは言ってたんだけどね。
    柴田 とくに規制があったわけじゃなくて、選手が自己主張するのはOKだったよね。
    小佐野 それが本当に面白かったら、あとから長州さんが追っかけてくる。
    柴田 うん、面白かったら長州さんも一緒に走るんだよね。
    小佐野 でも、長州さんはNOなものは絶対にNOだから怒っちゃうこともある。そこは選手たちも勝負だから、マスコミの力を借りて一か八かで発信する。長州さんが面白がるか、怒られるか。
    柴田 紙面を通じて長州さんの顔色を伺う……っていうのはあるよね。
    小佐野 新日本時代の大谷晋二郎がクビになりかけたときがあったでしょ。あのときは長州さんが大仁田とやる・やらないが話題になっていて、それがスーパージュニアを開催している時期だったから、大谷がキツめの批判をしたんだよね。それに長州さんは怒っちゃって「オマエはクビだ!!」と。大谷も「じゃあ、やめます」って巡業先から帰っちゃった。 あの佐々木健介が必死に大谷をなだめるというね(笑)。
    柴田 西村修選手も長州さんとは相当揉めたよね。そこは勝負してたんですよ。
    ――紙面を通じてキャッチボールをすると。
    柴田 基本的にガチンコですよ。もともと流れがあるものもあるけど、ガチンコから流れが作られるのもあるし。そこは周囲の反応を見ながら動いていく。それは猪木流ですよね
    小佐野 それでいえば、全日本が東京ドームでやったときに藤波さんが「出たい」と言い出したんだよね。あの人はあまりしゃべるのがうまくないでしょ。こっちが藤波さんの言いたいことをうまく書いてあげたんだけど、その発言が新日本で問題になって会議が開かれたときに、藤波さんは自分のインタビューが載った『ゴング』を持ち出して「ボクが言いたいことはこれです!」と(笑)。
    柴田 選手がなかなかうまく言えないときは、マスコミがサポートしてあげるってことだよね。東スポを読んで「あー、俺がやりたいことはこれなんだな」って納得する選手はいたんですよ。武藤選手なんかもそうでしたよ(笑)。そこは持ちつ持たれつの関係。
    ――蝶野さんも東スポの使い方はうまかったですよね。
    柴田 いまの内藤哲也選手なんかは蝶野選手みたいなやり方ですよね。
    小佐野 内藤もあの反逆さが売りになってるわけだから。昔で言えばアントニオ猪木というプロレスラーのイメージは、東スポの桜井康雄さんが作ったようなもんだし。
    柴田 もちろんその選手の面白くないと、いくらマスコミが盛り上げてもスターになれない。マスコミが魅力を引き出してあげるということだね。
    小佐野 天龍革命もそうだったよね。天龍さんが自分で団体やマスコミを動かしたのが天龍革命の面白さで。長州さんたちが新日本に戻ってしまった。どうするか? 自分がジャンボ鶴田ら本隊とやりあうしかないって阿修羅・原さんとコンビを組んでね。そうやって盛り上がることで、あのジャイアント馬場があとから天龍さんについていくかたちになったんだから。
    柴田 天龍革命は全日本プロレスの中では画期的なことだよね。本当の革命だった。
    小佐野 だから俺らマスコミも面白がって応援してしたわけだもんね。でも、マスコミが「天龍、全日本離脱か」みたいに煽ったときは天龍さん本人は内心焦ってたらしいんだよね。「本当に全日本をクビになったらどうするんだ?」って。 
    柴田 馬場さんの性格をよく知ってるからね。
    小佐野 馬場さんはバッサリと切り捨てる人だからね。紙が売れる、選手も人気が出る、団体のチケットも売れる……うまく進めば八方うまく収まるし(笑)。
    柴田 俺らマスコミが「面白い!!」と思ったことは、ファンが「面白い!」とも思うだろうしね。そうすれば団体も乗ってくるだろうし。だから楽しかったですよ。活字メディアが力を持っていた時代だったから。 
    ――東スポだと毎日記事を書かないといけないですから、大変だったんじゃないですか?
    柴田 たしかに毎日書くのは大変。会場に行く前に「今日はこのネタでどうだろう」とデスクと相談してから取材をしてね。ハマればそのネタで書くんだけど、試合を見てからでは遅いよね。
    小佐野 柴田くんはとにかくネタを探してたよね。
    柴田 亡くなった仲田龍リングアナウンサーとは世代が近いから「何かネタはない?」ってよく話をしたりして。昔のマスコミはリングサイドの本部席の隣に座れたから、そこでリングアナと会話できることは大きかったんだよね。ただ、話をしてる姿をテレビで見た元子さんが怒って、別の場所になっちゃったんだけど(笑)。
    小佐野 「何を雑談してるの?」ってことでね。一時期はテレビマッチのときはしゃべらないようにして(笑)。たしかに本部席にの隣に座れるのはマスコミとして大きいよね。リングアナが一番内部情報に詳しいんだから。
    柴田 そこで得た情報をもとに選手取材して記事にするわけだよね。選手もいろいろとしゃべりたいことはあるんだけど、勝手には発信はできないから、こっちから聞いてあげて。
    小佐野 「こんな話を聞いたけど……」なんてきっかけを作ってあげるってことね。
    柴田 選手の結婚話なんて、そういうとこから入手するわけですよ。
    小佐野 東スポは結婚ネタを他紙に絶対に抜かれちゃいけないという宿命があったでしょ(笑)。
    柴田 大変なんだよ〜。東スポはプロレスメディアの王様じゃないといけないというプライドがあって、結婚は一番最初に記事にすると使命があった。もう必死でしたよ(笑)。この続きと、メイウェザーvs天心、高橋奈七永、追悼・爆弾小僧、柴田惣一…などの記事がまとめて読める「11万字・記事20本の詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 愛すべき元横綱・輪島が戦った全日本プロレスの2年間■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-10-15 12:36  
    85pt

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    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”
    高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
    「プロレス取材の難しさ」
    一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――元横綱にして全日本プロレスでも活躍された輪島大士さんがお亡くなりになりました。小佐野さんはプロレス引退後の輪島さんを何度か取材されていたそうですね。
    小佐野 最後に会ったのは2012年の秋かな。ベースボール・マガジン社のムックの取材だったんだけど、そのときは全然元気で。88年にプロレスを引退してからは全然会う機会がなくて、再会したのは20年後の2008年。そのときも取材だったんだけど、輪島さんって正規のルートを通すとギャラが高い人でね。「お友達価格」で4回ぐらい取材させてもらいました。「私もビジネスなんだから困るんだよお!」と言いながらね(笑)。
    ――なんだかんだ言いながら取材を受けてくれるんですね。
    小佐野 輪島さんの奥さんが輪島さんの個人事務所の社長だったんだけど、私は輪島さんの携帯番号を知ってるから直でお願いしてね。「カミさんに内緒なんだから、何度も取材はマズイだろ!」と。輪島さん本人はノリノリなんだけどね(笑)。
    ――ハハハハハハ! 
    小佐野 凄く気さくな人でしたね。取材場所に寿司屋を指定されたときがあるんだけど、横綱が通う寿司屋って値段が凄く高いイメージがあるでしょ。だけど普通の街場のお寿司屋さん。輪島さんはすでに座敷に寝っ転がってテレビの相撲を見てて、我が家のようにくつろいでるんだよね(笑)。
    ――横綱だったからといって壁を作らないというか。
    小佐野 輪島さんは馬場夫妻と似てるところがあって、他人を世間的な地位だけでは判断しないんだよね。その人のことを好きか、嫌いか。輪島さんは有名人好きではあるんだけど、他人をそういうモノサシで測らない人だった。
    ――じゃなかったら「困るんだよぉ!」と言いながら何度も取材を受けないですね。
    小佐野 プロレス転向直後に取材したときは凄く緊張したもんだよ。私は横綱時代の大活躍を見てるから「あの輪島を取材するのか……!?」って。天龍(源一郎)さんに「横綱にはどういう風に接すればいいんですか?」って聞いたぐらいだからね。 
    ――昔の横綱はまさに天上人という重みがあって。
    小佐野 しかも輪島さんはキャデラックを乗り回したり、型破りな横綱で。相撲という枠を超えて日本人なら誰でも知ってる存在。まさに昭和のビッグスターだったから。そんな人が全日本入団後は付き人もいなくて自分の荷物は自分で持って。輪島さんのことをなんて呼んでいいのか悩んだんだよ。そこも天龍さんに相談したら「俺ですら全日本に入った頃は“天龍さん”と呼ばれると、天龍関だろコノヤローと思った」らしくて「横綱と呼んだほうが無難だよ」と。
    ――「輪島さん」はよろしくない。
    小佐野 でも、馬場夫妻はイチからプロレス界でやらせたいから「横綱」という呼び方はイヤがったんですよ。輪島さんも「横綱なんて呼ぶなよ」と。仕方ないから馬場夫妻がいる前では「輪島さん」、陰では「横綱」と呼んでね。
    ――それくらい気を遣う特別な存在だったんですね。
    小佐野 プロレス転向は相撲を引退して5年ぐらいブランクがあったし、年齢は38歳。いまはスポーツ科学も発達してるからまだまだできる年齢だけど、いまだと48歳ぐらいの感覚になるのかな。現役時代と比べてだいぶ痩せてるし、「本当にプロレスができるのかな?」って不安はあったよね。
    ――事前にプロレス転向の噂は流れてたんですか?
    小佐野 まったく聞いてなかった。日刊スポーツがスクープしたんだけど、それまで日刊スポーツは地方版でしかプロレスを扱ってなくて、全国版でも記事にするようになったのは輪島さんのプロレス転向がきっかけで。あのスクープが出た日、全日本は熊本で興行だったんだけど。マスコミみんなで馬場さんを取り囲んで、変な話なんだけど「なんで日刊スポーツなんだ!?」と(笑)。
    ――あー、よりによって日刊スポーツはないだろうと。
    小佐野 プロレス専門誌は週刊だからスクープは難しいとして、プロレスに強い東京スポーツやデイリースポーツを差し置いてなぜ門外漢の日刊スポーツなんだ?と馬場さんに詰め寄るという(笑)。
    ――プロレス担当記者は「なんで他紙に抜かれたんだ?」ってデスクに怒られますよねぇ。
    小佐野 なぜ日刊スポーツにスクープさせたのかはわからないし、そのへんはいろんな裏事情があったのかもしれない。前にも話したけど、演歌歌手の五木ひろしさんのお兄さんが五木プロダクションの社長で。その方の勧めもあって輪島さんはプロレスを2〜3年間くらい頑張ってみようかと。輪島さんは借金問題が原因で親方を廃業して、相撲界を追われてしまったけど、支援者からすれば、このまま終わらせるのはかわいそうだと思ったんでしょう。
    ――プロレスは当初から2〜3年の計画だったんですね。
    小佐野 2〜3年頑張るというよりは、年齢や体力的にもやれて2〜3年だろう……ということだよね。
    ――ボクは現役時代を目の当たりにしていないので「借金のためにプロレスに転向した横綱」というネガティブなイメージがあって。
    小佐野 プロレス転向は借金とはあんまり関係なかったみたいだし、借金も妹さんのちゃんこ屋が大失敗したのが原因らしくて。輪島さんが自分で作った借金ではないんだよね。輪島さん本人も借金がいくらあるかわかってないんだもん。「3億4億くらいでガタガタ言うなよ!」って言うから「横綱、3億と4億だと1億円も違いますよ!」って突っ込んだら「ああ、そうか」と(笑)。
    ――さすが昭和のビッグスター(笑)。
    小佐野 ちょうど手持ちがなかった輪島さんから「おい、ちょっとクレジットカードを貸してくれよ」と言われて困っていた記者もいたよ(笑)。
    ――ちょっと貸すもんじゃないですよ(笑)。
    小佐野 記者の財布から1万円を借りて買い物としたときも「お釣りはいらないから!」って(笑)。
    ――ガハハハハハ! 
    小佐野 輪島さんが親方を廃業したのは85年12月だけど、花籠部屋の後輩で全日本プロレスにいた石川孝志さんにプロレス入りを相談して。馬場さんに話を繋いでもらって、翌年の4月には全日本プロレスに入団。
    ――降って湧いた話に馬場さんは乗り気だったんですか?
    小佐野 輪島さんはビッグネームだからメリットはあるとは思ったんじゃないかな。でも、日本テレビは輪島さんが来るからって契約金を出したりはしない。輪島さんの特番を組むにあたってのお金を出すことはあるけどね。そのお金を全日本がどう使うかは勝手だから。
    ――新日本が選手を引き抜くだなんだってときは、テレビ朝日はけっこうなお金を出してましたよね。
    小佐野 そこは全日本の場合は違ったみたい。日本テレビがお金を出したのはアントン・ヘーシンクのときだけ。
    ――東京オリンピック柔道無差別級金メダルのヘーシンク。
    小佐野 ヘーシンクは日本テレビの契約選手だから。全日本が輪島さんにどれだけのお金を払ったのかはわからないけど、輪島さんをプロレスラーとして育てるためにお金はたくさん使った。トレーニングのために、ハワイ、セントルイス、バッファロー、シャーロットと行かせて、パット・オコーナーやデストロイヤー、ネルソン・ロイヤルとか錚々たるメンツに指導してもらったんだから。輪島さんは「馬場さんは自分のために超一流のコーチを呼んでくれた」と感謝していたしね。 
    ――なるほど。借金のためにプロレスをやったわけではなく、馬場さんも大金を弾んで横綱を獲得した……というわけではないんですね。
    小佐野 輪島さんもそんなに「お金、お金!」の人ではなかったよね。
    ――輪島さんを起用したことで全日本の中継がゴールデンタイムに昇格したんですよね?アメリカで輪島さんが握ったおにぎり、とんねるずとの出会い、天龍との抗争……ワジー秘話はまだまだ続く!
    この続きと、追悼・輪島、天心vs堀口、修斗対談、マクレガーvsハビブ……などの記事がまとめて読める「10万字・記事20本の詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 全日本プロレスの「うっかり八兵衛」が明かす全日本秘話■木原文人✕小佐野景浩

    2018-09-18 12:32  
    108pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は全日本プロレスのリングアナウンサーなどでおなじみ「木原のオヤジ」こと木原文人氏との対談!全日本プロレスの秘話を16000字でお届けします! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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    輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!
    全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信
    鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”

    小佐野 プロレスの世界でやったことのない仕事ってないでしょ?木原 リング屋、リングアナ、広報、営業、通訳、音響、照明……KAIENTAI-DOJOや『ガンバレ☆プロレス』でプロレスの試合もやりましたからね。やってないのはレフェリーくらいですよ。
    小佐野 オヤジ(木原のあだ名)が音響をやってなかったら、じつはテーマ曲ってここまでプロレス界に普及してなかったんだもんね。
    木原 自分で言うのもなんですけど、音響のパイオニアですよ(笑)。照明は(和田)京平さんに教えてもらいましたけど、音響は教えてもらう人がいなかったですから。東京工芸大学時代に習ったことも活かしました。
    小佐野 それまではテレビ中継のときだけ会場にテーマ曲が流れてて。普段の地方興行ではテーマ曲をかけてなかったよね。
    木原 地方の体育館には音響の設備もないし、当時のプロレス団体も音響担当がいなかったですからね。87年から89年くらいかな、第1試合目から入場曲をかけるようになったのは。
    小佐野 それこそ最初のほうは、用意したカセットデッキにマイクを近づけて場内に流していたでしょ(笑)。
    木原 だから音がメチャクチャ悪かったんですよ。開場時と大会終了後に流れる音楽や、勝者のテーマ曲もボクが勝手に流して始めたんですよ。それまでは日本のプロレス界にはそういう文化がなくて、無音の会場でしたよね。勝者のテーマ曲は、WWE(当時WWF)と仕事(日米レスリングサミット)をしたあとから機会があれば時々やるようになって。
    小佐野 あの当時、全試合テーマ曲を流すことは冒険だったと思うよ。
    木原 「前座の試合の入場にテーマ曲を流すのはおかしい」とよく怒られましたね。初めて第1試合でテーマ曲を流したのは小橋建太選手や菊地毅選手なんですけど。若い選手の試合にテーマ曲が流れると、先輩にイジメられちゃう時代でしたからね。
    小佐野 先輩方に「顔じゃねえぞ!」って言われてたよね。 
    木原 ボクはリングアナですけど、試合の担当じゃないときは売店に立ってないといけないんですが、音響をやるときは売店を抜けることになります。すると「オヤジがまた音楽で遊んでる」って日々言われていました。
    小佐野 全試合入場曲は新日本とどっちが先なんだろうね?
    木原 どうなんですかねぇ。どっちが先かはわからないけど。ただ、言えるのは全日本も新日本も当時はひとり何役かするのが常識でしたから、音響だけの担当はいなかったと思います。その後SWSには音響の業者が入ってたと記憶していますね。
    小佐野 SWSから興行もいろいろと変わった感じはあるよね。
    木原 いまは音響の設備もちゃんと整ってますからね。ボクが音響のやり方を教えた人間がプロレス界のたくさんあちこちに散らばってますよ。
    小佐野 宮原健斗の入場パフォーマンス、オヤジが音響じゃないと無理でしょ?
    木原 あの音を絞ったり上げたりは簡単にはできないですね。宮原選手と打ち合わせしてるわけじゃないんですが、「ここでほしいだろうな……」ってときに合わせて調整しています。
    小佐野 職人芸だよ、あれ。「ケント!!」コールと曲のバランスが絶妙で。
    木原 ありがとうございます。地方興行で「ケント!!」コールが起きないときはボクが声を出してるんですよ(笑)。
    小佐野 誰かの一声がないとね(笑)。 
    木原 宮原選手に「ボクの入場はボクと木原さんとで作り上げたと思ってます」って言われたときは凄く嬉しかったですね。音響係冥利に尽きますね。この世界って何か決まりがあるわけじゃなくて、ホント感性とセンスですからね。そういえば(仲田)龍さんに頼まれて、NOAHの後楽園ホールに音響の手伝いに行ったことがあったんですよ。
    小佐野 龍さんは全日本プロレス時代のリングアナの師匠だもんね。
    木原 龍さんからすれば、NOAHの人間におまえの仕事を教えてやってくれって意味もあったんですけど。なんと、そこにたまたま新日本の永田さんが試合に出てて、勝利を収めた永田さんの曲を流したらリング上の永田さんと目が合ったんですよ。永田さんは「なんでNOAHの会場にいるんだろう?」みたいな感じでボクを見つめたんですが、その瞬間ボクは思わず「THE SCORE」を流しました。すると永田さんが踊り出しちゃって……。
    小佐野 ナガダンスね。あれ、現場にいたけど、よく「THE SCORE」を用意してたなあと思って(笑)。
    木原 ほとんどの曲をボクは持っているので、すぐにスタンバイしました。聞くところによると、永田さんは、あれ以来NOAHでも踊ることになりましたからね。
    小佐野 「緑のマットを青に染め上げた!」って言って踊り続けてたもんね(笑)。
    木原 あれは誰の確認も取らないで、もちろん龍さんの確認も取らないで流したんですけど。プロレスってナマモノですから、ひらめきが大切だってことなんですよね。 
    小佐野 そもそもオヤジはいつ全日本に入ったんだっけ?
    木原 社員としてなら、長州さんたちがいなくなったときの後楽園ホール。
    小佐野 1987年4月だよね。菊地(毅)が入門した時期と一緒かな。
    木原 さかのぼること2〜3年前から全日本にはバイトとして出入りしてたんですよ。まだ学生でしたけど、小佐野さんとも会話はしてますよね。
    小佐野 してるよねぇ。
    木原 たとえば屋外の大会では控室はテントじゃないですか。そこに床屋さんを呼んで馬場さんが髪を切ってもらったり、みんなでキャッチボールをしたり。屋外試合って面白かったですよね。
    小佐野 はいはいはい(笑)。
    木原 屋外だと控室の仕切りがないから、そういうときにマスコミの皆さんとお話をさせてもらえる機会がありましたね。
    小佐野 バイトではいつぐらいから始めたの?
    木原 高校3年生になった頃ですかね。
    小佐野 ということはジャパンが全日本に来る前あたりかな。俺が全日本プロレスの担当になったあたりだね。
    木原 自分が付けたコーナーマットがテレビや雑誌に映っているのは感動モノでしたよ。全日本のアルバイトなのにUWFのトレーナーを着ていったこともあります。それで「UWF」というあだ名をつけられて、そのあと三沢(光晴)さんの命名で「オヤジ」になりました。あの頃の全日本ってボクみたいな若いバイトがいっぱい集まってたんですよ。龍さんがその走りで。
    小佐野 馬場夫妻ってプロレスファンの若い子たちが好きだったよね。いま新日本のレフェリーのレッドシューズ海野くんや、新生K−1プロデューサーの宮田充くんも手伝ってたでしょ。
    木原 そうですね。いまでも活躍してる人が多いですね。ボクの場合は、全日本の四日市大会を見に行ったときに売店で「リングの片付けを手伝ってもらえないか」と京平さんに誘われたのがきっかけです。ボクはプロレスが好きですけど、好きなのはプロレスだけじゃなく、プロレス記者、カメラマン、リング屋、テレビの作り方……など、すべてのプロレス業務に興味がありました。
    小佐野 それがいまのなんでもやることにも繋がってるわけね。あの頃の全日本って子会社がいろいろとあったでしょ。最初はB&Jの社員?
    木原 そうです。でも、ジャイアントサービスからも給料をもらったり、リングアナになってからは全日本からもギャラをもらったりして、ありがたかったです。
    小佐野 みんなそんな感じだよね。こないだ海野くんに話を聞いたときもジャイアントサービス、全日本プロレス、B&Jから給料もらったって。
    木原 さらにボクはTシャツやタオル、テレフォンカードのイラストやデザインも手がけていました。ある日、馬場さんがボクが描いたバスタオルを見て「オヤジは絵がうまいなあ。ようし、1枚書いたら俺が10万やる。だからこれからも頑張れ」と言ってきたんですよ。油絵もやられてる馬場さんに絵がうまいと褒められたのは励みになりましたね。
    小佐野 馬場さんに絵で褒められるのは凄いよね。リングアナはいつからやったの?
    木原 リングアナは89年にデビューしたんですけど、1年前の88年にやる話もあったんですよ。馬場さんから「オヤジ、次のシリーズからアナウンスせえ」と言われて。
    小佐野 なんで遅れたの?
    木原 ボクはリング屋の立場で毎日会社に行かなくてよかったんですけど、たびたび顔を出してたんですよ。ファンクラブの会報誌のお手伝いとか、もろもろ雑用もあったし、会社にいれば誰か選手が来て手伝うこともあったし。先輩スタッフの昔話を聞いてるだけで幸せでしたね。どこかでヒマを潰したり、遊んでるんだったら会社にいたほうが面白いと思って……。
    小佐野 プロレスという世界が好きだったんだね。
    木原 電話番もしてたんですよ。ある日、馬場さんにCM出演依頼が来て「馬場のCM出演に関しては、絵コンテや企画書を送ってください」と話をして電話を切ったら、元子さんが凄い目つきで睨みつけていて。「みんな、ちょっと集まって! この子、馬場さんのことを呼び捨てにした!」と突然怒られました。
    小佐野 うわあ〜(笑)。
    木原 だって、社外の方に対しては自分の上司の名前に「さん」付けはしないですよね。
    小佐野 「さん」を付けちゃダメなんだよね。 
    木原 ただ、当時の全日本はちょっとややこしい状況で。日本テレビから出向していた松根(光雄)さんが社長だったんですよ。元子さんは「馬場会長」という名前の意識が強くて……。
    小佐野 はいはい、初代社長だった馬場さんは会長になってて。元子さんからすれば「馬場会長」だもんね。
    木原 そんなときに電話口で「馬場」と呼び捨てしたボクが許せなかったんでしょうね。「この子にはリングアナをさせられない!」っていうことになって。全日本は元子さんが黒だと言えば、白いものも黒ですから(笑)、京平さんたちも「馬場さんを呼び捨てするなんて、とんでもない野郎だなっ!!」という話になって。
    小佐野 ハハハハハハハ。ありがちだね。
    木原 ボクも突然だったので「すいません、ボクが悪かったです」と謝るしかなくて。それでリングアナデビューが遠のきました。馬場さんからすれば「オヤジはなんで今シリーズからリングアナをやらんのだ?」ぐらいの感覚だったと思いますよ。
    小佐野 細かい事情は知らないだろうからね。
    木原 用意した衣装はトラックに何ヵ月も積んだままでした。そんなある日、木更津で興行があったんですけど、龍さんが大渋滞に巻き込まれて会場到着が遅れることになりました。すると元子さんが「オヤジは衣装を持ってるからリングアナができるわよ」ということになり、鶴見五郎vsリチャード・スリンガー戦からリングアナをやることになったんですよ。あのとき龍さんが遅刻してなかったら、その後もリングアナもやってなかったかもしれないですね。木更津でデビューなんて、奇遇なことに龍さんと同じ会場なんですよ。これも運命だったんですかね。
    小佐野 思ったんだけど、全日本のリング屋さんってみんな器用というか、“プロレスごっこ”もうまかったでしょ。受け身もちゃんと取れるしさ。
    木原 ボクが最高のやられ役で、全員の技を全部受けましたよ(笑)。
    小佐野 馬場さんは“プロレスごっこ”は嫌いじゃなかったよね。楽しくニコニコ見ていて。普通だったら「おまえら、リングで遊ぶな!」って怒られそうだけど。
    木原 「もっとやれ、もっとやれ。他の技もやれんのか? なんで教えてないのにこんなにうまくできるんだあ?」って感心してましたよ(笑)。じつはボクは学生の頃にウォーリー(山口)さんの店に出入りしてて、当時TPG(たけしプロレス軍団)の練習生だった邪道さんや外道さんと一緒にトレーニングしたこともありましたからね。
    小佐野 西馬込のマニアックスね。リングが置いてあって。
    木原 馬場さんから「オヤジは運動神経がいいなあ。レフェリーをやってみるか」という話になって。で、ボクの代わりに西永(秀一)がリングアナをやる話が浮上してきたんです。すると西永が「リングアナだけをやりたくない」って馬場さんに言ったみたいです(笑)。
    小佐野 あー、なるほどね(笑)。
    木原 馬場さんは「オヤジはリングアナとしてパンフレットにも載ってるしなあ」ということで、ボクのレフェリー転向の案はなしになりました。後日、龍さんが「西永の野郎、どうしてもリングアナはイヤだって言いやがって。俺らのことをナメてるよな」と。龍さんに「そうですね」と言いつつ、ボクもできることならレフェリーをやりたかったですけどね(笑)。
    小佐野 当時のレフェリーは新日本だとミスター高橋さん、国際だと遠藤光男さんとか、みんなゴツゴツした身体じゃない。全日本プロレスだけはレフェリーという専門の職業を作ったんだよね。そこは素晴らしいなと思った。
    木原 だからみんな身長は小さいですよね。選手より大きかったらマズイですから。西永は背が高かったからホントはマズイんですけどね(笑)。でも、ジョー(樋口)さんは身体がゴツかったんですよ。 
    小佐野 ジョーさんは元レスラーだもんねぇ。
    木原 ボクは全日本のレジェンドと呼ばれる人たちの家には遊びに行かせてもらってるんですよ。ジョーさん、ラッシャー木村さんや寺西勇さんとか。家で昔の写真を見せてくれるんですよ。若かりし頃のジョーさんがベンチプレスで160キロを挙げている写真は驚嘆でした。作/アカツキ
    小佐野 オヤジは木村さんたちから「モノマネをやってくれ」ってよく言われてたよね(笑)。
    木原 そうですね。ベテランの方々には仲良くしてもらいました。全日本が分裂してほとんどがNOAHに行くことになったじゃないですか。あのときNOAH勢が全日本の地方興行に4大会だけ出たことがあったんです。
    小佐野 分裂前に契約していた売り興行だから、NOAH勢も出なきゃならなかったんだよね。
    木原 あのときはさすがに両陣営がギスギスしていたんですけど、ボクだけNOAH勢の控え室に呼ばれて、永源(遙)さんに「おい、オジキ(木村)が馬場さんのマネを見ないと元気が出ないんだって言ってるぞ、おい」ってことで、木村さんの前で馬場さんのマネをやらされました(笑)。
    小佐野 活字では伝わらないけど、オヤジの馬場さんの形態模写はホントうまいよね。歩き方から薬を飲み方まで。馬場さんのそばにずっといたことの証だよ(笑)。
    木原 そうですね。たとえば握手の仕方、何気ない動作、息遣い。三沢さんに言わせると「オヤジのモノマネは普段の細かい動き過ぎて、テレビでは絶対にウケないよな」って言われてました。
    小佐野 リング上のプロレスラーのモノマネじゃないってことだよね。 でも、天龍さんのモノマネで全日本の合宿所に電話して小橋が焦ってなかった?(笑)。
    木原 いろいろやりましたね。最近だと店を予約するときは佐々木健介のモノマネです(笑)。
    小佐野 そういえば天龍さんはSWS時代、小橋を殴りに合宿所に行ったことあったでしょ。
    木原 なんかありましたねぇ。
    小佐野 あれは小橋が折原昌夫に「おまえはどうせSWSに行くんだろう?」ってイジったら、酔っ払った天龍さんが夜中に乗り込んだんだよね(笑)。そうしたら新弟子の浅子覚しかいなくて。天龍さんはゴルフクラブを持ってたから、浅子は怖くて2階まで逃げたんだけど、天龍さんが追っかけてきて万事休す。「おまえは誰だ?」「新弟子の浅子です!」「そうか、頑張れよ!」って高額の小遣いを置いていったもらった逸話があるよね(笑)。
    木原 単なるいい話ですよ(笑)。全日本プロレスとNOAHの分裂騒動、元子さんが激怒した天龍源一郎復帰秘話、ビンス・マクマホンを襲撃!?……16000字対談の続きは会員ページへ!
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  • プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-08-20 22:09  
    75pt


    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「プロレスラーが憧れたプロレスラー、マサ斎藤さん」です! 
    <マサ斎藤追悼企画>追悼・マサ斎藤さん……献杯はカクテル「SAITO」で■斎藤文彦INTERVIEWS谷津嘉章「巌流島で猪木さんと向き合えるのはマサさんしかいなかったよな」


    <これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>あの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩最後まで全日本プロレスを愛した馬場元子さん
    中邑真輔、棚橋弘至、柴田勝頼……新・闘魂三銃士最後のムーンサルトプレス……天才・武藤敬司縁の下の力持ち!! 坂口征二の荒鷲人生WARからイッテンヨンへ! ライオン・ハート時代のクリス・ジェリコ
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    プロレスラーで初めて大臣になった男、馳浩大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE 暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
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    ――小佐野さんは晩年のマサさんを何度取材されていたんですよね。
    小佐野 ここ何年間かのあいだで3回ぐらい取材してるんですよ。マサさんの自宅におじゃましたりして、最後に会ったのは一昨年の6月ぐらいかな。
    ――マサさんはパーキンソン病の関係で、なかなかしゃべりづらそうでしたよね。
    小佐野 こっちも慣れたっていうのあるけど、けっこう聞き取れたよ。一度電話でインタビューしたこともあって。そのときマサさんはリハビリ施設に入っていてね。締め切りの問題があって電話取材になったんだよね。 
    ――ボクがマサさんを取材したときも、しゃべってるうちにだんだん饒舌になっていって。取材を受けるのもリハビリの一環だったのかなと。
    小佐野 プロレス技の解説をするときなんて身体を動かして身振り手振りだったから。記憶力が凄くてなんでも覚えてるんだよ。もっといろいろな話を聞きたかったなあ……。
    ――小佐野さんはプロレスファンの頃からマサ斎藤というプロレスラーのことを見てきたんですよね。
    小佐野 小学生の頃だけど、マサさんがサンフランシスコでキンジ渋谷さんとタッグを組んでいた試合を『月刊ゴング』で読んでいた。アメリカから帰国して、日本プロレスの第14回ワールドリーグに参加した試合もテレビで見てましたよ。
    ――どういうスタイルだったんですか? ボクは猪木さんと戦っていた40代の姿しか知らないんですよ。
    小佐野 コスチュームは田吾作スタイルなんだけど、反則をしないレスラー。まあそれは日本陣営だからなんだけどね。坂口(征二)さんと明大で同期、レスリングをやっていた……という知識はあったんだけど、毎シリーズに参加するわけじゃないから、あくまで助っ人という扱い。裏を返せば、その年の3月に新日本を旗揚げしていたから、猪木さんに取られないように日本プロレスに参戦させたところはあったんだと思う。もともとマサさんは東京プロレスで猪木さんと一緒にやっていたから。
    ――マサさんは新日本に参戦する意志はなかったんですか?
    小佐野 そのときマサさんはロサンゼルスのミスター・モトさんに世話になっていて。モトさんの意向もあって日本プロレスに戻ったんだって。マサさんとしては猪木さんのいる新日本プロレスに上がりたかったんだと思うよ。面白いのはその日プロに上がってる時期に、猪木さんと坂口さんを裏で引き合わせていたんだよね。
    ――マサさん仲介役で密会! 当時の坂口さんは日プロで、のちに新日本に合流しますよね。
    小佐野 マサさん本人は「3人で食事をしたのはたまたま」とは言っていたけどね。マサさんが猪木さんとメシを食べる約束をしてて、坂口さんに「一緒に行く?」と聞いて。
    ――それって猪木さんと坂口さんがトラッシュトークをやりあっていたあとのことですよね。
    小佐野 うん、そのあと。3人でメシを食ったことが坂口さんの新日本プロレス合流のとっかかりになったんじゃないかな。その件についてマサさんに突っ込んで聞いたら「あー、もう忘れた〜」ってウヤムヤにされたけど(苦笑)。
    ――3人それぞれ思うところはあっての行動だったんでしょうね。
    小佐野 マサさんがいなかったら、猪木さんと坂口さんが2人で会うきっかけもなかっただろうし。テレビ朝日としても日プロの先行きが見えない中、日本テレビが全日本プロレスを放送するようになったから、猪木さんと坂口さんをくっつけようとしていた。そこで意外なのは、坂口さんは合流したけど、マサさんは新日本プロレスに入らなかったこと。
    ――ああ、そういえば。
    小佐野 なぜ合流しなかったかといえば、アメリカで稼いでいたから。
    ――マサさんらしいですね(笑)。
    小佐野 マサさんが「入れてくれ」と頼んだら歓迎されたと思うよ。猪木さんが社長、坂口さんが副社長、マサさんは取締役として3番目のポジションに就いてもおかしくなかった。でもマサさん本人はアメリカでの生活を望んだ。まあアメリカに家族がいるという理由もあったんだろうけどね。
    ――そこまで猪木さんの信頼を得ていたんですね。 
    小佐野 マサさんの話を聞いてると、猪木さんのことが大好きなんだよね。猪木さんのことを絶対に悪く言わないもん。そこはやっぱり東京プロレスが大きいんじゃないかなあ。マサさんと猪木さんはそれからの付き合いだから。東プロが崩壊したあと、マサさんはアメリカに渡ったけど、おそらく猪木さんが道をつけてあげたんだと思う。マサさんとラッシャー木村さんは日プロは除名扱いで戻れなかったから。
    ――猪木さんは日プロにカムバックできるけど。
    小佐野 猪木さんの場合は豊登にそそのかされた若気の至り……という表向きの理由があった。日プロとしては、猪木さんを戻せる状況にしておきたかったんだよ。そこは馬場さんに次ぐエース候補だったしね。北沢(幹之)さんはちゃんと筋を通して日プロをやめてるから復帰できたんだけど、木村さんとマサさんは日プロを脱走しちゃったから。 
    ――そういった若手が二度と出ないように、見せしめじゃないですけども。
    小佐野 日プロに戻れたのは猪木さん、北沢さん、東プロでデビューした永源遙さんと柴田勝久さん。木村さんは国際プロレス、マサさんはアメリカに渡るんだけどね。
    ――猪木さんとの繋がりがあるから、帰国したときのリングは新日本なんですね。
    小佐野 フロリダではカブキさんとタッグを組んだり、天龍さんとか全日本系の人との付き合いのほうがあったんだけどね。向こうでどんな試合をしていたのかは私も直接見たわけじゃないんですけど、キンジ渋谷さんとのタッグのときは、トラディショナルな日系ヒール。フロリダはエディ・グラハムがプロモーターでレスリングが好きな人だから、そこではレスリング中心。レスリング、レスリングで最後に悪いことをやる。レスリングとスニーキーのミックスだよね。 
    ――そこはテリトリーにとって使いわけているんですね。
    小佐野 「アメリカでの試合を見たことない」と言ったけど、じつは見てるんです。でも、それはマサ斎藤の試合ではなくて……どういうことかというと、初めてマサさんと会話をしたのは81年8月5日の水曜日。なぜ曜日まで覚えてるかというと、マサさんは毎週水曜日にマイアミビーチで試合してたんです。当時のマサさんは火曜日はタンパ、水曜の昼間にタンパでテレビマッチの収録があって、セスナでマイアミビーチに飛んで夜に試合。それが終わったらセスナでタンパに戻って、翌日はジャクソンビル。
    ――水曜日のマイアミビーチでマサさんと出会ったんですね。
    小佐野 マイアミビーチの空港に着いてフロリダのオフィスに電話したんですよ。たまたまデューク・ケムオカさんが出てくれて「マサ斎藤が会場にいるから」ってことだったんだけど、マサさんはどこにもいなくてね。メインイベントはアサシンズの試合で、リングサイドで写真を撮っていたら、リング上のアサシン2号から「おい!!」って日本語で声をかけられて。
    ――まさか……(笑)。
    小佐野 「俺だよ!」「……もしかしてマサ斎藤さんですか?」「そうだよ!!」……アサシンズは全身タイツだから、マサさんだってわからなかったんだよ(笑)。
    ――マサさんはどうしてアサシンズをやってたんですか?
    この続きと、シンサックの奥さん、堀口キック挑戦の真意、マサ斎藤、加藤清尚、レスナー…………などの記事がまとめて読める「10万字・記事21本の詰め合わせセット」はコチラ 
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  • スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

    2018-07-13 11:37  
    85pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「スーパー・ストロング・マシンが戦った熱き時代」です!【関連企画】
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    小佐野 (さえぎって)いや、平田さんが引退したんじゃなくてスーパー・ストロング・マシンが引退したんだけどね。
    ――あ、失礼しました(笑)。
    小佐野 平田さんは一度もマシンの正体を口にしていない。素顔の平田淳嗣で戦ったことはあるんだけどね(笑)。以前Gスピリッツでヒロ斎藤と対談をやったことがあったんです。カナダから帰ってくるまでの内容は平田淳嗣として語っていて、次号の帰国後の話はスーパー・ストロング・マシンが登場している。そこには強い拘りがあるんですよ。
    ――引退式の挨拶では、今年に入って奥さんが亡くなられたことを明かしていましたね。
    小佐野 そのことは知らなかった。新日本プロレスとの契約が切れた時期と、奥さんが亡くなったのが被っちゃったみたいで……本当に気の毒だよねぇ。
    ――言葉に詰まりますねぇ……試合からは遠ざかってましたが、道場のコーチとして練習生の指導をされていて。
    小佐野 私が道場に取材に行くと、平田さんだけじゃなくて道場管理人の小林邦昭さんもいたりして。新日本の選手が巡業に出ているときは、長州さんやヒロちゃんが練習に来たりするから、まるで昭和の新日本道場にタイムスリップしたかのような雰囲気なんですよ(笑)。 
    ――新日本の道場ってオープンですよね。
    小佐野 オーナーが変わって新しい会社になったけども、新日本のOBが顔を出しづらいとかはない。長州さんたちは功労者だから練習するぶんには全然OKなんでしょう。若い選手もOBと接することで何かしらの勉強になるわけだしね。そういえば、棚橋弘至がケガしてシリーズを欠場して道場に残っていたときに、長州さんと長らく話をしたらしいよ。
    ――そういう交流もあるんですねぇ。小佐野さんはマシンとはいつくらいから面識があるんですか?
    小佐野  私は『ゴング』に入る前に新日本プロレスファンクラブをやっていたから、もともと面識はあったんですよ。『ゴング』では全日本担当だったから、取材するようになったのは全日本を主戦場としていたカルガリー・ハリケーンズ時代になるんだけどね。
    ――ヒロ斎藤、高野俊二(高野拳磁)とのユニットですね。
    小佐野 カナダから帰ってきてストロング・マシンになった頃の彼は、反骨の人だったよね。
    ――温厚な性格という話ですけど……。
    小佐野 激しいものを芯に持っていた人だから、マスクを被ると別人格になるってよく言われるし、マスクマンが性に合っていたんだと思う。とくに帰国直後は新日本に対する怒りや不満が充満していた。会社不信の理由の一つは海外遠征でメキシコに行かされたこと。最初はカルガリーに行く予定で、当時新日本に参戦していたブレット・ハートとも仲が良かったんだよ。ところがメキシコに変更になったと聞かされたときは、合宿所の部屋の鍵をかけて閉じこもっちゃって、合同練習にも出てこなくなっちゃった。平田さんの心情を理解していた山本小鉄さんも怒らなかった。
    ――そこまでショックだったんですか!(笑)。
    小佐野 当時のメキシコは身体の小さい人が行かされる、島流しのイメージが強かったんだよ。「ああ、あいつはメキシコか」なんて残念がられてね。なぜメキシコに変わったかといえば、長州さんがメキシコに行っていたでしょ。帰国後に「噛ませ犬」発言でブレイクしたんだけど。その長州さんの代わりのヘビー級選手をよこしてほしいというリクエストがあったんだよ。当時の平田さんは黒のタイツに白いシューズ。長州さんと似たような出で立ちということもあって。
    ――本人からすれば、たまったもんじゃないですねぇ。
    小佐野 1年ぐらいして自力でカナダに渡って。アメリカ本土で試合をしたいからキラー・カンと話をしてテキサスに行こうとしたら、坂口さんから「テキサスの前に一度帰ってこいよ」と。当時の新日本はUWFや維新軍が抜ける直前で大ピンチだったから。 
    ――それで帰国してみたら……。
    小佐野 マスクマン計画があると。本人はイヤでイヤでしょうがなかったけど、仕方なく命令に従った。それが幻の「キン肉マン」。
    ――日本テレビでアニメを放映していた「キン肉マン」をテレビ朝日に登場させるって凄い企画ですよね。結局、契約がまとまらずボツになって。まあ乱入しちゃったんですけど(笑)。
    小佐野 凄い見切り発車だよ(笑)。本人もよくわかってなかったんだよ、裏事情は。とにかく「マスクマンになれ」という命令だけで。「キン肉マン」がダメになったら「素顔にするか」みたいな話にもなったんだけど、あそこまで大々的に仕掛けておいて、いまさら素顔で出ていくわけにはいかないでしょ(笑)。
    ――適当にもほどがありますよ!(笑)。そもそも「キン肉マン」ってベビーフェイスじゃないですか。
    小佐野 初乱入したときから若松さんがマネージャーについてるんだよね(笑)。本人はマスクを被って乱入を繰り返しているうちに「これはこれで楽しい」と魅力を感じるようになってね。いくつかのデザインの中からあのマスクを選んだ。目はメッシュで、口は裂けていて表情がまったく見えない。無機質なマスクで、まさにマシン。斬新なデザインだったし、マスカラスは別格として、タイガーマスクとマシンのマスクはプロレスファンなら誰もが欲しがったと思うよ。
    ――タイガーマスクや獣神サンダーライガーなんかはマンガの原作がありますけど、マシンはオリジナル。そのフォロワーも数多く生んでますし、日本のマスクマン史上最大のヒット作ですよね。
    小佐野 彼の帰国第1戦は猪木さんとのシングルマッチ。それも凄い話じゃない。だってキャリアはまだ5年程度だからね。でも、本人はまったく緊張しなかったんだって。 
    ――そこはマスクのなせる業なんですかね。
    小佐野 プロレスラーは喜怒哀楽を見せながら戦うものなんだけど、マシンはあのマスクデザインだから表情が見えない。そうやって人間性を殺しちゃったことで猪木さんとも普通に渡り合えた。無個性なところが個性になったし、ストロングマシン2号、3号……とドンドン増殖することになったわけだしね。あの増殖は自分のアイデアではないらしいけど。 
    ――魔神風車固めも必殺技としてかっこよかったですよね。
    小佐野 あれはね、苦し紛れに作ったみたい(笑)。
    ――苦し紛れであの完成度!
    小佐野 前田日明が12種類のスープレックスを引っさげて凱旋帰国したでしょ。何かの取材で「俺は20種類のスープレックスを使える」と言っちゃったんだって。そうなると新しいスープレックスを出さざるをえなくなって考えて、無理やり編み出したのが魔神風車固め。海外では一度も使ったことはないんだけどね(笑)。
    ――人材不足でマスクマンになったとはいえ、メインに抜擢されたのは才能を見込まれていたところはあったんですか?
    小佐野 三沢光晴は5ヵ月でデビューした天才と言われてたけど、あの人は3ヵ月だからね。まあ藤原(喜明)さんは入って1週間でデビューしたんだけどね(笑)。
    ――入門した際の、ドン荒川さんの盛り過ぎエピソードも有名で。 
    小佐野 「顔は三浦友和でジャンピングスクワットを何百回もやる奴が入ってきた」ってやつだよね(笑)。実際は小鉄さんの前で腕立てとスクワットをちょっとやってOKだったんだけどね。
    ――そして3ヵ月でデビュー。
    小佐野 2日前に猪木さんに言われてデビューしたらしいね。当時は受け身もロープワークもロクにできない。柔道はやっていてプロレスファンだったから、なんとなく試合はできちゃったみたいだけど。その頃の新日本の前座はグラウンドレスリングが中心だったからね。相手も藤原さんだったりするから道場の練習と同じ。あとは試合をしながら覚えていく。カルガリーでは安達さん(ミスター・ヒト)さんに教わって、現地で抗争していたロン・スターとの試合がいい勉強になったみたい。毎回違う試合をしてくるから「こうやってプロレスをやるもんなんだ」と。
    ――海外で幅を広げたんですね。
    小佐野 日本にいたら相手は決まっていたからね。毎回前田日明とガンガンやりあって、ニールキックで唇が取れた……みたいな試合ばっかですよ(笑)。
    ――強くはなりますけど、うまくはならないですね(笑)。
    この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388
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  • あの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩

    2018-07-04 17:47  
    108pt

    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回の特別編! 小橋建太プロデュース「Fortune Dream5」でデビュー30周年&引退記念試合を終えた北原光騎さんと語らってもらいました! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!




    <関連記事>「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー
    【男が男に惚れる天龍劇場】北原光騎インタビュー「俺にとって天龍さんは“神様”だよ」【濃厚18000字】トンパチ折原昌夫が明かす全日本プロレス、SWSの信じられない話!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合
    レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!


    小佐野 初めて会ったのはジャパンプロレスに入ってきたときだよね。
    北原 ジャパンの合宿所かな。小佐野 87年5月。池尻にあったジャパンの道場に寝泊まりしてて。北原 入ったのはジャパンなんですけど、長州さんたちは新日本に戻っていたし、全日本の天龍さんや(阿修羅・)原さんの付き人の仕事もやることになったから「全日本の合宿所に来い」と言われて。
    小佐野 立場は正規軍の若手なのに、そのまま付き人としてレボリューションと一緒に行動するんだよね。
    北原 レボリューションは巡業のときジャパンプロレスのバスを使ってたんですよ。(百田)光雄さんや永源(遙)さんとか、全日本の“はぐれ親父”たちがコッチのバスに乗るようになって。あ、永源さんはジャパンだったからそのまま乗ってたのか。
    小佐野 ジャパンの残党や、クセのあるレスラーが正規軍から抜け出して、天龍さんのバスに乗ってたんだよね(笑)。あのとき何歳だっけ?
    北原 22歳とか23歳とか。
    小佐野 「今度の新弟子は佐山(聡)さんのスーパー・タイガージムのインストラクターをやっていた」と聞いて、これはまた毛色の変わった人が入ってきたなあと思ってましたよ。当時の新弟子ってみんな若かったでしょ。子供じゃなくて大人が入ってきたという印象。
    北原 いまは25〜26歳で入ってくる奴は普通にいるんですけどね。
    小佐野 大学を卒業してから入ってくる人なんかも多いから。中学を卒業したり、高校を中退してくる新弟子と違って“プロレス少年”ぽくない感じ。いままでの新弟子とは違った話やすさがあったよ。
    北原 ああ、そうだったんですか。
    小佐野 先輩レスラーよりもマスコミとしゃべっていたほうが楽だったように見えたけど?
    北原 どうですかね。たしかに先輩としゃべるのはイヤでしたけどね。……なんというか、「来るならこいよ?いつでもやってやるぞ?」って感じで(苦笑)。
    小佐野 ハハハハハハ。ギラギラしてたよねぇ。
    北原 いや、先輩の命令はちゃんと聞いてましたよ。でも、態度は凄くデカかったと思うし、新弟子なのに頭は坊主にもしてなかったし。
    小佐野 挨拶や礼儀はスーパータイガージムにいたからちゃんとしてるけど、先輩に対して「……コイツには勝てるんじゃないの?」っていう目で見てたよね?(笑)。
    北原 いつも、それ。俺にはそれしかなかったですよ。そんな俺を見て仲野信市さんが「コイツには絶対負けないぞ」と思ってたらしいです(笑)。
    小佐野 あの頃の全日本の合宿所は小橋建太や菊地毅もいたし、面白いメンツが揃ってたよね。
    北原 菊地は一つ下で、小橋が三つ下。
    小佐野 菊地は一応先輩になるんだよね。ちょっと前に入門してて。
    北原 小橋の一ヵ月後あとくらいに玉さん(田上明)が入ってきて。
    小佐野 高木功も入ってるからけっこう豊作の年だよ。お相撲さん2人にアマレスのチャンピオン、シューティングの選手。何もなかった小橋はそれがバネになったみたいだけど。
    北原 当時はまだ若いから、「……この子たち、できるのかな?」って思ってましたよ。いや、若いね、考えが(笑)。
    小佐野 シューティングをやってきてたんだから、普通はそう思うよね。
    北原 とくに先輩でも偉そうに言われると「おまえ、試合でやってやるぞ……」っていうプライドは持ってましたよ。そういうものは絶対に出しちゃいけないんだけどね。当時栗栖(正伸)さんから「リングの上で絶対に関節技の練習をやるなよ。逆立ち腕立て伏せなんてもってのほかだ」と言われて。その意味がわからなくて、あるとき逆立ち腕立てだけやってたら、ある先輩に「そんなことをやるんだったら受け身を取れ」と言われて。「ああ、栗栖さんが言っていたのはこういうことか」と。関節技も全日本プロレスには必要ないってことで。
    小佐野 不思議なのは、全日本がどこで関節の練習をやらなくなったのかはわからないけど、日本プロレス時代はやってたんだよね。もともと沖識名さんができる人だったし、途中でゴッチさんがいなくなってもその技術は残ってたんだよ。だからアキレス腱固めもあったんですよ、日本プロレス時代。それがいつのまにか……小橋なんかとはそういう練習をやってたでしょ?
    北原 やってましたよ。小橋のほうから「教えて」と。
    小佐野 彼らは覚えたいわけだもんね。
    北原 菊地はアマレス出身だから抑え込むのが得意だし。覚えるのは早かったですよ。でも、彼にはそんなに教えてないのかな、小橋のほうが熱心だったかな。さっき小佐野さんが「小橋には何もなかった」というところの貪欲さというか。俺から見ると「コイツ、いい身体してるな」って思ってたんだけど。入門したときから身体はデカかったし。
    小佐野 持って生まれたいい身体だよねぇ。小橋に関節技を教え、先輩の川田利明にはキックをコーチして。じつは新しい技術を全日本に取り入れてるけど、先輩に教えづらいよね、普通。作/アカツキ
    北原 前に川田さんと対談したときに聞いたんですよ。「あのときよく俺に聞こうとしましたね?」って。そうしたら「オマエはできるんだから、ちゃんと聞くのはあたりまえだろ」って。
    小佐野 巡業中も一緒に練習してたもんね。シューティングで後輩だったスーパーライダーの渡部(優一)さんが、高校のレスリング部で川田の先輩だったというネジれた関係だったけど。修斗初代王者/仮面シューター・スーパーライダー 渡部優一「東映の許可? 取ってますよ(笑)」
    北原 俺としてはラッキーでしたよ(笑)。水戸黄門の印籠みたいなもんで。でも、それがなくても川田さんは後輩に変なことしないんですよ。あんまり明るい人じゃないけど、意地悪をやったりするような人ではない。そういうのはまた別にいるから(笑)。
    小佐野 フフフフフ。 
    北原 そこらへんはキツかったですよね。でも、「やるならいつでもやってやるぞ」って思ってましたから。
    小佐野 「試合でおもいきり蹴ればいいんだ」ってあの頃言ってたもんね(笑)。
    北原 俺、試合で毎回ムカついてましたよ。どうしても先輩に気を遣うところがあるじゃないですか。
    小佐野 でも、やっちゃうんでしょ?
    北原 あるときスピンキックをやったらマイティ井上さんのアゴが外れちゃって。
    小佐野 うわあ……。
    北原 メチャクチャ怒られましたよ。やっぱりケガをさせちゃいけないっていう大前提があるから。
    小佐野 しかも井上さんも気が強いからね。 井上さんは山本小鉄さんと揉めたことがあるから。光雄さんはそんな感じじゃないでしょ?
    北原 光雄さんからは何か言われたことはない。「オマエの好きなことをやれ!」って。でも、光雄さんは試合内容には厳しかったですよ。第1試合の菊池が試合後にトイレで光雄さんに怒られてたんですけど、その説教がメインまで終わらないんですよ。先輩たちが「菊地はどこに行った?」って(笑)。
    小佐野 ターザン後藤さんも光雄さんのお説教タイムを食らってたなあ。付き人の仕事ができないぐらい延々と。
    北原 俺は怒られなかったなあ。バスの席が隣だったけど。
    小佐野 若手は大技を簡単に使っちゃダメな時代だけど、光雄さんに大技を試して、OKだったら他の試合でも使えるって感じだったけど。それでもあの頃キャプチュードとか普通に使ったでしょ。
    北原 俺、1試合目からドロップキックも普通にやってたし、佐山さんのサマーソルトを使ってましたからね。長州さんたちが抜けたあとで全日本も大変だったから、あまりうるさくなかったんでしょうね。
    小佐野 あのときの全日本が「若手でもやれることはやっていい」と変わりつつある時期だったのはラッキーだったよね。苦々しく思ってる先輩がいても、お客さんが喜ぶならいいやって感じで。だからって若手がレガース付けて佐山タイガーみたいな動きをするって凄いけど(笑)。
    北原  佐山さんとダイナマイト・キッドがやっていた試合を光雄さんとやってたんですよ(笑)。
    小佐野 「百田光雄キッド」(笑)。
    北原 そんな試合をやっていたらキッドの目にも止まって。キッドから「オマエ、なんであんな動きができるんだ?」と聞かれて、誰かが佐山さんの弟子だってことも教えたんでしょうね。「海外に行きたいか?」って聞かれて「行きたい」と。まあ、その場だけの適当な話だろうなって思っていたら、あとになって天龍さんに「行きたいか? 馬場さんからもオッケーをもらってるから」って。
    小佐野 それで当時の若手の中で誰よりも早く海外修行に行けたわけだよね。
    北原 天龍さんが凄いのは、みんながいる合宿所ではその話をしないんですよ。
    小佐野 嫉妬するもんね、周りの若手が。
    北原 「ちょっと外に行くぞ」と天龍さんの車に乗って、町内一周回ってるときに聞かされて。凄い気遣いですよね。
    小佐野 そうしてジョニー・スミスと一緒にカルガリーに入ったんだよね。
    北原 カルガリーのキッドの家に3ヵ月ぐらい住んでたんだけど、そのあいだキッドはイギリスに帰っていたりしてて。まあ向こうは大変でしたよ。当時のカルガリーのマーケットはクローズド寸前で。小切手が全部不渡りになっちゃったり。
    小佐野 カルガリーはWWEの侵攻を受けてヤバイ時期だったもんね。帰ってくる頃に完全にクローズドだったでしょ、プロモーション自体が。もう時効だと思うけど、観光ビザで試合をしてなかった?(笑)。
    北原 途中で捕まってから変わったんですよ。ダイナマイト・キッドとテレビマッチというときにイミグレーションに連れて行かれそうになって。スチュ・ハートがあいだに入って「明日行かせるから、テレビマッチだけは撮らせろ」と。
    小佐野 ハハハハハハ。
    北原 次の日にイミグレーションに行ったら、たまたま蝶野(正洋)さんの外国人マネージャーがいたから、手続きをやってもらったんですよ。「すぐに許可は出せないから仕事するなよ」と言われてたんだけど、隣町だったら大丈夫だろうということで、州をまたごうとしたときに交通事故に遭ったんですよね。
    小佐野 あの事故は夏のことだよね。
    北原 アメリカ独立記念日の日。7月4日。一緒に乗ってたデイビーボーイ・スミスも大ケガしちゃったから、その事故は新聞の一面にデカデカと出たんですよ。
    小佐野 デイビーボーイは有名だもんねぇ。 
    北原 一番前に乗っていたデイビーボーイはフロントガラスに頭突きしちゃって、髪の毛がガラスにへばりついてて。俺はクリス・ベノワと一番後ろの席に座ってたんですよ。ちょうど食べていたソフトクリームがどっかへ飛んで行っちゃって「俺のアイスクリームはどこに行ったんだ?」って探しましたよ。
    小佐野 それどころじゃないのに(笑)。
    北原 それでちょっと仕事が途切れましたよね。デイビーボーイがケガしちゃってスターがいないから。
    小佐野  当時のカルガリーには大剛鉄之助さんと、安達(勝治、ミスター・ヒト)さんが日本人選手の面倒を見てたけど、その人間関係も面倒くさくなかった?
    北原 そうなんですよ(苦笑)。
    小佐野 あの2人、仲が悪いもんね(笑)。
    北原 俺はプロレスファンでもなんでもなかったから、よく知らないんですよ。「ミスター・ヒト? 誰それ?」って感じで。向こうから声をかけられて「オマエか、今度来た日本人は」って。「どうも、はじめまして」って挨拶はしましたけど。
    小佐野 向こうは先輩だもんね。あの頃の人間関係でいうと、全日本系は安達さんになるのかな。
    北原  一応そうなんだけど、あの頃は馬場さんともダメだったのかな。健坊はいつも大剛さんと食事をしていて、俺も何回か呼ばれたことはあるんだけど。オフィスが違うわけだから凄く困りましたよ。 
    小佐野 健介とタッグを組んだのは帰ってくる間際だよね?  サムライ・ウォリアーズ。
    北原 そうですね。健坊とやってるときに全日本プロレスに上がったオペラ座の怪人みたいなやつでしょ。
    小佐野 ザ・ブラックハーツ。
    北原 そいつがUWFファンで「コレで行くか?」って聞いてきたから「いいよ」って。
    小佐野 フフフフフ。
    北原 健坊も「いいよ」って。テレビマッチなのにボコボコしたなあ。最後は簡単にワン・ツー・スリーを取られてね(笑)。

    この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ  http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388
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