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野球道とは負けることと見つけたり:その7(2,011字)
2024-11-29 06:00110pt同志社大学はミッションスクールでアメリカとの親和性が強かった。そのため軍国教育や日本の国家主義には最後まで抵抗した。だから戦時中は、相当肩身の狭い思いをしただろう。それでもキリスト教徒の頑なさで、かなりギリギリのところまで抵抗した。
キリスト教徒は抵抗することへの抵抗が少ない。なにしろ教祖のイエス・キリストが「抵抗の人」なので、弾圧に抵抗するのは最も教義に適った行動ということもできるからだ。
それゆえに長期的に見ると強い。なぜなら弾圧するのはいつでも守旧派で、弾圧されるのはたいてい革新派である。そして長期的に見れば、革新派が勝利することは間違いないのである。それが、キリスト教が2000年以上にわたって栄え続けた最大の理由だろう。
逆に、キリスト教2000年の中で最大のピンチだったのが、キリスト教自体が守旧派に回った中世だった。そんな中で活版印刷が生まれ、キリスト教内にキリスト教に抵抗する革 -
1994:その31(1,643字)
2024-11-28 06:00110pt1ぼくは「文化」が好きだ。バブルの頃(学生の頃)もやっぱり文化が好きで、可能な限りそこに浸っていた。
特に当時のぼくは、人生の中で一番暇だった。お金はなかったが時間だけはあった。だから、それを活かして可能な限り文化に浸った。それゆえ、一般よりは深く文化にかかわったといえるだろう。
ぼくが大学生だったのは1987年から1991年である。すっぽりバブルの真っ只中なのだが、当時はもちろんバブルなどという言葉も知らないし(そもそもなかった)、大学生だから脂っこいところにいたわけでもない。その周縁を彷徨っていたに過ぎない。
しかし周縁を彷徨っていたからこそ見えていた景色というものもある。ぼくは1994年という年を知りたくてこの連載を書いているのだが、バブルというのはそこから5年ほど前のことである。「十年一昔」でいうなら「半昔」くらいのことだ。
「半昔」にあったことが1994年に与えた影響は大きいはずで -
[Q&A]宗教にアレルギーを持つ人がいるのはなぜか?(2,469字)
2024-11-27 06:00110pt[質問]
ハックルさんが言う「自分は存在しない」という場合、人は自分というものをどう捉えればいいんでしょうか? 私はまだ、自分という存在が感じられ、「存在しない」ということをどう捉えていいのか分からないところがあります。
[回答]
ぼくは、メタ的に捉えています。自分は存在しないと知識では知っており、実感も微かにしますが、しかしまた「自分」という架空の存在、幻を感じてしまっているのも事実です。
そのときは、無理に抗うのではなく、自分を感じながら、自分を感じている自分というものをメタ的に認知するようにしています。そうすれば、時間が経って落ち着いたときに「あ、おれまた幻に振り回されていたな」と自覚でき、そこから薄皮がはがれていくように、自分というものがどんどん削がれ、希薄になっていくように思います。
[質問]
最近、癌になる人が気になります。特に若くして癌になってしまう人が、どうしても気になって -
本質的に生きる方法:その9(1,670字)
2024-11-26 06:00110pt
ぼくが糸島に来たきっかけの一つに、ぼく自身が「土」のことをよく知らなかった――ということがある。数年前、ぼくは「土について全くの無知である」ということに気づかされた。そして驚愕した。これだけ知識に溢れたぼくが、あらゆる知識の中で最も重要ともいえる「土」について何も知らないというのは、狂気の沙汰としか思えなかったからだ。
たとえていうなら、デッサンをしないで絵を描いていたようなものである。キャッチボールをしないまま、野球をしていたようなものだ。基本のキをすっぽかして、表面ばかりをなぞっていたのである。
土は知識の一丁目一番地である。人間の知識はまず土を知ることから来ている。土への知識なくして文明も文化もない。そのことに気づいて、自分はなんと無知だったかということに気づかされた。50歳くらいのときのことである。
それで糸島に来て土の勉強を始めた。庭を作っているが当然農業にも興味を持った。さ -
石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)
2024-11-25 06:00110pt二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。
石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原にとって最もつらいものになった。
というのも、この頃の石原はますます頭が冴え渡っていたが、それゆえますます傲岸不遜になっていたからだ。歯止めが利かなくなったのだ。
石原はもともと傲岸不遜だった。ただ、若い頃は周囲がそれを許さないところもあり、少なからず隠忍自重させられていた。しかし年齢や立場が向上するに連れ、いよいよ意見する者がいなくなり、歯止めが利かなくなった。
しかも、歯止めをかけないことで石原の能力はますます冴え渡った。その自覚もあったから、石原自身にもそれに歯止めをかけられない -
野球道とは負けることと見つけたり:その6(1,599字)
2024-11-22 06:00110pt蔦文也は1923年の生まれである。ぼくが好きな『二十四の瞳』という映画に出てくる12人の少年少女は、1921年生まれの設定である。
そのため文也は、彼らより2学年下ということになる。また、場所も徳島と小豆島でそう遠くない。だから『二十四の瞳』を見れば、文也の少年時代の日本、文化というものがなんとなく体感できる。
『二十四の瞳』の主人公で、12人の子供たちの先生である大石久子は、1907年生まれの設定だ。明治40年である。そのため、青春時代を大正デモクラシーの中で過ごした。大正の好景気の中で育った。「モボ・モガ」の文化である。
大石先生が月賦で買った自転車に乗っているのを、小豆島の女性たち(生徒の母親たち)ははじめ、良く思わない。それは、自転車は女性が乗るものではないという明治の古い女と、女でも自転車に乗っていいという大正の新しい女の文化がぶつかったからだ。明治と大正で、大きな世代間ギャップ -
1994:その30(1,765字)
2024-11-21 06:00110ptぼくの大学時代は1987年から1991年だ。バブル崩壊が1990年の暮れからだから、ちょうど大学4年の卒業間際に崩壊したことになる。逆にいうと、大学4年生まではバブル絶頂だった。つまりぼくの大学生活はまるまるバブルの中で過ごしていたのだ。
当然、就職活動期間もバブルの真っ只中、というよりも崩壊直前の絶頂期だった。ニュースではよく、内定に50社や70社受かったという大学生がインタビューを受けていた。ぼくは彼らと同学年だったので注目していた。ただしぼく自身は、就職するつもりはなかったので、就活はしていなかった。だから、内定をたくさん取ったという景気のいいニュースも、横目で見ていたという感じだ。
ぼくの学部は生徒が17人で、半分が大学院へ進み、半分が就職した。何もしないのはぼくだけだったから、やはり多少目立った。それでも、この頃までにはぼく自身、変わり者というキャラをすっかり確立していたので、誰 -
[Q&A]日本社会でモラル違反、マナー違反が増えていることをどう思うか?(2,144字)
2024-11-20 06:00110pt[質問]
詩人の谷川俊太郎さんが亡くなりました。岩崎さんは谷川さんについてはどのような印象をお持ちですか?
[回答]
ぼく自身、彼の作品にはほとんど触れませんでしたが、印象に残っていることはいくつかあります。
まず絵本の編集を始めたとき、谷川さんの『もこもこ』という絵本が子供たちに大人気だということを知りました。ぼくはそれを読んでも全く魅力に感じなかったのですが、子供たちがそれを気に入っていたのは紛れもない事実でした。
そのときに、ぼくには見えていないものが谷川さんには見えているのだなと知りました。それと同時に、ぼくは絵本の編集者には向いていないのだろうなということも分かりました。谷川さんに見えているものが見えないと、絵本というのは作れないということは分かったのです。
それで、ぼくと谷川さんは生きるフィールドが違うのだなということを知りました。だから、彼の作品を好きになるということはありま -
本質的に生きる方法:その8(1,716字)
2024-11-19 06:00110pt
アメリカでトランプ氏が大統領に当選したことに続き、日本でも斎藤元彦氏が兵庫県知事に当選した。そのことから今、日本でも徐々に「本質的に生きる」という人が増えているようにも見える。「和を以て貴しとなす」を捨てる人が増えているようにも見える。
しかし、単純にそうと言い切れない。なぜなら、そこにはまた別の「和」が発生しているということも考えられるからだ。日本人がそもそも持っていた、中世的な百姓根性の「和」の復活ということも考えられる。
前回も述べた通り、日本は中世から「和」を持っていた希有な民族である。そのため、全世界的に「和」を要求された「近代」にぴったりとハマった。近代において、日本は文句なく世界ナンバーワンの生産国となった。それはもちろん、民族性と文化が近代とぴったりとハマったからである。
それは、近代が生まれたイギリスはもちろん、近代を強力に推し進めたアメリカをも遥かに凌駕した。だから -
石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
2024-11-18 06:00110pt二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。
二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がっていく。
もとより、昭和天皇は断固鎮圧すべしとの立場だったが、皇道派があれこれと策を弄し、その意向をなんとか伝えないようにしていたのだ。
しかし石原は、そうした企みをことごとく断ち切って、最終的に全体の流れを鎮圧の方に強引に持っていった。その手腕があまりにも見事だったため、ここでまた周囲から一目置かれることになったのだ。
まず、事件が起こるとすぐに反乱部隊の本部が置かれた陸軍大臣官邸に駆けつける。そこへ入ろうとすると入口で反乱部隊の兵卒に止められるが、これを一喝すると強引に通過する。石原のその迫力に、
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