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静岡プロレスとは何だったのか■インディの帝王・佐野直インタビュー②
2021-08-07 20:24110pt
インディの帝王・佐野直インタビュー第2弾をお届けします!(聞き手/ジャン斉藤)
第1弾はこちら
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佐野 前回の反響どうですか?
──反響は大きくて「知らない世界」って言い方は失礼なんですけど、知らない世界はもっと知りたいというか。
佐野 あぁ、本当ですか。それはよかったです。
──今回もいろいろとお聞きしたいんですが……佐野さんは鶴見五郎さんの国際プロレスをいつやめられたんですか?
佐野 じつはね、いつやめたのかはわかんないんですよ。
──ハハハハハハハ。
佐野 何年か前に鶴見五郎さんの息子さんが何を血迷ったか「プロレスラーになる」と言いだして。息子さんはブラジリアン柔術をやってるから大丈夫だと。鶴見さん本人が大丈夫じゃないことを一番わかってるはずなんですけど。ブラジリアン柔術をやってるからプロレスができるわけないじゃないですか。そこはラーメン屋で働いてた人が急にうどん屋になるのと一緒で、同じ格闘技とはいえ全然違うもんなんで。
──鶴見さんの息子さんは、たしか30歳を過ぎてから頑固プロレスに入門してましたね。
佐野 そんなデビューする・しないっていう話があって、鶴見さんの息子さんが突然、国際プロレスの興行を打ったんですよ。2013年4月かな。で、鶴見さんがやった国際は2005年が最後の興行。森谷(俊之)さんがメインで入ってるんですけど。
──インディを支え続けたM資金の森谷さん。
佐野 あの8年後に、突如鶴見さんの息子が国際プロレスの興行をやったんです。そこで鶴見さんの引退試合があって。ボクは普通にフリーとして呼ばれて、メンバーは国際プロレスじゃない人がたくさんいて、メインは高木三四郎ですね。それがめちゃくちゃ入ったんですよ、お客さんが。そこまでボクは国際プロレスに籍があって……。
──そこまで在籍だったんですね(笑)。
佐野 まあ実質フリーで、どこからでも呼ばれれば出るって感じですけどね。
──00年代中盤には、静岡プロレスのエースだった時期がありましたよね。
佐野 あー! あったあった、静岡プロレス。山本(雅俊 )さんから「佐野くんに紹介したい人がいる」って静岡プロレス代表の稲木(良光)さん。当時クラシック音楽ではけっこう有名な方を紹介されたんですけど。稲木さんが「佐野さんをエースにして団体を立ち上げたい」と。
──それはすごいオファーですね(笑)。
佐野 ボクも「なんで俺なんだ?」って気持ちですけど。静岡から何度も来て話をしてくれて、めちゃめちゃ熱意があったんで。「佐野さんがエースで、佐野さんの周りのメンツで団体を作って行きたい」と。クラシック音楽のコンサートの演奏者が「なんでですか?」と(笑)。
――壮大な詐欺に巻き込まれるんじゃないかと(笑)。
佐野 それで実際に動き出して、旗揚げの記者会見は静岡県の県庁でやったんです。県庁ですよ(笑)。
──ハハハハハハハハ!
佐野 その静岡県庁の中に大会議室みたいなのがあって、そこで旗揚げ戦やると。
──県庁で旗揚げ戦ですか!(笑)。
佐野 その大会議室、けっこうデカイんですけど。東京からリング運んで、選手いっぱい連れていって。メインがボクとスタンガン高村さん。そのとき初めて高村さんに会って、ボクも名前をちょっと知ってるくらいだったんですけど。ケンドー・ナガサキさんの付き人だったのか、お友達だったのか関係はわからないんですけど、昔からアマチュアプロレスやってる方でめちゃくちゃ雰囲気のあるいいヒールの選手なんですよ。で、どこまで書いていいのかわかんないですけど、スタンガン高村さんは地元ではそれなりの企業の社長さんをやってる方で。
──地元の名士がヒール(笑)。
佐野 ボクは面識もない人とプロレスをやるの大好きなんですけど、高村さんとリングで戦って意気投合したというか。「あぁ、この人とは手が合うな」と。そこから静岡プロレスは数年近く活動してんですよ。
──どれくらいのペースで興行をやってたんですか?
佐野 2〜3ヵ月に1回くらいかな。県庁の旗揚げ戦が大盛況だったんですよ。そのすぐ1〜2ヵ月後くらいに修善寺のサイクルスポーツセンターで売り興行が決まりまして。
──静岡プロレスの売り興行(笑)。
佐野 覚えてるのはその場所まで車で行ったんですけど、山の上にあるんですよね。山の途中に俺のデカイ看板があるんですよ。「静岡プロレス来場!」みたいな。で、電車内の広告吊りにも俺がいたらしくて(笑)。
──ガハハハハハハハハ!
佐野 静岡の知り合いから連絡が来て「プロレスやんの? 車内吊りの広告を見たよ」って。
──なんというお金のかけかた(笑)。
佐野 静岡プロレスのバブルが来たなって思って。ボク、静岡の人でもなんでもないんですけど、全日本プロレスやDDT、ゼロワンが静岡で興行をやるたびにご当地レスラーみたいな感じで呼ばれて。
──静岡のご当地レスラーだと思われていた(笑)。
佐野 そうそうそう。で、稲木代表がまたチケットをけっこう売るんですよね。そんなわけで静岡プロレスはめちゃくちゃ順風満帆だったんですよ。
──ギャラもよかったんですか?
佐野 まぁ、そこまでベラボーにってわけじゃないですけど、ヨソと全然遜色ないです。
──なぜ佐野さんを抜擢したのかは……。
佐野 そこは最後まで謎なんですよ。その静岡プロレスの歯車が狂い始めたのは、代表が「自分も試合をしたい」と。
──あー、ありがちですね。
佐野 素人がリングに上がることの風当たりが、いまよりも厳しい時代だったので「やめたほうがいいんじゃないですか」と止めたんですけど、代表じゃないですか。我々としても静岡プロレスはいいマーケットだったんで、それで気を悪くして静岡プロレスをやめられても困るなと。それでやりましょうということになったんですが、試合中に案の定、どこか骨折したのかな。小仲=ペールワンのファイヤーバードスプラッシュで。
──受けたんですか(笑)。
佐野 そこから歯車が狂い始めて。稲木さんが地元の市長だか市議だかの選挙に出たんですよ。でも、通らなかくて。結局プロレスなんてやってたから落ちたんじゃないかという叩かれ方をされたりして。まあプロレスをやったから知名度も上がったんですけどね。それでなし崩し的に終わって。解散興行とかやったのかなぁ……。スタンガン高村さんは静岡プロレスで一旗あげかかった時期なので「なんとか続けたい」と言っていたんですけど。NEOレディースさんとか女子プロの興行をやるときも、ボクとスタンガン高村さんが静岡プロレス提供マッチとかやったりして。
──話を聞いても謎が深まりますね、静岡プロレスは。
佐野 活き活き塾以上にボクは謎でしたね。活き活き塾は裏側がわかってたんで謎ではなかったんですけど。
──稲木さんはお金を出して、あとはお任せだったんですね?
佐野 お任せでした。口も出さないし。
──何か野望があったわけでもない?
佐野 市議会だか市長だかわかんないですけど、それに出るための足がかりにしてたのか……。
──静岡プロレスを足がかりに(笑)。
佐野 いやいや、わかんないですけど(笑)。稲木さんとはいまでも仲は悪くはないんで。たまーにFacebookとかでお互い近況報告するくらいな感じなんですけど。こうして話をされるまで、静岡プロレスのことはすっかり忘れてましたけど。
──エースだったのに忘れちゃう(笑)。
佐野 はい(笑)。やっぱり23年間もいろいろとやってるので。それこそ静岡プロレス繋がりでピエール瀧さんと知り合って。ピエール瀧さん、スタンガン高村さんと同級生なんです。
──ああ、ボクもそれでスタンガン高村さんのこと知ったんだ。たしか瀧さんが静岡プロレス観戦に訪れた際に高村さんと再開して……。
佐野 静岡ローカルで放映していた『ピエール瀧のしょんないTV』に何回も呼ばれて。最初は子供が健康に生まれてくるっていう神社で安産祈願奉納プロレスをやって。
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――佐野直さんは鶴見五郎さんのお弟子さんなんですよね。
佐野 そうですね。もともとは長瀬館長が主催していたトータル・アスレチック・マーシャルアーツ(TAMA)という団体にいたんですよ。渡辺宏志さんもいて。
――ちょうど渡辺塾長のインタビューを連載中ですね。
佐野 ああ、そうみたいですね。プロレスがやりたいということで入ってはみたものの、ずっと放置された状態で。前から知り合いだった高木三四郎さんから、鶴見さんのところに入ったほうがいいんじゃないかと。それがIWA格闘志塾(のちに国際プロレスに名称変更)だったんですけど。
――鶴見さんの地元・茅ヶ崎を中心にやっていた興行ですね。
佐野 90年代の終わり頃ってまだ……「まだ」っていう言い方はアレなんですけど。プロレスラーって強さを求める練習をやっていたんですよ。 いまとは練習方法がまるで違うんですよね。「誰でもレスラーにはしない」っていう。ボクらもやめさせるための練習をさせられていたんです。
――あの当時のインディーでもそうだったんですか。
佐野 佐々木貴さんとか、ボクらの世代が最後じゃないですかね。ひたすら基礎体力練習とガチンコのスパーリングで耳を潰されたりとか。そういう練習はたくさんさせられました。
――練習場所は鶴見さんのジムですか?
佐野 茅ヶ崎にあった鶴見五郎スポーツジムですね。入門テストだって基礎体の回数がないんですよ。トランプのめくった回数だけやる。延々とやらされたら、いつのまにか入門していたみたいな。
――トランプ式の練習って、いまのプロレスファンにはピンとこないでしょうね(笑)。
佐野 練習中は水を飲んじゃいけないとか非科学的なものだったんですけど。 いまとなってみれば、経験できてよかったなと。それはきれいごとじゃなくて、試合終盤でどんなにフラフラになったときでも受け身で頭を打ったことがないんで。
――どんな状態でも受け身が取れるように身体に染み込んでるわけですね。
佐野 100発受け身とか、いまだったらワイドショーが殺到しそうなキツイ練習をさせられてましたからね。当時は「なんでこんなキツイ練習を……」って思ってましたけど、あれをやってたから23年間、大きなケガもなくやってられるのかなと。
――そんなに厳しいのは鶴見さんがコーチだったからなんですかね。
佐野 いやあ、他団体も同じだったと思いますよ。 DDTは木村浩一郎さんが教えてましたし。 DDT の練習に参加したんですけど、 ボクは鶴見さんのところの選手だったので、しごかれることはなかったんですけど(笑)。それでも瀕死になるようなスパーリングはやりましたし。あのときのDDTにはホッパーキングさんもいましたからね。
――ホッパーキングとは初代シューターで渡部優一さんですね。渡部修斗選手の父親で。
佐野 いまの若手は恵まれてると思いますよ。リングの上で練習するのは鶴見青果市場や茅ヶ崎青果市場で IWA格闘志塾が月1回、興行をやるときか、 鶴見さんが他団体に出るときにお付きでついていって試合前に受け身やロープワークをやるくらいで。
――屋台村の定期戦も経験されていたんですか?
佐野 いや、ボクのときは屋台村はもうやってなくて。鶴見青果市場、茅ヶ崎青果市場、大津スイミングクラブ駐車場。 月1でそこのローテーションでしたね。年間最初にすべてのスケジュールが出るんですよ。そのときに契約書を交わすんですけど。
―― IWA格闘志塾に契約書!
佐野 あるんですよ。もし興行があるのに他団体に出た場合は罰金3万円という払える金額が設定してあって(笑)。
――50万円100万円だと払えないですけど、3万円は現実的(笑)。
佐野 あのときから鶴見さんはビジネスマンとしてすごいなって思いましたね。 紙1枚に日程が書いてあって、自分の名前を書く程度だから、どこまで法的拘束があるのかはわからないですけど(笑)。当時は面白い話がたくさんありますよ。渡辺さんも話はしてないですか、水晶の話とか。
―― ちょうどその話をしてもらってザワついているところなんです(笑)。 鶴見さんのところだけだと、そんなに試合はできないですよね。
佐野 ボクがデビューした頃ってインディの若手が少なかったので、ギャラは安かったですけど、けっこういろんな団体に呼ばれることが多くて。当時は試合数が多かったんですよ。贅沢な話ですけど、いまって後楽園ホールはビッグマッチじゃないですか。当時は後楽園ホールでちょくちょく試合があったので。
――いまの新木場の興行が当時の後楽園に該当する感じですよね。
佐野 そうですよね。その贅沢な環境に気づかなかったです。
――鶴見青果市場で鶴見さんが剛竜馬さんの引退試合を主催したときがあったじゃないですか。ところが剛さんは姿を現さなかったという。
佐野 剛竜馬さんの引退試合が、剛さん本人不在のままテンカウントが鳴らされたやつですね。 あのときは現場にいたんですよ。
――伝説の現場に!
佐野 ボクも詳しくはわからないんですけど、たぶん剛さんと鶴見さんのあいだで何かしらお金に関する約束があって、それで鶴見さんが剛さんの引退興行を仕切ると。結局、剛さんは現場に来なかったんですけど。そこから数奇な運命というか。剛さん生涯最後の試合は剛さんが松崎(和彦)さんと組んで、 ボクが鶴見さんと組んで戦う師弟タッグマッチだったんです。
――そういうトラブルがあっても、再び試合で肌を合わせることができるのがプロレスの面白いところですね。
佐野 ボクの場合は剛さんには悪いイメージはまったくなくて。
――当時のインディーで悪い思いをしたことってあるんですか?
佐野 悪い思いはなかったんですけど、お金はなかったですよね。試合はあったけど、お金はなかったです。 「時給換算したらいくらなんだよ?」っていう。会場に行ってリングを作って練習して、試合をしたあとはリングを壊して家に帰って。プロレスが好きだからやれただけですよね。
――当時はプロレス以外の仕事もされてたんですか?
佐野 ボクの時代はプロレスのスケジュールを優先したので何回もバイトをクビになってましたね(笑)。でも、ちょっと前までなんて「その日はバイトなので試合に出れません」という若手が多かったんですよ。 それって本末転倒なんじゃないかなって思って。
――佐野さんは鶴見さんのお弟子さんだからなのか、すごくやり手ですよね。
佐野 ハハハハハハハ。たしかに鶴見さんからは勉強することばっかりでしたよね。鶴見さんの弟子だったから、いまだに持ってるのかなってありますし。鶴見さんって「とにかく生き残ったもん勝ちだ」みたいなところがあるんですよ。「金を持って死ぬぐらいだったら金がなくても生きていた方が勝ちだ」と。 そんなことを鶴見さんから勝手に教わって。
――いかに生き残るか。
佐野 鶴見さん、昔お店をやっていたんですよ。スナックGT。10円でも安ければ隣町まで自転車で買い物に行くなんてことを普通にやってましたからね。興行なんかも東スポの見出しみたいな割引券を作ったりして。「◯◯大会1000円!」って大きく書いてあるけど、虫眼鏡で見ないとわからないように「割引」と書いてあって(笑)。
――たくましいですね(笑)。
佐野 そのチラシを一軒一軒、配りに行くんです。 ボクもついて行ったんですけど、鶴見さんはすべて自分がやっていて。 下の者に「やっとけ!」で済まさないんですよね。
――あれだけのベテランレスラーが自ら率先して動いてたんですね。
佐野 ボクは当事、車を持っていたので使われていたというか(笑)、 鶴見さんは運転できないのでボクか佐々木貴さんか、鶴見さんの奥さんが運転してましたね。鶴見さんと行動をともにしていると「興行ってこうやって作ってくんだな」と勉強になって。鶴見さんはお金に関しては固いんですけど、ウソはつかないし遅配も絶対にないんですよ。そんなに高いギャラじゃないですけど(笑)、どんなにガラガラでも事前に言った額はちゃんと払うし、 遅れるってことはなかったですね。
――ごまかさないんですね。
佐野 うーん、そこは語弊があるかもしれないですけど(苦笑)。
――そこは微妙ですか(笑)。
佐野 つい最近も鶴見五郎、 高木三四郎、 佐々木貴、ボクの4人で、鶴見さんの弟子が集まる最初で最後のトークショーを闘道館でやったんですよ。そのとき闘道館さんからギャラをまとめてもらったんですけど、「ボクたち弟子は交通費だけでいいですよ」と。 後日、闘道館でボクと佐々木さんが「こないだのトークショー楽しかったですね」なんて話をしてて。よくよく聞いたら佐々木さんは鶴見さんの子供さんが運転する車で来たんですけど、佐々木さんは「ガソリン代と高速代を払わされた」と。そうしたら闘道館の館長が「鶴見さんには別途交通費を払ってますよ」と。その話を聞いてボクと佐々木さんはすごくホッコリしましたね(笑)。
――鶴見さんらしいと(笑)。
佐野 変わってないなと。スレスレですけど(笑)。佐々木さんのことを乗っけてってるわけですし、ガソリン代と高速代はかかってるわけですから
――ごまかしてはないと(笑)。鶴見さんのコスチュームにSOSと文字が入っていたのは「絶対に生き残る」という意味なのかもしれないですね。
佐野 コスチュームの話でいえば「鶴見五郎女性説」というのがあって。
――えっ、それはなんですか。
佐野 鶴見さんって自宅からコスチュームのまま会場に来るんですよ。あの釣りパンの上にキャピタルの袖のないジャージを着て。誰1人、鶴見さんの上半身を見た人がなくて。
――とんでもない伝説ですね(笑)。誰かに理由を聞いた人はいないんですか?
佐野 いやあ、いないっすねえ。 墓場まで持っていくのかどうか知らないですけど。
――話を聞くと、鶴見さんのお弟子さんたちが成功している理由がよくわかりますね。
佐野 成功してるかどうかはわからないですけど(笑)。どこかしらに鶴見さんの弟子というプライドを持ってるんじゃないですかね。
――生き抜く力じゃないですけど。
佐野 何を習ったかといえば覚えてないんですけど(笑)。トークショーのときも「ランカシャーの技術を習いましたよね」なんて話が出たんですけど、俺も全然覚えてなくて。
―― 皆さんランカシャーの「ラ」の字もないですね(笑)。
佐野 唯一鶴見さんから習って、いまだに役立ってるのは、 ステーキハウスリベラでマスタードをつけて食べると美味しいっていうことぐらいで(笑)。
――ハハハハハハハ!
佐野 それが鶴見さんから習って一番役立ってます(笑)。
――そんな鶴見さんのところを軸に他団体に出ていたわけですね。
佐野 鶴見さんのところに所属はしていたんですけど、半分フリーみたいな感じで鶴見さんの興行があっても、 大仁田厚さんの興行に出ちゃったりして。鶴見さんはそれに対して何にも怒りもせず、罰金3万円を請求するわけでもなく(笑)。いい意味で自由にさせてくれてもらって。
――伝説のインディ団体「プロレス活き活き塾」にも出られてましたよね。
佐野 あれは当時DDTを抜けた人たちが始めたプロモーションで。いろいろと深い話があるんですけど…… 活き活き塾ができたきっかけとか、まだ世に出ていない話もあるんですよ。
――ボクは当時『紙のプロレス』編集者だったんですけど、編集部に活き活き塾の方々がPRで来られたことがあって……<12000字インタビューはまだまだ続く>
この続きと、ボンサイ柔術、石渡伸太郎、平本蓮、佐野直、ベイダー……などの7月更新記事が600円(税込み)でまとめて読める「13万字・記事20本の詰め合わせセット」はコチラ
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