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記事 30件
  • 【12万字・詰め合わせセット】西良典、折原昌夫、エリザベス、PRIDE終焉、パンクラス計量炎上……

    2017-10-31 23:59  
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    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! part45は大好評インタビュー11本、コラム9本、12万字オーバーで540円!!(税込み) ◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉
    part45
    ◎みんなが愛した美人マネージャー、エリザベス!■斎藤文彦INTERVIEWS
    ◎折原昌夫インタビュー後編「天龍さんの引退試合を見に行かなかったのは……」
    ◎大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」
    ◎【和術慧舟會創始】西良典インタビュー「総合格闘技がなかった時代の話をしよう」
    ◎RENA&天心の黄金コンビが爆発! 福岡決戦舞台裏トーク■笹原圭一RIZIN広報
    ◎忌まわしき2003年大晦日とPRIDEの終焉――!!
    ◎ UFCが欲しがってるのは那須川天心と…■シュウ・ヒラタのマシンガントーク
    ◎ワタシが女子MMAを追いかけ続ける理由/映像作家シンシア・ヴァンス
    ◎事情通Zの「プロレス 点と線」五味隆典はRIZIN大晦日に登場するのか/招待券タニマチ買い……観客動員数のあれこれ前田日明が急接近! 大手MMA団体ベラトールの狙いは何か?◎オマスキファイトのMMA Unleashed・「昨日やったことは忘れてしまうが、何年も前のことは覚えている」 マーク・ハント欠場問題の背景・いったい何が起きているのか? パンクラス計量シーンに米MMA記者が猛然と激怒!・大統領はMMAプロモーター …本当は怖いチェチェンの官製MMAバブル・MMA・プロレスのあり方に根本的な変化を迫る? 脳障害研究最前線の衝撃◎ズンドコ・トラブル興行研究会消えた棚橋vs中邑戦/シュートマッチ! 神取忍vsジャッキー佐藤◎北村克哉という巨乳ヤングライオン■二階堂綾乃◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉
    80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは「みんなが愛した謎の美人マネージャー、エリザベス」です!――今回のテーマは“マッチョマン”ランディ・サベージの女性マネージャーとして人気の高かったエリザベスです。
    フミ エリザベスはWWEにおける女性キャラクラーの草分けではあるんですが、プロレスラーではありませんでした。のちのディーバと呼ばれる女性キャラクターの先駆けとは言えますが、WWEのリング上でバンプを取ったことはないんです。しかも驚くことにWWEでは、ほとんどしゃべったことがないんですね。
    ――あ! そういえば、エリザベスの声を聞いた記憶がない……。
    フミ 1980年代はハルク・ホーガンやロディ・パイパーらが活躍し始めて、WWEのプロレスが大河ドラマ化していった時代だったんですが、その流れの中でもセリフは一切なし。エリザベスはパントマイムですべてを表現していたんです。
    ――凄い表現力!
    フミ セリフをしゃべらずあのWWEでトップポジションにいたという凄い人なんです。マッチョマンに「さあ、行け!」「そこにいろ!」とまくしたてられると、手を口元に当てながら困ったような顔をしたり、うつむき加減に恥じらった顔をする。ハウスショーでは最上階のお客さんにさえ、セリフがなくても伝わる動きをしていたんですね。
    ――大会場でもしっかりと存在感があったんですね。
    フミ 困ったような足取りでリングの周りを行ったり来たりしたり、場外乱闘に巻き込まれそうになると鉄柱の裏に身体を潜めたり……どんなに遠くから見てもエリザベスが何をやっているのかがわかる。髪型は80年代に流行った外巻きなので、動くたびにゆらゆらと揺れて、エリザベスのか弱さが見えるんです。
    ――じつは凄いことをやってたんですねぇ。
    フミ エリザベスはマネージャーといえば、たしかにマネージャーなんですけど。ルー・アルバーノやミスター・フジといった従来の悪党マネージャーとは違ったキャラクター。それまでのマネージャーといえば、おしゃべりがあまりうまくないレスラーのサポートをするのが仕事のひとつなんですね。
    ――レスラーに代わって煽るわけですね。
    フミ エリザベスはおしゃべりをしたことは一度もない。いつもサベージのひとりしゃべりなんです。
    ――サベージにサポートはいらないんですよね(笑)。
    フミ そんなエリザベスは一度だけしゃべったことがあるんですが……そのシーンはエリザベスとサベージの恋愛ストーリーのクライマックスになるので、のちほど説明しますね。この2人がWWEのリングで結婚式を挙げたのは1991年なんですが、マッチョマンのWWEデビューは1985年。その2年前にサベージとエリザベスは夫婦になっているんです。大好評インタビュー詰め合わせセットpart45! インタビュー11本、コラム9本、12万字オーバーの続きは下をクリック!

     
  • 大統領はMMAプロモーター …本当は怖いチェチェンの官製MMAバブル■MMA Unleashed

    2017-10-27 19:09  
    46pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム「MMA Unleashed」――今回のテーマは
    「大統領はMMAプロモーター …本当は怖いチェチェンの官製MMAバブル」!
    チェチェン共和国の首都、グロズヌイにはMMA団体が2つ存在する。1つは、日本の水垣偉弥など、UFC離脱組を続々と獲得して勢力を拡大中のAbsolute Championship Berkut(ACB)、そしてもう1つが、2015年に旗揚げされたWorld Fighting Championship Akhmat Fights(WFCA)だ。そしてこのWFCAの主宰者は、なんとチェチェンの第3代首長(大統領)、ラムザン・カディロフ(40)なのである。日本でいえば、安倍首相がRIZINをプロモートしているのと同じということになるから異常事態である。しかもこのカディロフ、まるでプーチン大統領とデイナ・ホワイトを足して2で割ったような、独裁者然とした強烈な人物のようだというからたまらない。
    WFCAのエースであり、カディロフお気に入りのファイターは、なんといっても現在はUFCに参戦中のマゴメド・ビブラトフだ。2014年にACBでバンタム級チャンピオンになったビブラトフに目を付けたカディロフは、この選手を海外で活躍させたいと考え、米国のWSOFに送り込んだ。ビブラトフはWSOFデビュー戦で初代フライ級王者決定戦に出場、ボスの期待に応えて見事に勝利を収めている。
    カディロフは、Instagramを使ってビブラトフの米国デビューのプロモーションに自ら精を出した。WSOF出陣前には、次のような熱いメッセージを投稿している。
    ベアウルフ(熊狼)よ! 一歩一歩踏みしめるようにケージに向かえ。一歩進むごとに、余計な感情や思考、予見の殻を脱ぎ捨てよ。そんなものは、キミの脳を迷わせ、魂を薄め、スピードを緩ませるだけだ。ケージに入れば、老獪(ろうかい)な狼や熊のごとき、天賦の能力やスキルに自信を持って、あの落雷のような打撃を繰り出してくれ。そして、精一杯の集中力で、対戦相手をゆっくりと、しかし確実に、かつ言い訳ができないほどに、それでいて誇り高くフィニッシュしてほしい。チェチェン国民に、チェチェン人が真剣勝負に鮮やかに勝利するところを見せてくれ。そうすれば、つい1分前まで対戦相手を応援していた者までもが、次のような歓喜の叫び声を上げることになろう。「アフマト・パワー!」(アフマトAkhmatは、カディロフのMMA団体の名称。チェチェン前大統領であるカディロフの父親の名前でもある)この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     
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  • 【和術慧舟會創始2万字語り】西良典インタビュー「総合格闘技がなかった時代の話をしよう」

    2017-10-26 13:01  
    110pt
    和術慧舟會創始西良典ロングインタビュー! 大道塾時代は「北斗の覇王」と恐れられ、慧舟會設立後はキックやリングスなどに参戦し、あのヒクソン・グレイシー初来日の相手も務めた。総合格闘技夜の明け前を知る男が2万字の大ボリュームであの時代のことを語ってくれた。【関連企画】語ろう青春の和術慧舟會!〜ゼロゼロ年代格闘技界の裏側〜――最近UWFが再び注目を集めているんですが、西先生は総合格闘技が影も形もなかった80年代から総合的な戦いを実践しようとしていましたね。
    西 私も「UWFが本当に強いならばやってみたい」と思った時期があるんですね。でも、どれくらい強くないといけないのか、情報がないからわからないじゃないですか。「自分のこの練習量ではまだまだではないか……?」と。
    ――UWFで戦ってみたい気持ちはあったんですね。
    西 そうですね。それはパンクラスもそうですよ。
    ――UWFは疑似格闘技だったわけですが、真剣勝負の場がなかった時代に総合的な戦いに取り込もうとしたのはなぜなんですか?
    西 それは簡単ですよ。ケンカで勝つためです(笑)。
    ――至ってシンプルですね!(笑)。なるほど、ケンカだと全局面で対応しないといけない。
    西 「どうやったら強くなれるか」だけを考えて稽古してましたから。たまたま流れに乗って、試合をする機会があったということですね。
    ――西先生は木村政彦先生や岩釣兼生先生が指導していた拓殖大学柔道部におられたんですよね。
    西 私は長崎の海星高校で柔道をやってたんですが、あの頃は木村政彦先生の『鬼の柔道―猛烈修行の記録』が出たんですね。木村先生の強さに憧れるのは武道家としては誰もが思うことで。高校1年のとき木村先生が指導に来られたことがあったんですが、もう理論がしっかりしてるもんですから。
    ――単なる根性論ではないんですね。
    西 そういうものではないですね。相当考えられた動きなんですよ。木村先生はその頃でも力が抜群に強かったから、ほかの先生から「技なんかいらない」と言われるくらいで(笑)。
    ――それでいて技術が凄かった。
    西 力学的なことも考えられてたんですね。我々が何十年経ったあとに「ああ、木村先生がやっていたことはそういうことなのか」って気づくこともあって。木村先生はそこまで身体は大きくなかったですから、自分の身体に合った柔道を考えられておられたんだなって。
    和術慧舟會設立時に西先生が彫って作成した道場の看板――拓大の柔道部に入られた西先生は一度やめちゃいますよね。極真空手を学ぶためという理由で。
    西 我々は『空手バカ一代』の世代でもありますから。小学生の頃は『虹をよぶ拳』を読んでいましたね。小さい頃、近所で空手をやってる人がいたんですが、空手家特有の雰囲気があるんですよ。猫背で暗い(笑)。
    ――空手はアウトローがやるものというイメージだったというか。
    西 そういう印象があってですね。近所で何か騒ぎがあるとその人が「おい、やめろよ」と言うと静まるんですよ。
    ――空手は気になる存在だったんですね。
    西 こういっちゃアレですけど、柔道をやっていてもそこそこ上には行けたと思うんです。でも、柔道には打撃がないですよね。どうしてもパンチに顔を背けてしまう。柔道家がほかの格闘技に負けるのは許せないという気持ちがあってですね。
    ――ああ、打撃ができる柔道家になろうとしたんですか。
    西 必要に迫られてですよね(笑)。柔道の欠点を補うというか、当時は歳を取ったら柔道だけでは弱くなると思ってたんですね。いま考えたらそうでもないんですけど、60歳70歳になったら柔道だけでは無理だなと。
    ――10代の頃から70代になったらどう戦うかを考えていた(笑)。
    西 強いジイさんでありたいと思ってたわけですね。
    ――そのためには打撃も習得したほうがいいと。
    西 そうですね。高校のときは合気道もやってましたし、自分の知らない世界に対してはもの凄く興味があったんです。柔道家としてずっと空手を怖がる自分がイヤだったんですよ。
    ――でも、先生は拓大柔道部に戻るじゃないですか。
    西 それは空手の欠点を知ってしまったということですね。要は顔面パンチがないじゃないですか。空手の長所はあるけども、欠点もあるんだなと。まだ19歳でしたから、もう1回柔道を基本から知ったほうがいいんじゃないかと考えたんですね。
    ――しかし、よく再入部が許されましたね。
    西 許されなかったんですよ、本来は。私も3年前に気付いたんですよ。
    ――3年前ってつい最近ですけど(笑)。
    西 「もう1回戻してくれ」ってマネージャーを通して頼んだら、監督が「空手をやめてまた戻ってくる?面白い奴だな」ってことで。私が許された背景には、拓大には木村先生や岩釣先輩の流れというものがあるんですよ。
    ――流れですか?
    西 私が拓大に入った頃、岩釣先輩が木村先生の敵を討つってことで全日本プロレスと契約する、しないって話があったんですよ。
    ――力道山戦の因縁ですね。そのときに岩釣さんが全日本道場で渕(正信)さんとスパーをやったという話もありますね。
    西 たぶん岩釣先輩の相手にはなってないと思いますよ。何かの本には渕が互角に戦った……なんて話が載ってるみたいですけど、岩釣先輩の相手にはならないですよ。
    ――プロレス側の言いぶんだと、裸のスパーで岩釣さんがヘトヘトになったとか……。
    西 いやいや、それは無理ですよ(苦笑)。岩釣先輩のクラスになると裸だろうが関係ない。
    ――岩釣さんはやっぱりモノが違ったんですか?
    西 大木に根が生えてる状態ですよ。もう動かない。私は入学前に拓大で練習して、その帰りがけに愛知県警に知り合いがいるので寄ったんですよ。そこで全日本でいい成績を収めた相手のことも投げたんですよ。「俺は天才かもしれないな〜」なんて思っちゃってね(笑)。それで大学に入ってから岩釣先輩とやったんですけど、も〜う全然、歯が立たない。投げられんですよ。あの強さにはビックリしましたね。
    ――岩釣さんは寝技もムチャクチャ強いんですよね。
    西 強いですね。そういえば(ウィレム・)ルスカが来たときがあって。みんなボテ投げされてですね、ルスカはメチャクチャ強いですからね。帰ろうとしたから「待て待て、まだ寝技があるから」と。ルスカは寝技が弱いんですよ。寝技でギトギトにやられてたんですね(笑)。
    ――ただでは帰さなかったんですね(笑)。
    西 岩釣先輩はサンボの世界チャンピオンでもありました。聞いたことあるんですよ、「サンビストってどうなんですか?」って。岩釣先輩でもサンボの練習ではやられていたみたいなんですよ。「たまたま試合で勝った」って珍しく謙遜されてましたね。
    ――木村先生も稽古には来られてたんですか?
    西 60代でしたけど、打ち込みをやられてましたね。
    ――木村先生から力道山戦の話を聞いたことってあります?
    西 しないですね。酔った後輩が一度聞いたときにボコボコにされたって言ってました(笑)。
    ――うわっ、タブーだったんですね。
    西 タブーでしたね、もう。その頃はまだあの試合の裏側は知らなかったですからね。プロレスライターの門(茂男)さんという方がデイリースポーツに書いてあったのを読んで、何があったかはわかりましたね。
    ――ブラジルでやったエリオ・グレイシー戦のことは何か言われてましたか?
    西 「ブラジルは強かったよ」くらいで、あんまり言わなかったですね。木村先生にとっては過ぎ去った過去のひとつじゃないですか。いまみたいにグレイシーがああして表に出てくるとは思わなかったですから。木村先生の中では勝ってあたりまえの世界だったんでしょうね。
    ――木村先生や岩釣先生の異種交流の流れがあるから、西先生の復帰も許されたというわけですね。
    西 拓大は柔道界でも本流じゃなかったですから。猪熊(功)さんと東京オリンピックで対戦した(ダグ・)ロジャースは拓大で練習してたこともあって、拓大柔道部は猪熊さんじゃなくてロージャスを応援してたそうなんですよ。
    ――あの当時外国人柔道家を応援するってなかなかですね(笑)。
    西 岩釣先輩は(モハメド・)ラシュワンを教えていたから、ロス五輪の決勝で山下泰裕と戦ったときはラシュワンを応援したと聞いてます。拓大は柔道界の異端だったんですよ(笑)。
    ――拓大柔道部の練習はやっぱり厳しかったんですよね?
    西 朝1時間半、昼は4時間、それが終わったらバーベル。1日6〜7時間はやってましたね。上の選手になると、警視庁へ練習に行かされましたから。拓大の空手部も同じくらい練習してましたね。だから私は伝統空手を否定しないんですよ。練習はとにかくやってましたから。
    ――拓大はほかの格闘技も強かったですよね。
    西 拓大の体育寮には柔道、空手、剣道、相撲、ボクシング部が入ってて。
    ――ヤバイですね、それ!(笑)。
    西 ケンカが起きないわけがないんですよ(笑)。柔道部vs空手部をやったことありまして、空手部を寝技で締め落としたことがありましたね。空手部は締められたことがないから恐怖心があったみたいで。
    ――ほかの部とも衝突されたんですか?
    西 ケンカはなかったんですけど、ボクシングには興味がありましたよね。その当時の拓大ボクシングには全日本チャンピオンが6〜7人いたんじゃないですかね。もう殺気立ってましたよ。大らかとしてたのは相撲くらいで(笑)。
    ――拓大というと物騒なイメージはありますね。
    西 我々の前の時代はもっと凄かったらしいですよ。いろいろと事件を起こしたりして。私らのときは一週間のうちに焼きは5回くらいだったんですよ。
    ――焼きというと……。
    西 夜になると、正座させられて先輩たちに殴られるわけですよ。
    ――理由はなんですか?
    西 理由は先輩が勝手に作るんですよ(笑)。
    ――ハハハハハハハハ!
    西 我々の前の時代は、一週間のうちに10回以上も焼きがあったというんですね。だから穏やかなになってたんですね、拓大も。
    ――拓大柔道部は犬鍋をやっていたという話ですし。
    西 私の頃は大人しかったですからやってなかったですけど。昔は犬鍋をやりすぎて犬がいなくなったから、そのうち猫鍋もやりだして。でも、「猫はやめておけ。鍋が七色になるぞ」と言ってましたねぇ。
    ――猫を煮ると七色になるって、ゾッとしますねぇ。
    西 すき焼きなんか、そこらへんの雑草が入ってましたからね(笑)。
    ――空手家だけじゃなくて昭和の柔道家もぶっ飛んでましたよね。
    西 あー、そういう柔道家は多いと思いますよ。強いと言われてる奴は周りから「アイツは変やったな」って言われてましたもん。個人競技ですからね、自分が強くなることしか考えない。ちょっとおかしな人が多くなるんですよ。
    ――それでいて異端の拓大ですもんね。
    西 強くなりたくて拓大に来てるんだけど、練習量が凄すぎてやめちゃう人もいましたから。私は拓大柔道が合ってましたね。岩釣先輩も自分が卒業後にいろいろな格闘技をやってることを喜んでましたから。私はそんなに強いほうではなかったし、拓大の頃は名前でなんか呼ばれなかったですよ。いつも「おーい!」ですよ(笑)。
    ――ケンカが強くなりたいということでしたけど、街で実践はされたんですか?
    西 ケンカはですね……やりましたね(ニッコリ)。
    ――やりますよね(笑)。
    西 でも、弱いですよ。
    ――弱い?
    西 相手がですよ。私は基本的に柔道家だけど、普通の人を叩いたら危ない。だから掴んで引っ張って飛ばすんです。掴めば面白いように飛びますから。いまと違って当時はいろいろとあるんですね。後輩の知り合いが銀座で飲み屋をやってるけど、ヤクザが来るからなんとかしてくれと。
    ――ヤクザとケンカってイヤじゃないですか?
    西 まあ、素人ですから。ヤクザと言っても殴り合いは素人ですよ。刃物は注意しないといけないですけど。だから懐だけには注意してましたね。
    ――いくら注意しても刃物はイヤですよ!(笑)。
    西 我々の時代はよかったですけどね。殴っても一緒に酒を飲んでおしまいになったから。
    ――いまみたいに事件になるわけじゃない。
    西 そうそう。ケンカの秘訣はその日のうちに丸く治めること。こっちが謝れば、相手の闘争心は消える。「よし、いまから飲み行くか!」って仲良くなるのも手なんですよ。引っ張ると恨まれるから。
    ――仲良くなるまでがケンカなんですね。
    西 勝ったら仲良くする。やられたらしつこく追いかけなさい(笑)。
    ――ハハハハハハ! 
    西 やられたら、やって返さないとダメですよ。
    ――拓大卒業後は仙台に行かれたましたね。
    西 まずは生活の糧が欲しかったですから、柔整師の資格を取るため東京に残ろうとしたんですけど、監督のほうが仙台で柔道が強い奴を欲しがってるから「東北の柔整師の学校に行きなさい」と。それは絶対命令ですからね。当時はそういう時代だったんですよ。いまだって大学のOB会に行くと、私は一番下ですから使いっ走りですよ(笑)。監督のことが好きだったもんですから「じゃあ仙台に行ってみようかな」と。
    ――同じ学校に武藤(敬司)さんが通ってたんですよね。
    西 その学校は2年制だったんですけど、私が2年生のときに武藤が入ってきたんですよ。武藤は柔道やっててセンスがあったんだけど、「プロレスラーになりたい」って言ってて。「おまえは性格が優しすぎだから無理だよ」って言ってたんですけどね。
    ――いまやプロレス界を代表するレスラーですからね。
    西 武藤は運動神経がいいですから、当時から後ろ回し蹴りをやってましたよ。私もプロレスは好きだったもんですから、武藤と「アントニオ猪木vsウィリー・ウィリアムスごっと」をやってましたね。帯でロープを作って「おい、武藤。おまえは猪木をやれ、俺はウィリーをやるから」って(笑)。
    ――ハハハハハハハ! 仙台にあった大道塾には通ってなかったんですか?
    西 東(孝)先生の道場は当時まだ極真でしたから。顔面パンチなしなので、最初は青葉ジムというキックに入会してたんですよ。
    ――あくまで顔面ありを想定していたんですね。
    西 顔面ありの間合いはやっぱりキックが一番なんですよね。でも、顔面なしの大事の間合いも大事だし、日本拳法の間合いも勉強しないということで、大学のときは日拳もやっていたんですね。
    ――ホントいろいろやってますね。武芸百般!
    西 伝統派は遠いところから入ってくるじゃないですか。顔面あり、顔面なし、遠い間合い。いまでも生徒にはこの3つは絶対に知っておかなきゃいけないと言ってますね。
    ――UFCでも伝統派の動きは有効性が高いですね。
    西 リョートなんかもそうでしょ。ケンカは間合いが取れない場合がありますからね。この短い距離で目を突いたり、叩く方法があるんですよ。日拳の直突きはボクシングのストレートより早いし、防御もしづらい。よく考えられたものだと思いますよ。でも、まずは顔面ありに慣れないといけないということで、キックのジムに通ったんですけど、スパーリングパートナーがいなかったんですよ。やっぱりみんな軽いから重量級がいない。それで東先生の道場に行くことになったんですけど、そのうちに大道塾に変わってスーパーセーフ(顔面防具)の顔面ありになって。
    ――投げも締めもあるルール。西先生からすれば願ったりな展開ですよね。
    西 そうなんですけど、スーパーセーフですから。
    ――それでも不満でした?
    西 不満でしたねぇ。やってる我々からすれば、相手のパンチを避けたつもりでもスーパーセーフに当たっちゃうし。スーパーセーフがあるからガードが下がっちゃうし、やっぱりグローブが一番いいんじゃないかって個人的には思ってましたね。
    ――ちょっと前に「リング・ケージ論争」というのがありましたけど、「グローブ論争」もかなり熱かったですね。
    西 大道塾の試合を見に来ていた藤原敏男先生が「これは道着を着たキックじゃないかよ」ってポツリと呟いたのが聞こえたものですから。なおさら「キックボクサーから見たらそうだろうなあ……しかもスーパーセーフで顔面は痛くないし」って。
    ――痛みがあってこその格闘技。
    西 あとスーパーセーフってダメージが溜まっていくんですよね。練習でもなんでもないときに一度倒れたことがあって。練習からスーパーセーフを付けてガンガンやってましたから。
    ――脳が揺れやすいですよね。
    西 常にグローブは頭にありましたよ。長田(賢一)くんがラクチャートと試合をやったとき私はセコンドに付きましたけど。
    ――ムエタイ王者との伝説の一戦ですね。
    西 あれはタイに行ったら急に決まったんですよ(笑)。長田くんは惚れ惚れするような動きでセンスが凄いんですよね。でも、ラクチャートとやったときにわかったのは、普段スーパーセーフを付けて戦ってるから、やっぱりワンテンポずれてるんですよ。そのぶんだけパンチがズレてる。ラクチャートは当然スウェイして見切りますからね。「ああ、いままでのやり方では勝てないな……」って思っちゃましたね。
    ――でも、東先生はあくまでスーパーセーフに拘ったということですね。
    西 東先生からすれば、グローブにしちゃうとキックになっちゃうと思ったんじゃないですか。私はグローブの技術を知っておかないといけないってことで、ボクシングジムで練習して、その技術を持ち帰って見取り稽古。イメージしながらサンドバックを蹴る。
    ――ハウトゥーがあるわけじゃなくて、自分で理解していくわけですね。
    西 いまの子は逆にかわいそうなんですよ。盗み稽古ができないから。かたちはできていても本質的なものは学べてないから。
    ――形だけおぼえても応用が効かないということですね。
    西 いまみたいに情報がない時代ですから本当に必死でしたよ。練習仲間が「いいビデオが入りましたよ」ってどんな映像だろうって見たら、映画の中に出てくる藤原敏男先生。――それでも貴重! 『四角いジャングル』とかですかね(笑)。西 その動きをみんなで見て、いろいろと解釈するんですよ(笑)。みんなが映像を「貸してよ」って言ってね。
    ――たくましいですねぇ……西先生は大道塾では北斗旗を連破するなどして「北斗の覇王」と呼ばれるようになりましたね。
    西 私のスタイルは、キックジムで教わったワンツー左ミドルがベースですね。それで押しまくって、組み付いてくたら投げるっていう。
    ――倒れた相手の顔面の脇を「ドン!」と踏みつけてたとか。
    西 あの踏みつけは私がやり始めたんです(笑)。相手に屈服感を与えるためだったんですね。「ホントだったら顔を踏んでるよ」ってことで。
    ――路上のケンカだったら終わり、ということですね。
    西 そういう意思表示で心を潰してやろうと(ニッコリ)。
    ――そんな格闘家としての脂が乗っていた時期に故郷の長崎に戻られますよね。
    西 私の場合は片親だったもんですから、母親がいつ死んでも後悔しないように面倒を見ないといかんなってことで。歳も30になりましたし、長崎に帰ってきたんです。まあ、いまでも親は生きてますけどね(笑)。
    ――西先生が面倒を見たから長生きされたんだと思います!(笑)。
    西 だから長崎に帰ってきた時点で格闘家としては終わったところはあるんですね。本当だったら仙台に残って練習して、アメリカに渡りたかったんです。全米中を回りながら強い奴とやりたかったので、そういう準備をしてたんですけどね。
    ――その頃はUWFが注目を集めてましたけど、ああいった総合的なムーブメントには目が行きませんでした?
    西 大道塾には大きな選手がたくさんはいなかったですから。同じような奴が10人いたらもっと強くなるだろうなって。かといって技術はそんなに心配はなかったんです、見るかぎりは。UWFは顔面もなかったですから、もうわかりますからね、寝技も打撃も。
    ――UWFはプロレスだったわけじゃないですか。
    西 なので、技術を見たらどういうものかわかりますから。グローブをつけて稽古をやり始めたら凄いことになるなって思いましたけど。そういうことはやってないのは見ればわかるので。
    ――UWF系が真剣勝負に向かうのはだいぶあとのことですけど、もしその動きがあれば……。
    西 興味はありましたね。私の兄貴はプロレスが好きだったものですから「プロレスラーになれ」ってよく言うんですよ(笑)。ただ弱いうちはイヤだったもんですから、なるんだったら強くなってからやろうと。
    ――長崎でも大道塾として活動されていましたが、「空手格斗術慧舟会」(のちの和術慧舟會)として独立されますね。
    西 私らは地方じゃないですか。試合に出るためにはまず仙台まで行かなきゃならない。そのためにはお金や時間がかかりますよね。他流に出られればいいんですけど、他流はダメ。だったら独立したほうが生徒もチャンスは広がると思ったんですね。そのへんは東先生に手紙で説明させていただいたんですけど。私も合宿や大会に出るために年間数十万かかるわけですから。
    ――西さんは仕事されていたんですか?
    西 その頃はしてなかったですね。実家住まいでプータローですよ、何年か(苦笑)。
    ――じゃあ道場の指導だけで……
    西 いやあ、全然ですよ。生徒は20〜30人くらいかな。月5000円もらってましたけど、全員が払うわけじゃないですし、大道塾の頃は運営費として月何万円は上に取られるわけでしょ。そうすると手元に残るのは3万4万ですよ(笑)。
    ――貧乏生活ですねぇ。
    西 強くなることだけを考えてましたから、貧乏は気にならなかったですね。昼は練習して、夜は指導。稽古が終わったら生徒に「メシでも行こうか!」って誘って。「先生、道場の家賃はどうするんですか?」「気にするなよ!」っていう気楽なヒトリモンの生活ですよ(笑)。
    ――浮世離れしてますね(笑)。
    西 ホントそう。女房と結婚するとき表向きは仕事をやるとは言ってたんですけど、やるわけないし(苦笑)。
    ――ハハハハハハハ! ダメすぎますよ! 
    西 本当だったら格闘技をやめなきゃいけないですよねぇ。だから石井館長には感謝してるんですよ。『格闘技オリンピック』に呼んでくれて、リングスを紹介してもらって。それでも2ヵ月にいっぺんの試合ですから、貧乏には変わりはないですけど(笑)。
    ――『格闘技オリンピック』やリングスへの参戦は92年のことですよね。
    西 私が36歳のときですね。
    ――87年に和術慧舟會を設立されたときの西先生ご自身の目標はどういうものがあったんですか? 
    西 とくにはないですね。自分に合うものがなかったですから。 
    ――目標もないけど、ひたすら練習だけしていたんですか。
    西 そのあいだはオランダに練習に行ったりとか。
    ――じつは慧舟會初期内弟子の方に事前取材してきたんですが、西先生は突然「オランダに行ってくる」と言ったきり姿を消したとか(笑)。
    西 そうなんですよね。グローブの練習するのに千葉に3ヵ月間行ったりとか。いまは違いますけど、当時は少年部の指導が面倒くさくてね。自分だけが強くなりたいのに邪魔くさくてしょうがなくて(笑)。
    ――ハハハハハハ! 子供の指導なんかしてられるか!と(笑)。
    西 普段の稽古も、自分のスパーリングパトーナーがほしくて教えてるようなもんですよ。
    ――ハードな稽古過ぎて、みんなやめていったそうですね(笑)。
    西 酷いもんですよ。育てようなんて意識はあまりなかったですよ(苦笑)。
    ――オランダ修行はどこかアテがあったんですか?
    西 ないです、ないです。
    ――いきなり渡ったんですか!
    西 いきなり行きましたねぇ。
    ――普通は練習場所や宿泊場所の段取りを決めてから行きますよね?
    西 なにもないです。オランダに着いてから「さて、どうやって探そうか……」と。アムステルダムという名前だけは知ってたんですよ(笑)。
    ――ハハハハハハハハハ!
    西 ウエイト好きでしたから、ウエイトをやってる奴なら知ってるだろうってことで。ジムで身体を作りながら「キックのジムを知らないか?」って声をかけて。
    ――英語やオランダ語は……。
    西 いやもう全然ですよ。カタコトで話しかけて。
    ――いろいろとムチャクチャですね!(笑)。
    西 それで教えてもらって行ったのがヨハン・ボスのところ。でも、ちょっと雰囲気がおかしかったんですね。まず入っていくときにブザーを鳴らしてドアのロックを解いてもらう。ロックを解いて入っていくと、「ガチャン」とロックされるんですよ。
    ――ズバリ犯罪の匂いがします(笑)。
    西 それが当時のオランダのやり方だったんでしょうね。犯罪者が多かったですから。
    ――オランダの格闘家は全員アウトローですよね。
    西 オランダはましてや用心棒が多かったし、薬物をやってる人間も多いですしね。中に入っていったら、ジムの雰囲気はまるでなくてカウンターバーがあるだけ。身体のデカイ人間が何十人もいるんですよ。「マズイところに来てしまったなあ」と思いながら「キックの勉強に来た」と伝えたら、その相手がゴルドーの兄貴だったんですよ。
    ――ニコ・ゴルドーですね。
    西 「極真の中村誠を知ってるか」という話になって打ち解けて。ようやくその奥の部屋にあるジムに紹介されたんですよね。
    ――もう秘密基地ですね(笑)。◎リングスの実態! 伝説の「決勝はナイマンvsザザです」発言を忘れていた!◎幻のSWS入団! 2人のプロレスラーと道場マッチ!◎ヒクソン・グレイシーの強さ!◎藤原組長との友情物語……◎巌流島からオファーがあったが……2万字インタビューはまだまだ続く!この続きと、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • 折原昌夫インタビュー後編「天龍さんの引退試合を見に行かなかったのは……」

    2017-10-26 13:01  
    88pt
    大好評だった折原昌夫・前編インタビュー!(コチラ) 後編はSWS崩壊後のプロレスラー人生を振り返ります!【関連記事】【濃厚18000字】トンパチ折原昌夫が明かす全日本プロレス、SWSの信じられない話!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…■小佐野景浩のプロレス歴史発見【男が男に惚れる天龍劇場】北原光騎インタビュー「俺にとって天龍さんは“神様”だよ」――SWSが崩壊したあと天龍さんはWARを立ち上げますが、選手たちにはどういう説明があったんですか?
    折原 えっとですね、SWSがなくなって、なんとなくみんな別々に分かれていく感じはあったんですけど。レボリューション、道場・激、パライストラの3つがどういうふうに分かれていくのかはよくわからなかったですね。ボクは天龍さんの付き人をずっとやらせてもらっていたので、天龍さんが作る「レッスル・アンド・ロマンス」に自然と行くもんだと思ってましたね。「おまえ来るのか?」と誘われる感じでもなかったです。それはカブキさんや石川(孝志)さんにしても同じじゃないですかね。
    ――言葉は交わさなくても一蓮托生というか。団体旗揚げに向けてのミーティングもなかったんですか?
    折原 「WARはこういうふうに動いていく」っていうマスコミ向けの記者会見はありましたね。食事会というか決起会みたいなものはやりましたけど、まあメシを食って酒を飲むだけですよね(笑)。
    ――高給だったSWSからWARになれば確実に給料は下がるわけですけど、不安はなかったんですか?
    折原 天龍さんのほうから全員に向かって「Sのときと比べたら給料の額は下がるけど、全員と一丸となって頑張ろう」という挨拶はありましたね。ほかの選手がどう思っていたかは知らないですけど、ボクは格でいうと下の選手だったので、使ってもらえるだけで嬉しいなって話で。ただ、毎月のお給料は入ってきませんでしたから、SWSみたいに。
    ――給料制ではなくなったんですね。
    折原 上の人はどういう扱いを受けていたのかはわからないんですけど。給料だったのか、試合数によるのか。Sのときは使い切れないくらいもらってて、たくさん蓄えがあったわけじゃないですけど、多少は貯めてあったので。ひもじい思いはしなかったですね。
    ――WARに道場や寮はあったんですか?
    折原 どっちもなかったですね。考えてみたら全日本、SWSと寮暮らしでしたから、初めてひとりで生活することになったのかな。道場はなかったので、ジムで各自それぞれ自分の肉体を維持するトレーニングをやってましたね。WARの事務所は桜新町にありまして、そこにはよく顔を出してました。ボクは天龍さんの付き人をやってたから、いろいろと雑用がありましたし。
    ――桜新町には天龍さんの奥さんが女将を務めた「寿司処 しま田」がありましたね。
    折原 それは後々の話ですね。WARの事務所のほうが先にできて。1階が酒屋の倉庫みたいな感じで、その2階が事務所で。
    ――旗揚げ戦の雰囲気っておぼえてますか?
    折原 いやあ、おぼえてないですねぇ。WARのインパクトといえば、やっぱり団体名ですよね。「WAR」って戦争って意味じゃないですか。外国人選手も「ホントにこれが団体名なのか?」って聞いてきましたからね。
    ――SWSはメガネスーパーが運営してましたけど、いきなりWARとして興行を打つのは大変だったんじゃないですか?
    折原 天龍さんはそれまで興行をやってきたわけじゃないし、それこそポスターをどうするのかってことから、わからないじゃないですか。なので事務所の社員を雇い始めましたね。中村 (吉佐)さんという身体が大きくてリングアナウンサーをやってた人がいたんです。中村さんは顔がかなり広いこともあって、その人が中心になって地方の会場取りや営業をやってましたね。かなりできる人だったんで。
    ――そういう人がいないと興行って難しいんですね。
    折原 完全にアウトですね。いまボクもイベントをやってますけど、都内でやるぶんには会場を押さえて、選手を呼べばできるんですけど。地方で少なくとも3〜4日やる場合は、営業の人間がいないと無理ですね。WARの中では中村さんしか興行の仕組みを知らなかったんですけど、途中でいなくなっちゃったんですよね。
    ――何か理由があったんですか?
    折原 うーん、いろんな噂はありましたけど、WARの流れに対して嫌気が差しちゃったんじゃないですかねぇ。一時期は勢いがあったんですけど、途中から選手たちがいろんなことに疑問を持つようになっちゃって、WARから出ていくことになるんですけど。その頃ですよね、中村さんが地方巡業の最中にそのまま姿をくらまして。
    ――メガネスーパーからWARにお金は出ていたんですよね。
    折原 出ていたと思います。でも、当時ボクは知りませんでした、Sから資金が出ていることを。ほかの人たちも知らなかったんじゃないですかね。
    ――ウルティモ・ドラゴンはSWS崩壊後も、メガネの田中八郎社長と親交が深かったじゃないですか。
    折原 そのこともボクはわからなかったんですよ。Sがなくなったときにみんな関係が切れたんだなって思ってましたから。あとになって田中八郎さんから個人的に支援を受けてる人がいるんだなって知りましたね。
    ――ドン荒川さんもそうですよね。天龍さんはその後も付き合いがあったんですか?
    折原 ボクは付き人として天龍さんに付いて回ってましたけど、田中八郎と会う機会はなかったですね。天龍さんはもともとタニマチに揉み手で近づいていくことが苦手な人だったので。地方のタニマチから「飯を食いに来い」って誘われても絶対に行かない人ですから。ボクが天龍さんの代わりに行くと「おまえが来ても面白くないよ!」って渋い顔をされて(笑)。
    ――途中でメガネスーパーからの支援を打ち切られますよね。その報告もなかったんですか?
    折原 それもなかったですね。支援を受けていたことも知らなかったですから。ボクはWARに旗揚げから参加して、中盤くらいまでいたんですけど。あの人が新社長としてWARに来るじゃないですか、武井(正智)さん。天龍さんの奥さんの弟さんです。
    ――武井さんはどういう流れで社長に就いたんですか?
    折原 あのとき天龍さんを社長に置いておくのは荷が重いという声があって。やっぱりリングで戦う人間だから、試合に専念してもらいたいってことを天龍さんの奥さんが雑誌でも言い始めたんですよね。社内でも天龍さんは疲れている、新しい土台を作らなきゃいけないっていう声が挙がったときにポンと連れてきたんですね。
    ――それが武井さんだった。
    折原 武井さんは京都の不動産屋をやってた人で。ある日突然天龍さんを連れてきて「今日から社長だから、言うことを聞いてくれ」と。そこから選手たちが「なんであんな人間を連れてきたんだろう?」ってブツブツ文句を言い始めて。そこからWARという団体が崩れていったんですね。
    ――みんなは天龍さんが大将だから付いてきたところはあったんでしょうね。
    折原 いままでどおり天龍源一郎のワンマンであれば、何があってもガマンはできるし、天龍さんの一声には従うんですよ。でも、武井さんの一声は聞けないですよね。結局、天龍さんも「なんだおまえら?」ってやっぱり身内の肩を持ちますから。
    ――武井さんの味方をすることで、ほかのレスラーとのあいだに溝ができてしまったという。
    折原 武井さんはビッグマウスというか、派手な言動が目立ってたんですね。選手のあいだでも評判は悪かったし、ボクもケンカにしたことありますよ。ある飲み会で言い合いになったら、みんな武井さんのことが嫌いだから、ボクのことを煽ってくるんですよね(笑)。
    ――「折原、やっちゃえ!」と(笑)。
    折原 経営的な苦しさはあったと思うんですね。「給料も下がっていくけど……」って天龍さんの口から出てきて。「えっ、ここから下がるの?」っていう生活の不安が初めて出てきましたね。試合の予定はあるから食っていけないというわけではなく。
    ――折原さんはWARで一度引退されますよね。
    折原 新日本の対抗戦に出ていたときに腰の具合が悪くてやめたんですよ。大変でしたよ、すぐに引退させてくれなくて。武井さんと揉めていたので天龍さんから「そういう理由なんだろ?」と言われてね。「違います。ホントに腰なんです」と。
    ――引退してどうするつもりだったんですか?
    折原 ボクは個人で爬虫類ショップをやってたんですよ、川崎の方で。「ボスケ」という名前でスペイン語で森という意味なんですけど。もともと子供の頃から毒系やコミュニケーションが取れない生き物が大好きで。
    ――いつ頃から爬虫類ショップを始めてたんですか?
    折原 WARが立ち上げの頃からやってましたね。最初は自分のペットとして飼ってたんですけど、どんどんレベルが上がっていくんですよ。子供のうちはミドリガメとかハムスターで満足してたんですけど、大人になれにつれ珍しいものになって。ちょうど爬虫類ブームだったので一気に値段が跳ね上がってたんですよ。だったら自分でショップをやっちゃったほうが仕入れ分で安く済むんじゃないかなって。それで始めたんです。
    ――趣味と実用を兼ねたわけですね。
    折原 家で飼える場所もなくなるくらいですから。毒系のもので12種類。サソリ、ヘビ、虫系とか。
    ――WARから一人暮らしを始めたんですよね。それまではどうしてたんですか?
    折原 SWSの寮でいろいろと飼ってたんですよ(笑)。タランチュラ、カメレオン、ワニとか。 
    ――SWSの寮にタランチュラとワニ!(笑)。
    折原 ボクの部屋で飼ってたんですよ。タランチュラは若手が住んでいる大部屋に逃げて大騒ぎになりましたね(笑)。
    ――ガハハハハハハハ!この続きと、西良典、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • RENA&天心の黄金コンビが爆発! 福岡決戦舞台裏トーク■笹原圭一RIZIN広報

    2017-10-25 15:30  
    66pt
    RIZIN福岡大会を語る笹原圭一RIZIN広報の12000字インタビュー! RENA&那須川天心爆発の裏側には何が起きていたのか?(聞き手/ジャン斉藤)【関連記事】榊原信行が語る「那須川天心vs藤田大和が瞬間最高視聴率だった理由」不気味な参戦示唆! 五味隆典はRIZIN大晦日に登場するのか――RIZIN福岡大会翌日の笹原さん、凄く疲れた顔をしてましたね。あんな死人のような顔は、歌舞伎町の雀荘でしか見かけないですよ(笑)。
    笹原 ハハハハハハ。ホント疲れました。胸を張って言いますけど、今回はとくに全身全霊で働きましたねぇ。福岡には大会1週間前に現地入りしたんですけど……あ、まさに10月11日、『PRIDE.1』の日ですよ。
    ――そういえば、PRIDE誕生20周年という節目だったのに、それらしいイベントは用意されてなかったですね。PRIDEの商標を持つUFCから、何か圧力でもあったのかと勘ぐっちゃいました。
    笹原 いや、ホントはPRIDEにまつわる企画をいろいろとやろうとしてたんですけど、福岡大会の運営に忙殺されちゃったこともあって間に合わなかったんですよ。それでもUFCと交渉して、『PRIDE.1』の高田vsヒクソンの試合映像が会場を流せることになったんですけどね。
    ――いつのまにかUFCとパイプが構築されてるのが凄い(笑)。
    笹原 あの試合映像は休憩中のアトラクションタイムで流す予定だったんですよ。一部の頭のおかしな人たちが「アトラクションタイムの企画は才賀紀左衛門の会見だろ!」とかツイートしていましたけどね。
    ――ハハハハハハハハ! それはボクです! 
    笹原 結局高田vsヒクソンの試合映像は、進行が押しまくって大会終了後になっちゃいましたけど、かなり人数の方が残って見ていましたね。
    ――福岡大会はけっこうな試合数を組んでましたもんね。
    笹原 試合数が多かったからイベント時間が長くなったと思われがちですけど、違うんです。いや……実際はそうなんですけど。
    ――どっちなんですか!
    笹原 説明するとですね、今回はイベント開始が14時からで、フジテレビ地上波は19時からの3時間枠でしたけど、20時40分ごろから生中継で試合を流す予定だったんですね。
    ――RENA、那須川天心vs藤田大和の試合を20時40分から地上波生中継しましたね。
    笹原 イベント開始から生中継までの6時間40分を埋めるためには、5〜6試合というわけにはいかない。ある程度の試合数を組まないと、生中継まで持たないですよね。
    ――だから16試合も組まれたと。
    笹原 14時という試合開始時刻はチケットに明記されてますから、変えることはできません。UFC日本大会は当日になって30分遅らせたりしてましたけど、普通はありえないんですよね。興行道にもとる行為です(笑)。
    ――ハハハハハハ。要するに福岡大会の概要が決まったあとに、地上波生中継プランが挙がったということですか?
    笹原 そうです。いままでのRIZIN地上波中継は2時間枠でしたけど、「今回は3時間枠になりそうだ」という話は前から聞いてたんです。当初の構想では19時くらいの終了予定だったんですが、生中継をやることになったので試合数を増やして、休憩中も何かイベントを行なってと、どんどん積み上げなきゃいけなくなったんです。で、結果的に過積載になってしまったと(笑)。
    ――スーパーウルトラロングイベントになったわけですね。
    笹原 普通だったら「イベントを長くなるくらいなら、生放送をあきらめよう」……という話になるんですが、RIZINはこれまで視聴率で「よくやった!」という結果を出し切れていないので、ここで勝負を懸けるしかなかったんですね。ボクらがまだ切っていないカードは生中継。そこで数字を持っているRENA選手と天心くんの2人で勝負をしようと。
    ――討って出るしかなかった。那須川天心とRENAを後ろに回すから、知名度のあるバンナを呼んで地上波の冒頭に使ったんですかね?
    笹原 テレビのためだけに試合を組んだわけじゃないですけど、生放送のためにバンナの試合順が早くなりましたね。フジテレビとしては、バンナの試合を早く終わらせて19時からの地上波に乗せたいと。バンナの格からすれば、試合順はもっと後ろでもおかしくないですよね。
    ――地上派の前半に出すために、バンナの試合順を早くしたわけですね。
    笹原 それは女子GPの試合順もそうですね。興行として考えたら外国人同士の試合を先にやって、浅倉選手、山本美憂選手の順なんですよ。でも、地上波の放送を考えたら逆になるんです。先に美憂さん、カンナちゃんをやって、地上波に乗せるために早めに編集してもらう。
    ――それはつまり、地上波で流す試合にアタリはついていたってことですよね。
    笹原 ある程度の想定はしていますよ。そうじゃないと、当日の撮って出しなんて無理ですから。もちろん試合内容によって放送される試合・されない試合、扱われる時間が長くなる・短くなるは出てきますけど。放送される基準は格闘技的な面白さだけでなく、世間的な知名度やインパクトも当然必要です。社長(榊原信行)も一夜明け会見で言っていましたけど、劇的なKOだから数字がいいかといえば、そうでもないですし。
    ――判定のほうが放送時間も稼げて、興味を繋ぎ止められるから視聴率がよかったりするわけですね。
    笹原 なので前半はバンナ、KINGレイナ、美憂さん、カンナちゃんといった知名度があったり、RIZINとして炊いてきたりしている選手の試合を放送して、後半生中継の天心&RENAの黄金コンビでスパートを掛ける。ところが判定決着の試合が多すぎたこともあって、「天心くんの試合、このままだと生に乗らねーぞ!」っていう可能性が出てきてしまったんですよ(苦笑)。
    ――まさか間に合わない!(笑)。
    笹原 今回は休憩を3回挟む予定だったんですよ。小さな休憩を二回取って、アトラクションタイム込みの長めの休憩。その長めの休憩で所(英男)くんと観客のジャンケン大会をやったり、社長挨拶からのヒクソンvs高田延彦映像を流したり、Tシャツバズーガをやったり、それくらい余裕を持って構成していたんです。「試合が長引いたら休憩時間を削ればいいじゃん。ラクショーだね」くらいの感じだったんです(笑)。
    ――ところが削ればいいという話ではなくなってきたんですね。
    笹原 運営本部は「このままじゃ生放送に間に合わないぞっ!」って野戦病院状態ですよ。それって生中継だけではなく、各方面に影響が出てきますから。例えば休憩後の試合に出る選手は、その休憩時間も込みで準備しますから、すぐにはグローブをつけないですし、いわゆる前室という登場ゲートの前に入る部屋に移動しないんです。で、その予定どおりに選手の周りにいるスタッフはシフトしていますから。
    ――全体の動きやスケジュールが変わってくるんですね。
    笹原 そうです。関わるスタッフが多いのでコントロールするのが容易ではないから、そこは久しぶりに痺れました。あ、当然お客さんにアナウンスする会場コメントなんかも変わってきますから、運営本部で私が手書きでアナウンス原稿書いてましたよ(笑)。で、一番の安全策だったのは生中継時間前にすべての試合をできるだけ早く終わらせることなんですよ。
    ――テレビの中継に合わせて進行するやり方。
    笹原 でも、イベントを観に来ているお客さんのことを考えれば、セミ前にそんなに長い休憩は取れないですよね。間延びしちゃってお客さんも冷めちゃいますから。というわけで、かなり大変でしたけど、ある程度の数字も獲れましたし、チャレンジして本当によかったです。
    ――博打が当たったというわけですね。フジテレビからは「強力な裏番組からすれば大健闘」という評価だったんですよね?
    笹原 これで評価を受けなかったら、レインボーブリッジを封鎖しますよ!
    ――ハハハハハハハ! いままでの2時間枠から3時間枠に伸ばした上で数字も上がったわけですし。
    笹原 強力な裏番組がある中であの数字は手前味噌ながら大健闘だと思います。トーナメントという勝負論が中心の興行で、カード編成を見てもらえればわかりますが、いつものメンバーではあったんですね。
    ――食材はそんなに変わりない。
    笹原 でも、今回はその食材を調理せず、生のまま出したら好評だったということですね。いままでは煮たり、焼いたり、こねたり色々工夫してたんですけど(笑)。
    ――やっぱりスポーツはライブなんですねぇ。
    笹原 ですね。結果がわからずに見るスポーツの力は当然一番大きいと思います。お膳立てが整ったところで、天心くんとRENA選手が凄い試合をやってくれたおかげですよね。いくら生中継とはいっても、あたりまえですけど、試合が面白くなかったら数字は伸びないですよ。実際今回はセミ、メインまでフラストレーションがだいぶ溜まっていたところもあったと思うんですね。
    ――ボクはPPV観戦だったんですが、試合内容はそこまで悪くはないと思ったんですね。でも、格闘技に馴染みの薄い地方大会だったことと、熱気が伝わりにくい大会場だったことの影響もあったんじゃないかなと。
    笹原 福岡の方たちって、自ら能動的に「ワー!!」と騒ぐことはない気質って聞いてたんですね。それにMMAの大きなイベントは2002年の『PRIDE.17』以来ですからね。
    ――その年に生まれた子供は高校生になってますね(笑)。那須川vs藤田大和戦から会場の空気が明らかに変わりましたね。
    笹原 いやあ、凄かった。
    ――那須川選手って世間に出てきてまだ1年も経ってないんですけど。
    笹原 2016年の年末ですから、世の中に名前が出てまだ10ヵ月ですよ。それであそこまでのカリスマ性を持っちゃうわけですからねぇ。これはツイートしましたけど、1週間ぶりに自宅に帰ったら、天心vs藤田大和を何度も見直したカミさんが「那須川天心の入場シーンを完コピした」ってことで、クタクタのまま見せられましたからね。セコンドの動きまで、真似してましたから(笑)。
    ――旦那不在ということもあって酒浸りだったんじゃないですか?(笑)。
    笹原 シラフですよ! そこまで酔わせる力が天心くんにはあるってことですけど、「今回の天心くんは負けるかもしれないなあ……」って思ってたんですよ。MMAに専念してるとは言えない天心くんと違って、藤田くんはMMAの練習だけやっていますし、アマでも数戦こなしている。MMAのレベルで言ったら、天心くんより高いのではと思っていたので。
    ――キャリアを考えれば合格点の動きでしたけど、藤田選手が勝ちきってもおかしくなかったですね。
    笹原 なのでボクは試合が始まったら、藤田選手はすぐにタックルしてテイクダウンをするんじゃないかと思っていたんです。で、そうしたら序盤ですぐにタックルに入ったじゃないですか。「お!これは」と思ったら天心くんの反応も凄かった。まぁ那須川天心の天才ぶりはみなさん知ってのどおりですけど、やっぱりあの試合は、藤田大和の負けん気と才能があったからこそ、あそこまで盛り上がったんだと思います。
    ――那須川選手もMMAに専念したらどうなっちゃうんだろう? ってワクワクしちゃいますね。
    笹原 あの試合の何が面白かったのかって「無敗の天心に土がつくのでは?」っていうドキドキ感ですよね。もはやキックで天心くんをあそこまで追い詰める選手って見当たらないじゃないですか。
    ――キックでは立ちはだかる壁はないと。
    笹原 もちろん世界中にはキックの強い選手はいるんでしょうけど、MMAでしか見せられない那須川天心の魅力って、やっぱりありますよね。
    ――那須川選手は大晦日のRIZINも当然出るわけですよね。
    笹原 去年のMMA2連戦じゃないですけど、那須川天心じゃないとできないことをやってもらいたいですね。「そんな無茶なことやるの?」っていう、これまでの格闘技の枠を飛び越えるようなことを、天心くんなら間違いなくできると思います。UFCにはコナー・マクレガーがいますけど、「日本にも那須川天心がいるぞ!」と世界中にアピールしたいですもん(笑)。
    ――天心vs大和の盛り上がりを受けたあとのRENAも凄かったですね。
    笹原 相手の計量オーバーもあってRENA選手はめっちゃブチ切れていたじゃないですか。怒っているRENAは最高ですね!(笑)。本当に格好いい。
    ――ボクもRENAに「ダメでしょ!?」って怒られたくなりましたよ!(笑)。あの計量オーバーの取り扱いを巡ってなのか、前日はかなりドタバタしてましたね。
    笹原 競技的な話でいえば、1グラムでもオーバーしていれば失格なんですよ。ただ、これはUFCやどこのMMAイベントでも同じなんですけど、体重オーバーしたから即試合中止ってわけにはいかないじゃないですか。それはチケットを売っている、その選手にスポンサーがついている、大会の目玉だからとか……理由はいろいろありますよね。
    ――無理な減量が健康問題に繋がらないのであれば、条件付きで試合を成立させる方向ですね。
    笹原 再計量させるか、キャッチウエイトでやるのか、そもそもオーバーされた側が試合を受けるかどうなのか……試合を成立させるためにいろんな方法を話し合うわけですね。よくあるのは、オーバーされた側が勝てば試合成立、負けたらノーコンテストというものなんですけど。2015年大晦日の元谷(友貴)選手の試合もそうでしたけど。
    ――よく見聞きする処置ですね。
    笹原 それだとRENA選手が勝とうが負けようが準決勝進出……ってそんなトーナメントは聞いたことないし、見ている方も興醒めしますよね。 
    ――女子スーパーアトム級GPだからキャッチウェイトにするわけにはいきませんし……。
    笹原 再計量にしても、いまってギリギリまで落とすことはさせていないんですよ。この時間までと区切って落とせなかったらオーバー。外国人選手って追い詰めて体重を落とさせると「もう試合をやらない……」って諦めちゃうというか、逃げますからね。
    ――プレッシャーの掛け方が難しいんですね。
    笹原 今回競技陣とは「契約体重を守ってこなかったらどうするか?」と事前に話はしていたんですけど……こんな大事なメインの試合でこんなことが起こることまでは想定していなかったんです。で、RIZINは競技とプロモーターはできるだけ距離を置いていて、競技運営については基本的には口出ししないんですよ。
    ――そこは完全に競技と運営を分けているんですね。
    笹原 例えばヘッドレフェリーの福田さんは、競技的に飲めないことがあれば「それならレフェリーはできません」と胸を張って言いますし。そこはナアナアにならずに、決然と競技目線で主張してくれるからこそ、非常に信頼できるんですけど。まぁでも今回のことは、次回以降にどうするのが良いのかという競技的な課題として考えなきゃいけないと思っています。那須川天心の恐るべき一言、RENAの男気、「頑張ってる奴を出せ」議論について……12000字インタビューはまだまだ続く!この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • 不気味な参戦示唆! 五味隆典はRIZIN大晦日に登場するのか■事情通Zの「プロレス 点と線」

    2017-10-24 20:21  
    44pt
    プロレス業界のあらゆる情報に精通する事情通Zの「プロレス 点と線」――。今回のテーマは「五味隆典、大晦日参戦を示唆」です!(聞き手/ジャン斉藤)
    ――Zさん、大変です! ターザン山本がいまだプロレスデビューのことをツイートしまくって悦に入っています!
    事情通Z 冥土の土産なんだから放っておいてやれよ! 
    ――死に際のおじいちゃんから童貞を捨てたときの話を延々と聞かされてるみたいで……。ジミーさんは『週刊プロレス』が大会告知しないから「取材拒否だ!」と息巻いてたのに、試合レポートが載ったら態度を軟化させるところは最高ですけど。
    Z わかりやすいよなあ。まあジミーさんは退職金を注ぎ込んで興行をやったから必死なのはわかるんだけど。
    ――ボクのツイッターってFacebookと連動してるんですけど、ジミー興行のツイートに元『週刊ファイト』の記者、橋爪哲也さんがコメントを寄せていて。「米航空会社は重役クラスでなくとも退職金なんてあるのか? 前借りさせてくれるのか? 勤続15年ほどでどれほどの額なんだろうか? 本当に前借りなんだろうか? FACEの使用料をまだ支払ってないという噂があるけど本当なんだろうか? 退職金では足りなくて知り合いに借りようとしたという話を聞いたけど事実なんだろうか? …疑問は多い」と煽ってるんですよね。
    Z その人、ジミーさんと仲が悪いはずだよ(笑)。
    ――みたいですね。かつてジミーさんはブログで「最近のプロレス記者は貧乏でクリスマスツリーも買えないのか!」という感じで橋爪さんのことを罵倒してて。
    Z どんなケンカだよ! 意味がサッパリわからない(笑)。
    ――次回のジミー興行はジミー鈴木vs橋爪哲也の因縁決着戦でよろしくお願いします! というわけで、本日の本題はジミーじゃなくて五味(隆典)選手です。なんと五味選手本人のインスタグラムで「そろそろ日本のリングに戻ろ #大晦日」と投稿したんです。
    Z MMAぼんやり層の俺は詳しくないんだけど、五味選手はUFCとの契約が終わったの? 
    ――5連続1ラウンドKO&一本負けの39歳のファイターとは、UFCも更新しないですよね。
    Z ファッ!?  五味選手って5連続1ラウンド負けしてたの? そんな選手とRIZINは契約するの??――五味選手は大晦日参戦を示唆してますけど、これはどうなるかは微妙じゃないかなあと。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • 消えた棚橋vs中邑戦■ズンドコ・トラブル興行研究会<漁師JJ編>

    2017-10-24 19:56  
    55pt

    ズンドコ・トラブル興行研究会!! プロレス格闘技のウラに精通する書き手たちがマット界を騒がせたズンドコな事件を振り返ります! 今回はプロレスブログ「多重ロマンチック」の漁師JJさん。今回のテーマは「消えた棚橋vs中邑戦」です!
    【関連企画】幻の闘魂三銃士興行の顛末小島聡まさかの「四冠王者誕生」ズンドコ模様アルティメットクラッシュ…新日本プロレスと総合格闘技
    ファン不在から得た教訓……棚橋弘至、伝説のノーピープルマッチ何がやりたかったんだ「ジャイアント魔神&ニュー・ストロング魔神」
    アントニオ猪木が「整理」したスポーツ平和党ドーム大会へ向けてのファン投票。近年では2013年のオカダvs内藤、中邑vs棚橋の試合順を巡っての投票が話題になったが、「投票により試合カードを決める」というのは、それ以前にも幾たびか行われている。
    2010年、2011年、J SPORTS主導によるJ SPORTS CROWNではヘビー級vsジュニアヘビー級というコンセプトで見たいカードを投票。そしてさかのぼること2004年11月13日・大阪ドーム大会では団体内ドリームマッチとしてカードを募集。当時は新闘魂三銃士としてタッグを組んでいた棚橋弘至vs中邑真輔というカードがインターネット投票により決まり、大会1か月前には正式発表。棚橋は純プロレス。中邑はデビュー2戦目で総合格闘技デビューし、猪木軍にも選抜されるなど別々の道を歩んできたため、これがシングル初対決。もちろんその後の黄金カードだ。
    会見で中邑は「ファン投票といえば聞こえは良いけど、それはマッチメークすべき会社の怠慢じゃないですか」と迷走・新日本にツッコみつつも新たな潮流に意欲。棚橋も「今の新日本を救うような新しい戦いができればいい。猪木vs藤波のような試合をやるつもりでいく」と意気込み、新世代の幕開けを感じさせた。
    11月に入ると棚橋の保持していたU-30選手権に「IWGP」が冠せられ、大阪ドームでの試合がこのタイトルマッチになることが決定。さらに同日行われるIWGPヘビー級選手権試合(王者:佐々木健介vs挑戦者:鈴木みのる)、三冠ヘビー選手権(王者:川田利明vs挑戦者:天山広吉)を抑えてメインイベントになることも発表。ファンの意見を汲み上げタイトルマッチよりも重きを置く大抜擢以上の大抜擢。
    しかし冬の時代の伸びない観客動員。第1弾カード発表から間もない11月5日、大阪・サンテレビの番組に大会宣伝を兼ねて出演した新日本プロレスオーナー・アントニオ猪木はテコ入れ策を発表する。「俺の環状線理論でいえば、大阪ドームのカードはそれなりに面白いが、環状線の内側に向けてのもの。興行が外へと向かっていかない。一言でいえば、好きな奴上がって来いってこと」。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
     

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  • 【全文公開中】北村克哉という巨乳ヤングライオン■二階堂綾乃

    2017-10-20 17:44  
    新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、ついに格闘技デビューをしてしまったこのコーナー。今回は新日本プロレスのヤングライオン「北村克哉」です!古来よりプロレス好きな女性は総じてヤングライオンの成長を生温かい目で見守ることが好きなものですが、最近はそんなヤングライオン好きな女性に呼称があるそうです。北村選手のファンは「北村系女子」、岡選手のファンは「オカジョ」、八木選手のファンは「八木ガール」、海野選手のファンは「ウミノフ」、川人選手のファンは「川ティスト」か「リバピポ」、成田選手のファンは「ナリジェンヌ」。この流れだと、初めて後楽園ホールで生観戦した日にデビューしたファレ選手に特別な思い入れのある私は「ファレおんな」ですかね。
    そして最近、私もとっても気になるヤングライオンがいます。それは北村克哉選手です。
    北村選手の
  • 「昨日やったことは忘れてしまうが、何年も前のことは覚えている」 マーク・ハント欠場問題の背景

    2017-10-20 11:25  
    51pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム「MMA Unleashed」――今回のテーマは「昨日やったことは忘れてしまうが、何年も前のことは覚えている」 マーク・ハント欠場問題の背景です。マーク・ハントが、予定されていた11月19日のUFCシドニー大会のメインイベントから外された。ことの発端は、『Players Voice』サイトに掲載されたインタビュー記事で、ハントが脳障害の症状が出始めていることを次のように告白したことだった。
    私はおそらく、試合で死ぬのだと思う。
    私は子どもの頃からずっと戦ってきた。苦境から抜けだすための戦いだ。かつては週に300ドルしか稼ぐことができず、食べるものにも困っていたが、今では世界有数のファイトマネーを取るようになった。これが私の運命だったのだと思う。これこそが私の天職であり、試合で死ぬことになったとしても、別にかまわないと思っている。ただ、もしそんなことが起きるなら、あくまで正直で公平な試合で起きてほしいと願う。
    身体はボロボロだが、頭はまだはっきりしている。自分のことが分かるし、いいことと悪いことの区別も付く。そこが大事なところだ。
    うまく寝付けないことはある。言葉に詰まったり、ろれつが回らないこともある。記憶力の状態はあまりすぐれない。昨日やったことを忘れてしまうが、何年も何年も前のことは覚えていたりする。それは格闘家であることの代償だ。ただ、私はたくさんの薬物使用者と戦い、ダメージを受けた。これは正しいことではない。
    この記事内容を受けて、UFCでは次のような声明を発表した。
    ハントが記事の中で明らかにした健康問題について、UFCではこれまで、かかる問題を認識しておりませんでした。選手の健康と安全はUFCの最優先事項であります。UFCでは選手が健康不安を訴えていることを知りながら、試合を組むことはありません。ハントにはまず精密検査を受けていただきます。
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  • みんなが愛した美人マネージャー、エリザベス!■斎藤文彦INTERVIEWS

    2017-10-19 08:57  
    72pt
    80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは「みんなが愛した謎の美人マネージャー、エリザベス」です!Dropkick「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー
    ■職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!■怪死、自殺、大事故……呪われた鉄の爪エリック一家の悲劇■ミスターTからメイウェザーまで! WWEをメジャー化させたセレブリティマッチ
    ■馬場、猪木から中邑真輔まで!「WWEと日本人プロレスラー」■WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る■『1984年のUWF』はサイテーの本!■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」

    ■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る

    ■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期

    ■超獣ブルーザー・ブロディ

    ■「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……

    ■『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜





    ■伝説のプロレス番組『ギブUPまで待てない!!』 ■SWSの興亡と全日本再生、キャピトル東急『オリガミ』の集い
    ■「現場監督」長州力と取材拒否■ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ…ヘビに人生を飲み込まれなかった男■追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑■ドナルド・トランプを“怪物”にしたのはビンス・マクマホンなのか――今回のテーマは“マッチョマン”ランディ・サベージの女性マネージャーとして人気の高かったエリザベスです。
    フミ エリザベスはWWEにおける女性キャラクラーの草分けではあるんですが、プロレスラーではありませんでした。のちのディーバと呼ばれる女性キャラクターの先駆けとは言えますが、WWEのリング上でバンプを取ったことはないんです。しかも驚くことにWWEでは、ほとんどしゃべったことがないんですね。
    ――あ! そういえば、エリザベスの声を聞いた記憶がない……。
    フミ 1980年代はハルク・ホーガンやロディ・パイパーらが活躍し始めて、WWEのプロレスが大河ドラマ化していった時代だったんですが、その流れの中でもセリフは一切なし。エリザベスはパントマイムですべてを表現していたんです。
    ――凄い表現力!
    フミ セリフをしゃべらずあのWWEでトップポジションにいたという凄い人なんです。マッチョマンに「さあ、行け!」「そこにいろ!」とまくしたてられると、手を口元に当てながら困ったような顔をしたり、うつむき加減に恥じらった顔をする。ハウスショーでは最上階のお客さんにさえ、セリフがなくても伝わる動きをしていたんですね。
    ――大会場でもしっかりと存在感があったんですね。
    フミ 困ったような足取りでリングの周りを行ったり来たりしたり、場外乱闘に巻き込まれそうになると鉄柱の裏に身体を潜めたり……どんなに遠くから見てもエリザベスが何をやっているのかがわかる。髪型は80年代に流行った外巻きなので、動くたびにゆらゆらと揺れて、エリザベスのか弱さが見えるんです。
    ――じつは凄いことをやってたんですねぇ。
    フミ エリザベスはマネージャーといえば、たしかにマネージャーなんですけど。ルー・アルバーノやミスター・フジといった従来の悪党マネージャーとは違ったキャラクター。それまでのマネージャーといえば、おしゃべりがあまりうまくないレスラーのサポートをするのが仕事のひとつなんですね。
    ――レスラーに代わって煽るわけですね。
    フミ エリザベスはおしゃべりをしたことは一度もない。いつもサベージのひとりしゃべりなんです。
    ――サベージにサポートはいらないんですよね(笑)。
    フミ そんなエリザベスは一度だけしゃべったことがあるんですが……そのシーンはエリザベスとサベージの恋愛ストーリーのクライマックスになるので、のちほど説明しますね。この2人がWWEのリングで結婚式を挙げたのは1991年なんですが、マッチョマンのWWEデビューは1985年。その2年前にサベージとエリザベスは夫婦になっているんです。この続きと、西良典、折原昌夫、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ 
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