-
野球道とは負けることと見つけたり:その16(1,553字)
2025-02-28 06:00110pt蔦文也の1951年から1983年までの32年間の年表を見てみたい。その人生がいかにジェットコースターだったか分かる。その谷の深さと、頂の高さは他になかなか比肩するものがない。
1951年(28歳)
池田高校の監督になる。
1952年(29歳)
ベンチで指揮を執り始める。
1953年(30歳)
目立った成績を残せず。
1954年(31歳)
目立った成績を残せず。
1955年(32歳)
秋の県大会、鳴門を初めて破り、決勝まで進む。しかし、惜しくも徳商に敗れる。
1956年(33歳)
目立った成績を残せず。
1957年(34歳)
夏の県予選で準優勝。南四国大会に初出場を果たす。しかし、一回戦で高知に敗れる。
1958年(35歳)
目立った成績を残せず。
1959年(36歳)
目立った成績を残せず。
1960年(37歳)
春の県大会、念願の初優勝を飾る。四国大会に初出場。しかし、一回戦で宇和島東に -
1994:その41(1,863字)
2025-02-27 06:00110ptおニャン子クラブは1985年にデビューすると、瞬く間に国民的な人気を獲得する。グループとしてはもちろん、そこから数々のメンバーやユニットがソロとしてレコードデビューし、毎週のようにシングルを発売する。
すると、そのことごとくが大ヒットを記録し、オリコンの週間1位になる。1986年、オリコンのシングル1位は46曲あったが、そのうちなんと30曲がおニャン子クラブ関連曲だった。
おニャン子クラブはフジテレビが夕方の帯番組として放送していた「夕やけニャンニャン」のレギュラーメンバーだった。若い女の子(その多くが女子高生)を集め、番組のマスコットとして出演させた。常時20人くらいのメンバーがいたため、いつも決まったメンバーが出るわけではなかった。20人もいると、なんらかの理由で欠席するメンバーも多かったのである。
「夕やけニャンニャン」は、フジテレビが土曜日の深夜に生放送していた「オールナイトフジ」 -
[Q&A]佐々木朗希投手についてどう思うか?(2,416字)
2025-02-26 06:00110pt1[質問]
最近、ビジネスの詐欺広告に知人のコンテンツが勝手に使われていました。抗議したいのですが知人は実名でやっている手前、報復が怖くてまだ行動に移せていません。無視しておけばいいのかな、とも思っているようです。漠然とした質問になっていますが、どうしたらいいか、いい知恵を授けていただければありがたいです。
[回答]
これは、これからあらゆる人にとって起こる可能性のある話だと思いますね。ネットである日、自分が不正に搾取されたり、不当に貶められたり。子供の画像をアップしていたら、その顔を使ったAI制作のヌード画像が作られ、広まるなどということも予想できます。
これに対して、ぼくの結論は決まっています。それは無視するということです。悔しいですが、それが一番の得策です。
ぼく自身、ネットで生きるのはやめました。ネットは郵便の代わりに、知り合いに情報を送るのはとても便利です。電子書籍もとてもいい。し -
本質的に生きる方法:その19(1,862字)
2025-02-25 06:00110ptブルーカラーは「いつ」、ホワイトカラーにその立場を追われたのか?
これの答えに正確な日付はない。なぜならこの現象は、長い時間をかけてゆっくりと、徐々に起こっていったからだ。
ただ、コンピューターの進歩に歩調を合わせたということはいえる。コンピューターが進歩を遂げるに連れて、ブルーカラーの仕事をどんどんと奪っていった。
その「奪った実例」のうち、象徴的なものを一つ挙げるとすれば、1969年に新宿区の郵便局に郵便番号の自動読み取り機が導入されたことになる。このとき、局員たちは「自分たちの仕事が奪われる」として座り込みの抗議を行ったが、警察と機動隊によってあえなく排除されてしまった。そうして実際、それ以降の郵便局員の仕事はどんどんと減っていった。
人間の仕事が機械に奪われるという現象は、そもそもは産業革命のときに始まった。19世紀前半のイギリスでは、紡績機が普及することでそれまで活躍していた機織 -
石原莞爾と東條英機:その73(1,774字)
2025-02-24 06:00110pt1937年7月6日の夜に、盧溝橋事件が起こる。中国に駐屯する日本軍が、盧溝橋の近くでいささか挑発的な演習を行っていた。そのとき、数発の銃声が聞こえた。
それで隊長が慌てて点呼を取ってみると、兵隊が一人足りなかった。そのことから「中国軍の襲撃を受けて殺された」と考え、取りあえず反撃した後、牟田口廉也連隊長に報告した。牟田口は、中国軍にことの経緯を質すように命じたが、この命令は上手く伝わらず、翌日にはさらなる戦闘に発展した。
これをきっかけに日中の緊張感が高まり、やがて本格的な戦闘が始まった。日中戦争である。ちなみに、行方不明だった兵隊は後に何ごともなかったかのように帰ってくる。そうしたことから、これは謀略(その首謀者は牟田口)であるという説は色濃いが、満州事変と違って今も確たる証拠はない。また、牟田口の性格や、その後の行動を考えると彼の指揮とは考えにくい。
だから、本当に「自然発生的」に起こ -
野球道とは負けることと見つけたり:その15(1,765字)
2025-02-21 06:00110pt蔦文也は1951年(28歳)に池田高校の教師となり、翌1952年(29歳)から監督として采配を振るうようになる。そんな文也が初めて甲子園に出られたのが1972年(49歳)のときだった。つまりまだ若者だった頃から中年になるまで、丸々20年間、苦杯を舐め続けた。
しかも、この間の池田は常に県の優勝候補の一角を占めていた。けっして弱小校ではなかった。つまり勝てそうで勝てないという期間が20年間も続いたのである。これは、後に勝ち続けることによって全国にその名を轟かした姿しか知らないファンには想像しにくい。だから、強く興味を引かれる部分でもあるのではないだろうか。
ぼくは、1979年に甲子園で準優勝したときから、池田のファンである。当時11歳だった。一般に、池田が有名になったのはその3年後、1982年に全国優勝を成し遂げたときである。しかし高校野球ファンの間では、優勝する前から池田は知らない者がいな -
1994:その40(1,793字)
2025-02-20 06:00110pt松田聖子や中森明菜、小泉今日子など、当時は単なるアイドルにしか思っていなかったが、今振り返ると若者たちをリードし、それによって社会を大きく変えていった。彼らの存在が、文字通り「時代」を作っていった。
「歌は世に連れ世は歌に連れ」というが、誠に真理である。アイドルは時代の要請によって生まれるが、その生まれたアイドルがまた時代を変化させていくのである。両者は相互補完的で、影響され合いつつ転がっていくのだ。
中森明菜ははじめこそ松田聖子路線を踏襲したものの、隠し切れない「暗さ」というものがあって、すぐにその前の時代を席巻した山口百恵風に路線変更した。するとこれが上手くいって、松田聖子と山口百恵がミックスされつつ、そのどちらでもない「中森明菜風」が誕生した。
中森明菜風というのは、ブリッコからは全く逆のアンニュイな路線である。そこにはどこか「スケバン」的な匂いもした。
スケバンというのは女番長のこ -
[Q&A]緊張しなくなるにはどうすればいいでしょうか?(1,954字)
2025-02-19 06:00110pt[質問]
私はすぐに緊張して力が上手く発揮できません。この緊張する癖をなくしたいと思うのですが、何かいい方法はありますでしょうか?
[回答]
人はなぜ緊張するのでしょうか? 理由は簡単で「失敗を恐れる」からです。ですから失敗を恐れなければ、緊張はしません。
例えばぼくは、講演では緊張しません。なぜかというと、上手く話せなくても別にいいと割り切っているからです。ですが、ユンボの運転は緊張します。失敗した場合、下手をすると死んでしまうからです。
そしてぼくは、死ぬことそのものは恐れませんが「ユンボの事故で死ぬ」ことは恐れます。みんなからバカにされるのが目に見えているからです。
ぼくはこの「ユンボで失敗したことをバカにされること」がすごく嫌なのです。「講演で失敗したことをバカにされること」はそれほど嫌ではないので、おかしなものですね。
きっと、ユンボの運転は自信がないのだと思います。自信があるこ -
本質的に生きる方法:その18(1,672字)
2025-02-18 06:00110pt歴史を紐解くと、産業革命――特に鉄道の登場が、人々の生活を一変させたことが分かる。
その変化の大きさは我々の想像以上だ。なにしろ国の「形」を大幅に作り替えたのだから。それは「社会形態が変化した」という比喩的な意味ではなく、文字通り物理的な国土が大きく変わった。鉄道が作りやすいように、地形を徹底的に改造しまくったのだ。
それと同じくらいのインパクトが、AIの登場によって予測される。特に、産業革命で登場したブルーカラー及びホワイトカラーの消滅が予測される。
今、社会ではホワイトカラーの消滅が盛んに叫ばれているが、それよりも歴史的に見て重要なのがブルーカラーの消滅である。ところが、ブルーカラーの消滅はそれほど大きな関心事となっていない。なぜか?
それはブルーカラーがすでに社会の中での存在感を小さくしているからだ。それで、ほとんどの人が気にしていない。それよりも、現在ほとんどの人が就いているホワイ -
石原莞爾と東條英機:その72(1,685字)
2025-02-17 06:00110pt東條英機は、1936年12月1日に中将に昇進する。それからちょうど4ヶ月後の1937年3月1日、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長に就任する。
ちなみに板垣は広島方面に展開する第五師団の師団長となる。さらに1年後の1938年6月3日、陸軍大臣に就任するのであった。
東條は、奇しくもこの板垣のスリップストリームに入るような形で出世していく。この後一人(畑俊六)を挟んでから、2年後の1940年7月22日に、東條自身も陸軍大臣に就任するからだ。つまりこの頃の東條は、板垣のナンバーツーのような立ち位置にもいたのだ。
その意味で、板垣は石原莞爾のボスであり盟友でありつつ、東條英機のボスでもあった。石原と東條を研究するこの連載においては、極めて重要な人物であるといえよう。
そしてこのことから分かるのは、石原と東條には、どこまでいっても奇妙な共通点が見受けられるということである。ただし両者は全く似ていな
1 / 2
次へ>