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  • 【全女伝説】前川久美子「どっちかが死ぬんじゃないか…と思う試合はいくらでもあった」

    2024-11-06 10:20
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    90年代から伝説のプロレス団体・全日本女子プロレスで活躍した前川久美子ロングインタビュー!!(この記事は2019年4月に掲載されたものです)


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    ・“3人目のクラッシュ”が回想する『極悪女王』の時代■伊藤雅奈子




    ――
    前川さんは90年代の全日本女子プロレスというシャレにならない時代を生き抜いたわけですよね。

    前川 シャレにならないというか、まあ当時はあたりまえのことでしたけどね。

    ――あ、ご自分では普通だと感じていた。

    前川 うーん、普通というか……たとえばスターダムで起きた世志琥の事件(安川惡斗戦)とかも全女では日常茶飯事だったし、あんなので謝罪会見するほうが間違っていますから。

    ――試合が壊れちゃったやつですね……。前川さんと同じ意見はあの事件直後も出てましたね。

    前川 訴えられるだなんだで言ったら、そんなの全女の先輩たちの制裁シーンなんかいくらでも映像に残っていますよ。たとえば、北斗晶さんが三田英津子さんと下田美馬さんと一緒にラス・カチョーラスというユニットをやっていたときに、試合で何もできなかった2人を北斗さんがバックステージでボコボコにしてた映像とか。ウチらもそれが普通で育ってきているから。

    ――では、そういうお話も含めてお聞かせいただければと……。前川さんの全女デビューは1991年ですが、入門のきっかけはなんだったんですか?

    前川 クラッシュギャルズの影響ですね、とくにライオネス飛鳥さんの。私は高3のときに合格したんです。全女のオーディションって中3から高3までしか受けられないんですけど、最初に書類を送った中3のときは書類だけで2000人の応募があって、フジテレビで面接を受けたのが約300人、最終的に合格したのが10人前後でしたね。

    ――狭き門すぎますねぇ。当時はそれくらい憧れの職業で。

    前川 もし私が中3で合格していたら井上京子さんや井上貴子さんと同期でしたね。私は高3のときにようやく受かりました。ただ、毎年最終面接までは行っていたんですよね。

    ――毎年あと一歩だった。

    前川 高3となると、いよいよ卒業後の進路を決めなきゃいけないんですけど、私は高校で就職組のクラスにいたから、そのまま普通にしていると夏ぐらいに就職が決まっちゃうんですよ。でも、それだと翌春のオーディションを受けられないので、いきなり進学組にクラスを変えたんです。ただ、その年にかぎって全女のオーディションが1月じゃなくて3月になって焦ったんですけどね。

    ――3月って進学も就職もほぼ決まってる時期ですよね。

    前川 専門学校の試験はだいたい1月にあるんですけど、私は「3月に試験がある学校を受けるから」と言い張ってました。担任の先生に「なんで、わざわざ3月の厳しいときに受けるの?」と言われたんですけど、担任にはプロレスやりたいということは明かさずに「ちょっといろいろあるので」と。

    ――担任の先生も凄く謎だったでしょうね(笑)。

    前川 だって、専門学校は受かったら1週間以内に入学金100万円とかを納めないといけないんですよ。行くかどうかわからないのに、そんな無駄なことはできないじゃないですか。だから、オーディションを基準に受験できる専門学校を選んで、全女がダメならダメで、そっから受験すればいいやと思って。

    ――で、高3では無事合格するわけですね。

    前川 合格がわかった瞬間に「全女に受かったから専門学校は受験しません!」と言いました。そしたら先生も「なんだ、そういうことだったのか」と納得してましたけど。

    ――オーディションを受けるうえで、何か対策はされてたんですか?

    前川 私は小・中学校のときに水泳をやっていたんですけど、プロレスラーになるために受け身を教わりたいと思っていたんですよ。そうしたら自分の担任の先生が合気道初段、柔道初段、空手三段ということがわかって「柔道を教えてほしい」とお願いすると、なぜか空手まで教えられちゃって。「受け身を教えるから、空手もやれ」と。

    ――前川さんの蹴り主体のファイトスタイルは、そこが源流だったんですね。

    前川 高校は女子校だったんですけど、その空手部もウチらが入ったとき立ち上げられて、1年生で愛好会、2年生で同好会、3年生で部に昇格したんですよね。県大会で勝って関東大会に行ったりもしていたんですけど、ウチらが卒業してからその先生も他の学校に移っちゃったんで、そのまま空手部も廃部になってしまったんです。

    ――じゃあ、前川さんのためにあったような部活じゃないですか。

    前川 どうなんでしょう(笑)。部員もけっこういたんですけどね。

    ――高3で全女に合格したときは相当うれしかったでしょうね。

    前川 うれしかったけど、そこからがしんどかったですね……。練習のツラさではなく、先輩の理不尽さが。

    ――全女が過酷な世界だってことは、あらかじめわかってなかったんですか?

    前川 いや、全然です。同期は一般で入った私と違って、ほとんどが練習生あがりだから多少は知っていたかもしれないですけど。

    ――練習生は一般オーディションとはまた違う入り方があるということですか?

    前川 当時の全女は練習生というシステムがあって、月謝を払ってスポーツジムに通うみたいな感覚で全女の道場に通う人がいたんです。その子たちも最終的には一緒にオーディションに参加するので、受かるかどうかはわからないんですけどね。ただ、練習生の人たちはオーディションの流れもわかっているし、態度がデカいから「ああ、あの人たちは練習生なんだろうな」というのはすぐにわかりましたけど。


    ――「私はオーディションの連中とは違うんだ」という雰囲気を出すんですね。

    前川 でも、練習生あがりの人たちもけっこう複雑な面があって。たとえば、貴子さんは下田さんよりも後輩なんですけど、練習生でいったら貴子さんのほうが先輩らしいんですよ。でも、貴子さんがオーディションに受かったとき、もう下田さんは全女に入っているわけで、全女のキャリアでは先輩になるという。

    ――もうわけがわかりません!(笑)。入門当時の1日のスケジュールというはどういう感じですか?

    前川 まず、9時から全女ビルの掃除、10時からは事務所の手伝いか、全女が運営していたレストラン『SUN賊』でのお手伝い。さっき言った練習生を教えるのも新人の役目なんですけど、その当番の子は16時か17時ぐらいから指導します。自分らの練習はそれが終わった18時ぐらいからですね。

    ――事務所番というのは何をやるんですか?

    前川 ファンクラブの会報を郵便局から発送したり、あとは通販モノの発送手配をやったり。本当は、新人は朝9時前に朝練をしないといけないんですけど、忙しすぎてそんなのやってるヒマはなかったですね。

    ――当時は『SUN賊』も忙しかったんですよね。

    前川 『SUN賊』のお客さんは多かったです。ファンもいましたけど、一般のお客さんが多かったですね。全女ビルってちょうどオフィス街にあるので、サラリーマンが普通に食べにきてましたし。グッチャグチャになるぐらい混むときもあって、そこで忙しくしてると「私、ここで何やってんだろう……」みたいな。基本給6万円ぐらいをもらってやってましたね。

    ――あとの収入は試合給ですか。

    前川 試合給といっても、プロテストに受かるまではお金はもらえないんですよ。プロテストに受かったら基本給が7万円になって試合ができるんですけど、1試合1500円、勝ったら2000円とかだったかな。そういう時代ですね。

    ――プロテストはどんなことをやるんですか?

    前川 基礎体力、ブリッジ、受け身です。あとはスパーリングをやったりもするんですけど、つまりは会社が「この子はもう試合をさせて大丈夫か」を見極めるテストですよね。

    ――となると、全女に入ってもプロテストに受からない人もいたんですか?

    前川 ウチらの代はいなかったかな。でも、受からない人はいますよ。受からなかったらその下の代に落とされるんです。たとえば、一個上に鳥巣朱美という子がいたんですけど、鳥巣も落とされてウチらと同期になりましたね。

    ――高校でいえば、ダブった先輩みたいなもんですね。

    前川 そうです。でも、前年に入った人だというのはウチらもわかっているから、最初は「鳥巣さん」なんて呼んでいると、「なんで、“さん”づけで呼んでるんだ!」と先輩に怒られるという。本人も1年ぶんの経験があるもんだから、いろんなことを言ってくるんですよね。そうなると、ウチらも「おまえ、落ちたクセにうるせえな!」とかケンカになってましたね(笑)。

    ――同期でもケンカは絶えないわけですね(笑)。

    前川 絶えない、絶えない。殴り合いをしている代もあったんじゃないですかね。

    ――夜の練習は先輩方も一緒なんですか?

    前川 先輩方はみんな巡業に行ってるので、道場にはいないです。でも、日帰りのときは先輩たちが帰ってくるのを待ってないといけないから、練習が終わっても寝ちゃいけないんですよ。しかも、プロテストに受かってない子は道場では待てないんです。寮で先輩たちが帰るのを起きて待ってないといけなくて。しかも、プロテストに受からないと、先輩の備品とかにもいっさい触れないんですよ。

    ――そんなルールがあるんですか(笑)。

    前川 変でしょ? だから、先輩が帰ってくるのを見計らって道場を開けておくんですけど、先輩が到着しても荷物には触れないから、ただ寮で起きて待ってるだけで。先輩が道場を締めて鍵を寮に持ってくるんですけど、鍵を持ってくるときに先輩が階段を上りはじめたら、ウチらが階段を降りて鍵を取りに行かないといけないという。

    ――はー、それは毎日気が休まらないでしょうねえ。

    前川 先輩たちが巡業で帰ってこなかったら、夜は21時頃まで練習してスエットのまま渋谷に遊びにいったりもできたんですけど、どこでファンに見られているかわからないし、ファンに見られると全部先輩にチクられるんですよね。

    ――うわっ、親衛隊たちが見張っているんですか!?(笑)。

    前川 ファンはすぐチクるんですよ。たとえば、基本的に全女では先輩を見下ろす行為というのはダメだったんです。

    ――見下ろす行為?

    前川 あるとき、先輩が帰ってくるところをたまたま屋上から見下ろしていたら、それもチクられましたね。出待ちしていたファンの子が「誰々が上から見下ろしてたよ!」って。

    ――文化大革命の密告もビックリですよ(笑)。ファンもその選手が好きだから、気に入られたいがあまりチクるんでしょうね。

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  • RIZINラウンドガールからMMAデビューへ! あきぴインタビュー

    2024-11-03 00:002
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    元RIZINラウンドガールのあきぴさんがMMAデビューすることに!インタビューしてきました!(聞き手/松下ミワ)


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    ・RIZINアンバサダー蒼瀬くるみちゃん12000字インタビュー






    ――
    元RIZINガールのあきぴさんがMMAデビューされるいうことで。DEEP JEWELSのリリースが流れてきたときはビックリしました!

    あきぴ ありがとうございます(笑)。私自身は前々からMMAの試合に出たいなと思ってずっと練習してたんです。

    ――
    ブラジリアン柔術の試合に出場されていることはちょこちょこ目にするんですが、MMAにも出たかったんですね。

    あきぴ
     むしろMMAをやりたいと思ってジムに通うようになったので。ただ、私は本当に運動神経がヒドくて(苦笑)。小さい頃は歩き方すらバカにされてきたような人間だったんですよ。

    ――
    そんな人、初めて聞きました(笑)。

    あきぴ
     ちゃんと調べてみたらADHDという大人の発達障害みたいで。もともと体幹も弱くて、歩き方もフワフワしちゃう。それでも格闘技が大好きになっちゃったんで、もうこれはしゃーないですよね。

    ――
    というか、体育の授業とかどうしてたんですか?

    あきぴ
     出てないです。ボイコットです。

    ――
    ボイコット!

    あきぴ
     小1のときにマット運動でムチ打ちになっちゃって。そこから高校まで出てないです。もう「やらない」と言ったら本当にやらないタチなので。

    ――
    そんな方がMMAデビューという(笑)。おそらくラウンドガールのMMAデビューは初なんじゃないかと思うんですが、いざ試合が決まった心境はどうですか?

    あきぴ
     いやー、最初はまだMMAの試合をしたことがない選手とやる予定だったんですよねえ。

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    ――
    対戦する吉川桃加選手はアマチュアルールで何戦も戦ってますもんね。

    あきぴ
     もうプロでもいいぐらいだし、強いし、いい試合しますよね。でも「アマチュアの選手だったら誰とでもやります」と代表(咲間“不良先輩”ヒロト ABLAZE八王子 主宰)に言ってたので。逆によくわからない選手とやるよりもちゃんと情報もあるし、本気でやってきたぶん強い相手に向かっていけることは凄くありがたいです。

    ――
    戦いがいがありますか。

    あきぴ
     まあ、実力だけで試合を組んでもらったわけじゃないというのは自分が一番わかっているので。私は女子格闘技が凄く好きなので、かわいい選手と試合ができて、ちょっとでも盛り上げられるんだったらね。でも、試合が決まってもっとアンチコメントが来るかと思ったらけっこう応援してくださる方が多くて凄くうれしいです。

    ――
    たしかに、あきぴ選手ってなぜか定期的に炎上しちゃってますよね(笑)。前にも朝倉未来選手のファンに何か言われてたような……。

    あきぴ
     よく覚えてますね! そうなんです。あれは、ちょうど金原(正徳)さんのYouTubeで「ヴガール・ケラモフvs朝倉未来はどっちが勝つか」みたいな質問されて。私は朝倉未来選手のことは好きなんですけど、ちゃんと格闘技を勉強してきた身として、忖度なしで「ケラモフ選手じゃないか」と。ただ、当時はまだRIZINガールをやってたときだったので、もう本当に「すいませんでした!」ということがありましたね。

    ――
    立場上、その勝敗予想は難しいですよねえ。ってことで、今日はそもそもあきぴ選手がRIZINガールになった経緯からうかがいたいな、と。

    あきぴ
     もともと私、6~7年間ぐらい専業主婦だったんですよ。ずっと家にはいるんですけど、子供が4人いるんでトイレも自由に行けないみたいな生活で。とくに、下のふたりは年子なんですよね。

    ――
    それは大変ですね。

    あきぴ
     それに私「自分で産んでいる以上はそれが責任だ」みたいな、へんに真面目なところがあって。「母親としても頑張んなきゃ」という感じでちょっと鬱っぽくなっちゃったんです。だから、自分の中で外の世界とつながって自立していきたいという感情が出てきちゃって。それで、17ライブでライブ配信を始めたんです。子供が幼稚園に行ってたり、寝ている時間にライブ配信をしていて。そしたら、17ライブでRIZINガールオーディションのお知らせがあって、17ライブからエントリーできるということで。

    ――
    なるほど。ちなみに、あきぴ選手のライブ配信はどういった内容なんですか?

    あきぴ
     やっぱり盛り上げる感じですよね。「イエーイ!」みたいな(笑)。そこはパチンコ屋さんと一緒でハイテンションじゃないとギフトも飛ばないから。

    ――
    視聴者をガンガン煽る!

    あきぴ
     ギフトをもらったら「ファ~~!」みたいな。そんなことを夜な夜なやったりしてました(笑)。

    ――
    そこからオーディションに応募したのは、何かしら格闘技に関心があったからなんですか?

    あきぴ
     じつは父親が凄くプロレス・格闘技が好きで。RIZINガールになったときは、もちろん未来選手とか有名な選手は知ってますけど、コアな部分は知らなくて。そこから勉強をしていまに至るという感じです。

    ――
    お父さんはどういうイベントを観られてたんですかね?

    あきぴ
     大晦日も絶対に観てたし、何かしらずーっと観てましたね。で、私自身、そんな父親とどこかうまくいってなかったところもあったので。RIZINガールに応募したのは、やっぱり格闘技とつながって喜んでもらいたいところもあったのかもしれないですね。

    ――
    当時、あきぴ選手って事務所に入られてるわけでもなかったですよね。

    あきぴ
     入ってないです。いまはDEEP事務局さんにいろいろお世話になってますけど。

    ――
    そうなんですか(笑)。でも、それでRIZINガールに合格できたとは。

    あきぴ まあ、最初のオーディションでは17ライブのイベントで1位にしてもらってたんで、たぶんRIZIN側からすると「お客さんがついてる」と思われたんでしょうね。

    ――
    やっぱり数字も大事。

    あきぴ
     いまはぜんぜんですけど(苦笑)。あと、私がオーディションを受けたときは審査基準が「RIZIN愛」だったような気がしていて。いまは歌って踊れる方が選ばれてますけど、当時は格闘技愛……というか、格闘技愛だけではダメなんですよ。格闘技愛だと「選手目当てで来てるんじゃないか」みたいな。

    ――
    ああ~、なるほど。

    あきぴ
     だからRIZINをどれだけ好きで盛り上げたいかみたいなことが基準だったような気がします。みんな個性いろいろですよね。Hinanoちゃんとか、RIZIN広報になった横島加奈ちゃんとか。加奈ちゃんもめちゃくちゃ真面目でいい子なので本当にうれしいです。でも、もともとラウンドガールの方ってレースクイーン出身の方とかが多いんで、ウォーキングとかもすでにできる人がほとんどで。私は足から血が出るぐらいまで練習したりして、凄く肩身は狭かったですね。

    ――そういうトレーニングを経て実際リングに上がったときは、やっぱり高揚感はありました?

    あきぴ
     というより「間違えられない!」という緊張が大きかったですね。間違えたらけっこう怒られるし、最初のうちは怒られながらやってましたから。でも、あらためて選手の皆さんは凄いなと感じたし、自分も実際格闘技を始めてこんな大変なことやってるんだというのはどんどん感じるようになりましたね。

    ――リングサイドで観戦してきて、これまでで一番好きな試合とかはどうでした?

    あきぴ 一番かあ……。挙げるとキリがないんですけど、RIZINの中だとホベルト・サトシ・ソウザ vs AJ・マッキーですかね。試合というか、入場から何から全部で感動したので。

    ――
    RIZIN vs ベラトール対抗戦の大トリの。

    あきぴ
     サトシ選手なんか最初から「日本を守りたい」と言っていて。だってブラジル出身の方ですよ? もう日本を思う気持ちというかボンサイ魂というか……ああ、泣きそう(感極まって)。

    ――いま思い出しても泣けますか(笑)。

    あきぴ
     桜吹雪と札束が舞うのもよかったですし、サトシ選手は負けちゃいましたけどいい試合だったし、すべてが儚く散っていくけど感動しましたねえ。

    ――
    そこから、ご自身が格闘技をやり始めたのはどういったタイミングだったんですかね?

    あきぴ
     RIZINガールになってすぐですね。

    ――
    えっ! そんなに早く?

    あきぴ
     私たちの代は合格後すぐに合宿があって。そこで石渡(伸太郎)塾長にけっこうしごかれて……。

    ――
    ああ~、やってましたよね。RIZIN公式YouTubeに動画が上がってましたけど、あれって本当にしごかれたんですか?

    あきぴ
     本当にしごかれました。

    ――
    頭おかしい(笑)。まあ、塾長の名誉のために言うと、RIZIN側からの要請なんでしょうけど。

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  • プロレスラー引退■齋藤彰俊インタビュー

    2024-11-02 00:002
    200pt



    ――
    この取材前に、中京高校の同期である松永光弘さんのお店『デンジャーステーキ』に行かれていたとか……。

    彰俊 あっ、来週の予定です。

    ――あ、そうなんですね。引退に向けて各方面でいろんな方に会われて、ご自身のルーツを探る旅をされてるというか。

    彰俊
     そうですね。いままであんまり忙しくなかったんですけど、引退が決まった途端、忙しくなって(苦笑)。

    ――
    しばらくぶりにお会いになった方もいらしたんですよね。

    彰俊
     あー、越中(詩郎)さんは久しぶりでしたねぇ。でも、一番久しぶりだったのは、これは引退とは関係ないんですけど、小林(邦昭)さんのお葬式のときに坂口(征二)さんの奥さんですね。

    ――引退が決まったあとに縁の深かった小林さんがお亡くなりになって。

    彰俊
     ビックリしました……。亡くなったことは小林さんの娘さんから連絡があったんですけど、病気のことは本当に身近な方以外にはあまり言ってなかったみたいで。佐山(聡)さんとはしょっちゅう連絡を取ってたみたいです。返信が来なくなったときがあったらしくて、「もしかして」と思ったら……と。

    ――
    小林さんと最後に会われたのはいつぐらいですか?  

    彰俊
     小林さんとは、どのぐらいですかね……。どこかで一度お会いしたんですけど……。自分は98年から2年間ほど、ハングリー精神を取り戻すということで、リングには一切近づかない時期があったんです。自分がプロレスラーということも一切、周囲には触れないような生活で。

    ――
    地元・名古屋に戻ってバーを経営されたり、産廃関連の仕事をされていたんですよね。

    彰俊
     その時期に小林さんの引退試合が後楽園ホールであったんですよ。そのときだけは私服でリングに上がらせていただきました。

    ――小林さんとの抗争がきっかけで彰俊さんは大ブレイクされましたし、それぐらい大事な方だったということですね。

    彰俊
     そのあと小林さんとは平成維震軍で一緒にやらせていただいて。リング外の小林さんは優しかったですからね。ご自宅に遊びには行ってましたんで……本当に残念ですねぇ。

    ――
    いろんな媒体でもお話されてると思いますけども、引退しようと思った決め手はどういうものがあるんですか?  

    彰俊
     引退する理由は……2009年6月13日、三沢光晴社長との試合(バイソン・スミス&齋藤彰俊vs三沢光晴&潮崎豪)ですね。あの4人の中で、いま現在プロレスをやっているのは、自分と潮の2人だけなんです。あの頃、三沢社長が潮をなんとかしたいという気持ちはすごい伝わってきてたんですね。

    ――潮崎さんにノアを背負って立つレスラーになってもらいたかったと。

    彰俊
     そのあと潮がGHCのチャンピオンになったときに日本武道館で挑戦をしたことがあったんですけど。潮と戦いながら何かを伝えなければ、という思いはあったんです。ただ、いつも潮がチャンピオンで、自分が挑戦者という構図。かなり遅くなりましたけど、今年になってなんとかベルト(世界ヘビー級王座)を取って、潮が挑戦者ということで。前は自分が負けて、3カウントを聞いて日本武道館の屋根を見上げて感じるものがあったので、逆に潮にその風景を見せて何かを感じ取ってほしかったんですけど、結局また自分が見ちゃってね(笑)。その潮とは面白いもんで、「チームノア」というノアを謳ったチームのメンバーとして一緒にやっていて。引退をするのは、いましかないな……って思いましたね。

    ――キャリア33年目のシングル初タイトルの防衛戦には、そんなドラマがあったんですね。<会員ページに続く>

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