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記事 26件
  • 【おまえ平田だろ!】平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」

    2015-05-15 21:10  
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    スーパー・ストロングマシンの正体と噂される平田淳嗣は、昭和・平成の新日本プロレスの最前線を闘いぬき、現在はリングからは離れてはいるものの、豊富な経験を活かして裏方として新日本を支えているプロレス界の重鎮。名勝負も数多いが、「おまえ平田だろ」「しょっぱい試合ですいません」などマイク運(?)にも恵まれている平田さんに、前田日明らとしのぎを削ったヤングライオン時代、海外遠征、そして新日本プロレスが再び上昇した理由をうかがいました。

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    http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar781624
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    ――世間で「しょっぱい」という言葉がすっかり定着してるんですけど、業界用語ではあったといえ、ここまで浸透したきっかけはSGタッグリーグ決勝戦の平田さんのマイクですよね(笑)。
    平田 そうですか?(笑)。もともとは相撲用語なんですけどね。
    ――みんな当たり前のように使ってますけど、当時はこういった隠語を公の場で使うのは珍しかったですよね。
    平田 まあピー音で消す卑猥な言葉でもないし(笑)。ただ「お客さんはこの意味がわかるかな……」とは思いましたけど。
    ――ああ、たしかにわからないファンがいてもおかしくはないですね。
    平田 アレはね、心の奥底から出た言葉なんで。あのときはマイクを持つつもりはなくて、敵の武藤(敬司)が「平田さん、何か喋ったほうがいいですよ」とボソッと言ったんですよね。それでマイクを持って出た言葉がアレでね。それがこんな大反響になるとはね、思いもよらなかったですよね(苦笑)。
    ――いまでも語り継がれてますからね(笑)。
    平田 でも、あの日のしょっぱいは「つまらない」という意味じゃないですよ。これは声を大にして言いたい(笑)。
    ――試合自体はスリリングでした!(武藤敬司&馳浩vs蝶野正洋&マシン組の詳細は各自調査してください)
    平田 自分の動きが悪いとか、そういうしょっぱいじゃないんですよね。「こんな試合になっちゃってすいません」という気持ちがあの言葉になっちゃったから。それが「しょっぱい試合ですいません」と。
    ――そこは勘違いされてる方がいるかもしれないですね。
    平田 あのときも、控室に戻ったら「何を言ってるんだ?」とか言われましたよ。「もっと前向きなことを言えよ」と。でも、そういう人は試合内容がしょっぱいと勘違いしてるわけですよ。この件に関しては何回も取材を受けていて、その都度説明してるんですけどね(苦笑)。
    ――何回も何回も申し訳ありません(笑)。いまはよりストレートな「塩」という表現になってるんですよね。「塩試合」「塩漬け」とか。
    平田 あー、なるほど。まあ、もともと塩から来てますからね、原点に戻ってるんですね(笑)。
    ――ハハハハハハ! というわけで、今日は平田さんのしょっぱくないプロレスラー人生を振り返っていただきたいんですが、平田さんは新聞販売所で働きながらプロレスラーを目指した苦労人なんですよね。
    平田 そうですね。新聞配達以外にもいろいろと仕事をしましたけど、手っ取り早いのは住み込みでできる仕事。それで新聞屋さんに入りまして、新聞を配るだけじゃなくて集金なんかもやりましたよね。場所は渋谷なんでね、大変なんですよ。独り者のアパートが多いから、集金しようにも留守の家が多くて。
    ――拡張業務もやってたんですか?
    平田 洗剤とか持って勧誘してました。働いていたのが読売新聞の販売所だったので巨人戦のチケットもありましたけど。
    ――巨人戦のチケットは勧誘には強力ですよね?(笑)。
    平田 いや、あんまりいいカードのチケットじゃないから。巨人×ヤクルトスワローズとかばっかで、人気のある巨人×阪神タイガースはなかったですからね。
    ――黄金カードは回ってこないんですね(笑)。
    平田 あと集金もやってましたよ。400軒くらい担当してたから大変でしたよね。
    ――朝刊・夕刊の配達があって、拡張や集金業務もあるとなると、身体を鍛える時間はなかったんじゃないですか?
    平田 当時はバイクじゃなくて自転車で配ってましたし、渋谷は坂が多いじゃないですか。配達自体が運動になるんですよ。あとマンションなんかは当時はエレベーターがないから、階段を駆け上がらないといけないですし。
    ――配達がいいトレーニングになるんですね。
    平田 練習がてらじゃないけど、走り回ってましたから足腰は強かったですね。あと夕刊を配り終わってメシを食べてから、恵比寿にあったジムに通ってたんですよ。そこに自転車で毎晩通って身体を大きくして。あと目黒にあった柔道場にも通ってましたね。いまはなくなってますけど、“桜庭道場”というんですよ(笑)。
    ――不思議な縁を感じますね(笑)。平田さんはいつ頃からプロレスラーを目指してたんですか?
    平田 中学のときからプロレスラーになることは決めていて。中学の親子面談のときも、担任の先生が俺がプロレスラーになりたいことを知っていて、おふくろの前で「夢を持つのはいいことだけど、ちゃんとした道を……」とか言い出すんですよ。馬鹿にされてるみたいで頭にきちゃってね(笑)。おふくろも「そうですね」とか頷いていたけど、俺は逆に火がついて。プロレスラーになりたい気持ちがだんだんと強くなりましたね。
    ――反対されるとやってやろうという気持ちは強くなりますよね。
    平田 そうなんですよ。先生はそうは言ってないですけど、「プロレスラーは悪い職業だ」と聞こえちゃったんですよね。
    ――でも、当時は団体も限られていましたし、プロレスラーになるのは難しい時代でしたよね。
    平田 とにかく実家にいたらプロレスラーになれないと。実家は平塚なんですけど、そこにいたら先に進まないなと思って東京に出てきて。職場は何度か変わりましたけど、身体を作りながらチャンスを狙ってました。なかなかチャンスはなかったけど、それはそれで都合がよかったんです。自分の身体はまだ作れてなかったから。
    ――しっかり身体を作ってから挑戦しようとしたんですね。
    平田 やることをやって納得できてから、そこで初めて道場に飛び込みでもなんでもしようかなと思って。とにかく練習をしていましたね。そうしたら、務めていた新聞店の店長が異動で変わったんですけど。新しい店長がもの凄いプロレスファンだったんですよ。店先のテレビで一緒に猪木vsモハメド・アリ戦を見ましたから(笑)。
    ――プロレスに理解のある方だったんですね。
    平田 それで店長から、日本武道館であった猪木vsチャック・ウェップナー戦を誘ってくれたんですよ。お金も店長が出してくれて。そのときにせっかく来たんだからとパンフレットも買ったんですよね。パンフレットは読まないで本棚に置いといて、たまに写真を見るくらいだったんですけど。何ヶ月か経ったあとに読んでいたら、「新人レスラー募集」の欄を見つけたんです。「これはチャンスだ!」と思ったら、とうの昔に期限は締め切れられていて(笑)。
    ――早く読んでいればよかった(笑)。
    平田 当時はネットがない時代ですから、そういうかたちでレスラー募集の告知を知るしかなかったんですよ。次にいつ告知が載るかもわからないですし、いろいろ考えたところ「山本小鉄さんに手紙を出そう」と。あの頃の新日本は山本小鉄さんを中心に選手が鍛えあげられている雰囲気があったんですよ。そのことは知っていたし、猪木さんに手紙を出してもきっと読んでくれないじゃないですか(笑)。
    ――ハハハハハハ! 小鉄さんだったら読んでくれるんじゃないか、と。
    平田 汚い字で「プロレスラーを目指すために新聞配達で頑張ってます……」と一生懸命書いて。それで手紙を出したんです。そうしたら数日後、販売所に電話がかかってきたんですよ。店長が出たんですけど、「おい、平田!山本小鉄さんから電話がかかってきたぞっ!!」って慌てて呼びに来て(笑)。
    ――小鉄さんから直電ですか!
    平田 ビックリしましたよ。電話に出たら「平田くんか?」「はい!」「おまえの手紙を読んだよ」「ありがとうございます!」「俺も同じような時代があったから気持ちがわかるぞ!」と。
    ――小鉄さんは新聞配達で家計を助けてたんですよね。
    平田 それで「テストしたいから大田区体育館に来い。わかったな」と。もう「はい!」しか言ってないんですけど(笑)。電話を切ったあともしばし呆然ですよ。
    ――いやあ、ドラマチックですね!(笑)。
    平田 そこから追い込み特訓を凄くやりましたね。ヒンズースクワットも1000回できるようにしていきましたし。仕事がキツイこともあって体重は全然増えなかったんですけど、82キロくらいまで増やして。
    ――準備万端で大田区体育館に行ったんですね。
    平田 それが凄く早い時間に着きすぎちゃってね、会場前でウロウロしてたんです(笑)。
    ――気ばかり焦ってしまった、と(笑)。
    平田 初めて後楽園ホールにプロレスを見に行ったときも早く着いちゃったんですよ。夕方から試合なのに昼ごろには着いてしまって。チケットと電車代しか持っていないからメシも食えないし(笑)。
    ――プロレスのことになると、いてもたってもいられないんですねぇ。
    平田 そのとき後楽園ホールで『笑点』の公開収録をやっていて。当時の『笑点』って客席を埋めるためにタダで入れてくれたんですよ。それでプロレスまで時間を潰してましたね。
    ――『笑点』、プロレスの後楽園ホールの二部構成を堪能したわけですね。
    平田 テストのときは大田区体育館の前を行ったり来たりしていたんですけど、チケット売り場の人に「山本小鉄さんに呼ばれてきたんですけど」って声をかけたら小鉄さんのところに連れて行ってもらえて。そこで小鉄さんに初めてお会いしてお話を聞いたんです。「俺も新聞配達をしながらジムに通って……」と俺の境遇と同じなんですよね。
    ――小鉄さんはシンパシーを感じたんでしょうね。
    平田 「じゃあテストをやるぞ」ってことでスクワットをやらされたんですよね。でも、50回くらいしかやらなかったんですよ。
    ――あ、1000回じゃなくて。
    平田 腕立て伏せも30回くらい、反復横跳びは1分くらい。それだけしかやらなくて入門できたのは、俺だけだと思うんですよ。あのとき隅で荒川(真)さんがテストを見ていたんですけど、小鉄さんが「おい、いいのが入ってきたぞ」で合格ですよ(笑)。
    ――拍子抜けしますね(笑)。
    平田 というか、ほかのテスト内容は知らないから「こんなものなのか」って思っちゃったんですけど。小鉄さんは見ればわかるんですよ。俺も足の運動を何回か見たら「あ、コイツはできるな」ってわかりますよ。
    ――1000回やらせなくても技量がわかるんですね。
    平田 そうなんですよ。でも、まいったのは、テストを見ていた荒川さんが控室に戻って、ほかの若手たちにとんでもないことを言ったんですよ。この話、知ってます?
    ――「三浦友和似のとんでもないバケモノが入ってきた」ってやつですよね?(笑)。
    平田 そうそう(笑)。まだデビューしていない前田日明やヒロ斎藤に「凄いのが入ってきたぞ!」と。「ジャンピングスクワットを1000回くらい簡単にやって、腕立て500回を10分くらいでやって、しかも顔は三浦友和で腹筋はバリバリに割れているぞぉ!」と(笑)。
    ――ハハハハハハ! さすが荒川さん、盛りますね(笑)。
    平田 荒川さんが大げさに言ってるなんてことは知らなかったんですけど。とりあえず、その場で入門する日も決まって。1978年5月13日。
    ――そろそろ記念日なんですね(この取材をしたのは5月11日)。
    平田 その日に「沼津の体育館に来い」というんですよね。沼津で興行があったんですけど、「全部荷物を持ってこいよ。道場に行くから」と。だったら最初から道場でいいと思うんですけど(笑)。実家は平塚だからそこに寄って沼津の体育館に行ったんです。その日は練習には参加しなかったんですけど、試合開始近くになったら小鉄さんから「セコンドにつけ」と言われて。
    ――いきなりセコンドですか!
    平田 たまたまほかの若手がいなかったんですね。新日本のジャージを持ってなかったんですけど、「自分のジャージでいいよ」って言われて(笑)。
    ――しかし、いきなりできるもんなんですか?
    平田 あのね、プロレス中継を毎週見てるからできるんですよ。新日本だけじゃなくて全日本も国際も見てるから、セコンドが何をやればいいかわかるわけですよ。選手がリングインするときにロープ上げも普通にやってましたからね(笑)。誰かが入場するときにリングにハシゴをつけたりもして。
    ――でも、選手は「こいつは誰なんだろう?」って感じですよね(笑)。
    平田 ジャージも新日本とは違うしね(笑)。俺くらいじゃないですか、入門当日にロープを上げていたのは。それで興行が終わって、沼津から新幹線で東京駅に帰ったんですけど。山本さんと一緒についていったんでグリーン車なんですよ。
    ――異例の新弟子ですね。
    平田 東京駅から、ほかの若手と一緒にタクシーで道場まで帰ってきて。当時の寮長は小林邦昭さんで「おまえはこの部屋だ」って3人部屋に入ったんですけど。俺を見る目が変なんですよ(笑)。
    ――「入門初日にセコンドについて、グリーン車で帰ってくる三浦友和似のバケモノ」ですからね(笑)。
    平田 「よろしくお願いします!」って挨拶したんだけど、なんだか距離があるんですよ。普通だったら後輩が入ってきたらああしろこうしろってかわいがるじゃないですか。結局、俺が一番年上だったんですよね。21歳。前田日明は19歳くらいだったし、ヒロちゃんなんか16、17歳だったし。
    ――後輩だけど年上って厄介な存在ですね。
    平田 やっと打ち解けたのは2ヶ月くらい経ってからですよ。前田日明は最初は「平田、平田」と呼び捨てだったんだけど、年上ということもあって「おっさん」になったんですけど(笑)。
    ――前田さんなりに気を遣ったんですね(笑)。
    平田 「おっさん、入門テストのときジャンピングスクワットをそんなにやったの?」「え?そんなにやってないよ」「……荒川さんに騙された!」って(笑)。
    ――まあ、前田さんは「第一次情報に絶対に騙されるマン」ですから(笑)。
    平田 そのときにようやくネタバレして和気あいあいとなってね(笑)。
    ――同期は前田さん、ヒロさん、ジョージ高野さんになるんですよね。
    平田 ジョージは1回辞めて芸能界に行ってるんですよね。原薗善由紀という選手もいたんですけど。
    ――前田さんとヒロさんの仲がかなり悪かったという話ですよね。
    平田 悪かったですねぇ(苦笑)。
    ――何が理由だったんですか?
    平田 前田日明が飛び抜けてイッちゃっていて……いや、ほかにいい言葉がないかな(笑)。
    ――ハハハハハハ! 前田さんは突き抜けていたんですね(笑)。
    平田 トンパチ。ヒロちゃんはかなり頑固なんですけど、そんなヒロちゃんを前田日明がいちいちかまうんですよ。「おまえ、なんやねん?(笑)」とか。
    ――大阪人特有のいじくり(笑)。
    平田 ヒロちゃんは真っ直ぐだから「なんだ、コラ!」って怒るんですよね、先輩相手に。ケンカが始まりそうになったときに俺があいだに入るんです。寮長の小林さんは放ったらかしだから、俺が止めるしかないんでんですよ(笑)。合同練習なんか自分で言うのもなんだけど、俺が一番できたから、俺が止めるんならケンカは収まるんですよね。
    ――そこは入門前のトレーニングが活きているんですね。
    平田 入門して1ヵ月で5キロくらい太りましたからね。前田さんはしばらくはヒョロヒョロだったし、ヒロちゃんも太るのに苦労したし。いっぱい食べるんだけど、2人ともなかなか太れない。
    ――新弟子のノルマはどんぶり飯5杯だったんですよね?
    平田 地方巡業は2食付きの旅館に泊まるんですけど、朝5杯、夜10杯。
    ――夜10杯ですか!このインタビューの続きと、金村キンタロー、川田利明、倉持隆夫、矢野啓太など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです 
  • 「ナオミとカナコ/奥田英朗」■笹原圭一の書評やれんのか2015

    2015-05-15 09:09  
    55pt
    今回は本の紹介をする前に「名前」についてちょっと思うところを書いてみようと思います。
    つい先日、高崎山で産まれた赤ちゃん猿に「シャーロット」という名前を付けたところ、一騒動あったことは皆様ご周知のことと思います。
    色々なご意見があろうかと思いますが、まぁ猿の名前なんだからそんなに大騒ぎすることもないでしょ、というのが一番冷静のような気がします。
    別に「メイウェザー」で無敗のボスザルを目指しても、あったかい雰囲気の猿になって欲しいという願いを込めて「クマムシ」にしても、その後の猿人生(ってちょっと変ですが)に大きな影響は無いような気がします。
    でもこれが人間となると、話しは簡単じゃありません。
    昨今ですと、よく耳にするのがキラキラネームにまつわるトッピクスです。
    当サイトの編集長である、斉藤さんは「斉藤慎一」なので、おそらくご両親が「長男で、慎ましく(つつましく)育って欲しい」という願いを込めて命名されたのでしょう。その願い通り、斉藤さんは思慮深く控え目で、実に慎ましい方だと思います。た、たぶん。
    私の場合は「圭一」ですが、本当は「健康に育って欲しい。で、長男だから」という何のヒネリもない理由で「健一」になるところでした。ところが、母が当時好きだった俳優の名前を付けたくて、オヤジに内緒で「圭一」で出生届を出したとのこと。
    なんということでしょう。匠の技で健一という名前が、実に鮮やかな圭一に様変わりしたではありませんか。って、健一でも圭一でもそんなに劇的ビフォーアフターな変わり様ではありませんが。
     
  • シャドウジャッジング:MMA判定業務の実際■MMA Unleashed

    2015-05-15 09:02  
    55pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回はMMAジャッジの裏側、現場最前線レポート! 疑惑の判定の反省はなされているのか?
    4月10日にカリフォルニア州アーバインで開催された「ベラトール136」大会で、大会を管轄するカリフォルニア州アスレティックコミッション(CSAC)がMMAジャーナリストを招いてメディアデイを開催、普段目に触れることのないコミッションの仕事の舞台裏をメディアに公開した。
    中でもユニークだったのが、「シャドウジャッジング」の試みである。リングサイドに招かれた記者たちが、実際の試合を題材に、ためしにジャッジングを行ってみるという取り組みだ。シャドウジャッジングの前には、ベテランレフリー、ジョン・マッカーシーのジャッジングセミナーが行われ、シャドウジャッジングの後には、コミッションのレフリーやジャッジたちが行う反省会に記者の参加が許された。
    ジャッジングセミナーでマッカーシーは、「効果的な打撃と効果的なグラップリング。この2つが判定の際に最も重視されるべき要素です」と説明した。これら2つの要素に差がないと思われる場合にのみ、ケージコントロールやアグレッション(攻撃の積極性)などを考慮に入れるというのが正しいのだ。
    言い換えると、ポイントを与えるべきなのは、長い時間トップポジションにいた選手や、ケージに相手を押し込んでいた選手ではなく、あくまでよりダメージを与えた選手、もしくはフィニッシュを目指してサブミッションを試みた選手だということになる。
     
  • 諏訪魔vs藤田和之を実現させる方法

    2015-05-11 09:48  
    33pt
    業界事情通Zがマット界の動向をお届けする不定期連載。スターダムの不穏試合に続いて語るテーマは「幻の諏訪魔vs藤田和之」です!(聞き手/ジャン斉藤)――今回は事情通Zさんに幻に終わりそうな諏訪魔vs藤田和之の裏側についてお聞きしたいと思います。
    Z 裏側と言ってもですね、まあ報道されているとおりですよ。「鶴の一声でひっくり返った」。つまりアントニオ猪木の一声でオジャンという(笑)。
    ――でも、諏訪魔はわざわざIGF大阪大会に出向いて、翌日の全日本後楽園ホール大会のチケットをサイモン猪木氏に渡してますよね。
    Z 藤田和之の来場を呼びかけたわけですね。
    ――それって諏訪魔の完全なフリースタイルではないわけですよね?
    Z そうですね。まず今回の騒動を振り返ってみると、5月5日にゼロワンとW−1がそれぞれ後楽園ホールで大会をやっていて、札止めではないんですけど、いつもよりはお客さんが入ってるんです。ゼロワンは割引していたので入るのはわかるんです。W−1のホールは最近入ってなかったんですけど、今回はよかった。そこはW−1新王者・鈴木秀樹効果はあったのかもしれない。で、翌日の全日本の後楽園はというと、これが入ってなかった。主催者発表で711人。
    ――主催者発表でそれだと厳しいですね……。
    Z 今回のホールに限らず、ここ最近の全日本は興行的に苦戦しています。なんとか挽回しなきゃいけないというところで、IGFとの対抗戦を進めていたと思うんですよね。
    ――全日本vsIGFという対抗戦自体はだいぶ前から話がありましたよね。
    Z 藤田が全日本の会場に来たのは去年の4月、1年前のことですよ(笑)。全日本の出たカシンのセコンドとして。
    ――1年がかりの計画(笑)。
    Z いまの全日本ってNOAHやW−1との交流は無理じゃないですか。
    ――政治的にも団体の成り立ち的にも難しいですね。
    Z ほかの団体を見渡しても、選手の交流はできるとしても、対抗戦というかたちを取れるところはない。刺激的でお客さんを呼べそうな団体は限られていて、全日本にとってパイプがあるのがIGFだけしかなかったと思うんです。
    ――パイプはあるんですか?
    Z カシンが一時期、全日本に上がっていたじゃないですか。その細〜〜いパイプなんじゃないかな、と(笑)。
    ――IGFとしても全日本との対抗戦は願ったりですよね。スポンサーが強いからなんとかなってますけど、チケットは売れていないだろうし、リング上もやれることがなくなってきてるじゃないですか。多くのプロレスファンは知らないでしょうけど、いまIGFはMMAトーナメントとプロレストーナメントを同時にやってますからね(笑)。
    Z あの手詰まり感は凄いですよね。このインタビューの続きと、金村キンタロー、平田淳嗣、川田利明、倉持隆夫、矢野啓太など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです 
  • 格闘技アパレル春夏コレクション2015■MMAオレンジ色の手帖

    2015-05-11 09:07  
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    格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! 今回のテーマは……ゴールデンウィークに入って全国的に目の覚めるような快晴。これぞまさしくGW日和。気温もグングン上昇して、北海道では4月中に30℃に達するわ、都内でも連日の夏日を記録するわで、春を通り越して一気に夏がやってきました。暑すぎるのは考えものですが、「Tシャツ一丁」で出かけられるは大きな楽しみだったりもします。ちょうどこのタイミングで格闘技アパレルメーカーからも一癖も二癖もあるユニークでスタイリッシュな作品が多数リリースされているではありませんか。これを見逃す手はありません。そこで今回のMMAオレンジ色の手帖は格闘技アパレルの最新アイテムを大フィーチャー。各社イチオシのアイテムに加えて私が独断と偏見でチョイスした商品を思いつくままに紹介していきたいと思います。題して「格闘技アパレル春夏コレクション2015」。略して「格コレ」。今宵も電波と充電の続く限りよろしくお願いします。※格闘技アパレル初級編はこちらまず最初にご紹介するのは格闘技界で絶対的な人気を誇る「reversal」。柔道衣や空手衣を製造販売していた老舗武道用品メーカー「ISAMI」が展開するアパレルブランドは今や格闘家、格闘技ファンのみならず一般的にも浸透してきたと言っても過言ではありません。毎年季節ごとに新作を発売していますが、そのアイテム数の多さには思わず舌を巻くほど。Tシャツやパーカー、シャツ、パンツはもちろん、財布、バッグ、アクセサリーに至るまで多種多彩。その数はゆうに50種類以上あります。今年の春夏モノの中で一際目を引いたのがreversalでもサーフ系アイテムをを取り扱う「rebentacao」の新作Tシャツ。なんと世界的に超有名なポパイとミッキーマウスをモチーフにした作品をリリースしているではありませんか。こういう大御所アニメとコラボすると、どうしてもキャラクターが全面で押し出されてけゴテゴテするケースが多いですが、その絶妙のさじ加減こそがreversalの真骨頂。ポパイとその恋人・オリーブがreversalのログの脇にさりげなくたたずんでいて全く違和感がありません。しかもサーフ系ラインらしくボードに乗っているのがなんとも心憎い演出です。ミッキーマウスもなんとミッキーの「顔」ではなく「手」をあしらっているから驚き。言われてみれば、「その手」「その指」はまさしくミッキー!自慢じゃないですがディズニーと宮崎アニメを1つも見たことがないアンチな私でも思わず触手が動いてしまうセンスの良さ。その一方でこんな斬新なデザインならミッキーマウス好きの方もほうってはおかないでしょう。アンチとマニア両方を取り込む作品に仕上がっています。なお、老若男女に愛されているポパイとミッキーに合わせてなのか、サイズはメンズからレディース、キッズまで網羅されている充実ぶり。お好きな方はぜひ家族全員で楽しんでくださいませ。そして一転してアダルトなムードが漂うのがreversalの今季のメイングラフィック。古代ローマの競技場と王者の証「月桂樹」をブレンドしたアヴァンギャルドなアイテムも見逃せません。なんとリュックサックから帽子、そしてiPhoneケースまで作り出す徹底っぷり。力の入れ様が垣間見えてきます。シンプル好きな私はどれもド派手でさすがに躊躇しますがが、皆さんに思い切ってチャレンジしてもらいたい逸品がシャツ。これはどこからどう見てもアロハではありませんか!?まるで三村マサカズやBEGINが着てそうな逸品。少し派手では?と不安に思うかもしれませんがご安心ください。日本にもクールビズがあるじゃありませんか。これを着て出社したら、仕事が出来るIT社長かテレビ局の敏腕プロデューサーに見える事うけあい。月桂樹と言えばフレッドペリーが有名ですが、それにも負けないインパクトと高級感があるのでぜひドンと構えて着こなしてみましょう。次にピックアップするのは今だ現役として第一線で戦い続ける宇野薫がディレクションを務める「UCS(UNO CAOL SHWOTEN)」。以前の企画でもバリエーション豊かでハイセンスなTシャツの数々を紹介しましたが、今回取り上げるのは意表を突いてベビーグッズ。これまでも「Uno Bambini」というラインからベビーやキッズ向けのグッズを取り扱ってきましたが、今回はロンパースがリリースされました。これがただのロンパースではありません。写真を見ておわかりだと思いますが、なんと柔術着をモチーフにした珠玉の逸品。全面に「UNO DOJO」や「UCS」等のロゴマークがプリントされた本格的なデザインはどこからどう見ても柔術着です。しかも嬉しいのがその安全性の高さ。日本製の素材にこだわり、肌触りと通気性の良い天竺生地を使用しているそうなので、赤ちゃんにも安心して着せる事が出来ます。さらにUno Bambiniのロゴがプリントされたビブ(よだれかけ)とはがきサイズの母子手帳が入るUCSオリジナルのジップロックがセットになっているそうなので出産祝いにもぴったり。子煩悩で知られる宇野選手らしいアイディアが詰まった商品です。 
  • 追憶の三沢光晴――“デンジャラスK”川田利明■小佐野景浩のプロレス歴史発見

    2015-05-08 10:39  
    110pt
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「川田利明」!! 天龍同盟、超世代軍、聖鬼軍、三沢光晴との関係……90年代を代表するプロレスラーが歩んだ王道とは……? プロレスがますます好きになる小佐野節を今回も堪能してください! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!

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    <Dropkickメルマガインタビュー一覧>PRIDEの怪しいレフェリング話から、天龍同盟の痺れる男気エピソードまで大ボリュームでお送りしている一覧はコチラ!http://ch.nicovideo.jp/search/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88%E8%B2%A9%E5%A3%B2?type=article――川田さんは現在飲食店『麺ジャラスK』を経営していますが、最近体調を崩したようでお店を休業してるんですよ。
    小佐野 あ、そうなの。それは知らなかった。だって6月13日に広島で三沢光晴のメモリアル大会があるんだけど、そのあとにリーガロイヤルホテル広島のトークイベントに川田も出るんですよ。田上(明)、小橋(建太)、天龍現一郎、川田のトークショー。私がMCなんですけど。
    ――東京でも開催してほしいくらいの豪華なメンツですね(笑)。川田さんは引退表明はしていないですが、リングから離れてから時間が経ってますよね。
    小佐野 最後の試合したのが2010年8月15日、G-1最終戦にスペシャルマッチで天龍さんと4代目タイガーマスクと組んだとき。最後に巡業に出たのはその年の4~5月のNOAHのグロバールリーグ戦。『麺ジャラスK』を休んで出たんですよ。
    ――ボクは『麺ジャラスK』の近くに住んでいたことがあるんですけど、あそこは客商売をやるには場所が悪いんですよね。
    小佐野 『麺ジャラスK』で3代目のラーメン屋なんでしょ。あそこは駅からも遠いしね。あの地域の常連さんが集まってくれないと厳しいと思いますよ。
    ――だから当初はラーメン屋だったのに、地域密着型の居酒屋スタイルに変わっていったんですよね。
    小佐野 ボクが食べに行ったのは1回しかないんだけど、そのときはもうラーメン屋ではなかった。去年かなんかに取材に行ったときは券売機が置いてあったなあ。
    ――試行錯誤を重ねているからか、店を訪れるたびにルールが変わってるんですよ。だから足を運ぶたびに新鮮で(笑)。
    小佐野 彼はけっこう凝り性だから。料理もいい加減じゃないでしょ。「ステーキは白い皿で出さないといけない」という人ですから。それは馬場さんの教え。ちょうどいい焼き加減で出すのに鉄板で出したらもっと焼けちゃうじゃない。だからちゃんとしたステーキは白い皿に出てくる。
    ――そういえば、いまはステーキがメイン料理になってますね(笑)。全国津々浦々いろんなものを食べているから拘りが深いんですね。
    小佐野 彼は何に対しても凄い真面目でね。どっちかというと暗く見えるタイプ。ホントは寡黙じゃなんだけど、一見おとなしく見える。ボクが親しくなったとき、彼は馬場さんの付き人やっていたんだけど。神経を使いすぎて体重が増えない。胃潰瘍だったんじゃないかなあ。
    ――川田さんってもともと身体は大きくないですよね。
    小佐野 鍛えて大きくしていったから。いまは凄く痩せてるでしょ。リングに上がってないんだからそうなるよね。彼は高校時代にレスリングをやっていたけど、75キロ級だったんじゃないかな。高校のレスリングでは国体優勝とか、いい戦績を残してるんですよ。
    ――馬場さんの付き人しては優秀だったんですか?
    小佐野 聞いた話だと、大浴場で馬場さんの世話をしてて、途中にほかの仕事を済ますためにいったん外に出たら、戻ることを忘れちゃって馬場さんがノボセてしまったとか(笑)。
    ――ハハハハハハ! 忘れるもんなんですかね?(笑)。
    小佐野 だって当時の川田は全日本では一番下なんだもん。そりゃもう忙しいよ。
    ――ああ、馬場さんの付き人仕事だけじゃないんですね。
    小佐野 川田が入ったのは1982年の春でしょ。次の新弟子が小川良成で入ってきたのは84年だから、川田は2年間ひとりで雑用をやっていたんですよ。
    ――ほかの若手はどんな顔ぶれだったんですか?
    小佐野 三沢、越中さんはメキシコ。いたのは冬木(弘道)さん、ターザン後藤。ジャンボの付き人を後藤がやっていて、冬木さんが天龍さんの付き人。馬場さんの付き人だった越中さんがメキシコに行くということで、誰の担当でもなかった川田が引き継いだんじゃないかな。川田はとにかく下積みの時期が長かったから。初勝利までに1年3ヵ月かかってるし。『目指せ1勝!』の横断幕も出たくらいで。
    ――川田さんはもともと全日本プロレスに入りたかったんですか?
    小佐野 彼は中学卒業前に新日本プロレスの入門テストに受かってるんですよね。
    ――中学生で合格! 船木誠勝コースだったんですね。
    小佐野 だけど、母親と担当の先生に「高校だけは出ろ」と反対されて。だから足利工大付属高校というレスリングが強い高校に進んだんです。
    ――高校卒業後は全日本に入ったわけですね。
    小佐野 レスラーになりたかったからどこでもよかったんだと思う。新日本のテストを受けたのも、中学のときに問い合わせのハガキを送ったんだけど、返事があったのは新日本だったから。全日本に入ったのは、高校の先輩の三沢から鶴田さんを紹介してもらって、馬場さんとスタン・ハンセンがシングルをやった82年2月4日の東京体育館大会で馬場さんの面接を受けて「高校を卒業したら来なさい」と。
    ――面接だけで入門できたんですか?
    小佐野 馬場さんは基本的に面接しかしない人だから。入門テストをクリアしたところでダメな奴はダメなんだし。
    ――たしかに新日本のテストを合格しても、私生活がキツくて逃げる人間はたくさんいますよね。
    小佐野 そうそう。川田は高校時代のレスリングの実績は三沢よりよかったらしいし、当時の全日本は新弟子がいないから、三沢や後藤たちにしてみれば雑用をやってくれる新弟子はぜひ入ってきてもらいたかったんじゃない?
    ――三沢さんからすれば“後輩”を作りたかった、と(笑)。
    小佐野 彼は運動神経がよかったし、いい新人だったと思う。その後、三沢がタイガーマスクになるときに練習パートナーに抜擢されて、それこそ三沢よりタイガー的な動きはできるわけですよ。
    ――ローリングソバットもできたけど、三沢さんができなかったから川田さんは使っちゃいけなかったんですよね。
    小佐野 その頃の川田にはタイガーマスク2号の話もあったくらいだから。
    ――その計画はどこまで具体的だったんですか?
    小佐野 うーん、わからない。でも、そんな計画が浮上するくらい川田の動きはスピーディーだったし、そこそこ人気はあったんじゃないかな。レスリングもできたし、いまどきのジュニアヘビーのような感じで飛べたもんね、彼は。
    ――体重が増えないだけがウィークポイントで。
    小佐野 雑用で忙しいから精神的にまいるんですよ。ガイジンレスラーの世話もしないといけないじゃない。外国人バスに乗っていたんだけど、イスが埋まっていて補助イスに座っていたりとかね。
    ――それで馬場さんの付き人も兼ねてたんですか?
    小佐野 馬場さんの付き人は数カ月だけだったのかな。馬場さんとしては“かわいい付き人”じゃなかったと思いますよ。川田は甘えるのが下手。大仁田厚みたいにちょっと抜けていたほうがかわいいはずなんだけど、川田は寡黙で真面目だから。
    ――ちょっとマヌケなほうが愛せますよね。
    小佐野 川田は普通の子だった。プロレスラーっぽくなかった。晩年とは違って酒を飲むわけでもなかったしね。それは海外から帰ってきたときも同じ。85年11月にチャボ・ゲレロに誘われてテキサスに行ったんだけど。
    ――川田さんの海外遠征は全日本がセッティングしたんじゃないんですね。
    小佐野 チャボが「川田がほしい」と言ったの。そのときチャボはサンアントニオのブッカーをやっていたから。それで行かせてもらったんだけど、現地に着いたらチャボがブッカーを降りていたという(笑)。その前にダイナマイト・キッドがカナダに連れて行きたという話もあったりして、外国人レスラーは川田のファイトが好きだったんですよ。
    ――動けてレスリングもできるわけですからね。
    小佐野 現地には冬木さんがいてジャパニーズフォースというタッグチームを結成して、ショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドのアメリカンフォースと抗争をやって。あとになって冬木さんに現地の様子を聞いたら「川田の野郎、英語をまったくしゃべらないんだよ。人にしゃべらせておいて、あとで単語を間違えてましたよなんて言ってきて!」と(笑)。
    ――ハハハハハハ! その頃から一言多いイメージはあるんですね(笑)。
    小佐野 そのあと川田はカルガリーに行ったのかなあ。86年の最強タッグのときに強制送還というかたちで帰ってきた。ワーキングビザじゃなかったから。
    ――ムチャなことやってたんですね(笑)。
    小佐野 身体は大きくなっていた。ただね、新人の頃もそうだったけど、対戦表のスタンプってあるでしょ。
    ――パンフレットにその日の対戦カードが押されてるやつですね。
    小佐野 一文字一文字、選手の名前を組み合わせてハンコを作るんだけど。川田のハンコはなくて「カワダトシアキ」のままだったんだよ(笑)。
    ――カルロス・トシキみたい(笑)。
    小佐野 「田」のハンコはあるんだよ。「ジャンボ鶴田」がいたから。でも、「川」がつく選手がいなかった(笑)。
    ――カタカナはガイジンレスラーのために全種類あるんですね。
    小佐野 本人がそれを気にしていて。田中のオジサン(パンフレットの印刷・販売を手掛けていた田中印刷の田中護社長)に「いつになったら作ってくれるんですか?」と聞いたりしててね(笑)。帰国のときも急遽帰ってきたから用意できてなかったのかな。川田はなんの前触れもなく会場にいたんだよ。帰国第1戦は地方の会場で馬場さんとのタッグ。休憩明けの試合だったと思うんだけど。
    ――“凱旋帰国”っぽい扱いはされたんですね。
    小佐野 黒のショートタイツで髪の毛をちょっと伸ばして。でも、そのあとは基本的に休憩前の試合に戻ったね。前座の扱い。動けるんだからもっと上で使ってもいいのになと思ってたけど。川田本人もあの頃はずいぶんと悩んでいた。「いま、こんなに動ける時期に、おもいきりやれる相手と組まれない」と。
    ――なかなか上のポジションには進めなかったんですね。
    小佐野 まだその頃はジャパンプロレスがいたこともあるんだけど。その当時の馬場さんの考えからすると「身体が小さい」という理由はあったのかもしれないね。「身体が大きくなきゃメインは……」という時代だから。
    ――転機になったのは天龍同盟入りになるんですよね。
    小佐野 川田が燻っていた頃、天龍革命が起きた。最初は天龍さんと(阿修羅・)原さんの龍原砲だけだったんだけど。87年8月21日に仙台で龍原砲vsジャンボ&カブキがあって。試合前にカブキさんの毒霧で天龍さんが戦闘不能状態に陥ったところで、全日本正規軍のセコンドだった川田が突如として鶴田さんに襲いかかった。そうしたら今度はテネシーから凱旋帰国したばかりの冬木さんが乱入して。冬木さんは若手時代に天龍さんの付き人だったのに、なぜか天龍さんに襲いかかるという、わけのわからない展開になったんです。
    ――まさにカオスですね!(苦笑)。
    小佐野 テレビ解説席にいた馬場さんの裁定で急遽、龍原砲&川田vsジャンボ、カブキ、冬木の6人タッグマッチになって。要するに川田は川田でポジションを変えるべくアクションを起こしたかった。試合が終わったあと天龍さんは川田に「詫びを入れて、今日は正規軍の控室に帰れ」と言ってるんですよ。それで戻ったらカブキさんに殴られて、荷物を放り出されて、涙目で龍原砲の控室に戻るというね。
    ――そこは全員がフリースタイルだったわけですか?
    小佐野 カブキさんにしても普通に殴るでしょ。だって若手が裏切ったんだよ。
    ――全日本だと新日本と違って自己主張、フリースタイルが許されない世界というイメージがありますが……。
    小佐野 だからこそ、やるときは凄いことをやるんですよ。
    ――あー、なるほど。
    小佐野 正規軍の川田が天龍さんの助けに入ったら、カブキさんは本気で川田をぶん殴って荷物も放り出す。そこまでやれるからカブキさんはアメリカでトップが取れた。だってそこまでやらないとファンおろか我々マスコミも納得しないじゃない。
    ――ファンは控室を見ていないし、カメラも回ってないけど、プロレスラーの姿勢を崩さない。細部までに拘るから説得力が生まれるわけですね。
    小佐野 細部までに拘るというより、ナマの感情ですよ。本気だから、それが真実になっていくわけじゃない。リングでやりあってるのにリングを降りたら「おつかれさまです」なんて、昔のプロレスはやらない。昔はバスも分かれていたし、抗争する者同士が話をするなんてなかったから。だってジェット・シンが控室で記者をぶん殴るんだから。
    ――誰も見ていないのに!(笑)。
    小佐野 こっちもそういう緊張感を持って取材をしないといけないしね。でも、当時の全日本でも川田の行動は珍しかった。そんな行動を起こしたのは川田だけですよ。天龍さんに襲いかかった冬木さんも凄いんだけど(笑)。
    ――2人とも這い上がるために必死に仕掛けたんですね。
    小佐野 まあ、川田&冬木の2人がすんなりと天龍同盟に入ればよかったんだけど、2人のよくわからない行動があったわけ(笑)。そのシリーズを通じて川田と冬木はゴチャゴチャやっていた。それで阿修羅・原が仲介に入って「冬木も目的が同じなんだからこっちに来い」と。のちに冬木さんに聞いたら「全日本は仲の良い者同士を離したがっていた」というから、天龍同盟入りするためのワンアクションだったのかもしれない。
    ――レールの上を走るだけがプロレスじゃないってことですねぇ。
    小佐野 天龍さんは天龍さんで川田のことは買っていたから。あれだけ動けてレスリングもできる。若い人間が燻ってるのは会社のためによくないし、こっちに来て伸び伸びやればいい、と。
    ――それで天龍さんプロデュースによるフットルースが結成されるわけですね。天龍さんの若者感が体現されたという(笑)。
    小佐野 川田本人が嫌がるフットルースね。「やっぱり若者といえばロックンロールエキスプレスだろ」という天龍さんの考えで(笑)。このインタビューの続きと、金村キンタロー、平田淳嗣、川倉持隆夫、矢野啓太など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです
     
  • 桜庭も殿堂入りの可能性!? UFCがホールオブフェイムをアップグレード

    2015-05-08 10:29  
    55pt
    Omasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回のテーマは、UFCがホールオブフェイム(殿堂)制度も改革!

    UFCが、これまでどちらかといえば不定期・不規則に運営されていたホールオブフェイム(殿堂)制度をグレードアップし、今後はより豪華な表彰式を毎年の恒例行事にしていく計画であることが明らかになった。今後、殿堂は次の4つの部門(ウィング)にわけて、選考・表彰されることになる。
    ●現代部門(Modern Era Wing):対象はプロMMAデビューが2000年11月17日以降である者。
    ●パイオニア部門(Pioneers Era Wing):対象はプロMMAデビューが2000年11月17日以前である者。
    ●裏方部門(Contributor Wing):対象は選手以外でUFCに多大な貢献があった個人もしくはグループ。たとえばレフリー、ジャッジ、トレーナー、コミッショナー、アナウンサー、解説者、プロモーターなど。
    ●ベストファイト部門(Fight Wing):UFC史上に残る好試合、重要試合で、行われてから5年以上経過しているもの。
    なお、現代とパイオニア時代を分ける2000年11月17日という日付は、MMAユニファイドルールがはじめて採用されたUFC28大会の開催日にちなんでいる。
    殿堂入りの条件は選手の場合、35歳以上であるか、引退してから1年以上が経過した者とされている。殿堂入りの選考は、ダナ・ホワイトを長とするUFC社内の委員会が行う。選考に際しては、UFCでの実績を重視するものの、あわせてUFC時代以外のキャリアも参考にするとしている。
    12年の歴史があるUFCホールオブフェイムにはこれまでに、次の12名が殿堂入りしている。 
  • 香港、タイに続くアジア第三の刺客!インドネシア産格闘三昧映画『ザ・レイド』!■高橋ターヤンのバトル映画地獄編

    2015-05-08 10:21  
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    映画ライターで北米MMA事情通の高橋ターヤンがプロレス格闘技関連の映画を紹介するコーナー。今回はシラットをフィーチャーした『ザ・レイド』です!
    <a href=アクション映画を観ていて、時たま「映画がずーっとアクションだけだったら……」と思うことがある。
    しかしアクションだけで映画一本を紡ぐというのは、非常に難易度が高いことも事実。そもそもアクションばかりであれば会話がほとんどないのでストーリーは転がりづらく、アクションとして面白いものはできたとしても、映画として面白いものになる可能性は非常に小さいというリスクが付きまとう。
    しかもかなりの数のバリエーション豊かなアクションを披露しなければならないので、相当目新しいアクションでないと観客はすぐに飽きてしまうだろう。
    ぼくのそんな無茶なハードルを軽々と超え、アクションも映画としても超ハイレベルな映画が、まさか東南アジア、しかも映画不毛の地であるインドネシアから登場したというのは驚き意外何物でもなかった。インドネシア在住のイギリス人監督ギャレス・エヴァンスがメガホンを取り、無名の俳優イコ・ウワイス、ヤヤン・ルヒアンが主演という誰も期待しない映画が、この10年で最高のアクション映画となったのだ。 
  • 【元・全日本プロレス中継アナウンサー】倉持隆夫「作られたスポーツを実況するということ」

    2015-05-03 10:01  
    110pt
    日本テレビの元アナウンサー、倉持隆夫は全日本プロレスの実況アナとして18年間にわたって幾多の名勝負を“倉持節”で彩ってきた。そして実況席という最もリングに近い場所から見続てきた彼だからこそ知り得るプロレスの物語もある。輪島の苦悩、ハンセン電撃乱入、シーク襲撃、親友・ジャンボ鶴田の死……。倉持いわく“作られたスポーツ”の世界は他に類を見ない壮絶な人間模様があったのだ。


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    非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! par15は大好評インタビュー8本、8万字オーバーで540円!!  試し読みも可能です! http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar781624①レイザーラモンRGが芸人として、プロレス者として激語り!「ラッスンゴレライから考えるスターダム不穏試合」②レスリング五輪銀メダリスト太田章が話題の映画を語る「レスラーたちが苦闘したフォックスキャッチャーの時代」――あるいはダンヘンやランディ・クートゥアたちの物語③「1976年のアントニオ猪木」著者・柳澤健のレスリング講座「アマチュア・レスリング まだらのルーツ」④衝撃秘話! ジャイアント馬場・全日本プロレスがよみがえった瞬間――あの日、キャピトル東急で更級四郎×ターザン山本 「馬場さんに全日本プロレスの再生計画の小冊子を渡したんです。1ページ目には◯◯が△△に■■することって書いてあって」⑤あの熱狂はなんだったのか? PRIDEとともに生きた時代雀鬼・桜井章一×笹原圭一「ヒクソンはね、自分が息子を殺してしまったんじゃないかという罪の意識に囚われてしまったんです」⑥小佐野景浩の好評連載「プロレス歴史発見」三沢光晴物語ー四天王プロレスの光と影「いまになってあのプロレスはいけませんと言うのは酷でしょ。ありがとう!でしょう、彼らにかける言葉は」⑦網膜剥離からの再起戦!川尻達也ロングインタビュー⑧小原道由のクレイジートーク「海外遠征とは何か?」「ドイツ遠征のとき試合前に会場に呼ばれたんです。どうも腕試しをしたいレスラーの相手をしてくれってことで……」
    http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar781624
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    <Dropkickメルマガインタビュー一覧>PRIDEの怪しいレフェリング話から、天龍同盟の痺れる男気エピソードまで大ボリュームでお送りしている一覧はコチラ!http://ch.nicovideo.jp/search/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88%E8%B2%A9%E5%A3%B2?type=article――倉持さんはスペインに移住されていましたが、いまは帰国されてるんですね。
    倉持 1年半前にスペインから戻ってきましたね。向こうには13年間いました。やっぱり日本人だから向こうで死ぬわけにはいかないだろう、と。それと女房の義理の母親が97歳ということでね、死に目だけどは見たいということもあって。でも、面倒を見てるうちに元気になっちゃって。いまでは「100歳まで生きる!」と言ってるんですよ(笑)。
    ――大台を目指してるんですね(笑)。今日は倉持さんが全日本プロレス中継のアナウンサーだった時代のお話をうかがいたいんですが、あの当時はアナウンサーは、プロ野球、ボクシング、プロレスと、スポーツ中継の実況がメインでしたね。
    倉持 そりゃあ、やっぱり日本テレビですから。読売ジャイアンツを抱えてますので、中でも一番の花形はプロ野球中継でしたよね。
    ――プロ野球のシーズン中は巨人戦が全試合放映されてましたね。
    倉持 いまは時代が変わっちゃったので、地上波で野球中継がほとんどないじゃないですか。やってもBSくらいでしょ。ボクらの時代からかな、スポーツ実況が専従制になったのは。野球は誰々、ボクシングは誰々とね。
    ――スポーツによってそれぞれ担当が決まっていたわけですね。
    倉持 そうなると、ほかのスポーツをしゃべるわけにはいかなくなるんですよ。ほら、収録日が重なっちゃうこともあるじゃない。それにただ放送席に座ってしゃべるだけではいけないんですよ。アナウンサーには入念な取材、資料調べがありますから。ひとりでそのスポーツの看板を背負ってるようなもんですよね。空いた時間なんかはスタジオでニュースを読んだりしますけども、スポーツを担当しちゃうと、ほかの番組をいくつも担当することはできなくなるんですよね。
    ――倉持さんはプロレス以前はボクシングやキックボクシングの実況をやられていたそうですね。それは安部譲二さんが解説をやっていた時代で。
    倉持 あとは柔道、東京マラソンなんかもやりましたね。でも、プロレスが一番長くて18年もしゃべってましたからね。プロレスはやたらと技が多くて、1000種類近くあると言われてますから、おぼえるのが大変で。しかもカタカナ表記と日本語表記が違ったりするわけでしょ。
    ――「ダブルアーム・スープレックス」が「人間風車」だったり。
    倉持 日本語名はこっちが自由につけられるところもあるんだけど。技だけを覚えるのに1年近くかかりましたよね。そのために全日本以外のプロレス会場に足を運んでいましたし、レスラーにも直接教わるんですよ。「いまの技はなんて言うの?」とか「どこが痛いんだ?」とか。ロープに振られたレスラーが跳ね返ってくることも不思議だったんですよ。レスラーに「なんで返ってくるの?」とか聞いてね。
    ――石直球ですね(笑)。プロレスは見ただけではわからない技も多いですし。
    倉持 それから見よう見まねでしゃべりだしたんですけど、ボクはボクシングやキックボクシングのときに選手の個性を表現するアナウンサーだったんですね。試合の流れをただ実況していても面白くない。「この選手はなんのために闘ってるんだろうか?」ということを伝えないと視聴者も感情移入できない。思想、生活環境、未来の夢なんかを盛り込んでしゃべらないと。だから選手取材をしなきゃいけないし、そうやって選手と仲良くなって付き合いが深くなるんですよ。
    ――プライベートの付き合いが実況の厚みに繋がっていったんですね。倉持さんはジャンボ鶴田さんと保子夫人の仲を取り持ったんですよね?
    倉持 そうそう(笑)。ジャンボとはもの凄く仲良かったから、全面的に自分のプライバシーを見せてくれて。あるとき「倉さん、明後日、神戸まで一緒に行ってよ」と言うんですよ。飛行機のチケットも渡してきてね、「ホテルも取ってあります」と。要は結婚したい相手がいるんだけど、ボクに説得してくれというんですよ。ジャンボはフラレちゃったんです(笑)
    ――保子さん側は鶴田さんとの結婚には大反対だったんですね。
    倉持 日清製粉の親戚のお嬢さんとは聞いてるんですけど、本人、向こうの両親、親戚がプロレスラーとの結婚を反対している、と。それで「倉さん、説得してくれ」と。いくらジャンボ本人が言ってもプロレスラーの言葉はなかなか、ね。
    ――日本テレビのアナウンサーだと説得力がありますね(笑)。
    倉持 それで神戸の喫茶店を6時間くらい渡り歩いてね。両親には会えなかったんだけど、ご本人を説得して。鶴田の学歴から、将来の展望まで。「日本テレビが責任を持って面倒見ますから!」と(笑)。
    ――ハハハハハハ!それは空手形じゃなくて、鶴田さんが全日本に入団する条件として「日本テレビのキャスター」という話もあったんですよね?
    倉持 あったみたいだよ。それくらいジャンボ鶴田は別格の扱いだったわけですよ。全日本の道場の土地だってジャンボの持ち物よ。毎月賃料を鶴田に払ってたんだから。
    ――そこまで用意したから鶴田さんは全日本入りを選択したんですね。
    倉持 ジャンボは死んじゃいましたけど、プロレスラーから大学教授になって、そこからキャスターの道もないわけじゃなかったわけだから。亡くなったときもね、フィリピンのウチの支局が「ジャンボ鶴田らしき人物が手術を受けているらしい」と情報をキャッチして。「ひょっとしたら死んでるかもしれないんだよ」と。そこで俺が支局員と密に連絡を取り合っていたら「倉さん、鶴田さんは死んでいます」と。棺に入ったジャンボも、その死に顔も撮ってあると。それで緊急ニュースを流したんです。
    ――倉持さんは親友の死の最前線に立っていたんですねぇ。
    倉持 あのとき「ニュースにしてもいいけど、映像は流さないでくれ」って奥さんから頼まれて。電話で泣きながらね。「主人はプロレスラーは死に顔を見せるもんじゃない、強いイメージを崩したくないと言ってたんです。お願いですからやめてください」と。でも、そこは報道ディレクターに負けました。「ニュースバリューがあるから流すんだ」ということでね。ボクとしても「遠くからのショットならいいけど、死に顔はやめてくれ」と頼んだんですけど、やっちゃいましたね、日本テレビは……。そこは俺の立場ではどうにもできないし、ジャンボが亡くなったのは事実だしね。それから奥さんは一切、口を聞いてくれなくなった。「約束を破った男」と思われてるでしょう。
    ――遺族の感情としては仕方ないですよね……。
    倉持 ボクはジャンボの結婚式の司会までやってるんだけど、あの件以降、没交渉だよね……。
    ――話は実況に戻しますが、なりたての頃は大変でしたか?倉持 ありきたりの資料で取材をしていても、同じフレーズしか出てこない。だからプロレスの実況をやるということで、プロレスを育んだアメリカという国自体も勉強しましたよ。アメリカにも田舎があるんだなって初めて知りました。当時のボクにはアメリカってのはニューヨークの華やかなイメージしかなかった。プロレスが非常に盛んな南部方面、テキサスやジョージアまでいくと本当に田舎なんでよね。東京が大都会に見える。ファンクスの試合のときは何度も「アメリカの田舎!」というフレーズを使いましたよ。この言葉が大好きで(笑)。
    ――ハハハハハハ! 
    倉持 ファンクスの牧場に行ったときは、ぶったまげましたよ。あまりにも広すぎて!(笑)。1日で回りきれないし、なんたって車で移動なんだから。
    ――当時のアメリカのプロレスは各地区のマーケットも盛況でしたね。
    倉持 アメリカ本土を回りましたけど。もうファンクスのホテルの部屋の前に何人も女の子が待ってるんですよねぇ。「次は私の番!」なんて言ってね(苦笑)。このインタビューの続きと、金村キンタロー、平田淳嗣、川田利明、倉持隆夫、矢野啓太など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです 
  • いざ柔術出陣! でも体重が……■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO

    2015-05-03 09:53  
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    新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、試合出場を目論む模様をイラストレポートすることになった当コーナー。今回は「なかなか増えない体重」について……。体重を減らす方法を書いた本は数あれど、体重を増やす方法の書かれた本はあまりありません。体重を減らすことには「ダイエット」という名前がありますが、体重を増やすことには名前がついていません。それだけ体重を増やしたいと思う人がいないということなのでしょうが、私はここ1年体重を増やす努力をしています。なぜなら柔術の試合に出る場合、私は一番下の階級で出るとしても体重が足りないから。
    柔術は15歳以上女子で一番軽い階級がルースター級で、制限体重は柔術着を着用した状態で48.5キロ以下です(ちなみに男子は57.5キロ)。私が持っている着は入門用のものなので軽く、1.2キロ。ちょっといい着を買ってもだいたい1キロ~2キロくらいだと思います。そして1年前、私の体重は調子のいい時で45キロ、ちょっと体調を崩すと43キロになり着を着用しても48.5キロにとどきません。しかも柔術は18~29歳はアダルト、30~35歳はマスターと階級だけでなく年齢でも分けて試合が組まれます。日本ではただでさえ柔術女子が少ないうえに、私の通うジムではほとんどの女性が30歳以上です。過去の大会の試合結果を見てもルースター級女子はアダルトマスター共にとても少なく、試合に出たとしても相手がおらず試合せずに優勝してしまう可能性がかなり高いです。なので本当は1つ上のスーパーフェザー級(53.5キロ以下)まで上げたいところですが、5キロ以上の増量はかなりきつい…。