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【アンコール劇場】修斗とUを漂流した男・入江秀忠「俺は自称UWFじゃないんですよ」

Dropkickアンコール劇場にキングダムエルガイツ代表入江秀忠(イリエマン)が登場! 最近のファンからすると「DEEPバラエティ代表」、古しのファンからは「UWFを勝手に名乗ってる男」のイメージが強い入江。しかし、その格闘技人生はさすが90年代を生き抜いてきた男、ド濃厚なものであった(この記事は2014年8月に掲載されたものです)。  「大相撲、学生相撲、修斗、そしてキングダムへ……」 ――「1990年代の総合格闘技」を語っていただくシリーズをやっていまして。 入江 サイトを見ました。「あの人はいま……」みたいな感じではないんですよね?(笑)。 ――というわけではないですね。90年代の格闘技界ってグチャグチャしていてホント興味深いですし、いまだからこそ語れることもあると思いまして。 入江 はいはい、ボクもかなり長いですからね。 ――もともと入江さんは大相撲をやられていたんですよね。 入江 はい、相撲ですね。一級上が貴乃花や曙さんであり、同期が魁皇。周りはそうそうたるメンバーだったんですよ。 ――大相撲全盛期。 入江 当時の相撲人気はヤバかったですね。チケットは取れないし、満員御礼の記録が続いていたし、千代の富士さんが53連勝していた頃で景気はよかったですね。タニマチが若手まで全員にお小遣いを渡したり、もの凄く羽振りのいい時代だったと思いますよ。 ――入江さんは相撲取りになりたかったんですか? 入江 いや、ぜんぜん。 ――あ、違うんですか(笑)。 入江 10代の頃は相当グレていて。高校を2回クビになるくらい荒れていまして。それで3校目の高校に入学しようとしたときに、大相撲の元・佐渡ヶ嶽親方(元・横綱、琴櫻)が「ウチの部屋に入門来てみないか」と。自分の親が佐渡ヶ嶽部屋を後援してたんですよね。親からすれば不良でどうしようもなかったので預けようということだったと思うんですけど。ボクも東京に行けば何かあるかなと思って。 ――入門してみてどうですか? 最近だと新弟子のかわいがりが問題になってますけど、当時はかなり厳しかったんじゃないですか。 入江 日本最後の封建制度みたいなところはありましたね。本当にもう……それはそれは地獄というか(笑)。 ――日本最後の地獄(笑)。 入江 いまでも夢にうなされるくらいの地獄ではあったんですけど。ただ、そこを我慢してきたことで、そのあとの人生で何が起きても耐えることができましたよね。 ――いちばん酷い目にあったのはなんですか? 言える範囲でいいですけれども。 入江 言える範囲のことはないですね(笑)。 ――ハハハハハハ! すべて言えない範囲(笑)。 入江 本当にね、想像を絶する世界ではあったので。いまの時代はちょっとしたことで大問題になったりするじゃないですか? ボクがいたときは問題にもならなかったので本当に凄かったですね。 ――何か悪いことをやって怒られるのではなくて、意味もなく怒られたり殴られたりする理不尽の嵐だったというか。 入江 そうですね。それがいいところでもあるんですけど、いまの相撲部屋は業界の取り組みでだいぶ良い方向に変わったと思います。それで相撲には1年くらいいました。 ――相撲を辞めた理由はなんだったんですか? 入江 取り組みで飛び蹴りをやってしまいまして。3大新聞の紙面を飾ったくらい大問題になったんですよ(笑)。 ――ハハハハハハ。どうしてそんな荒技を? 入江 突っ張りはともかくとして、張り手という行為は反則という意識があって。張られたもんだから頭にきて相手を土俵下に投げたあと、勝ち名乗りも受けないでドロップキックを喰らわせたという。 ――凄い!(笑)。 入江 それがきっかけで廃業したというか。それ以前に大学に行きたかったこともあったんですね。ちょうど学生相撲から誘いがあったので、それで自分から廃業届けを出して。 ――大相撲から学生相撲に移るのは珍しくないんですか? 入江 当時でも珍しい話ですし、ありえないかもしれません。自分は節々でそういう運に恵まれていたところはありますよね。どうしようもなくなったら誰かに助けてもらっている気がします。 ――それで大学に通うようになったんですね。 入江 日大だったんですけれども、大学相撲で8連覇している名門だったんですよ。だけど、その当時の監督が、ボクが相撲を1年間やったとはいえ、日大は小学校から相撲をやっているようエリートが10人くらいいたので。追いつけないとはいえないまでも、エースにはなれないなって感じだったと思うんですよ。だったら1年のときからバリバリのエースでやれるようなところに行ったほうが活きるんじゃないか、と。それで国士舘大学を紹介してもらってそこに移籍したんですよね。 ――流れ流れてますねぇ。 入江 国士舘では1年から卒業までエースでやらせていただいて。いま考えると日大で補欠の2番手3番手でやっていても相撲は続かなかったんじゃないかなとは思ってます。 ――総合以前から壮絶な格闘技人生ですね(笑)。卒業後はどう考えていましたか? 入江 先生になりたかったんですよね、学校の。 ――大相撲に戻りたいと思わなかったですか? 入江 大学卒業後、まわしを巻いたことは一切ないですね。 ――もともと好きで相撲を始めたわけではないこともあるんですかね。 入江 それもたしかに(笑)。ただ一度やり始めたことは納得するまでやる気持ちがありましたから。それで先生になろうとしたんですけれど、冷静に考えるとボクって高校を2回もクビになってるんですよね(笑)。 ――ハハハハハ。 入江 じつは高校もバレーボールの特待生で、大学も相撲特待で入っているじゃないですか。まったく受験を知らない男だったんですよ。なんだかんだで教員免許は取ったんですけれど、当時の採用試験1000人受けて30人しか通れないような倍率だったので。だから受験を知らない男が通るようなものではないですよね。そこで総合格闘技をやろうと思ったんです。きっかけは第1回のバーリトゥードジャパンでヒクソンが優勝したじゃないですか。その試合を見て総合格闘家になろうと思っちゃったんですよね。 ――プロレス格闘技に興味はあったんですか? 入江 ぜんぜんです。じつはここだけの話、現在U系の団体を背負ってはいても、当時はとくに興味がなかったんですよ(苦笑)。UWFっていうムーブメントは知っていましたよ。大きなムーブメントでしたし、一般のマスメディアなども扱ってましたから。総合格闘技がどんなものか知られていない時代だったんですけど、ヒクソンの試合を見て「これなんなんだろう?」っていう興味が出てきまして。それでシューティングをやり始めたんですよね。 ――当時格闘技を習うとなるとシューティングしかなかったですもんね。あとは骨法くらいで。 入江 骨法にも問い合わせてみたりしたんですよ。でも、骨法の場合は、体験も何もなくいきなり入門しなくちゃならなくて。 ――骨法は見学ができないシステムなんですよね。 入江 だからどういうことをやってるのかもわからないし。シューティングもその頃は三軒茶屋のジムはもうなくて。オープンしたばかりのK'z FACTORYに入ったんですよね。 ――佐山シューティングは体験してないんですね。「地獄の合宿」とか。 入江 佐山先生とはここ数年知り合う機会がありまして掣圏道で教えてもらってるんですけど。当時もその合宿には本当に興味があって。大相撲とどれくらい違うのかな?と。ボクも毎日が地獄の合宿だったので(笑)。 ――毎日が地獄の合宿(笑)。 入江 ボクも佐山先生直系の弟子の方たちに教えてもらったんです。K'z FACTORYでは草柳(和宏)さんを初め、初代シューターの先輩方。そのあと移籍した木口道場での師匠は木口(宣昭)先生ですね。 ――K'z FACTORYのあと木口道場に移ったんですね。 入江 はい。木口道場には1年くらいかな。そのあいだに全日本アマチュア修斗選手権のヘビー級で優勝してるんですよ。総合を初めて7ヵ月で取ったんです。決勝で戦った藤井克久は全日本レスリングの準優勝をしていて。総合格闘技にグランドパンチも導入されるかされないかの瀬戸際の頃ですね。 ――入江さんや藤井さんも相当な逸材だったんじゃないですか? 入江 優勝したときは『格闘技通信』がページを割いてくれて。「どすこいシューター」というキャッチフレーズで初めは鳴り物入りだったんですよ。ところが途中から鳴らなくなったという(笑)。 ――鳴りませんでしたか(笑)。 入江 充実してましたけどね。朝起きたら走りこみをして、昼間はバイトして、夜は19時くらいから22時くらいまで練習して。そして寝る前に走りこみをする生活を毎日送っていて。なぜそこまでトレーニングをしていたかというと、ヒクソン・グレイシーは8時間練習していると。だから俺も8時間やらなくてはいけないなと(笑)。  ――入江さんの「打倒ヒクソン」はその頃からの目標なんですね。のちにヒクソン戦実現1万人署名運動もやってましたけど、思いつきで言い始めたわけではなくて。 入江 アマ修斗のチャンピオンになった直後から言っていたんですよ。ヒクソンとやるためにこの世界に入ったので引くに引けなかったんですよね。 ――K'z FACTORYや木口道場でいうと五味(隆典)選手との接点はあったりしました? 入江 五味選手は木口道場の昼のレスリングで。まだ五味選手がアマチュアの頃でしたけど。あと佐藤ルミナさんとかプロが集まってましたし。 ――当時は佐藤ルミナがブレイクする前夜でしたね。 入江 総合自体が「これから盛り上がって行くぞ!」という期待感が凄くありましたね。ルミナさんもあの頃が一番面白かったと言ってたそうですけど、勉強することがたくさんあって本当に面白かったですよね。それでルミナさんが修斗の後楽園でヒカルド・リッキー・ボテーリョに一本勝ちしたじゃないですか。 ――日本人が柔術黒帯からMMAで初めて一本勝ちした伝説の試合ですね。 入江 ボクも後楽園でガッツポーズしましたよ! 柔術の青帯にも勝てないと言われていたので。いい時代でしたよね(しみじみと)。ボクはバイト2つを掛け持ちして、あと練習はするだけで遊びも何もしない。夜は「あしたのジョー」か格闘技のビデオを見ながら酒を飲む。それだけが楽しみの20代でした。 ――そんな修斗漬けの生活からプロレス団体のキングダムに入門するんですね。 入江 自分でも不思議だなと思いました。当時U系と修斗ってまったく接点がなくて、まったくのベツモノ。言い方は悪いけれど、修斗はU系を認めていない部分があったし。それなのにどうしてU系のキングダムに入門したかというと、修斗のヘビー級っていまもそうですけど選手があまりいなくて、デビュー戦もできない状態だったんですよ。3年も4年も毎日毎日練習して、どこに出稽古に行っても負けない状況になっていたのに闘う相手がいない。チャンスがなかったんですよね。そんな中でPRIDEでヒクソンvs高田延彦があったじゃないですか。「キングダムに入ったら、もしかしたらヒクソン戦っていう可能性もゼロではないんじゃないかな……?」と思ってキングダムに電話したんですよ。 ――そこもヒクソン戦実現が動機だったんですか。 入江 そうしたら運良くキングダム取締役の鈴木健さんと会えることになって。身体と実績を見て「すぐにデビューさせる」という話になったんです。それで1998年1月の興行に来てくれと言われたので会場の後楽園に行ったんですよ。お客さんは超満員だったんですけど、試合が終わったあとに桜庭(和志)さんたちがリングに上がって「ボクたちはキングダムを辞めて高田道場に移籍します」って発表して。そんな話は一切聞いてなかったんですよ!(笑)。 ――高田さんはキングダムには正式参加してなかったんですよね。高山(善廣)さんや垣原(賢人)さんたちも全日本プロレスに移籍して。 入江 あの時点で安生(洋二)さん、金原(弘光)さん、ヤマケン(山本喧一)さん以外はみんなキングダムから出ていくことになったんですよね。後楽園は暴動寸前の空気になって「高田を呼んでこい!」とか野次が飛んでたりして。  ――団体崩壊寸前のタイミングで入門(笑)。 入江 「やばいな、これ……」って思いましたね。大会が終わったあとに安生さんと鈴木さんが来て「おまえをこれから売り出すから」って言われたんですけど。 ――デビューもしてないのに(笑)。 入江 いちおうそこから道場通いですよ。5階地下1階の立派なビルの道場。 ――キングダムはどういった団体だったかはご存知だったのですか? 入江 知ってましたよ。U系の流れをくむ団体っていうことは。 ――キングダム母体のUインターにはエンセン井上さんがよく出稽古に行かれていましたけど。 入江 その話をボクも聞いてて。エンセンさんから金原さんや桜庭さんが強いよっていう話は聞いてはいたんですけれど、そのときは別世界のことでしたね。ボクは修斗信者、修斗最強みたいな思想があったので。 ――キングダムの試合スタイルにはどういう認識があったんですか? 入江 ボクは最後に入ったので詳しいことはわからないんですけど、ボクの試合はシュートを要求されましたね。 

【アンコール劇場】修斗とUを漂流した男・入江秀忠「俺は自称UWFじゃないんですよ」

【総合格闘技が生まれた時代】元『格闘技通信』名物記者・安西伸一「俺が愛したグレイシー柔術 」

90年代のプロ格潮流を振り返る大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズに「アンザイ・グレイシー」が登場! 今回のゲストは、元『週刊プロレス』の記者として“活字プロレス”シーンを引っ張り、元『格闘技通信』時代はグレイシー一族の番記者として日本にグレイシー柔術を広く知らしめた安西伸一氏。グレイシーとの出会い、ヒクソンvs安生の道場破り、『格通』が向かい合ったグレーな領域などをタップリとうかがった13000字のロングインタビューです。(聞き手/ジャン斉藤)◯安西伸一氏が司会を務める「キューティー鈴木 トークライブ」のお知らせhttp://ameblo.jp/wing1991-0807-0302/entry-11939880799.html■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■非会員でも購入できる! 単品購入できるインタビュー詰め合わせセット! part6はインタビュー6本立て税込み540円!!  http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar603088・90年代を体現した男・木村浩一郎――!!「FMWとリングスで俺はこの業界をナメてしまったんですよ」・W☆ING発、リングス行き! 「足首鳴ってんどー!!」鶴巻伸洋の怪しい格闘家人生頑張れ!川ちゃん!!・川尻達也、3度目の網膜剥離……「復帰できるかはわかりませんが、悪あがきはしますよ」骨法ネタも充実!・【骨法の祭典2014】ヤノタク×中川カ〜ル「俺たちが愛した喧嘩芸骨法」・ 小林聡・野良犬の哲学「選手もプロモーターも群れてちゃ面白くないんですよ」・2014年のUWF――中村大介「それでもボクはUスタイルで戦い続けます」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そのほかの詰め合わせセットはコチラ→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar634402安西 (聞き手に向かって)なんで「ジャン斉藤」という名前なの? ――麻雀がめっぽう強いからです! 自分で言うのもなんですが。 安西 そうなんだ。盲牌できるの? ――盲牌はできますけど、ボクの麻雀の師匠が“雀鬼”桜井章一という人で。 安西 ああ、有名な人だよね。 ――雀鬼の教えで「盲牌は無駄な動作」ということで禁止なんですよね。 安西 桜井さんってホントに無敗だったの? ――正直、次元が違いましたねぇ。麻雀をやったことある人なら「麻雀で無敗なんてあるわけがない」と思うんでしょうけど。ボクも雀鬼と打つ前はそう疑ってました(笑)。 安西 だってツキの波ってあるじゃん。信じられないくらいあるよね。それをどう克服してるの? ――まず雀鬼は勝負になると勘がメチャクチャ鋭いんですよね。隣の卓でゲーム中の裏ドラを当てるとか。あと博打って金銭が絡むから、欲で判断が狂うじゃないですか。それは人生も同じで、我に返ると「なんであんな判断をしちゃったんだろう?」ってことで誰にでもあると思うんですけど。雀鬼は欲に心を乱さずに麻雀を打つんですよね。もちろん一流の技術があったうえでのことなんですけど。 安西 なるほどねえ。それはヒクソン・グレイシーそのものだよ。 ――本日のインタビューテーマですね。ヒクソンと雀鬼はマブダチですし(笑)。 安西 ヒクソンとは誰の紹介で知り合ったの? ――現・グランスピアー事務局局長の笹原(圭一)さんです。当時PRIDEの広報をやっていた笹原さんの個人的な趣味で対談が実現して。 安西 笹原くんがあの2人を会わしたんだ。 ――それで今日は、桜庭和志がヘンゾ・グレイシーとグラップリングマッチが予定されていたり、ヒクソンの息子クロンのMMAデビューが日本で行われるということで、かつて“グレイシー番”として名を馳せた安西さんにグレイシー一族の魅力を語っていただきたいな、と。 安西 こないだWOWOWでPRIDEを振り返る番組があって、そこで桜庭vsホイスをひさしぶりに見ましたよ。 ――伝説の一戦をあらためて見ていかがでしたか? 安西 桜庭選手のローキックは凄いなあって。あれはかなり効いていたよね。ホイスはガス欠というかエネルギーがなくなって。 ――当時の安西さんは『格闘技通信』の編集者でしたけど、桜庭vsホイスをどういう立ち位置で見ていたんですか? 安西 それはスポーツ報知の記者が読売ジャイアンツを応援するように、東京中日スポーツの記者が中日ドラゴンズを応援するように……(笑)。 ――ホイス大応援だったわけですね(笑)。 安西 ホイスをメチャクチャ応援してましたよ。あの試合の前にさ、ホイスが「時間無制限じゃないと試合をやらない」とかワガママ言ってるなんて話になってたよね。 ――ホイスは完全にヒール扱いでしたよね。 安西 そうやって煽ることでPRIDEにお客さんが入ったんならいいんだけど。ホイスをヒール扱いするのは「おかしい!!」とボクは何度も言ってたんだよ。だって、ホイスは最初から時間無制限じゃないとやらないと言ってるわけでしょ。テレビの都合とかさ、自分たちのルールでやろうとしないとワガママとか、何を言ってるんだって話で。細かいことを言うと、ホイスが出た第1回UFCのトーナメントはラウンド制だったんだけどね。どの試合も1ラウンドの短い時間で終わっちゃったから、ラウンドガールの出番はなかったんだけど。 ――安西さんはPRIDEにおけるホイスの扱いに憤ってたわけですね。 安西 あのときはもの凄く心外だったよねぇ。PRIDEからパンフレットの原稿を頼まれてさ、各選手1ページで俺はホイスの原稿。もう泣きながら書きましたよ! ――くやしくて、くやしくて!(笑)。 安西 うん。 ――さすが“アンザイ・グレイシー”と呼ばれてるだけあって、気分はグレイシー一族そのもの(笑)。 安西 ボクの心臓にはね、ブラジル国旗が入れ墨されてますよ。 ――ハハハハハ! そんな安西さんはホイスと一緒に“グレイシートレイン”で入場するなんて噂もありましたよね? 安西 あー、あれは違う! ぜんぜん違うよ〜!! ――あ、ガセでしたか(笑)。 安西 それはね、大晦日の曙vsホイスのときに谷川(貞治)くんから「安西さん、ホイスと一緒に入場させてあげるから来なよ〜」って誘われたんだけど。 ――なんだか凄く適当な計画っぽいですけど(笑)。 安西 俺はそんなにうまくいくはずがないと思ったんだよ。だって俺は柔術もやっていなし、一族の人間でもなんでもないんだよ。 ――まあ、なんの関係もないですね(笑)。 安西 ホイスだけじゃなくて周囲の人間の確認だって必要なんだからさ。「行ってもいいけど、ちゃんと話を通しておいてくれ」って散々しつこく谷川くんの留守録に入れてたんだけど。ろくに聞いてなくて根回ししてなかった。 ――安西さんのグレイシートレインは幻に終わったわけですね。グレイシートレインに加わってみたかったですか? 安西 いやあ……。それだったらあのトレインを横から見ていたり、取材したほうがいいですよね。取材していてグレイシーは面白い存在だったから。 ――安西さんは90年代初期の『格通』でグレイシー柔術を取り上げる以前は、『週プロ』でUWFを追いかけていたじゃないですか。プロレスが総合格闘技とリンクしていく流れの中でグレイシーに惹かれていったところもあるんですか? 安西 ……そんなことは考えたこともなかった(笑)。ボクはね、『週刊プロレス』にいて、いろいろな事情があって『格闘技通信』に移ることになって。当時は35歳くらいだったんだけど、長年プロレスを見てると冷める時期があるというか、人生にだって冷める時期があって。ちょうどそういう時期で、それは誰にだってあるじゃんってことにしておいてほしいんだけどさ。『格通』でもUWFは取材対象になっていたから、ボクのプロレス心は少しは癒やされていたんだけど。やっぱりプロレスが恋しくて。 ――“プロレス記者”としてありたかったんですね。 安西 なかなか気持ちが吹っ切れないで、悶々としてたというか鬱々としてたんですよ。そうやってボクがやる気をなくしていて困ったちゃん状態のときに、当時『格通』の谷川編集長が「こんな大会がありますよ」ということでデンバーに出張させてくれたんです。 ――その大会が伝説の第1回UFCだったわけですね。 安西 そう。『週刊プロレス』からはケイジ中山さんが来てたけど、ボクは『格通』でカメラも兼任してた。当時はUFCというものがよくわかってなかった。ただ、小説家の夢枕獏さんや一部の格闘技マニアはグレイシー柔術を「グラッシェ柔術」だったかなあ。ちょっと違う呼び方をして注目はしていたんだよ。 ――獏さんや漫画家の板垣恵介さんたちのグループですよね。バーリトゥードを「バーリツーズ」と呼んでいて。 安西 夢枕獏さんたちから「そういうものがブラジルにあるらしい」と谷川編集長は聞いていて。あと『ゴング格闘技』で渋沢くんがグレイシー柔術の記事を書いてたんだよね。白黒の特集記事。それに興味は持っていたんだけど、予備知識はほぼゼロ。そんな状態でデンバーに行ってみたら、いまは亡きエリオさんがいて、長男のホリオンがいた。トーナメントはご存知のとおりホイスが優勝したんだけど、そのときはなぜこの人がシャムロックやゴルドーに勝てるのか意味がわからなかったんですよ。結果的にスルスルと勝っちゃった。谷川編集長から「どうでしたか?」と電話があったときにボクはなんて説明したらいいかわからなかったんだけど。 ――グレイシーの凄さを言語化できなかった。 安西 「凄いんだよ。ガチンコで勝っちゃったんだよ。テレビゲームの世界のように」としか言えない。いま振り返れば、ホイスはごくあたりまえの動きしかしていないんですけど。で、ボクには弟がいるんだけど。その弟がね、ロサンゼルスの日系企業で働いているから帰り際に寄って。それはホリオンの道場がロスにあったからなんだけど。そうしたら弟の家から車で10分程度の距離にあって。弟は日本で空手をやっていたり、プロレスファンだったので、ちょうどいい通訳になってくれて。そのときホイスは旅行中で不在だったんだけど、エリオさんやホリオンにいろいろと話を聞けたんだよ。 ――そうやって『格通』でグレイシー柔術の紹介記事を書くことができたんですね。 安西 そのとき道場の練習を見たんだけど、柔道のように投げてどうこうという練習はしていないんですよ。みんな道着を着て芋虫みたいにゴロゴロと寝っ転がって。道着のシューティング(修斗)のようにも見えるんだけど、当時は何がなんだかわからなかったんだよ、ホントに。「面白かったんですか?」と聞かれたら「何が面白いかわからなかった」としか言えない。 ――いまなら普通に知ってることがわからなかった、と。 安西 たとえば第4回UFCでホイスとダン・スバーンが試合をして、下になったホイスが金網に追い詰められたけど、最後は三角絞めで極めた。試合後にホリオンに「下になったら不利じゃないか。ピンチだと思わなかったのか?」って聞いたんですよね。そうしたらホリオンは目を丸くしちゃって(笑)。「……そこから説明しないといけないのか?」という感じだったんですね。 ――あの当時、UFCのような格闘技イベントがガチンコで行なわれると思いましたか? 猪木さんから始まる異種格闘技戦の流れからすれば、理想の舞台だったわけじゃないですか。 安西 ……どう思ってたんだろ。記憶にないなあ。ガチンコであるかどうかの前に、当時の日本では他流試合をやっちゃいけないもんだと思っていたから。柔道家と空手家が町中で喧嘩をしたら破門になったんだろうし。それが当時の日本の考えで他流試合は夢のような話だったわけでしょ。それにボクはまだプロレス記者上がりだったから、格闘技を見る目が肥えてなかったというか、場数を踏んでなかった。格闘技の記者として修羅場を潜ってなかったから、UFCを見ても、そんなたいそうな思いはなかった(笑)。 ――「歴史的な大会が始まる!」という興奮もなく。 安西 格闘技記者としては毛が生えたというか、毛が生える前の状態だったから、なんと表現していいかわからなかった。会場にはお客さんは全然いなかったしさ、大会自体が続くかどうかわからなかったよね。ボクはそのときにホイスが勝った事実と、彼らの道場を取材してみて、グレイシー柔術が他流試合におけるセルフディフェンスを証明するために長年いろいろとやってきたことがわかったので興味は持てたけども。それがアメリカの格闘家や、ましてや日本のプロレスファン、UWFファンが「面白い!」と評価するのかわからなかった。それでもボクは必死に月2回発行の『格通』でグレイシー記事を書いていたけど、はたして世間に届くかは全然わからなかったです。 ――UFCもグレイシーもまたたく間に広がりましたね。 安西 ボクが感激したのは、地球の裏側のブラジルで、日本人がまったく知らないあいだに道着という日本文化が違ったかたちで根付いていた。日本文化を守って磨いていてくれたことに感動したわけですよ。その存在は日本に伝えたいなという思いはあったけど。グレイシーなんて大したことないとバッシングされたりさ。 ――格闘技マスコミの中にはグレイシー柔術に否定的なところもありましたね。 安西 それは空手や正統派の武道の流れがあったからだと思うんだけど。グレイシーは邪道に見えたのかもしれないですね。当時は空手なら空手を極めるのが日本人の美徳であって、武道はそれぞれの道だったわけでしょ。ほかの武道が交わることはなかったんですよ。でも、交わって相手に勝ってこそ武道じゃないかという概念が出てきて。その場を提供してくれたのがUFCだったから、ボクは俄然面白かったですよね。あと骨法の堀辺(正史)先生が「黒船が来た!」ってことで理屈でサポートしてくれたから。 ――グレイシーは『格通』の看板記事になっていったんですね。 安西 谷川編集長も面白いと思っていたから、ボクの好きにやらせてくれたんだと思う。あるとき弟がホイスを取材したとき「グレイシー柔術のためなら死ねる」と言ったんだけど、ボクはその言葉にピンとこなかったというか、大きな意味があるとは思わなかったんだけど。とくに見出しにしたい言葉がなかったから、見出しにしたら堀辺師範が凄く気に入ってくれたみたいで。「これぞ武道家のあるべき姿だ!」みたいに。 ――『格通』発のグレイシーの言葉って凄く力がありましたよね。ホイスの「兄のヒクソンは俺の10倍強い」が有名ですけど。 安西 あれは『ブラックベルト』という格闘技雑誌の中に、ヒクソンはホイスとホイラーと2対1でスパーしても負けないんだという話があって。そこに「ヒクソンは10倍強い」と書いてあったよと言うので、ボクはそのインタビューの最後にあとがきとして付け足したんです。 ――ハッタリも効いたうえに、実際に強かったんだから取材対象として面白いですよね。 安西 アメリカだと、日本から来た柔道ならともかく「ブラジルから来たブラジリアン柔術ってなんじゃらほい?」ってなるから、宣伝するため道場で他流試合を受けていたみたいなんだよね。そうやってグレイシーは柔術を広めたるために努力をしていたんだなって。そしてUFCというビッグチャンスを掴んだんだけど。 ――外から見ていると、安西さんはUWFに見切りをつけてグレイシーに走った印象があったんですよね。 安西 ボクが? そんなことないよ(苦笑)。あー…………でも、ある人と酒の席で話をしていたら「安西さんはプロレスを捨てて格闘技に行ったと思ったんだけど、根っこの部分はプロレスが残ってるんですね」なんて言われたんだけどさ。ボクはビックリしちゃって。やっぱりそんなふうに思われてるんだ。 ――と思います(笑)。 安西 うーん、グレイシーが取材対象として探れば探れるほど面白かっただけですよ。だって一族が何人いるかもわからなかったしさ。当時は家系図もなかったから、俺が嫌がられながらもしつこく聞いて回って作ったんだよ(笑)。 ――嫌がられながら(笑)。 安西 そりゃあ嫌がられますよ。 ――まあ、一族同士、仲はそんなに良くないですからね。 安西 こっちはそんな事情は知らないからさ。べつにUWFに見切りをつけたというより、グレイシーは底なし沼のように面白かったから。いまにして思えばUWFやゴッチ式、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはレスリングがもとになってるから。上になることは長けていても、下になったなら終わりなんですよ。下から攻めるとか、下から攻められたらどう防御するっていう考えがないので。しかもUWFは寝技の打撃がないでしょ。顔面パンチもない。それだとパウンドありのルールになったら通用しないですよね。その2点は大きいと思ったなあ。あとね、ボクが見てたプロレスのスパーリングって新日本やUWFもそうなんだけど、実力が拮抗してる者同士がやるんじゃなく、強い人と新人クラス、明らかに実力差がある者同士しかやらなかった。 ――実力が拮抗してる者同士のスパーは、新人同士以外はやらないわけですよね。 安西 それがほら、イジメてるわけではないけど、シゴキみたいになって、新人は先輩の実験台になりながらおぼえていったわけでしょ。正道会館勢がリングスに参戦したときに彼らに言われたんだけど、「ウチらは練習仲間とはいえ、いつか試合をするときもある。手の内を読まれるのは嫌だけども、練習のときからガンガンやりあいます」と。ところがプロレスの団体の練習はそうじゃない。 ――腕を競い合う感じではなかった、と。 安西 道場で格下相手に一本を取られたりするのが嫌だったから、先輩は後輩とはやらなかったんだろうけど。あるときからUインターでは桜庭選手、高山選手、金原選手たちが先輩後輩関係なしにやるようになって強くなっていったと思うのね。Uインターはそこから勢いがついたんだと思うんだけど。でも、本当は上の人間だって教わりたかったと思うんですよね、コーチとかがいたら。 ――Uインターとグレイシーといえば、安生さんのヒクソン道場破りの件ですけど、安西さんは現地取材されたんですか? 

【総合格闘技が生まれた時代】元『格闘技通信』名物記者・安西伸一「俺が愛したグレイシー柔術 」

【骨法再発見】ヤノタク再び堀辺正史を語る――「先生も知らない骨法の秘密」

先々月に掲載されたヤノタクこと矢野卓見の骨法ロングインタビュー。 90年代の格闘技界を席巻した堀辺正史氏率いる骨法の実態を赤裸々に語り尽くし、離脱時の修羅場、密かに実現していた堀辺氏との師弟対決エピソードは大反響を呼んだ。今回は“その後のヤノタク”に触れるために再び矢野氏のもとに訪れたが……まさかの展開に! 【非会員でも購入可能!総合格闘技が生まれた時代シリーズ】 ①中井祐樹「ボクシングができるアントニオ猪木が理想でした」 ②朝日昇「本当に怖い昭和格闘技」 ③菊田早苗「新日本は刑務所、Uインターは収容所でした」 ④矢野卓見、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした」⑤【元レフェリーの衝撃告白】「私はPRIDEで不正行為を指示されました……」⑥【小比類巻貴之「ミスターストイックのキャラは正直、しんどかったです」 ――今日は前回聞けなかった骨法退会後のお話をうかがいます。 ヤノタク いやいや、骨法の話はまだ終わってないですよ! ――えっ、あのインタビューで“骨法完成”してなかったんですか! ヤノタク これ読みました?(BUBKAを差し出して)。先月号なんですけど……堀辺師範がインタビューを受けてるんですよ。 ――あ、そうみたいですね。ここに来て骨法ブーム再び(笑)。 ヤノタク この記事のことは知らなかったんですけど、こないだラジオを聞いていたら吉田豪がいろいろとしゃべってて。まあ明らかに小馬鹿にしてる感じなんですけど。 ――いや、吉田さんはそんなつもりはないかもしれません(笑)。 ヤノタク いやいやいやいや、もう完全に小馬鹿にしてるわけですよ。とりあえず持ち上げておけばいろいろとしゃべってくれるから。しかし、先生の写真を見ると死にかけてますよね。いま73歳だから俺の母親のひとつ下ですよ(笑)。――インタビューにはどんな感想を持たれましたか?ヤノタク この言い分だと(ドン・中矢・)ニールセンがやる気があるなら闘ってたとか言ってますけど、どう考えたってニールセンがやらないのを見越して挑発してますよね。ヘタしたらニールセンは「このおっさん誰?」って感じなのに。道場で弟子たちも「あのときの先生はカッコ良かった~」とか言ってたりしてたんですけど(笑)。弟子の山田(恵一)がやられたところで師匠が敵を討つといえばカッコはつくわけじゃないですか。やる気なんてないのに。 ――単なるパフォーマンスだ、と。 ヤノタク あと、いつも思うんですけど、この人は格闘技側の立場からプロレスを語るじゃないですか。「私はプロレスを下に見ていない。プロレスは格闘技にも参考になる!」とかなんとか。それはそれでべつにいいんですけど、肝心の格闘技の話はどうなってるんだっていう。そこは誰も突っ込まないですよね。 ――そこはヤノタクさん側の視点から補填していくしかないですね。 ヤノタク まあ、そこまで骨法に興味がある人間がいるのかって話ですけど(笑)。 ――ところがこないだ無料公開した前半部分は5万人が読んでるんですよ!(笑)。 ヤノタク へー! やっぱり真実は人間の心を打つんですねぇ……(しみじみ)。でも、インタビューのコメント欄を見たら「ヤノタクが道場に消火器をまいた」とか書いてあったじゃないですか。それって前から2ちゃんねるとかもで書かれてて。たぶん道場内でもそういう話になってるんでしょうけど、俺じゃないですよ!(苦笑)。 ――そんな疑惑があるんですか!(笑)。 ヤノタク 消火器なんてブチまけてないですよ。俺がやったのは道場のシャッターに先生の似顔絵を小さく書いたことくらいですよ! ――消火器はぶちめけてない。でも似顔絵は書いた(笑)。 ヤノタク 1年後に確認したらまだ残ってましたけどね(笑)。 ――では、消火器事件の犯人は誰なんですかね? ヤノタク 普通に考えたら酔っぱらいじゃないですかね。いくらなんでもそんな嫌がらせをするわけないですよ(笑)。 ――でも、ヤノタクさんのせいになってる。 ヤノタク 向こうは俺の犯行にしたいんじゃないですかね。ハハハハハハ! だから骨法的にはわかりやすい敵ではあったんじゃないですかね。 ――前回聞けなかった話でいえば、当時『格闘技通信』は骨法を大々的に取り上げていましたけど。内部からはどう見えていたんですか。 ヤノタク ひとつ言えるのは『格通』って最初はぜんぜん骨法を載せなかったんですよ。当時の編集長だった谷川(貞治)さんは骨法を嫌ってたと思うですよね。谷川さんは極真方面との繋がりがあったし、大山(倍達)総裁は堀部師範を好きではなかったっぽいですし。それは実績もないのに大言壮語していたわけですから。逆に『ゴング格闘技』のほうがよく取り上げてたんですよ。編集長の近藤隆夫さんの繋がりで。 ――あとターザン山本編集長時代の『週刊プロレス』も骨法には好意的でしたね。 ヤノタク ターザンと先生の関係でベースボールマガジン的には取り上げられてましたけど、『格通』は競技として骨法をまったく相手にしてなくて。でも、たぶんターザンからの圧力もあって、大会もやったことで取り上げるようになったんでしょうね。 ――『格通』が骨法の他流試合惨敗を受けての「骨法にページを割きすぎました」事件は有名ですけど、『ゴン格』と疎遠になったのは何かあったんですか? ヤノタク それは骨法第一回大会をプロレスみたいな書かれ方をされて、それで怒って弟子たちに抗議文を書かせたんですよ。そこからだと思うんですよね。でも、いまにして思えば『ゴン格』の見方は正しくて。当時は知らなかったんですけど、俺が骨法をやめたあとに試合立会人をやっていた人間に話を聞いたら「試合で技をかけられたら抵抗するな。そのままかけられろ」という話になっていた、と。 ――えっ……!? ヤノタク これが八百長かというと微妙なんですけどね。「八百長をやれ!」と指示されていないけど、技を見せろということになっている(笑)。 ――た、たしかに微妙ですねぇ。 ヤノタク 勝敗もあらかじめ決まってない。八百長をやれと言われてるわけではない。技をかけられたら抵抗するなということになっている。そういう試合がどうなるかというと、道場内の力関係が反映されるわけですよね。 ――そうなると純粋な強さというより人間関係がついてまわりますよねぇ。 ヤノタク そこの話をもっと掘り下げると、最初のうちは練習もガチンコだったわけですよ。そうすると、立ち関節なんか滅多にかからない。そうしたら先生がイライラし始めて「キミたちは私の言うことを聞かないから、技がかからないんだ!」ってキレたらしくて。それで選手たちが先生にビビって技にうまくかかるようになったらしいんですよね。 ――えええええええええええ(笑)。 ヤノタク そうしたら今度は逆に極まりすぎるようになって「こんなに技が極まるんだったら一本勝負じゃなくて、本数制にするしかない!」ということになったそうなんですよ。 ――骨法の本数勝負はそういう経緯があったんですか(笑)。 ヤノタク ……そこで面白いのは、これって先生は弟子たちがやってる試合をガチンコだと思ってたということですよね。 ――あっ……!!  ヤノタク 弟子が先生に気を遣って技をかかるようにしていたら、先生は「俺の指導どおりのかたちになってきた!」と喜んだ。予想以上に技がかかるようになってきたから一本勝負だとお客さんは満足しないということで10分・本数勝負にした。そう言われて骨法の試合を見返すと凄く納得できるんですよね。 ――たしかにニコ動に転がってる「骨法の祭典」動画を見ると、流れるような動きすぎて競技性を疑っちゃうんですよね。でも、いまの話が事実だと凄く腑に落ちます。 ヤノタク そういう裏のルールというか「空気読めよルール」が骨法にあったというか。そこは日本的ではありますよね。みんなで空気を読んだ結果がああいう試合になりましたっていうか。俺は当時、選手じゃなかったですからそこは知らなかったし、特訓に参加してるときもわからなくて。俺はガチンコだと思っていてそのつもりでやってたんです。だからいまになって「そういえば……」と思うのは、合宿で先輩のAさんからチョーク一本を獲ったときに騒動になったんですよ……(Dropkickブロマガ会員ページへ続く)。 

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