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  • 2009年6月13日、三沢光晴さんのこと■齋藤彰俊

    2024-03-05 21:36  
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    齋藤彰俊インタビュー第8弾は2009年6月13日、三沢光晴さんのことです(聞き手/ジャン斉藤)【齋藤彰俊バックナンバー】



    ①「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」

    ②「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」③「新日本プロレス道場で過ごした日々」④「平成維震軍の愉快な仲間たち」⑤伝説のバー『ココナッツリゾート』はこんな店だった⑥令和に“昭和”なプロレスラーたちはどう生きるか⑦ダーク・エージェントの戦いは真剣勝負だった■齋藤彰俊




    ――2000年からノアにフリー参戦されていた彰俊さんは2006年に正式入団されます。所属のきっかけは何かあったんですか?
    彰俊 あのときは三沢社長から「もうなくてはならない存在になったからウチに入って」というような話をされたことですね。
    ――フリーの期間は長かったですよね。
    彰俊 けっこう長かったですよね。それまではあまり認められなかったんですかね(苦笑)。
    ――ハハハハハハハ!彰俊さんも入団希望の気持ちはあったんですか?
    彰俊 いずれにしてもずっとノアにいましたし、途中でゼロワンに出たときは自分がもともと新日本出身だったから「どちら寄りなんだろう」と言われたりもしたから、ノアのTシャツを着て意思を表したりして。フリーだったんですけど、ノア所属のつもりではいましたね。
    ――フリーとはいえ、他団体にしょっちゅう出ていたわけじゃないですよね。
    彰俊 ほとんど出ていないと思います。ノアもフリーのときは全大会出場ではなかったですね。
    ――フリーと所属の違いは何かあったんですか?
    彰俊 うーん、どうだったんだろう……あっ、これは言ってもいいのかな。
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  • 令和に“昭和”なプロレスラーたちはどう生きるか■齋藤彰俊

    2023-07-17 12:01  
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    齋藤彰俊インタビュー第6弾は令和に“昭和”なプロレスラーたちはどう生きるかです!(聞き手/ジャン斉藤)①「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」


    ②「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」③「新日本プロレス道場で過ごした日々」④「平成維震軍の愉快な仲間たち」⑤伝説のバー『ココナッツリゾート』はこんな店だった

    ――彰俊さんがお世話になっているザ・グレート・カブキさんの居酒屋が12月に閉められることになりました。
    彰俊 自分もそういうふうにお聞きしてまして。カブキ師匠は出勤する日を調整しながらお店に出られてるんですよね。たしか週3~4だったと思うんですね。
    ――カブキさんは75歳。閉店理由は体調的な理由もあるそうですね。彰俊さんが東京に来られたときは、カブキさんのお店に泊まられていたんですよね。
    彰俊 はい、お店の2階です。あそこはもともとカブキさんの奥さんの実家だったらしくて、2階は住居だったんです。カブキさんのご自宅はべつにあるので、自分が東京に来たときは使わせていただいて。
    ――そこは自由にしていいと。
    彰俊 「店の鍵を持ってろ」とおっしゃっていただいたんですけど、何かあると迷惑がかかるので。お世話になるときだけ連絡を入れておじゃましています。お店が終わったあとはカブキ師匠とちょっとお酒を飲ませていただいて、師匠はご自宅に帰って、自分は階段を登って(笑)。2階で寝ていると、昼頃から1階で師匠が仕込まれている音が聞こえてくるんですね。で、夜遅くまでお店をやってますから。
    ――なかなかハードな仕事ですよね。彰俊さんとカブキさんとの繋がりは平成維震軍のときですよね。
    彰俊 そうですよね。維震軍のときに、いちばん飲みに行ってたのはカブキ師匠だったので。前にもお話したと思うんですけど、越中(詩郎)さんからは「カブキさんとは絶対に飲みに行くな」って注意されてたんですよ(笑)。
    ――その理由はカブキさんが酔うと怖いから(笑)。
    彰俊 はい、師匠の目が座ったときは危ないですね(笑)。自分と飲むときはどちらかというとちょっと面白い話に発展することが多くて、あんまりエキサイティングな感じにならないですけどね。覚えてるのは北海道巡業のときに、転々する居酒屋を次から次に移って、ビール1杯飲んだら「次に行くぞ」と。お酒の量というよりも、炭酸が抜けなくて困りましたね(笑)。
    ――アルコールじゃなくて炭酸がキツイと(笑)。
    彰俊 師匠もお酒が強いので、昔は朝までよく飲みました。翌日の巡業バスの中でちょっと寝ようとすると「彰俊、いま何時だ?」って聞いてくるんです。で、またうつらうつらすると「彰俊、いまだ何時?」って(笑)。
    ――時間がわからないわけがないですよ(笑)。
    彰俊 そこはプロレスラーは朝まで飲んだくらいじゃ、へこたれるもんじゃないぞとってことですね。いまのアスリートタイプのプロレスラーとは違って、昭和のプロレスラーのあるべき姿っていうんですかね。プロレスラーはいついかなるときでも強くなくてはいけないと。その教えがすごくプラスになってますし、自分自身もプロレスラーにはそういう強いイメージを持っていたので。
    ――カブキさんは相撲社会のしきたりが強い日本プロレス出身ですもんね。怒らせたら怖いですし。
    彰俊 自分はそんなに怒られたことはないんですが、覚えてるのは大田区体育館で昭和維新軍と平成維新軍がお互いの存続を懸けて……みたいな試合があって。自分たちが勝ったから、会場の外でマスコミを集めて昭和維新軍の旗を燃やすことになったんです。自分が旗にアルコールをかけて、師匠が火をつけたんですけど、アルコールをチョロチョロしかかけなかったから、そんなに燃えなかったんですよね。そうしたら師匠が「バカヤロー! もっとかけろ!」ってアルコールをぶっかけたら、火が一気に燃え上がって「バカヤロー! 早く消せ!!」ってものすごい勢いで怒られましたね(笑)。
    ――彰俊さんは悪くないじゃないですか!(笑)。カブキさんとは世代差があるのに維新軍の絆がいまでも続いているのはいい話です。
    彰俊 やっぱり平成維震軍の中ではいちばん話をしていたとは思います。ちなみに師匠はお酒を一日も欠かしていないはずなんですよ(笑)。
    ――日プロ時代から飲みっぱなしかもしれない(笑)。
    彰俊 休肝日がなかったはずですね。お店でも、ある程度料理が出たりするとお客さんと一緒に飲んだり。師匠は基本、芋焼酎ですね。
    ――彰俊さんに休肝日はあるんですか?

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  • 伝説のバー『ココナッツリゾート』はこんな店だった■齋藤彰俊

    2023-06-01 00:00  
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    齋藤彰俊インタビュー第5弾は伝説のバー『ココナッツリゾート』です!(聞き手/ジャン斉藤)①「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」

    ②「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」③「新日本プロレス道場で過ごした日々」④「平成維震軍の愉快な仲間たち」


    ――平成維震軍をやめられたあとは地元の名古屋に戻られましたけど、ノアで復帰するまでのあいだの彰俊さんはかなり謎が多いんですよね。
    齋藤 たしかにそうですね(笑)。
    ――名古屋で『ココナッツリゾート』というバーをやっていたことは知ってるんですが、バー経営は離脱前から計画されていたことなんですか?
    齋藤 いや、やめたときはまったく何も決まっていなかったですね。あのときはですね、やめたときの長州さんから「いまのおまえだったら何でもできるかもしれないな」って言われたんですよ。その言葉に後押しされたところもあって、いままでやったことないことに挑戦しようと思ったんですね。
    ――それはプロレス以外の“何か”をやろうと?
    齋藤 はい。プロレス以外のことですね。もともと平成維震軍をやめた理由がハングリー精神を取り戻すためだったので、同じ分野で何かやるのはつまらない。はじめは何をしようかとパッと思いつかなかったんですけど、もともとバーで働いたこともあって、お酒も好きなので「バーをやってみようかな」と。
    ――当時からプロレスラーの居酒屋はボチボチありましたけど、バー経営は女子プロレスラーのOGでは聞いたことありますけど……。
    齋藤 当時は聞かなかったですね。木村健悟さんは時代を先取りしすぎた斬新なビジネスをやってましたけど(笑)。当時にしては珍しいデリバリーのお寿司さんとか。
    ――平成維震軍が新巻き鮭のビジネスをやろうとしていた話は最高ですよ!(笑)。
    齋藤 そこまでチャレンジはしないんですが(笑)、とりあえずバーができる場所をいろいろ探してですね。最終的に決めたんですけど、集客しやすい立地ではつまらないじゃないですか。何か新しいことで成功したらプロレスに戻ろうと考えていたので、そのときにハードルがあまりにも低いと成し遂げた感じがしないなと思ったんですね。借りた物件は名古屋市内にあったんですけど、繁華街から離れた場所で。国道沿いのちょっと細い道を入ったところの事務所みたいな建物があって。鉄の扉を開けると目の前に階段があって、2階がお店です。
    ――なかなか入りづらそうですね(笑)。
    齋藤 もともと美容院でして。不動産屋の方に「ここで何をやるんですか」って聞かれたので「バーをやろうと思ってます」って言ったら、「立地的にちょっと難しいですね」と(苦笑)。いちばん近くの駅まで徒歩30分ですし、車社会とはいえ飲み屋ですので。ちょっと近くにバス停ぐらいはありましたけど、
    ――車でバーに来るわけには行かないですし、バスに乗ってバーにやって来る人はいないですよね(笑)。
    齋藤 いないですよね(笑)。だから集客のハードルは上がりました。もともと美容院でしたので、店の作り的にバー向きではなかったですし。でも、どうせやるんであれば難しいって言われてるところでやったほうが面白いって思ったんです。
    ――木村健悟さんばりに充分チャレンジしてますよ(笑)。従業員はいらっしゃったんですか?
    齋藤 最初は従業員を雇えるほどお客は来なかったので、自分が……。
    ――じゃあ彰俊さんが毎日出勤して。
    齋藤 夜だけでは経営が成り立たないのでランチもやりました。近くに銀行や会社があったりしたので。
    ――ランチは彰俊さんが作るんですか?
    齋藤 はい、作りました。出来合いのプレートみたいな感じで、揚げたりちょっとお肉を焼いたりしてまして。
    ――当時のボクはプロレスファンでしたけど、彰俊さんのバーって全然宣伝されてなかった記憶があるんですよね。
    齋藤 宣伝はまったくしてないですね。そこでプロレスのプの字も出したらチャレンジする意味がないので……。お店の地域にはポスティングしたんですけど、自分の名前は使わずに「ハワイが名古屋に引っ越してきた」と。
    ――だから店名は『ココナッツリゾート』なんですね(笑)。
    齋藤 もともとヤシの木とかハワイアンな雰囲気が好きだったし、ワイキキのロイヤルハワイアンというホテルで作ってもらったカクテルのチチがすごくおいしかったこともあるんですよね。素人なりにいろいろと考えて、店の中をハワイの雰囲気にしようと。天井や壁に絵を描いて、店内の3分の1はヤシの木の造花を置いて、小さいながらちょっとした砂浜も……。
    ――ホントに「ハワイが名古屋に引っ越してきた」(笑)。
    齋藤 街灯まで付けて、外にいるような感じの雰囲気を作ったんです。齋藤 店内は30畳ぐらいあったんですけど、そのせいで客席数はかなり少なくて……(笑)。
    ――ハハハハハハ! てっきり渋い感じのバーを想像していたんですけど。

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  • 齋藤彰俊インタビュー④「平成維震軍の愉快な仲間たち」

    2022-11-03 14:44  
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    齋藤彰俊インタビュー第4弾は「平成維震軍の愉快な仲間たち」です!(聞き手/ジャン斉藤)①齋藤藤彰俊インタビュー「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」
    ②齋藤彰俊インタビュー「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」③齋藤彰俊インタビュー「新日本プロレス道場で過ごした日々」



     
    ――前回は新日本プロレス時代のケンドー・カシンとの意外な接点なんかを語っていただきました。
    齋藤 カシン選手がPRIDEに出たときに、自分がセコンドに付いたのはそういう関係性があったんです。当時は公にはできなかったんですけど。
    ――今日もいまだから明かせるお話をお願いします! 本題に入る前に……新日本プロレス創始者であるアントニオ猪木さんがお亡くなりになりました。彰俊さんは平成維震軍時代、猪木さんと何か接点はあったんでしょうか?
    齋藤 道場にいるときや、試合会場でお会いしたことはありました。あるとき道場で夜に練習してるときに猪木さんが来られたんですよ。「おう齋藤!」と声をかけていただきまして、モハメド・アリと戦ったときのお話をしていただいて。自分は直立不動で聞かせていただいたんです。そうしたら「ボクシングのヘビー級のパンチがどんだけ痛えのか、わかるか!?」って言われて、いきなり顔をバーンって殴られたんですよ!
    ――えええええ!? それは冗談っぽい感じで?
    齋藤 いやあ、どうなんでしょう? 猪木さんがどういう狙いがあったのかがわからなかったので自分も笑えなかったですし、ヘビー級のボクサーじゃなくても顔を殴られたら痛いです(笑)。
    ――猪木さんはヘビー級ですけど、ボクサーではないですし(笑)。
    齋藤 やっぱり極真空手の大山倍達さんなんかもそうですけど、格闘技でトップに行く人は、常識では計れないところがあるんだろうなって思いました。そのあとリングの上に寝られた猪木さんの身体を自分がマッサージして……。ちょっと寝息を立てられたんで「お疲れなのかな……」と思って手を止めると「……なんだ、もう疲れたのか」と(笑)。
    ――ハハハハハハ。猪木さんは突然練習に来られたんですか?
    齋藤 はい。いつに来られるとかは決まってなかったと思います。そういう偶然にお会いできる機会に、レスラーとしての心構えをパンチ一発で教えていただいた感じがします(笑)。
    ――前に聞いた話だと、猪木さんがジェラルド・ゴルドー、スティングと戦った1DAY格闘技トーナメントのときに、山本小鉄さんが……。
    齋藤 ああ、ありましたね。小鉄さんが平成維震軍の控室にいらして。ゴルドーって相手の目に指を入れたりする危ない男じゃないですか。もし猪木さんに何か起きたら「オマエらが行け!」と言われました。シューズも紐を結んで上からテーピングを巻いてですね、脱げないように。
    ――修羅場対応!
    齋藤 そのときに後藤(達俊)さんから「オマエは空手をやってんだから、正面から行け! オレたちは後ろから行く」と。
    ――ハハハハハハハハ! 後藤さんも寛水流空手出身なのに。
    齋藤 越中(詩郎)さんは「オマエらはゴルドーに行け! オレは猪木さんのところに行くから」って。皆さん、危機回避能力が優れてるなって(笑)。そういうものが身についてないと、生き残れないんだなっていう勉強をさせていただきました。
    ――ゴルドーがホントにヤバいことが伝わってたんですねぇ。
    齋藤 はい、ヤバかったですよね。ゴルドーだけじゃなくて、オランダ軍団も一時期、新日本に来てたじゃないですか。東京ドームで木村健吾さんが間違ってオランダ軍団の控室に入っちゃいました(笑)。「アイツら危ないよ」って。
    ――彼らの職業はバウンサーですもんね(笑)。
    齋藤 危ない繋がりで、ちょっと話は飛ぶんですけど、平成維震軍が旗揚げ戦をやったときに……。
    ――平成維震軍が単独でシリーズをやり始めて。旗揚げ戦はNKホールでしたね。
    齋藤 あのときブランコ・シカティックとやるという話があったんですよ。
    ――初代K-1WGP王者と彰俊さんが!
    齋藤 誰がどのようなルールであたるかはわかりませんでしたが、たぶんメインで越中さんになりそうな感じだったんで……越中さんから「試合まで数週間しかないけど、どうだ?」と。さすがに数週間しかないのにシカティックに対抗できるは打撃を身につけるのは厳しいですよね(笑)。結局来日できなくなって話はなくなったんですけどね。
    ――あのときのメインは越中さんとジェット・シンでしたね。特別レフェリーの猪木さんがシンとやりあったことで、猪木さんが主役になっちゃいましたけど(笑)。
    齋藤 あのときジェット・シンがサーベルを忘れてきたんですよ(笑)。
    ――ハハハハハハ! ジェット・シンにとってなによりも大事なものですよ。
    齋藤 「どうしようか」ってなったときに、のぼり旗の伸びる棒みたいのがあるじゃないですか。それを使おうと。でも、それをジェット・シンが口に咥えてきたときにファンからすれば、どうなんだろうなと。ちょっと「クスクス」って笑う感じもあって(笑)。
    ――のぼり旗の伸びる棒だと緊張感ないですよね(笑)。
    齋藤 でも、ジェット・シンがそれを振り回したときに棒が伸びたんで、ファンの人たちがみんな「うわっ!!」と驚いて(笑)。
    ――ハハハハハハ!サーベルがないのは当日に気がついたんですか?
    齋藤 そこはどうなんですかね。当日なのか、来日したときなのかわからないですけど。竹刀や木刀だとすぐに手に入りますし、会場に着いてから騒ぎになっていたので、たぶんバッグを開けて気付いたのではないかと……。
    ――「サーベルがない!」と(笑)。平成維震軍のシリーズは面白かったですか?
    齋藤 面白かったですね、とくに先輩方は楽しかったと思います(笑)。
    ――先輩方は(笑)。
    齋藤 先輩方は新日本の本隊から離れて自由に伸び伸びとできていたので。ただ、青森のときですかね。そのときは新日本のシリーズだったんですけど、本隊のホテルがすごい大きいホテルで。維震軍でそのホテルの前を通り過ぎたら「……オレたちが泊まるホテルは、ここのフロントの広さじゃねえか」って(笑)。
    ――明確な格差があったんですね(笑)。
    齋藤 北海道のホテルでも、タクシーの運転手に住所を伝えたら「……どこにあるんですかね」って言われたことがありますね(笑)。
    ――観光地のタクシー運転手が知らないホテルって(笑)。昔のプロレスはヘビーとヒール、外国人の宿泊・移動を完全に分けていたから、ホテル探しも大変なんでしょうね。
    齋藤 そうだと思いますね。基本的に本隊とは別のホテルになりますから。
    ――彰俊さんは寮住まいだったから、本隊の若手と交流はありますよね。
    齋藤 一応交流はありましたね。“心の交流”があったかどうかわからないんですけど(笑)。試合のときは控室は別々で接する機会はなかったですし、同じ会社って言ったら、おかしいんですけど、やはり対戦相手とは距離を取ったほうが緊張感があったり、感情的になりやすいんだろうと思いました。中にはですね、一緒の控室にいたほうがギスギスする人もいると思いますけど(笑)。
    ――ハハハハハハハ! 
    齋藤 基本的には離れていたほうが、なんかあったときに「アイツら!」みたいな感じでエネルギーになるところはありますね。
    ――言いづらいかもしれないですが、同じ控室でギスギスしていたのって誰ですか?
    齋藤 うーん、たとえば反選手会同盟に入った頃は、それまで敵だった自分と他の選手とじゃあ、ちょっとギスギスしてましたね。そう簡単に受け入れない気持ちはあったと思います。
    ――いままで敵同士だっただけに。
    齋藤 館長(青柳政司)は小林(邦昭)さんと年齢も一緒だったということもあって、すごく仲良かったと思います。
    ――平成維震軍を仕切っていたのは誰なんですか?
    齋藤 キャリアというところでは木村さんなんですけど、木村さんはそこまでの権力を出されなかったと思うんですけど(笑)。今度はカブキ師匠が来られて。
    ――越中さんからすれば全日本の先輩ですね。
    齋藤 いろんな意味で三権分立みたいな感じで。まあ指揮を取っていたのは越中さんですね。リーダーということで。
    ――たとえばリング外でも越中さんが率先して「どこかに行こう」と統率するんですか?
    齋藤 自分はよくカブキ師匠に「おい、彰俊!行くぞ」って飲みについていってたんですけど、他の先輩方から積極的にお誘いを受けるようなことはなかったです。行動は基本的に別々というか。誰かの食事会に呼ばれたら、維震軍の皆さん仲良く行くんですが、プライベートで「行くぞ!」っていうのは……。越中さんと飲みに行ったのは1回、2回ぐらいですかね。これは忘れもしないんですけど、越中さんと焼肉屋さんに行ったんですよね。そうしたら、そこの店に当時、全日本の小川(良成)さんがたまたまいて。越中さんは「おお、久しぶりだな」みたいな会話をされてましたね。
    ――越中さんと小川さんは全日本の先輩・後輩の関係ですね。
    齋藤 越中さんとメシを食ったのはそのときくらいですかね。結束は固いですけど、財布の紐も固かったのかはわからないですけど(笑)。
    ――ハハハハハハ! 宵越しの銭は持たない年齢ではないと。
    齋藤 カブキ師匠は酒好きだったので、しょっちゅう一緒に飲みましたけど。あと小林さんや館長はお酒を飲まないですし。後藤さんも輪に溶け込んで……というタイプでもなかったですし。
    ――後藤さんはめちゃくちゃ酒グセが悪いですよね。
    齋藤 そうやって聞きますね。ただ、そんなに一緒に飲んだことはないんですよね。
    ――新日本の道場の近くに住んでたときは、夕方になると道場で酒を飲み始めて、新弟子に包丁を投げつけるみたいな(笑)。
    齋藤 その頃の後藤さんはさすがにそんな飲み方はしてなかったんですけど(笑)。<1万字インタビューはまだまだ続く>
    この続きと平本蓮、中邑真輔、猪木追悼、齋藤彰俊、石渡伸太郎、臼田勝美……などの10月更新記事が600円(税込み)でまとめて読める「16万字・記事15本」の詰め合わせセット」はコチラhttps://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar2129474この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!1記事150円から購入できます!
     
  • 齋藤彰俊インタビュー③「新日本プロレス道場で過ごした日々」

    2022-08-25 11:09  
    140pt
    齋藤彰俊インタビュー第3弾は「新日本プロレス道場で過ごした日々」」です!(聞き手/ジャン斉藤)①齋藤藤彰俊インタビュー「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」
    ②齋藤彰俊インタビュー「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」

     
    ――齋藤彰俊選手が苦楽をともにされた青柳館長がお亡くなりになりました。
    齋藤 館長との思い出はたくさんありますね……もう語り尽くせないです。最後に会ったのはノアの名古屋大会ですから、半年以上前だとは思いますけど。ただ、メールでは近況報告はしてましたので。亡くなったのは急な話というか、前日は普通に空手の指導をされていたみたいで、皆さんビックリしてる感じですね。入院されて闘病という感じはなかったもんですから。
    ――青柳館長と最後に一緒にリングに上がった試合は覚えていらっしゃいます?
    齋藤 自分の30周年記念試合を名古屋国際会議場でやったときですね( 2020年2月24日)。そのあと館長はしばらくリングから離れていたとは思うんですけども。
    ――館長と彰俊さんが活躍しなかったら、格闘家がプロレスにリングに上がる流れはできてなかったんじゃないかって思ってるんです。
    齋藤 そうですよね。たとえ上がっても、単発、1回限りだったかもしれないですね。
    ――彰俊さんはW★INGで名を挙げていたとはいえ、空手家が新日本プロレスでやっていくことは、ものすごく大変だったと思うんですけども。
    齋藤 館長は他人とすぐ溶け込むようなタイプなんですけど、自分はなかなか……最初はダメでしたね。自分の場合はどこかちょっと一歩引いてる。本当にわかり合えたりすると、そんなことはないんですけど。
    ――青柳館長からプロレスに溶け込むうえで、何かアドバイスされたことってあるんですか。
    齋藤 プロレスのアドバイスは、あんまりなかったかもしれない。自分が新日本でやりだしたのは、新日本に殴り込みをかけてからで。そうすると反選手会同盟(後の平成維震軍)があって。プロレスのアドバイスは他のレスラーの方が多かったですよね。
    ――たしかに経験豊富なレスラーばかりですもんね。
    齋藤 越中(詩郎)さんや木村健悟さんとか。一番教えていただいたのはカブキ師匠です。あとこれは書いていいのかな……。誠心会館としての抗争が終わったあたりから、新日本との合同練習に出たりはしてたんですけど。
    ――新日本本隊の合同練習に?
    齋藤 はい。シリーズが始まる1~2週間前とか。午前中に本隊の合同練習に出て、午後からは平成維震軍の合同練習に出て。
    ――本隊と平成維震軍は抗争していたから、彰俊選手選手が本隊の練習に参加していて寮に住んでいたことを表には出せなかった。でも、いまだから書けないんですかね。もう時効というか、野毛道場でちゃんと鍛えていたことが明かされる、すごくいい話だと思うんですけど!(笑)。
    齋藤 そうなんですかね?
    ――いまだから載せたほうがいいと思います! 青柳館長が当時を振り返るインタビューを読むと、青柳館長が維震軍から離れたあと、齋藤選手が野毛の寮に入れられていたことをおっしゃっていたので……そのへんに興味があったんですよ。
    齋藤 自分は新日本の寮に入ってました。シリーズ前は新日本の寮で寝泊まりして、合同練習に参加して。
    ――維震軍のメンバーだったから、立場的にいづらくなかったですか?
    齋藤 なかなか溶け込めなかったですねぇ。そもそも自分が殴り込みをかけた頃は、選手会のテーマが「齋藤を潰せ!」だったので。
    ――一線を越えた抗争を繰り広げていたわけですもんね。
    齋藤 はい。ですから「お疲れさまです!」って笑顔で挨拶するんですけど、全然溶け込むことはなかったです。
    ――何かしら、しこりは残っていたという。
    齋藤 やっぱり残ってますねぇ。顔見知りになっても向こうは向こうで「ナメるなよ」っていう感情は絶対にあったと思うんですよね。
    ――そもそも当時の新日本プロレスって、フリーの選手に対する敵愾心は強かったですよね。
    齋藤 すごかったです。試合中、意識をなくした選手を見て、ニヤッと笑うような時代でしたから。新弟子というか、ヤングライオンたちも「途中から来やがって……」みたいな感情はあったとは思いますし。自分が入ったのが20代半ばという年齢で、新弟子的な仕事はやってなかったので、そのぶんジェラシーもあったんじゃないかなと。
    ――寮では1人部屋だったんですか。
    齋藤 違います。2人部屋とか3人部屋だったりとか。
    ――平成維震軍である程度の位置にいたわけなのに、寮の環境に飛び込んだのは彰俊さんの意思もあったんですか?
    齋藤 新日本からこれまでどおりシリーズ中はホテル暮らしか、「選べ」とは言われたんですけど。でも、練習がすぐにできますし、道場でいいですと。
    ――厳しいほうを選んだんですね。
    齋藤 そうですね。いつも自分で「バカだな」と思うんですけど、自ら背中を押すタイプなんです。「言っちゃいけない」と思いながらも言ってしまうこともあります。いまの自分だったら、道場暮らしは選びません(笑)。
    ――ハハハハハハ! それで本隊と維震軍の合同練習を掛け持ちするって、めちゃくちゃ体力ありますね。
    齋藤 やっぱり「しっかりやらないと!」って思いが強かったんでしょうね。そこで身につけたものも大きかったです。とくに精神的なことは。やっぱりキツかったですから(しみじみと)。
    ――だんだん受け入れられてる感じってありました?
    齋藤 本当に受け入れられたと思ったのは、新日本を辞めたときですかね。
    ――最後の最後で。
    齋藤 自分が辞めたあとに「彰俊がいなくなったから、維震軍を続ける意義はないだろう」みたいな感じで解散したんです。そのときに、ちょっと受け入れられたかなと。あと佐々木健介さんに受け入れられたのは、ノアに上がってシングルで当たるようになってからだと思います。レスラーとして身体も大きくなって、戦うようになってからですね。
    ――ハードルは高いんですねぇ。寮で仲が良かったのは誰なんですか。
    齋藤 当時はケンドー・カシン選手と仲良かったです。あと永田裕志選手。中西(学)選手とも一緒に飲みに行ったりはしましたけど。おぼえてるのはカシン選手と近くのメキシコ料理屋かなんかで飲んで。その帰りにカシン選手がずっと耳元で「中西を○しましょう」と言い続けて(笑)。
    ――酔ってるとはいえ物騒すぎますよ!(笑)。
    齋藤 そのまま寮の中西選手の部屋になだれ込んで「中西、飲みに行くぞ!」と。金属バットでベッドをぶっ叩いて起こしました(笑)。
    ――めちゃくちゃですよ!
    齋藤 後日、馳(浩)さんから「そういうことはリングでやれ」って怒られましたけど。
    ――リングでも金属バットはダメですよ(笑)。カシンさんの中西学嫌いって、ネタなんだか、本気なんだか、わかんないですよね。

    この続きと星野育蒔、所英男、寺田克也、ビンス引退、齋藤彰俊などの8月更新記事が600円(税込み)でまとめて読める「14万字・記事16本の詰め合わせセット」はコチラ
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  • 齋藤彰俊インタビュー②「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」

    2022-03-12 13:24  
    150pt
    齋藤彰俊インタビュー第2弾は「W★ING参戦、新日本プロレスvs誠心会館」です!(聞き手/ジャン斉藤)前回はこちら齋藤彰俊インタビュー「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」【1記事から購入できるバックナンバー】・【90年代・灰色の狂気】木村浩一郎「FMWとリングスで俺はこの業界をナメてしまったんですよ」
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    ――齋藤選手は念願のプロレスデビュー後、W★INGに入団されますね。どういう経緯だったんですか?
    齋藤 剛(竜馬)さんのパイオニア戦志のオファーをいただいて「これからやっていくぞ!」って剛さんに言われたんですけど、ところがパイオニアの最後の興行で。いきなりデビューと同時に何もなくなってしまったんです。で、パイオニアで知り合ったウォーリー山口さんとテッド・タナベさんから「世界格闘技連合W★INGという団体ができるので、そこに参戦しないか?」と。いろんな格闘家が集まるということで、フロントには大迫和義社長と茨城清志さんがおられまして。
    ――茨城さんは外国人のブッキング担当ですね。
    齋藤 「これからは格闘技の時代だ」と。ゆくゆくはコカ・コーラをスポンサーに付けて、マイク・タイソンを呼ぶというような話も聞かされて……。
    ――壮大な計画ですね(笑)。
    齋藤 はい(笑)。そのときは「プロの世界はすごいんだな」と。旗揚げ戦の前に鎌倉で合宿することになりまして。柔道の徳田光輝選手、サブミッションアーツの木村浩一郎選手や保坂秀樹選手、鶴巻伸洋選手とか格闘家が集まり、寝技や打撃の練習をやってまして。異種格闘技戦じゃないですけど、「このときはこうしたほうがいい」と技術交流があって。
    ――普通に格闘技の合宿だったんですね。
    齋藤 もう格闘家の合宿ですね。しかも面識もなかったので、その蹴りはどうのこうのとか、そのグラウンドじゃどうのこうの……なんてお互い謙遜しながら。
    ――当時U系が人気でしたけど、齋藤さんとしてはW★INGは格闘スタイルという認識だったんですか?
    齋藤 団体名も「世界格闘技連合」ですからね。いま考えるとプロレスも格闘技というジャンルの中に入るんですけど、集まってるメンバーはどう見ても……。
    ――格闘技志向。
    齋藤 はい。明らかに集まってるメンバーは格闘家でみんなピリピリしてました。
    ――三宅綾さんだけはアメプロ志向だったから、あの合宿に戸惑っていたという話がありますね。
    齋藤 ああ、そうですね。三宅選手はFMWから来たんですよね、たしか。これは忘れもしないんですけど、木村浩一郎選手もFMWにいて、三宅選手のほうが先輩なんですよね。で、W★INGでボクと木村選手、徳田選手が「格闘3兄弟」という名前を付けられて売り出されたじゃないですか。三宅選手が「なあ、木村」みたいに声をかけたら「おい、なんだよ、三宅!」って急に態度が変わって。「プロってこういう世界なんだな」って驚きましたね。
    ――木村さんは性格的にも尖ってますよね。
    齋藤 彼は尖ってましたねぇ。3兄弟の末っ子みたいな感じで、彼のワガママをなだめながらやっていくみたいな感じのところはありましたけどね。
    ――W★INGは齋藤選手が思い描くような格闘スタイルではなかったですよね。
    齋藤 そうなんですよね(苦笑)。自分自身の中では格闘技路線は疑うこともなくですね。異種格闘技戦をやるっていう感じですかね。
    ――じゃあ、コッテコテのヒールだったミスター・ポーゴさんが加わったことに驚いたんじゃないですか?
    齋藤 そうですね。でも、異種格闘技みたいな感じで、プロレスラーと戦う感じなのかなと。ポーゴさんは最初からデスマッチをやる感じだったと思いますけども。だから、ばっとカーテンを開けたら、ハブとマングースの出合い頭の事故みたいな戦いが始まる感じですね。でも、やるしかないですよね。お客さんも来てますし。椅子やブーツで殴られて、ものすごい痛かった記憶がありますね(笑)。
    ――格闘技では椅子やブーツで殴られないですよね(笑)。
    齋藤 向こうは向こうで「こんな若造にナメられてたまるか」っていう感情はあったんでしょうけど。
    ――「こういう試合をやりたかったわけじゃないのに……」という戸惑いはなかったんですか?
    齋藤 戸惑いっていうか、自分自身の中でこうだと思って進んできたけど、いきなり違うところだったと。これはハトが豆鉄砲を食らったというよりも、透明なガラスがあることがわからなくて、そのまま直進してガンと当たった。もう何が起こったかわからないわけですよ(笑)。
    ――齋藤選手はプロレスファンだったから、こういったプロレスの世界に漬かること自体はイヤではないわけですよね。
    齋藤 イヤではなかったんですけども、まさかマイク・タイソンが来るかもしれないって言われてる中で、ロープに跳んだりする試合をやることは考えづらいですよね(笑)。
    ――マイク・タイソンが参戦する団体がこんなことをするのかと(笑)。木村さんと方向性についてお話はされました?
    齋藤 しました。やっぱりみんなショックでしたね。とくにショックを受けたのは自分と木村選手だったんですけどね。徳田選手はFMWで柔道着でそういう試合をやってきたし、ポーゴさんと面識ありましたから。自分はまったく接点はなかったですし、格闘技の世界でペイントしている人っていないので。どこかの部族の方と戦うなら別ですけどもね(笑)。
    ――ポーゴさんはポーゴさんで若手格闘家の皆さんを警戒してたって話はありますけど。
    齋藤 たぶんそうでしょうね。そのときは余裕がなかったので、自分からの目線しか見れなかったんですけど。ポーゴさんからすれば「なんだ、コイツら……オマエたちは何しに来た?」っていう感じだと思います。
    ――W★INGはFMWから分家して始まったところがあるから、そこに名もなき格闘家の若者がたくさんいたら、ポーゴさんも「どういうことだろう?」って戸惑うでしょうし。
    齋藤 自分としては、こういうかたちで始まったけど、いずれ格闘家が来るんだろうって心のどこかで思ってました。でも、次のシリーズに来たのがジプシー・ジョーやアイスマンとかですね(笑)。
    ――流血キングにマスクマン(笑)。
    齋藤 「本当に格闘技をやるのかな……」っていう感じでしたよね。
    ――お客さんはあんまり入ってなかったんですよね?
    齋藤 旗揚げ戦は歴史の証人になろうというファンが多かったんですけども、「この団体はこの先、何をしていくんだろう?」ってピンとこなかったから、続けて見ることはなかったと思うんですよね。
    ――正直な話、格闘3兄弟といわれても3人とも無名でしたし。
    齋藤 そうです。いまプロレス団体がそんなマネしたらね、もうやっていけない。
    ――実際やっていけなかったわけですもんね。
    齋藤 そうなんですよ(笑)。記者の方に「こんな団体、3ヵ月しかもたないよ」って言われて、実際に3カ月で終わったんで。全部で何試合やったんですかね。1シリーズたぶん5試合ぐらいで15試合とかですかね。短い期間でしたけど、いろんな経験はさせていただきました。忘れもしない受け身の練習とか。
    ――プロレスの練習もしたんですね。
    齋藤 格闘技によっては投げられたり受け身の練習はありますが、自ら徹底的に受け身をすることってあるのかな……って思ったんですけど、もしかしたらと。ジプシー・ジョーさんからは、相手の目のくり抜き方を教えてくれたんです(笑)。
    ――ハハハハハハ! 物騒すぎるプロレスの裏技を。
    齋藤 ジプシー・ジョーさんはお客さんに椅子で自分を殴らせたりとかしてて、自分たちの描いてた格闘技とは違うけれども、これはすごい世界だなって。
    ――プロレスはプロレスですごいものだと。
    齋藤 ドス・カラスが来たときはプロレスが好きだったので、単純に嬉しかったんですけど。ルチャがやってくるようになって今度はルチャの練習が始まったんですよね(笑)。
    ――空手家がルチャ!(笑)。
    齋藤 ロープワークの練習や、組体操みたいこともやって。「これはどうなんだろう?」とだんだん怪しくなってきましたけど、ルチャというのは格闘技という意味ですからね。
    ――そこで無理やり納得しましたか(笑)。

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