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非会員でも購入できる大好評インタビュー詰め合わせセット! part56は大好評インタビュー14本、コラム7本、10万字オーバーで540円!!(税込み)
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part56
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プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は全日本プロレスのリングアナウンサーなどでおなじみ「木原のオヤジ」こと木原文人氏との対談!全日本プロレスの秘話を16000字でお届けします! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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小佐野 プロレスの世界でやったことのない仕事ってないでしょ?
木原 リング屋、リングアナ、広報、営業、通訳、音響、照明……KAIENTAI-DOJOや『ガンバレ☆プロレス』でプロレスの試合もやりましたからね。やってないのはレフェリーくらいですよ。
小佐野 オヤジ(木原のあだ名)が音響をやってなかったら、じつはテーマ曲ってここまでプロレス界に普及してなかったんだもんね。
木原 自分で言うのもなんですけど、音響のパイオニアですよ(笑)。照明は(和田)京平さんに教えてもらいましたけど、音響は教えてもらう人がいなかったですから。東京工芸大学時代に習ったことも活かしました。
小佐野 それまではテレビ中継のときだけ会場にテーマ曲が流れてて。普段の地方興行ではテーマ曲をかけてなかったよね。
木原 地方の体育館には音響の設備もないし、当時のプロレス団体も音響担当がいなかったですからね。87年から89年くらいかな、第1試合目から入場曲をかけるようになったのは。
小佐野 それこそ最初のほうは、用意したカセットデッキにマイクを近づけて場内に流していたでしょ(笑)。
木原 だから音がメチャクチャ悪かったんですよ。開場時と大会終了後に流れる音楽や、勝者のテーマ曲もボクが勝手に流して始めたんですよ。それまでは日本のプロレス界にはそういう文化がなくて、無音の会場でしたよね。勝者のテーマ曲は、WWE(当時WWF)と仕事(日米レスリングサミット)をしたあとから機会があれば時々やるようになって。
小佐野 あの当時、全試合テーマ曲を流すことは冒険だったと思うよ。
木原 「前座の試合の入場にテーマ曲を流すのはおかしい」とよく怒られましたね。初めて第1試合でテーマ曲を流したのは小橋建太選手や菊地毅選手なんですけど。若い選手の試合にテーマ曲が流れると、先輩にイジメられちゃう時代でしたからね。
小佐野 先輩方に「顔じゃねえぞ!」って言われてたよね。
木原 ボクはリングアナですけど、試合の担当じゃないときは売店に立ってないといけないんですが、音響をやるときは売店を抜けることになります。すると「オヤジがまた音楽で遊んでる」って日々言われていました。
小佐野 全試合入場曲は新日本とどっちが先なんだろうね?
木原 どうなんですかねぇ。どっちが先かはわからないけど。ただ、言えるのは全日本も新日本も当時はひとり何役かするのが常識でしたから、音響だけの担当はいなかったと思います。その後SWSには音響の業者が入ってたと記憶していますね。
小佐野 SWSから興行もいろいろと変わった感じはあるよね。
木原 いまは音響の設備もちゃんと整ってますからね。ボクが音響のやり方を教えた人間がプロレス界のたくさんあちこちに散らばってますよ。
小佐野 宮原健斗の入場パフォーマンス、オヤジが音響じゃないと無理でしょ?
木原 あの音を絞ったり上げたりは簡単にはできないですね。宮原選手と打ち合わせしてるわけじゃないんですが、「ここでほしいだろうな……」ってときに合わせて調整しています。
小佐野 職人芸だよ、あれ。「ケント!!」コールと曲のバランスが絶妙で。
木原 ありがとうございます。地方興行で「ケント!!」コールが起きないときはボクが声を出してるんですよ(笑)。
小佐野 誰かの一声がないとね(笑)。
木原 宮原選手に「ボクの入場はボクと木原さんとで作り上げたと思ってます」って言われたときは凄く嬉しかったですね。音響係冥利に尽きますね。この世界って何か決まりがあるわけじゃなくて、ホント感性とセンスですからね。そういえば(仲田)龍さんに頼まれて、NOAHの後楽園ホールに音響の手伝いに行ったことがあったんですよ。
小佐野 龍さんは全日本プロレス時代のリングアナの師匠だもんね。
木原 龍さんからすれば、NOAHの人間におまえの仕事を教えてやってくれって意味もあったんですけど。なんと、そこにたまたま新日本の永田さんが試合に出てて、勝利を収めた永田さんの曲を流したらリング上の永田さんと目が合ったんですよ。永田さんは「なんでNOAHの会場にいるんだろう?」みたいな感じでボクを見つめたんですが、その瞬間ボクは思わず「THE SCORE」を流しました。すると永田さんが踊り出しちゃって……。
小佐野 ナガダンスね。あれ、現場にいたけど、よく「THE SCORE」を用意してたなあと思って(笑)。
木原 ほとんどの曲をボクは持っているので、すぐにスタンバイしました。聞くところによると、永田さんは、あれ以来NOAHでも踊ることになりましたからね。
小佐野 「緑のマットを青に染め上げた!」って言って踊り続けてたもんね(笑)。
木原 あれは誰の確認も取らないで、もちろん龍さんの確認も取らないで流したんですけど。プロレスってナマモノですから、ひらめきが大切だってことなんですよね。
小佐野 そもそもオヤジはいつ全日本に入ったんだっけ?
木原 社員としてなら、長州さんたちがいなくなったときの後楽園ホール。
小佐野 1987年4月だよね。菊地(毅)が入門した時期と一緒かな。
木原 さかのぼること2〜3年前から全日本にはバイトとして出入りしてたんですよ。まだ学生でしたけど、小佐野さんとも会話はしてますよね。
小佐野 してるよねぇ。
小佐野 はいはいはい(笑)。
木原 屋外だと控室の仕切りがないから、そういうときにマスコミの皆さんとお話をさせてもらえる機会がありましたね。
小佐野 バイトではいつぐらいから始めたの?
木原 高校3年生になった頃ですかね。
小佐野 ということはジャパンが全日本に来る前あたりかな。俺が全日本プロレスの担当になったあたりだね。
木原 自分が付けたコーナーマットがテレビや雑誌に映っているのは感動モノでしたよ。全日本のアルバイトなのにUWFのトレーナーを着ていったこともあります。それで「UWF」というあだ名をつけられて、そのあと三沢(光晴)さんの命名で「オヤジ」になりました。あの頃の全日本ってボクみたいな若いバイトがいっぱい集まってたんですよ。龍さんがその走りで。
小佐野 馬場夫妻ってプロレスファンの若い子たちが好きだったよね。いま新日本のレフェリーのレッドシューズ海野くんや、新生K−1プロデューサーの宮田充くんも手伝ってたでしょ。
木原 そうですね。いまでも活躍してる人が多いですね。ボクの場合は、全日本の四日市大会を見に行ったときに売店で「リングの片付けを手伝ってもらえないか」と京平さんに誘われたのがきっかけです。ボクはプロレスが好きですけど、好きなのはプロレスだけじゃなく、プロレス記者、カメラマン、リング屋、テレビの作り方……など、すべてのプロレス業務に興味がありました。
小佐野 それがいまのなんでもやることにも繋がってるわけね。あの頃の全日本って子会社がいろいろとあったでしょ。最初はB&Jの社員?
木原 そうです。でも、ジャイアントサービスからも給料をもらったり、リングアナになってからは全日本からもギャラをもらったりして、ありがたかったです。
小佐野 みんなそんな感じだよね。こないだ海野くんに話を聞いたときもジャイアントサービス、全日本プロレス、B&Jから給料もらったって。
木原 さらにボクはTシャツやタオル、テレフォンカードのイラストやデザインも手がけていました。ある日、馬場さんがボクが描いたバスタオルを見て「オヤジは絵がうまいなあ。ようし、1枚書いたら俺が10万やる。だからこれからも頑張れ」と言ってきたんですよ。油絵もやられてる馬場さんに絵がうまいと褒められたのは励みになりましたね。
小佐野 馬場さんに絵で褒められるのは凄いよね。リングアナはいつからやったの?
木原 リングアナは89年にデビューしたんですけど、1年前の88年にやる話もあったんですよ。馬場さんから「オヤジ、次のシリーズからアナウンスせえ」と言われて。
小佐野 なんで遅れたの?
木原 ボクはリング屋の立場で毎日会社に行かなくてよかったんですけど、たびたび顔を出してたんですよ。ファンクラブの会報誌のお手伝いとか、もろもろ雑用もあったし、会社にいれば誰か選手が来て手伝うこともあったし。先輩スタッフの昔話を聞いてるだけで幸せでしたね。どこかでヒマを潰したり、遊んでるんだったら会社にいたほうが面白いと思って……。
小佐野 プロレスという世界が好きだったんだね。
木原 電話番もしてたんですよ。ある日、馬場さんにCM出演依頼が来て「馬場のCM出演に関しては、絵コンテや企画書を送ってください」と話をして電話を切ったら、元子さんが凄い目つきで睨みつけていて。「みんな、ちょっと集まって! この子、馬場さんのことを呼び捨てにした!」と突然怒られました。
小佐野 うわあ〜(笑)。
木原 だって、社外の方に対しては自分の上司の名前に「さん」付けはしないですよね。
小佐野 「さん」を付けちゃダメなんだよね。
木原 ただ、当時の全日本はちょっとややこしい状況で。日本テレビから出向していた松根(光雄)さんが社長だったんですよ。元子さんは「馬場会長」という名前の意識が強くて……。
小佐野 はいはい、初代社長だった馬場さんは会長になってて。元子さんからすれば「馬場会長」だもんね。
木原 そんなときに電話口で「馬場」と呼び捨てしたボクが許せなかったんでしょうね。「この子にはリングアナをさせられない!」っていうことになって。全日本は元子さんが黒だと言えば、白いものも黒ですから(笑)、京平さんたちも「馬場さんを呼び捨てするなんて、とんでもない野郎だなっ!!」という話になって。
小佐野 ハハハハハハハ。ありがちだね。
木原 ボクも突然だったので「すいません、ボクが悪かったです」と謝るしかなくて。それでリングアナデビューが遠のきました。馬場さんからすれば「オヤジはなんで今シリーズからリングアナをやらんのだ?」ぐらいの感覚だったと思いますよ。
小佐野 細かい事情は知らないだろうからね。
木原 用意した衣装はトラックに何ヵ月も積んだままでした。そんなある日、木更津で興行があったんですけど、龍さんが大渋滞に巻き込まれて会場到着が遅れることになりました。すると元子さんが「オヤジは衣装を持ってるからリングアナができるわよ」ということになり、鶴見五郎vsリチャード・スリンガー戦からリングアナをやることになったんですよ。あのとき龍さんが遅刻してなかったら、その後もリングアナもやってなかったかもしれないですね。木更津でデビューなんて、奇遇なことに龍さんと同じ会場なんですよ。これも運命だったんですかね。
小佐野 思ったんだけど、全日本のリング屋さんってみんな器用というか、“プロレスごっこ”もうまかったでしょ。受け身もちゃんと取れるしさ。
木原 ボクが最高のやられ役で、全員の技を全部受けましたよ(笑)。
小佐野 馬場さんは“プロレスごっこ”は嫌いじゃなかったよね。楽しくニコニコ見ていて。普通だったら「おまえら、リングで遊ぶな!」って怒られそうだけど。
木原 「もっとやれ、もっとやれ。他の技もやれんのか? なんで教えてないのにこんなにうまくできるんだあ?」って感心してましたよ(笑)。じつはボクは学生の頃にウォーリー(山口)さんの店に出入りしてて、当時TPG(たけしプロレス軍団)の練習生だった邪道さんや外道さんと一緒にトレーニングしたこともありましたからね。
小佐野 西馬込のマニアックスね。リングが置いてあって。
木原 馬場さんから「オヤジは運動神経がいいなあ。レフェリーをやってみるか」という話になって。で、ボクの代わりに西永(秀一)がリングアナをやる話が浮上してきたんです。すると西永が「リングアナだけをやりたくない」って馬場さんに言ったみたいです(笑)。
小佐野 あー、なるほどね(笑)。
木原 馬場さんは「オヤジはリングアナとしてパンフレットにも載ってるしなあ」ということで、ボクのレフェリー転向の案はなしになりました。後日、龍さんが「西永の野郎、どうしてもリングアナはイヤだって言いやがって。俺らのことをナメてるよな」と。龍さんに「そうですね」と言いつつ、ボクもできることならレフェリーをやりたかったですけどね(笑)。
小佐野 当時のレフェリーは新日本だとミスター高橋さん、国際だと遠藤光男さんとか、みんなゴツゴツした身体じゃない。全日本プロレスだけはレフェリーという専門の職業を作ったんだよね。そこは素晴らしいなと思った。
木原 だからみんな身長は小さいですよね。選手より大きかったらマズイですから。西永は背が高かったからホントはマズイんですけどね(笑)。でも、ジョー(樋口)さんは身体がゴツかったんですよ。
小佐野 ジョーさんは元レスラーだもんねぇ。
木原 ボクは全日本のレジェンドと呼ばれる人たちの家には遊びに行かせてもらってるんですよ。ジョーさん、ラッシャー木村さんや寺西勇さんとか。家で昔の写真を見せてくれるんですよ。若かりし頃のジョーさんがベンチプレスで160キロを挙げている写真は驚嘆でした。
作/アカツキ
小佐野 オヤジは木村さんたちから「モノマネをやってくれ」ってよく言われてたよね(笑)。
木原 そうですね。ベテランの方々には仲良くしてもらいました。全日本が分裂してほとんどがNOAHに行くことになったじゃないですか。あのときNOAH勢が全日本の地方興行に4大会だけ出たことがあったんです。
小佐野 分裂前に契約していた売り興行だから、NOAH勢も出なきゃならなかったんだよね。
木原 あのときはさすがに両陣営がギスギスしていたんですけど、ボクだけNOAH勢の控え室に呼ばれて、永源(遙)さんに「おい、オジキ(木村)が馬場さんのマネを見ないと元気が出ないんだって言ってるぞ、おい」ってことで、木村さんの前で馬場さんのマネをやらされました(笑)。
小佐野 活字では伝わらないけど、オヤジの馬場さんの形態模写はホントうまいよね。歩き方から薬を飲み方まで。馬場さんのそばにずっといたことの証だよ(笑)。
木原 そうですね。たとえば握手の仕方、何気ない動作、息遣い。三沢さんに言わせると「オヤジのモノマネは普段の細かい動き過ぎて、テレビでは絶対にウケないよな」って言われてました。
小佐野 リング上のプロレスラーのモノマネじゃないってことだよね。 でも、天龍さんのモノマネで全日本の合宿所に電話して小橋が焦ってなかった?(笑)。
木原 いろいろやりましたね。最近だと店を予約するときは佐々木健介のモノマネです(笑)。
小佐野 そういえば天龍さんはSWS時代、小橋を殴りに合宿所に行ったことあったでしょ。
木原 なんかありましたねぇ。
小佐野 あれは小橋が折原昌夫に「おまえはどうせSWSに行くんだろう?」ってイジったら、酔っ払った天龍さんが夜中に乗り込んだんだよね(笑)。そうしたら新弟子の浅子覚しかいなくて。天龍さんはゴルフクラブを持ってたから、浅子は怖くて2階まで逃げたんだけど、天龍さんが追っかけてきて万事休す。「おまえは誰だ?」「新弟子の浅子です!」「そうか、頑張れよ!」って高額の小遣いを置いていったもらった逸話があるよね(笑)。
木原 単なるいい話ですよ(笑)。
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小佐野 オヤジ(木原のあだ名)が音響をやってなかったら、じつはテーマ曲ってここまでプロレス界に普及してなかったんだもんね。
木原 自分で言うのもなんですけど、音響のパイオニアですよ(笑)。照明は(和田)京平さんに教えてもらいましたけど、音響は教えてもらう人がいなかったですから。東京工芸大学時代に習ったことも活かしました。
小佐野 それまではテレビ中継のときだけ会場にテーマ曲が流れてて。普段の地方興行ではテーマ曲をかけてなかったよね。
木原 地方の体育館には音響の設備もないし、当時のプロレス団体も音響担当がいなかったですからね。87年から89年くらいかな、第1試合目から入場曲をかけるようになったのは。
小佐野 それこそ最初のほうは、用意したカセットデッキにマイクを近づけて場内に流していたでしょ(笑)。
木原 だから音がメチャクチャ悪かったんですよ。開場時と大会終了後に流れる音楽や、勝者のテーマ曲もボクが勝手に流して始めたんですよ。それまでは日本のプロレス界にはそういう文化がなくて、無音の会場でしたよね。勝者のテーマ曲は、WWE(当時WWF)と仕事(日米レスリングサミット)をしたあとから機会があれば時々やるようになって。
小佐野 あの当時、全試合テーマ曲を流すことは冒険だったと思うよ。
木原 「前座の試合の入場にテーマ曲を流すのはおかしい」とよく怒られましたね。初めて第1試合でテーマ曲を流したのは小橋建太選手や菊地毅選手なんですけど。若い選手の試合にテーマ曲が流れると、先輩にイジメられちゃう時代でしたからね。
小佐野 先輩方に「顔じゃねえぞ!」って言われてたよね。
木原 ボクはリングアナですけど、試合の担当じゃないときは売店に立ってないといけないんですが、音響をやるときは売店を抜けることになります。すると「オヤジがまた音楽で遊んでる」って日々言われていました。
小佐野 全試合入場曲は新日本とどっちが先なんだろうね?
木原 どうなんですかねぇ。どっちが先かはわからないけど。ただ、言えるのは全日本も新日本も当時はひとり何役かするのが常識でしたから、音響だけの担当はいなかったと思います。その後SWSには音響の業者が入ってたと記憶していますね。
小佐野 SWSから興行もいろいろと変わった感じはあるよね。
木原 いまは音響の設備もちゃんと整ってますからね。ボクが音響のやり方を教えた人間がプロレス界のたくさんあちこちに散らばってますよ。
小佐野 宮原健斗の入場パフォーマンス、オヤジが音響じゃないと無理でしょ?
木原 あの音を絞ったり上げたりは簡単にはできないですね。宮原選手と打ち合わせしてるわけじゃないんですが、「ここでほしいだろうな……」ってときに合わせて調整しています。
小佐野 職人芸だよ、あれ。「ケント!!」コールと曲のバランスが絶妙で。
木原 ありがとうございます。地方興行で「ケント!!」コールが起きないときはボクが声を出してるんですよ(笑)。
小佐野 誰かの一声がないとね(笑)。
木原 宮原選手に「ボクの入場はボクと木原さんとで作り上げたと思ってます」って言われたときは凄く嬉しかったですね。音響係冥利に尽きますね。この世界って何か決まりがあるわけじゃなくて、ホント感性とセンスですからね。そういえば(仲田)龍さんに頼まれて、NOAHの後楽園ホールに音響の手伝いに行ったことがあったんですよ。
小佐野 龍さんは全日本プロレス時代のリングアナの師匠だもんね。
木原 龍さんからすれば、NOAHの人間におまえの仕事を教えてやってくれって意味もあったんですけど。なんと、そこにたまたま新日本の永田さんが試合に出てて、勝利を収めた永田さんの曲を流したらリング上の永田さんと目が合ったんですよ。永田さんは「なんでNOAHの会場にいるんだろう?」みたいな感じでボクを見つめたんですが、その瞬間ボクは思わず「THE SCORE」を流しました。すると永田さんが踊り出しちゃって……。
小佐野 ナガダンスね。あれ、現場にいたけど、よく「THE SCORE」を用意してたなあと思って(笑)。
木原 ほとんどの曲をボクは持っているので、すぐにスタンバイしました。聞くところによると、永田さんは、あれ以来NOAHでも踊ることになりましたからね。
小佐野 「緑のマットを青に染め上げた!」って言って踊り続けてたもんね(笑)。
木原 あれは誰の確認も取らないで、もちろん龍さんの確認も取らないで流したんですけど。プロレスってナマモノですから、ひらめきが大切だってことなんですよね。
小佐野 そもそもオヤジはいつ全日本に入ったんだっけ?
木原 社員としてなら、長州さんたちがいなくなったときの後楽園ホール。
小佐野 1987年4月だよね。菊地(毅)が入門した時期と一緒かな。
木原 さかのぼること2〜3年前から全日本にはバイトとして出入りしてたんですよ。まだ学生でしたけど、小佐野さんとも会話はしてますよね。
小佐野 してるよねぇ。
木原 たとえば屋外の大会では控室はテントじゃないですか。そこに床屋さんを呼んで馬場さんが髪を切ってもらったり、みんなでキャッチボールをしたり。屋外試合って面白かったですよね。
小佐野 はいはいはい(笑)。
木原 屋外だと控室の仕切りがないから、そういうときにマスコミの皆さんとお話をさせてもらえる機会がありましたね。
小佐野 バイトではいつぐらいから始めたの?
木原 高校3年生になった頃ですかね。
小佐野 ということはジャパンが全日本に来る前あたりかな。俺が全日本プロレスの担当になったあたりだね。
木原 自分が付けたコーナーマットがテレビや雑誌に映っているのは感動モノでしたよ。全日本のアルバイトなのにUWFのトレーナーを着ていったこともあります。それで「UWF」というあだ名をつけられて、そのあと三沢(光晴)さんの命名で「オヤジ」になりました。あの頃の全日本ってボクみたいな若いバイトがいっぱい集まってたんですよ。龍さんがその走りで。
小佐野 馬場夫妻ってプロレスファンの若い子たちが好きだったよね。いま新日本のレフェリーのレッドシューズ海野くんや、新生K−1プロデューサーの宮田充くんも手伝ってたでしょ。
木原 そうですね。いまでも活躍してる人が多いですね。ボクの場合は、全日本の四日市大会を見に行ったときに売店で「リングの片付けを手伝ってもらえないか」と京平さんに誘われたのがきっかけです。ボクはプロレスが好きですけど、好きなのはプロレスだけじゃなく、プロレス記者、カメラマン、リング屋、テレビの作り方……など、すべてのプロレス業務に興味がありました。
小佐野 それがいまのなんでもやることにも繋がってるわけね。あの頃の全日本って子会社がいろいろとあったでしょ。最初はB&Jの社員?
木原 そうです。でも、ジャイアントサービスからも給料をもらったり、リングアナになってからは全日本からもギャラをもらったりして、ありがたかったです。
小佐野 みんなそんな感じだよね。こないだ海野くんに話を聞いたときもジャイアントサービス、全日本プロレス、B&Jから給料もらったって。
木原 さらにボクはTシャツやタオル、テレフォンカードのイラストやデザインも手がけていました。ある日、馬場さんがボクが描いたバスタオルを見て「オヤジは絵がうまいなあ。ようし、1枚書いたら俺が10万やる。だからこれからも頑張れ」と言ってきたんですよ。油絵もやられてる馬場さんに絵がうまいと褒められたのは励みになりましたね。
小佐野 馬場さんに絵で褒められるのは凄いよね。リングアナはいつからやったの?
木原 リングアナは89年にデビューしたんですけど、1年前の88年にやる話もあったんですよ。馬場さんから「オヤジ、次のシリーズからアナウンスせえ」と言われて。
小佐野 なんで遅れたの?
木原 ボクはリング屋の立場で毎日会社に行かなくてよかったんですけど、たびたび顔を出してたんですよ。ファンクラブの会報誌のお手伝いとか、もろもろ雑用もあったし、会社にいれば誰か選手が来て手伝うこともあったし。先輩スタッフの昔話を聞いてるだけで幸せでしたね。どこかでヒマを潰したり、遊んでるんだったら会社にいたほうが面白いと思って……。
小佐野 プロレスという世界が好きだったんだね。
木原 電話番もしてたんですよ。ある日、馬場さんにCM出演依頼が来て「馬場のCM出演に関しては、絵コンテや企画書を送ってください」と話をして電話を切ったら、元子さんが凄い目つきで睨みつけていて。「みんな、ちょっと集まって! この子、馬場さんのことを呼び捨てにした!」と突然怒られました。
小佐野 うわあ〜(笑)。
木原 だって、社外の方に対しては自分の上司の名前に「さん」付けはしないですよね。
小佐野 「さん」を付けちゃダメなんだよね。
木原 ただ、当時の全日本はちょっとややこしい状況で。日本テレビから出向していた松根(光雄)さんが社長だったんですよ。元子さんは「馬場会長」という名前の意識が強くて……。
小佐野 はいはい、初代社長だった馬場さんは会長になってて。元子さんからすれば「馬場会長」だもんね。
木原 そんなときに電話口で「馬場」と呼び捨てしたボクが許せなかったんでしょうね。「この子にはリングアナをさせられない!」っていうことになって。全日本は元子さんが黒だと言えば、白いものも黒ですから(笑)、京平さんたちも「馬場さんを呼び捨てするなんて、とんでもない野郎だなっ!!」という話になって。
小佐野 ハハハハハハハ。ありがちだね。
木原 ボクも突然だったので「すいません、ボクが悪かったです」と謝るしかなくて。それでリングアナデビューが遠のきました。馬場さんからすれば「オヤジはなんで今シリーズからリングアナをやらんのだ?」ぐらいの感覚だったと思いますよ。
小佐野 細かい事情は知らないだろうからね。
木原 用意した衣装はトラックに何ヵ月も積んだままでした。そんなある日、木更津で興行があったんですけど、龍さんが大渋滞に巻き込まれて会場到着が遅れることになりました。すると元子さんが「オヤジは衣装を持ってるからリングアナができるわよ」ということになり、鶴見五郎vsリチャード・スリンガー戦からリングアナをやることになったんですよ。あのとき龍さんが遅刻してなかったら、その後もリングアナもやってなかったかもしれないですね。木更津でデビューなんて、奇遇なことに龍さんと同じ会場なんですよ。これも運命だったんですかね。
小佐野 思ったんだけど、全日本のリング屋さんってみんな器用というか、“プロレスごっこ”もうまかったでしょ。受け身もちゃんと取れるしさ。
木原 ボクが最高のやられ役で、全員の技を全部受けましたよ(笑)。
小佐野 馬場さんは“プロレスごっこ”は嫌いじゃなかったよね。楽しくニコニコ見ていて。普通だったら「おまえら、リングで遊ぶな!」って怒られそうだけど。
木原 「もっとやれ、もっとやれ。他の技もやれんのか? なんで教えてないのにこんなにうまくできるんだあ?」って感心してましたよ(笑)。じつはボクは学生の頃にウォーリー(山口)さんの店に出入りしてて、当時TPG(たけしプロレス軍団)の練習生だった邪道さんや外道さんと一緒にトレーニングしたこともありましたからね。
小佐野 西馬込のマニアックスね。リングが置いてあって。
木原 馬場さんから「オヤジは運動神経がいいなあ。レフェリーをやってみるか」という話になって。で、ボクの代わりに西永(秀一)がリングアナをやる話が浮上してきたんです。すると西永が「リングアナだけをやりたくない」って馬場さんに言ったみたいです(笑)。
小佐野 あー、なるほどね(笑)。
木原 馬場さんは「オヤジはリングアナとしてパンフレットにも載ってるしなあ」ということで、ボクのレフェリー転向の案はなしになりました。後日、龍さんが「西永の野郎、どうしてもリングアナはイヤだって言いやがって。俺らのことをナメてるよな」と。龍さんに「そうですね」と言いつつ、ボクもできることならレフェリーをやりたかったですけどね(笑)。
小佐野 当時のレフェリーは新日本だとミスター高橋さん、国際だと遠藤光男さんとか、みんなゴツゴツした身体じゃない。全日本プロレスだけはレフェリーという専門の職業を作ったんだよね。そこは素晴らしいなと思った。
木原 だからみんな身長は小さいですよね。選手より大きかったらマズイですから。西永は背が高かったからホントはマズイんですけどね(笑)。でも、ジョー(樋口)さんは身体がゴツかったんですよ。
小佐野 ジョーさんは元レスラーだもんねぇ。
木原 ボクは全日本のレジェンドと呼ばれる人たちの家には遊びに行かせてもらってるんですよ。ジョーさん、ラッシャー木村さんや寺西勇さんとか。家で昔の写真を見せてくれるんですよ。若かりし頃のジョーさんがベンチプレスで160キロを挙げている写真は驚嘆でした。
作/アカツキ
小佐野 オヤジは木村さんたちから「モノマネをやってくれ」ってよく言われてたよね(笑)。
木原 そうですね。ベテランの方々には仲良くしてもらいました。全日本が分裂してほとんどがNOAHに行くことになったじゃないですか。あのときNOAH勢が全日本の地方興行に4大会だけ出たことがあったんです。
小佐野 分裂前に契約していた売り興行だから、NOAH勢も出なきゃならなかったんだよね。
木原 あのときはさすがに両陣営がギスギスしていたんですけど、ボクだけNOAH勢の控え室に呼ばれて、永源(遙)さんに「おい、オジキ(木村)が馬場さんのマネを見ないと元気が出ないんだって言ってるぞ、おい」ってことで、木村さんの前で馬場さんのマネをやらされました(笑)。
小佐野 活字では伝わらないけど、オヤジの馬場さんの形態模写はホントうまいよね。歩き方から薬を飲み方まで。馬場さんのそばにずっといたことの証だよ(笑)。
木原 そうですね。たとえば握手の仕方、何気ない動作、息遣い。三沢さんに言わせると「オヤジのモノマネは普段の細かい動き過ぎて、テレビでは絶対にウケないよな」って言われてました。
小佐野 リング上のプロレスラーのモノマネじゃないってことだよね。 でも、天龍さんのモノマネで全日本の合宿所に電話して小橋が焦ってなかった?(笑)。
木原 いろいろやりましたね。最近だと店を予約するときは佐々木健介のモノマネです(笑)。
小佐野 そういえば天龍さんはSWS時代、小橋を殴りに合宿所に行ったことあったでしょ。
木原 なんかありましたねぇ。
小佐野 あれは小橋が折原昌夫に「おまえはどうせSWSに行くんだろう?」ってイジったら、酔っ払った天龍さんが夜中に乗り込んだんだよね(笑)。そうしたら新弟子の浅子覚しかいなくて。天龍さんはゴルフクラブを持ってたから、浅子は怖くて2階まで逃げたんだけど、天龍さんが追っかけてきて万事休す。「おまえは誰だ?」「新弟子の浅子です!」「そうか、頑張れよ!」って高額の小遣いを置いていったもらった逸話があるよね(笑)。
木原 単なるいい話ですよ(笑)。
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