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【PRIDE誕生20周年企画】忌まわしき2003年大晦日とPRIDEの終焉――!!
2017-10-19 08:3666ptいまから20年前、1997年10月11日に産声を上げたPRIDE――この記事はDropkickのニコ生配信でPRIDE終焉を語ったものを再編集・加筆したものです(語り・ジャン斉藤)今日は10月11日、いまから20年前にPRIDEが誕生した日ということで、各方面でPRIDE1のヒクソンvs高田延彦が語られていますけど、ここではPRIDEの終焉を扱おうということで。
PRIDEは講談社の『週刊現代』のキャンペーンの影響もあって、フジテレビの地上波中継が打ち切られ、そのダメージで活動停止となったことは皆さんご存知だと思うんですけど。
当時ボクは『週刊プロレス』の編集者……『週プロ』じゃないや(笑)。『紙のプロレスRADICAL』編集部のイチ編集部員で、2005年12月号で16ページの大晦日特集を担当したんですね。PRIDEとK−1の大晦日興行戦争は定番になってましたので、過去に起きた大晦日のズンドコを特集したのかな。ズンドコを追っているのは、いまと変わらないですね(笑)。
そうなるとやっぱり2003年のPRIDE、『猪木祭り』、K-1『Dynamite!!』の3派分裂は外せないだろうと。そこで03年『猪木祭り』の運営に関わった格闘技関係者、業界ではけっこう有名な方を六本木で取材したんですよね。2時間近くズンドコ話を聞けたんです。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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【RIZIN】榊原信行が語る「那須川天心vs藤田大和が瞬間最高視聴率だった理由」
2017-10-16 22:1510月16日、都内ホテルで行なわれたRIZINバンタム級GP準決勝抽選会終了後に榊原信行実行委員長が囲み取材に応じ、今大会の視聴率について振り返った。関東だと平均7.1%で、九州エリアのテレビ西日本だと9%かな。
瞬間最高が関東が那須川天心vs藤田大和の21時13 分、10.3%。テレビ西日本の瞬間最高は12.5%以上の数字になっていると。詳細はまたお伝えしますけど、前回の7月大会よりは、今回は生放送2試合乗ったということで数字が上振れしたということと、格闘技って取れ高によって視聴率が変わるところがあるんですね。
今回の那須川天心vs藤田大和の試合はフルラウンドやってるんで。15分くらいずっと8〜10%あたりを推移していて。RENAの試合も10%まではいってないけど、いったんCMに入って落ちて、また上がってるんですけど。試合が短かったので(1ラウンド3分5秒)、もう少し試合が長ければ当然1 -
折原昌夫インタビュー後編「天龍さんの引退試合を見に行かなかったのは……」
2017-10-14 19:4588pt大好評だった折原昌夫・前編インタビュー!(コチラ) 後編はSWS崩壊後のプロレスラー人生を振り返ります!【関連記事】【濃厚18000字】トンパチ折原昌夫が明かす全日本プロレス、SWSの信じられない話!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…■小佐野景浩のプロレス歴史発見【男が男に惚れる天龍劇場】北原光騎インタビュー「俺にとって天龍さんは“神様”だよ」――SWSが崩壊したあと天龍さんはWARを立ち上げますが、選手たちにはどういう説明があったんですか?
折原 えっとですね、SWSがなくなって、なんとなくみんな別々に分かれていく感じはあったんですけど。レボリューション、道場・激、パライストラの3つがどういうふうに分かれていくのかはよくわからなかったですね。ボクは天龍さんの付き人をずっとやらせてもらっていたので、天龍さんが作る「レッスル・アンド・ロマンス」に自然と行くもんだと思ってましたね。「おまえ来るのか?」と誘われる感じでもなかったです。それはカブキさんや石川(孝志)さんにしても同じじゃないですかね。
――言葉は交わさなくても一蓮托生というか。団体旗揚げに向けてのミーティングもなかったんですか?
折原 「WARはこういうふうに動いていく」っていうマスコミ向けの記者会見はありましたね。食事会というか決起会みたいなものはやりましたけど、まあメシを食って酒を飲むだけですよね(笑)。
――高給だったSWSからWARになれば確実に給料は下がるわけですけど、不安はなかったんですか?
折原 天龍さんのほうから全員に向かって「Sのときと比べたら給料の額は下がるけど、全員と一丸となって頑張ろう」という挨拶はありましたね。ほかの選手がどう思っていたかは知らないですけど、ボクは格でいうと下の選手だったので、使ってもらえるだけで嬉しいなって話で。ただ、毎月のお給料は入ってきませんでしたから、SWSみたいに。
――給料制ではなくなったんですね。
折原 上の人はどういう扱いを受けていたのかはわからないんですけど。給料だったのか、試合数によるのか。Sのときは使い切れないくらいもらってて、たくさん蓄えがあったわけじゃないですけど、多少は貯めてあったので。ひもじい思いはしなかったですね。
――WARに道場や寮はあったんですか?
折原 どっちもなかったですね。考えてみたら全日本、SWSと寮暮らしでしたから、初めてひとりで生活することになったのかな。道場はなかったので、ジムで各自それぞれ自分の肉体を維持するトレーニングをやってましたね。WARの事務所は桜新町にありまして、そこにはよく顔を出してました。ボクは天龍さんの付き人をやってたから、いろいろと雑用がありましたし。
――桜新町には天龍さんの奥さんが女将を務めた「寿司処 しま田」がありましたね。
折原 それは後々の話ですね。WARの事務所のほうが先にできて。1階が酒屋の倉庫みたいな感じで、その2階が事務所で。
――旗揚げ戦の雰囲気っておぼえてますか?
折原 いやあ、おぼえてないですねぇ。WARのインパクトといえば、やっぱり団体名ですよね。「WAR」って戦争って意味じゃないですか。外国人選手も「ホントにこれが団体名なのか?」って聞いてきましたからね。
――SWSはメガネスーパーが運営してましたけど、いきなりWARとして興行を打つのは大変だったんじゃないですか?
折原 天龍さんはそれまで興行をやってきたわけじゃないし、それこそポスターをどうするのかってことから、わからないじゃないですか。なので事務所の社員を雇い始めましたね。中村 (吉佐)さんという身体が大きくてリングアナウンサーをやってた人がいたんです。中村さんは顔がかなり広いこともあって、その人が中心になって地方の会場取りや営業をやってましたね。かなりできる人だったんで。
――そういう人がいないと興行って難しいんですね。
折原 完全にアウトですね。いまボクもイベントをやってますけど、都内でやるぶんには会場を押さえて、選手を呼べばできるんですけど。地方で少なくとも3〜4日やる場合は、営業の人間がいないと無理ですね。WARの中では中村さんしか興行の仕組みを知らなかったんですけど、途中でいなくなっちゃったんですよね。
――何か理由があったんですか?
折原 うーん、いろんな噂はありましたけど、WARの流れに対して嫌気が差しちゃったんじゃないですかねぇ。一時期は勢いがあったんですけど、途中から選手たちがいろんなことに疑問を持つようになっちゃって、WARから出ていくことになるんですけど。その頃ですよね、中村さんが地方巡業の最中にそのまま姿をくらまして。
――メガネスーパーからWARにお金は出ていたんですよね。
折原 出ていたと思います。でも、当時ボクは知りませんでした、Sから資金が出ていることを。ほかの人たちも知らなかったんじゃないですかね。
――ウルティモ・ドラゴンはSWS崩壊後も、メガネの田中八郎社長と親交が深かったじゃないですか。
折原 そのこともボクはわからなかったんですよ。Sがなくなったときにみんな関係が切れたんだなって思ってましたから。あとになって田中八郎さんから個人的に支援を受けてる人がいるんだなって知りましたね。
――ドン荒川さんもそうですよね。天龍さんはその後も付き合いがあったんですか?
折原 ボクは付き人として天龍さんに付いて回ってましたけど、田中八郎と会う機会はなかったですね。天龍さんはもともとタニマチに揉み手で近づいていくことが苦手な人だったので。地方のタニマチから「飯を食いに来い」って誘われても絶対に行かない人ですから。ボクが天龍さんの代わりに行くと「おまえが来ても面白くないよ!」って渋い顔をされて(笑)。
――途中でメガネスーパーからの支援を打ち切られますよね。その報告もなかったんですか?
折原 それもなかったですね。支援を受けていたことも知らなかったですから。ボクはWARに旗揚げから参加して、中盤くらいまでいたんですけど。あの人が新社長としてWARに来るじゃないですか、武井(正智)さん。天龍さんの奥さんの弟さんです。
――武井さんはどういう流れで社長に就いたんですか?
折原 あのとき天龍さんを社長に置いておくのは荷が重いという声があって。やっぱりリングで戦う人間だから、試合に専念してもらいたいってことを天龍さんの奥さんが雑誌でも言い始めたんですよね。社内でも天龍さんは疲れている、新しい土台を作らなきゃいけないっていう声が挙がったときにポンと連れてきたんですね。
――それが武井さんだった。
折原 武井さんは京都の不動産屋をやってた人で。ある日突然天龍さんを連れてきて「今日から社長だから、言うことを聞いてくれ」と。そこから選手たちが「なんであんな人間を連れてきたんだろう?」ってブツブツ文句を言い始めて。そこからWARという団体が崩れていったんですね。
――みんなは天龍さんが大将だから付いてきたところはあったんでしょうね。
折原 いままでどおり天龍源一郎のワンマンであれば、何があってもガマンはできるし、天龍さんの一声には従うんですよ。でも、武井さんの一声は聞けないですよね。結局、天龍さんも「なんだおまえら?」ってやっぱり身内の肩を持ちますから。
――武井さんの味方をすることで、ほかのレスラーとのあいだに溝ができてしまったという。
折原 武井さんはビッグマウスというか、派手な言動が目立ってたんですね。選手のあいだでも評判は悪かったし、ボクもケンカにしたことありますよ。ある飲み会で言い合いになったら、みんな武井さんのことが嫌いだから、ボクのことを煽ってくるんですよね(笑)。
――「折原、やっちゃえ!」と(笑)。
折原 経営的な苦しさはあったと思うんですね。「給料も下がっていくけど……」って天龍さんの口から出てきて。「えっ、ここから下がるの?」っていう生活の不安が初めて出てきましたね。試合の予定はあるから食っていけないというわけではなく。
――折原さんはWARで一度引退されますよね。
折原 新日本の対抗戦に出ていたときに腰の具合が悪くてやめたんですよ。大変でしたよ、すぐに引退させてくれなくて。武井さんと揉めていたので天龍さんから「そういう理由なんだろ?」と言われてね。「違います。ホントに腰なんです」と。
――引退してどうするつもりだったんですか?
折原 ボクは個人で爬虫類ショップをやってたんですよ、川崎の方で。「ボスケ」という名前でスペイン語で森という意味なんですけど。もともと子供の頃から毒系やコミュニケーションが取れない生き物が大好きで。
――いつ頃から爬虫類ショップを始めてたんですか?
折原 WARが立ち上げの頃からやってましたね。最初は自分のペットとして飼ってたんですけど、どんどんレベルが上がっていくんですよ。子供のうちはミドリガメとかハムスターで満足してたんですけど、大人になれにつれ珍しいものになって。ちょうど爬虫類ブームだったので一気に値段が跳ね上がってたんですよ。だったら自分でショップをやっちゃったほうが仕入れ分で安く済むんじゃないかなって。それで始めたんです。
――趣味と実用を兼ねたわけですね。
折原 家で飼える場所もなくなるくらいですから。毒系のもので12種類。サソリ、ヘビ、虫系とか。
――WARから一人暮らしを始めたんですよね。それまではどうしてたんですか?
折原 SWSの寮でいろいろと飼ってたんですよ(笑)。タランチュラ、カメレオン、ワニとか。
――SWSの寮にタランチュラとワニ!(笑)。
折原 ボクの部屋で飼ってたんですよ。タランチュラは若手が住んでいる大部屋に逃げて大騒ぎになりましたね(笑)。
――ガハハハハハハハ!この続きと、西良典、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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【PRIDE誕生20周年企画】雀鬼・桜井章一×笹原圭一「PRIDEと生きた時代」
2017-10-13 14:5176pt1997年10月11日に産声を上げたPRIDE――今月で20周年を迎えたことを記念して、かつてDropkickメルマガに掲載されたPRIDE関連企画を復刻掲載します。第3弾はヒクソンと親交が深かった「伝説の雀鬼」こと桜井章一氏と、PRIDE・1から広報を務めていた笹原圭一氏の対談です。聞き手は雀鬼の弟子だったジャン斉藤です(2012年に収録したものです)。【関連企画】・運命のバリジャパ、安生道場破り、幻の長州戦真相――中村頼永インタビュー<ヒクソン来襲編>http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1311713・アナタはまだ知らない! 本当に恐ろしいグレイシー一族!!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1151480――桜井会長と笹原さんがお知り合いになったのは、会長とヒクソン・グレイシーの対談がきっかけなんですよね?
笹原 いや、じつはボクがこの業界に入る前に下北のお店でお会いしてるんです。20歳ぐらいのときですね。
雀鬼 あ、そうなの?
笹原 会長はおぼえてらっしゃないと思いますけど(笑)。下北に会長のお店ができてまだ間もなくの頃です。ボクは大学生の頃から麻雀が好きだったこともあったので仲間内と「桜井章一のお店ができたらしいから行ってみよう」ってことで上京したんですよ。
雀鬼 へえー、そうだったんだ(笑)。
笹原 お店に足を踏み入れたら会長がいらして。地方から来たことを伝えたら凄く良くしていただいて、柳史一郎さんの小説『伝説の雀鬼』にサインしてもらったり。
――つまり一人の雀鬼ファンだったんですね。
笹原 もともとボクが勝手にお慕い申し上げていて、PRIDEをやるようになったときに、ボクが桜井章一に会いたいという理由もあってヒクソンとの無敗対談を企画したんです(笑)。それが97年のことですね。
雀鬼 あれから笹原さんにはよくしてもらってね。こんなジジイが毎回PRIDEに行くなんてちょっとおかしいんじゃないかなって思いつつもさ(笑)。というよりさ、斉藤はわかると思うけど、あんまりオレって興奮しないじゃないですか。
――何が起きても冷静沈着ですよね。
雀鬼 でもね、PRIDEのリングを観に行くときは凄くワクワクしたんだよ。「なんでこんなにワクワクするんだろう……!?」っていうくらい。そういうものを観させていただいたことは本当にありがたいことで。女の子がデートしてくれるっていってもちっともワクワクしないのにね(笑)。
笹原 女の子よりPRIDEでしたか(笑)。そういえば、ボクはVシネマ『雀鬼』シリーズにチョイ役で出させていただいて。赤坂のバーという設定で会長がそこのマスター、ボクはお客さんです。『まいっちんぐマチコ先生THE MOVIE』以前に出演歴があったんですよ(笑)。
――『まいっちんぐマチコ先生』がデビュー作じゃなかった、と(笑)。
雀鬼 人の縁って不思議だね。それまでプロレスや格闘技界からはだいぶ離れていた。力道山まで遡るかなあ……。
笹原 力道山からヒクソンですか(笑)。
雀鬼 俺は遠藤(幸吉)さんと親しくさせてもらったから、日本プロレスの道場にもよく顔を出していたんだけど。そういえば、PRIDEの道場で小路(晃)や戦闘竜と取っ組み合いをやったことがあったな(笑)。
――何をやってるんですか(笑)。
雀鬼 でも、ヒクソンと知り合うまではけっこう距離が空いていたんだ。たまたま格闘技の雑誌を読んでヒクソン・グレイシーという人間の考え方に共鳴したというか興味を持ったんです。「このヒクソンという人間は実際にはどんな動きをするんだろう……?」ってね。
笹原 そこにボクがタイミングよく対談の企画を投げたわけですね。
雀鬼 そこからヒョードル、ノゲイラ、シウバと興味ある人間と接点が持てたっていうのは本当にありがたいです。しかし、笹原さんはどうしてこの業界に入ったの?
笹原 最初に名古屋で就職した会社は格闘技とはまったく無関係だったんですけど、その会社の社長がヒクソンと知り合いだったんです。それでその社長と高田(延彦)さんと知り合いが「高田vsヒクソンをやれないか」というところから話が始まって。
雀鬼 うん、うん。
笹原 ボクは格闘技好きだったこともあって、そのプロジェクトに関わるようになったんですよね。その宣伝活動の一環として会長とヒクソンの対談をセッティングしたです。あの対談、 2人が会った瞬間に、空気が変わりましたよね。
雀鬼 なんか緊張感があったよね。
笹原 話し始めた瞬間にヒクソンの表情が変わったんですよ。当時のヒクソンってもの凄くたくさん取材を受けていたんですけど、あんなヒクソンを初めて観ました。ヒクソンが「オレのことをこんなに理解してくれる人がいるんだ……」みたいな空気になったことは過去にはなかったんですけど、会った瞬間に打ち解けあえて。
雀鬼 自分の中でもそういう感じはあった。ヒクソンは日本語がわかんないし、俺も英語はあんまりわからないけども。握手をしてお互いに身体を触って「柔らかいねえ」っていうジェスチャーを交わしたところから対談は始まったんだよ。
笹原 言葉は通じてなくてもお互いの目がキラキラしてる感じがあったんですよねぇ。
雀鬼 途中からPRIDEはヒクソン抜きにして進んだじゃないですか。笹原さんはどういった心境だったんですか?
笹原 もちろんヒクソン・グレイシーは人間的に凄く興味があった選手だし、PRIDEという企画を作った選手なので、彼がPRIDEに上がらなくなったことに関しては凄く残念でしたけども。そこから何か新しいものを作っていくしかないなと思ってやってましたけど。
雀鬼 でもさあ、笹原さん。あの頃のヒクソンって日本人にとっては「敵」だったじゃないですか。
笹原 そうですよねぇ。
雀鬼 ね。いわゆるプロレスラーを応援するファンが多かった。PRIDEには「日本人vsガイジン」「プロレスvs柔術」みたいな構図があったりしてさ。
笹原 そこは我々も商売的にあえて煽っていたところがあると思いますけどね(笑)。
雀鬼 オレも小ちゃい頃はそれで興奮していたわけですから。それはプロレスの流れというか、シャープ兄弟という敵がいたから力道山は英雄だったわけでしょう。でも、会場にいると「周りは全員、ヒクソンの敵か……?」と思うときがあったんですよ。
――ボクも会長の隣で高田延彦の応援をしてましたからね(笑)。
雀鬼 この野郎はふざけてるし、後ろでも高田選手を応援してる騒がしいヤツがいるかと思ったら浅草キッドのお2人だったりな(笑)。とにかく「グレイシーは敵だ!」っていうムードがあった。
――グレイシーってなかなかプロモーターに対しても心を開かないイメージがありますね。
笹原 まあ、彼らはプロとしてそういうポーズを取ってるところはあると思いますけども。普段は馬鹿話をしたり全然普通でした。でも、ヒクソンはあまりそういう隙を見せなかったと思いますけど。ヒクソンは常にヒクソン・グレイシーでしたね。
雀鬼 そこは24時間、ずっとヒクソン・グレイシーでいるっていう感じだよね。
笹原 ボクが見るかぎりでは、リラックスしてるところはありますけど、「眠っていてもライオン」みたいな雰囲気でした。
雀鬼 いや、彼は持ってるね。品じゃないけど、野生の心みたいなものを。ヒクソンは自然が好きじゃないですか。
――試合前に山ごもりしてましたね。
笹原 ああ、試合前に「山を用意してくれ」と言われてましたね(笑)。いまだとちょっと考えられないです。当時だからこそできたんだと思いますけれど。
雀鬼 ホントだよねえ。「ジムの設備があるところで練習したい」とかだったらわかるけど、「山を用意してくれ」ってね(笑)。
笹原 「木があって、水があって」っていろいろとリクエストされました。いまそんなファイターがいたら「ふざけんな!」て思いますけど(笑)。
雀鬼 そういうことが許された時代だったんだよね。そこはやっぱりグレイシー柔術という価値観を下げたくないわけですよね。だから交渉にも非常にうるさかったのかもしれないですよ。
――結局、ヒクソン最後の試合は『コロシアム2000』の船木戦になりましたけども、そのあとPRIDEからオファーはされていたんですか?
笹原 いろいろマッチメイクを考えるなかで、かならず名前は出てきた選手ですね。実現できる、できないという話じゃなくて。PRIDEはヒクソンと高田さんが産み落としたイベントですから、どうしても名前は出てきますよね。
雀鬼 ヒクソンはやる気ではいたんですよ。ただね、息子さん(ハクソン・グレイシー)が……。 -
いったい何が起きているのか? パンクラス計量シーンに米MMA記者が猛然と激怒!■MMA Unleashed
2017-10-13 14:4455ptOmasuki Fightの北米MMA抄訳コラム「MMA Unleashed」――今回のテーマは「いったい何が起きているのか? パンクラス計量シーンに米MMA記者が猛然と激怒!」です。
10月8日(日)にディファ有明で開催されたPANCRASE290でのあるシーンが、世界的に思わぬ大きな波紋を呼んでいる。
それは第5試合に出場したダニエル・パックマン(ブラジル、37)選手の前日計量のシーンだ。
https://www.youtube.com/watch?v=_vBhLPqxT0w
フラフラの状態で計量に姿を見せたパックマン。2人の付添人に支えられてようやくステージに上がったものの、およそ顔に生気は感じられず、身体の動きもままならない様子である。ようやく乗った体重計の上でも、パックマンがなかなか自分の足で立つことができないため、付添人も手を離すことができず、体重測定までに数分の時間がかかるほどだった。
ようやく測定したパックマンの体重は53.9 kgで、ストロー級リミット(− 52.65 kg)をクリアできず、失格。試合は対戦相手の北方大地が勝利した場合のみ公式記録とし、それ以外はノーコンテストとするというルールで行われ、3R判定、3対0で北方が勝利を収めている。
このパックマンの計量動画がネット上に出回ると、この健康状態で試合を強行することを許可したパックマンのコーチやパンクラスに対する激しい非難の声が、米MMA記者を中心に巻き起こった。Twitterからその一部を紹介するが、激しい言葉使いで、かなり感情的になっている様子が見て取れる。ほぼ炎上といっても過言ではない状況だ。
Ariel Halwani記者(MMA Fighting)
全く最低の出来事であり、MMA史上有数の最悪のシーンだ。こんな状態の選手を体重計に引きずり上げた人は全員、恥を知れ。そしてMMAから追放されるべき。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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DEEP浜松大会に密航してみた■二階堂綾乃
2017-10-13 11:2746pt新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、ついに格闘技デビューをしてしまったこのコーナー。今回は「DEEP浜松大会に密航してみた」です!去る10月1日、DEEP HAMAMATSU IMPACT 2017を観戦するため井伊直虎ゆかりの地浜松へ密航して参りました。節約のため行き帰り高速バスの日帰り弾丸ツアーです。
1日朝7時頃、バスタ新宿で目的のバスに乗り込みました。直前にチケットを取った上、日曜日なので隣が空席ってわけにはいかないだろうなと思い荷物をまとめていたところ、
「スミマセン」
縦も横もそこそこ大きく、ヒゲをもっさり蓄えて入れ墨の入った外国人男性が私に話しかけてきました。隣の席が空席ではないどころか…!と、一瞬怖気づきそうになったのですが、私はすぐ男性のハーフパンツにプリントされた「UFC」の文字に気が付きました。この時間にUFCのパンツを履いて浜松へ向かうなんて絶対DEEPに違いない。
私「DEEPですか?」
男性「!?」
私「DEEP HAMAMATSU?」
男性「あ、そうです。」この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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【PRIDE誕生20周年企画】塾長ドン・フライ、堂々のUFC殿堂入り ! 万感のスピーチを読め!
2017-10-09 20:0655pt1997年10月11日に産声を上げたPRIDE――今月で20周年を迎えることを記念して、かつてDropkickメルマガに掲載されたPRIDE関連企画を復刻掲載します。第3弾は2016年に殿堂入りしたドン・フライのスピーチです!【関連記事】PRIDEを救ったドン・フライ戦――今度は我々が高山善廣選手を救う番だ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム――今回のテーマは「ドン・フライ、堂々のUFC殿堂入り」、感動のスピーチをお送りいたします!
塾長ドン・フライ、堂々のUFC殿堂入り ~ ノー・ブルシット、ノー・ポリティックス、スキルとガッツだけで勝負する。こんな世界最高のスポーツが他にあるかい
2016年度のUFCホール・オブ・フェイムで、パイオニアウィング(開拓者部門賞)で殿堂入りを果たしたのは、日本でも新日本プロレスやPRIDEで活躍した、ザ・プレデターともUFO学園師範とも呼ばれる男塾長、ドン・フライであった。
フライはUFCには1996年の1年間しか所属していなかったが、その間に2度のワンナイト・トーナメント優勝を含む、9勝1敗という戦績を上げ、まだMMAが”ノー・ホールズ・バード”とも”ヒューマン・コックファイティング”とも言われた開拓時代のUFCオクタゴンを短くも激しく燃えさかるように駆け抜けたのだった。
米国時間7月10日にラスベガス・コンベンション・センターで行われた授賞式では、デイナ・ホワイトの「ドン・フライはMMAのレジェンド、これまでで最もタフな選手の1人だ。PRIDEでのタカヤマ(善廣)戦など、すさまじい試合をやってのけたことで有名だ。タカヤマ戦は私がこれまでに見た試合の中で、今でも最もクレイジーな試合の1つだ」という前口上とともに、トレードマークのカウボーイ・ハットにヒゲの勇姿で舞台上に登場、プレゼンターのダン・スバーンをはべらせたまま、男臭い堂々のスピーチを行い、聴衆をしびれさせたのだった。
(以下、ドン・フライ受賞スピーチ、出所 UFC Fight Pass)
ここに呼んでもらえたことに驚いている。受賞を知ったのはみなさんと同じタイミングで、男ばかり数人で、タバコを吸い、ビールを飲みながらUFC 199を見ていたら、今年のホール・オブ・フェイムの発表だと言って、テレビ画面にダン・スバーンとオレの試合が映し出された。アホか、スバーンはとっくの昔に殿堂入りしとるだろ、と思って眺めていた。そしたらテレビにはオレの別の写真が次から次へと映し出された。そう、驚いたことに、殿堂入りしたのはこのオレだったのだ。
これには心底驚いた。UFCとの関係は、とっくの昔に扉が閉められ、カギがかけられたと思っていたからだ。オレは思ったことを何でも口に出してしまうタチだからな。まあ、今日もどうなることやらと思っているのだが。
UFCに誘ってくれたのはここにいるダン・スバーンだった。オレも最初の離婚の頃で、カネが必要だった。馬に頭を蹴られるのには慣れていたから、人間に殴られるくらい、大したことないだろうと思ったわけだ。
ダンといえば、デンバーで開催されたUltimate Ultimate大会でこんな思い出がある。PPV放送開始の数時間前に、ダンがどうしても買いたい物があると言って、スーパーマーケットに入っていくんだ。仕方なくみんなでついていった。ダンは売り場を隅から隅まで歩き、やっと欲しかった物を見つけた。ダンが買ったのは、2箱の毛染め剤だった。この顔で、白髪のテレビ映りを気にしていたわけだ。
ダンの他にも感謝しないといけない人が山ほどいる。家族。これまで自分を指導してくれたコーチのみなさん。今週はUFCのみなさんにもよくしていただいた。感謝している。1つだけ不満があるとすれば、サイン用にご希望の写真を撮りましょうと言うから、ではバーで酒を飲んでいる私のヒザの上に、ペイジ・ヴァンザントを座らせなさいと言ったんだが、ちゃんとやってくれないんだ(笑)
それにしても、UFCで女性のファイターを見るというのはオレには信じられないことだ(注:フライは長年、女子MMAには反対の立場を取ってきたことで知られている)。1996年から、時代は変わったんだなとつくづく思う。ダンやタンク・アボット、オレのような醜男なら、少々殴られたところで大差ないが、今ではスーパーモデルのような女性がオクタゴンにあがっている。
いいか、彼女らは本物のスキルを持った本物のファイターだ。オレが認める。(場内拍手) -
大森隆男のワイルドな全日本プロレスLOVE■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」
2017-10-09 18:1076ptプロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「大森隆男」です! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!
<これまでの連載記事! クリックすると試し読みできます!>暴走親方、諏・訪・魔!!嗚呼、阿修羅・原……修羅ごときそのレスラー人生!!冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…完全無欠のプロレスラー!! ジャンボ鶴田超獣ブルーザー・ブロディ【涙のカリスマ】大仁田厚の邪道プロレス人生“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴
癌に勝った絶対王者・小橋建太“プロレス巨大組織”NWAとは何だったのか?呪われたIWGPが最高権威になるまで悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生 燃える男、アニマル浜口――!!“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合全日本プロレスを二度は裏切れない……」秋山準馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレスジョー樋口、和田京平…全日本プロレスを支えたレフェリーたち 我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!
猪木を超えられなかった藤波辰爾――プロレス職人と野心の時代
レスラーの野心が謎を生み出す……SWSに狂わされた男たち!
「俺のほうがUWFより強い!」 誇り高き仮面貴族ミル・マスカラスプロレス史上最も過酷な闘い! G1クライマックス『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……闘いのゴングはこうして鳴った!80年代タイガー、90年代ライガー! ジュニアヘビー級の歴史!!“リングの現実”に殉じたNOAHの栄枯必衰昭和のプロレスを支えた影の実力者! さらば永源遥――!!史上最も愛されたヒール! 黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャー
輪島、北尾、曙……プロレスラーになった横綱たち!!全日本プロレスのすべてを知る男、渕正信鈴木みのるを変えた“全日本プロレスイズム”高山善廣が「帝王」と呼ばれるまで
「プロレス取材の難しさ」
一寸先はハプニング人生! アントニオ猪木!!オシャレでスマートな昭和の頑固親父! グレート小鹿――小佐野さんは入門当初の大森さんのことはおぼえていますか?
小佐野 それが知らないんだよね。大森が全日本に入門したのは秋山準と同じ92年だけど、当時は全日本を取材できない立場だったから。
――あー、SWSと全日本のゴタゴタに巻き込まれたかたちで。
小佐野 数年後に取材できるようになっていろいろと話は聞いてるんだけどね。
――秋山準と大森隆男。同年にデビューした新人が2人とも大成したんですね。
小佐野 これは全日本としては珍しいことなんですよ。どういうことかというと、全日本の場合ってデビュー前に新人がやめちゃうから。レスラーとしてある程度できるようにならないとデビューさせてもらえなかったんですよ。
――簡単にはデビューさせてもらえない。
小佐野 多くの人間が受け身をおぼえられなくて途中でやめちゃう。それに新日本の場合は新弟子が何人かいて、つらくても励まし合ったり、協力して休めたりできたけど、全日本の場合は毎年取ってもひとりだから。
――ひとりで雑用をこなすって地獄ですよね……。
小佐野 大森が入団した頃から方針が変わっていったんだけど、それは小橋建太の存在が大きかった。それまでの全日本ってエリートを育成する方法だったでしょ。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、スカウトされた秋山もそうだったけど。
――ほかの格闘競技で実績がある人間をメインイベンター候補として育てるという。
小佐野 小橋の場合は一度書類選考で落とされて、そこから這い上がってトップグループで活躍するようになった。小橋の成功を受けてノンキャリアでも磨けば使えるという発想になったんだろうね。練習の厳しさは以前と変わりはないんだけど、大森のこともじっくり育てようということになった。
――それだけの素質を大森さんに感じたところもあったんですか?
小佐野 そこは馬場さんのお眼鏡にかなったんだと思うよ。大森は大学3年生のときに一般公募に応募したら、後楽園ホールに呼び出された。そこには50人近くレスラー志望者が集められていて「どんな試験をやらされるんだろう……?」と思っていたら、テストはなし。馬場さんは「テストに受かろうが、やめる奴はやめるだろ」と。
――馬場さんって合理的ですよね(笑)。たしかに続くかどうかはテストは無関係。
小佐野 その場で大森を含む数人が合格になった。大森はアメフトをやっていて身体も大きいし、ルックスもいい。鍛えればなんとかなると思ったんだろうね。ただ、問題がひとつあってまだ3年生だった。大森は「やめて全日本に入ります」と言ったんだけど、馬場さんは「あと1年なんだから卒業しなさい」と。
――馬場さん、優しい!
小佐野 それで1年の猶予をもらったんだけど、大森はちょっと柔道をやったことがあるだけで、格闘技経験がない。これはマズイということでアニマル浜口ジムのプロ養成コースに通うことにしたんだよね。
――全日本入団ありきだったんですか。
小佐野 アマレスのマットしかないから受け身の練習はできなかったんだけど、関節技の練習ができたみたいで。
――全日本の入団が内定してるなら、どうにかして受け身の練習もさせてもらえたんじゃないですか?
小佐野 それが大森は全日本に入ることは内緒にしてたんだよね。
――えっ、どうして内緒に。
小佐野 わからない。入団間際に「じつは……」と浜さんに明かしたら「なんで先に言わないんだ!」って怒られてね。
――そりゃ怒られますよ!(笑)。
小佐野 そのときには秋山が大々的に入門したことが発表されていたから、浜さんに「同期の秋山には負けるな!」と送り出してもらったんだけどね。
――1年の猶予をもらって入門して、その年にはデビューしちゃうんですから凄いですね。
小佐野 その時期の全日本って道場がなかったんだよ。砧にあった道場を壊して、いまの道場を作ってるときだったんです。合宿所も道場もなかった。大森は秋山と泉田純と一緒にアパートの部屋に住んで、一つ上の先輩の浅子(覚)と井上雅央は違うアパートの部屋を借りて住んでいた。なぜ先輩・後輩の部屋を分けたかと言えば、先輩からイジメられないようにと元子さんが一緒に住まわせなかった。イジメられたらやめちゃうと思ったんでしょう。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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シュートマッチ! 神取忍vsジャッキー佐藤■ズンドコ・トラブル興行研究会<小泉悦次・編>
2017-10-09 17:4046pt
ズンドコ・トラブル興行研究会――プロレス格闘技のウラに精通する書き手たちがマット界を騒がせたズンドコな事件を振り返ります! 今回は昭和プロレス研究家の小泉悦次さんによる「神取忍vsジャッキー佐藤のシュートマッチ」です!
<非会員でも購入できる関連記事>■シュートマッチの起源と世IV虎vs安川惡斗http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1332969■あの伝統芸能が!? 史上最低の馬場vsブッチャーhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1311648■新日本で「金返せ」コールが初めて起こった日http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1297385■ディック・ザ・ブル&クラ・リソワスキー金網逃亡事件http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1280794
■ダフ屋と興行師の哀歌!! 岩手水沢騒動
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1216955■マンモス鈴木鉄拳制裁から見える力道山のセンスと狂気
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1242627■負けることに慣れた組織……国際プロレス崩壊直前を私は見たhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1263308
「ジャパン女子プロレス(以下、ジャパ女)」という団体があった。1986年に旗揚げされ、92年にJWP女子プロレスとLLPWに分裂し、現在、それぞれの後継団体はPURE-J、LLPW-Xである。
当初のコンセプトは「プロレス版おニャン子クラブ」だった。8月17日、 後楽園ホールで行われた旗揚げ戦に「おニャン子クラブ」のプロデューサー秋元康、歌手の本田美奈子、そしてアントニオ猪木が来場した。
ジャパ女は全日本女子プロレスのクラッシュ人気やバブル前夜という世相に押されて誕生したといっていいだろう。
旗揚げ戦のメインは元全女、ビューティーペアの一員ジャッキー佐藤と、柔道界から鳴り物入りで入ってきた神取しのぶとのシングルマッチである。神取は関節技で善戦するも、バックドロップに敗れた。
さて、神取とジャッキーとの対戦といえば語られるのはこの旗揚げ戦ではない。翌87年7月18日、神奈川県大和車体工業体育館での試合である。なぜなら「とんでもない」ことになってしまったからだ。
試合は異様な雰囲気の中で開始された。神取がジャッキーを握りこぶしで殴り続ける。ジャッキーはやり返さない。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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【日本大会総括】 UFCが欲しがってるのは那須川天心と◯◯◯…■シュウ・ヒラタのマシンガントーク
2017-10-06 17:3572pt多くのMMAファイターをマネジメントするシュウ・ヒラタ氏が北米MMAシーンを縦横無尽に語りまくるDropkickニコ生配信コーナー。深くてタメになるトークを活字でもお届けします!(10月に配信された一部を加筆編集したものです)。
・UFCが契約したい日本人は那須川天心と◯◯◯
・岡見選手以外にオファーがあったのはエンリケ・スギモト
・廣田瑞人試合中止の裏側
・日本大会は選手の手売りに頼るしかなかったが…
・ONE日本大会に大手広告代理店が付く?
――今回のシュウさんは、水垣選手が出場するACBモスクワ大会のためにロシアからお送りいたします。
シュウ モスクワは初めてなんですよ。ボードッグでロシアには来たことはあるんですけど、懐かしいですね(笑)。
――ヒョードルの試合を見るためにプーチン大統領が来たやつですね(笑)。ロシアというと、いまも昔もお金の匂いがプンプンするんですが……。
シュウ ロシアというかチェチェン共和国の力が凄いですよね。トップのラムザン・カディロフがMMAファンということもあって、国を挙げてMMAをプッシュしてますから。
――MMAは国技の勢いなんですね(笑)。
シュウ ACBにも大きなお金が入ってきてると言われてますね。いままでACBに出た選手たちに話を聞くと、その場で現金払いみたいなんです。
――2017年に現ナマ!(笑)。
シュウ これは冗談だと思いますけど、「現金に血がついていた」と言ってる選手もいて(笑)。
――笑えないですよ!(笑)。それで今日はUFC日本大会についてお伺いしたいんですけど。岡見勇信選手の緊急出場はシュウさんがいろいろと動いてたそうですね。
シュウ はい。まず岡見選手は7月のPFLの試合が、4試合契約の最後だったんですよ。どこの団体もそうですけど、団体がキープしたい選手は3試合目が終わった時点で契約更新のオファーがあるんです。PFLからもオファーはあって、金額的には合意していたんですけど、こちらが完璧に納得する契約ではなかったんですね。岡見選手はなかなか試合を組んでもらえなくてDEEPやパンクラスに出たりしていたので、「試合が6ヵ月間、組まれなかったらこちらから破棄できる」とか追加項目を要求してたんですよ。PFL自体も来年ちゃんと開催されるのか、信用ならない部分がありましたし。
――そういう理由もあってすぐに契約更新しなかった。
シュウ そのうち岡見選手の4試合目が発表されちゃったんです。PFLとは試合後に話し合おうということになったんですけど、そのあとPFL代表のレイ・セフォーから連絡がなかったんですね。それでマッチング期間に入ったときに、UFCから連絡があり「ショーグンがケガでアウトになったけど、誰か日本人でいないか?」という話になったんで、そこで岡見選手を推したわけです。
――ショーグンはライトヘビー級ですよね。
シュウ UFC側もライトヘビーでUFCレベルの日本人ファイターはいないというのは充分にわかっていたいんで「ミドルでライトヘビーでやれる選手はいないか?」という聞き方をしてきましたね。そうしたら私が岡見選手を推していると聞いて、レイ・セフォーからカンカンに怒ったメールがきましたね(笑)。
――こっちの契約はどうするんだ?と(笑)。
シュウ だけども、ボクはハッキリ伝えたんですよ。レイ・セフォーは元ファイターじゃないですか。「岡見選手がこの歳でUFCにカムバックできるチャンスがある。それがわからないのか?」って。
――申し訳ないですけど、UFCとベラトール以外はどこのイベントもステップアップに過ぎないですよねぇ。ROAD FCやRIZIN、KSWのような国内特化型団体ならまだしも。
シュウ やりとりしても埒が明かないので、UFCのマッチメイカーのミック・メイナードからレイ・セフォーに電話してもらったんです。そうしたらレイ・セフォーは「シュウのためにはやらないけど、UFCのためならいいよ」ってことで(笑)。
――レイ・セフォーとしてもUFCには恩を売っておきたいんですね。
シュウ そういうことだと思います(笑)。
――UFCは岡見選手以外の案はあったんですか?
シュウ 岡見選手以外に正式にオファーがあったのはエンリケ・スギモトくんだけです。
――日本在住のブラジル人でHEATのミドル級チャンピオンですね。
シュウ でも、エンリケくんは練習してなかったし、230パウンド近くあったので1週間で体重を落とすのは難しいと。
――UFCは打診自体はいろんな選手にしていたんですよね。
シュウ いろんなところにボールを投げたと思います。要はライトヘビー級で、あのレベルの選手は日本人にはいないということはマッチメイカーも最初からわかっていたんで。
――そこからスタートしてるんですね。
シュウ 福田力選手にも打診はあったと思いますし、中西良行選手にも打診はあって「全然練習してないですけど、やります」ということだったんですけども。UFCとしては最終的に岡見選手とエンリケの2人にオファーを出したんです。UFCというのは1試合契約は絶対にないですから。そこからはファイトマネーと条件の交渉ですね。最近のUFCの契約には、階級が明記されることがある。つまり契約してから階級を変更することができない契約もあるんです。ですから、まず1試合しかライトヘビでしかやらない。2試合目からはウェルターでやれるという条件でないと受けられない。――今後はウェルター級でやるという契約をちゃんと結んだんですね。この続きと、西良典、折原昌夫、サベージ&エリザベス、PRIDE終焉、RIZIN福岡裏話、パンクラス計量炎上…などの記事がまとめて読める「12万字・記事詰め合わせセット」はコチラ
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