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記事 9件
  • 野球道とは負けることと見つけたり:その9(1,791字)

    2024-12-13 06:00  
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    1950年、文也は東急フライヤーズに入った。背番号は16。見合い結婚したばかりだったが、新妻は郷里に残してきた。東急フライヤーズは日本ハムファイターズの前身で、本拠地は東京にあった。
    文也の背番号は16だった。二軍の練習場所は読売ジャイアンツと同じ多摩川グラウンド。だから練習していると巨人の16番と間違えた子供たちが、よく群がってきたという。そして文也の顔を見ると「ちぇ、川上じゃないのかよ」と言った。これが滅法応えたという。

    文也はピッチャーとして入ったが、成績はパッとしなかった。なにしろ肩がもう限界だったのだ。全徳島に入ってからは無茶な投げ方をしていた。昔のことだから、連投連投が当たり前だったのだ。それ以前は戦争で心身をすり減らしてもいた。その頃に覚えた酒も続いていた。
    だから27歳にして体が悲鳴を上げていた。文也の体はもうプロ野球選手のそれではなかった。あまりにも球速が遅く、打たれ

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その8(1,735字)

    2024-12-06 06:00  
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    蔦文也は1923年の生まれだが、よくよく考えるとぼくの母方の祖母が1923年の生まれであった。祖母の苦労はなんとなく知っているので、蔦文也の苦労もまた実感できるようになった。
    戦争は1941年に始まり1945年に終わった。この4年間は、文也にとって18歳から22歳という最も多感な時期だった。しかも特攻隊員だったのだ。これ以上の「地獄」はなかなかないだろう。

    1945年8月15日、文也は特攻隊員として玉音放送を聞く。最後は奈良の大和海軍航空隊「神風特別攻撃隊千早隊」に所属していた。先述のように、終戦するとすぐに同志社に復学している。
    それから1年後の1846年9月、文也は晴れて同志社大学を卒業。ただし、終戦直後で世の中は混乱して、経済は逼迫しており、先行きは全く見通せなかった。
    それでも、世の中は明るい空気に満ちていた。それは、戦争の4年間があまりにも暗かったからだ。それに比べれば、混乱

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その7(2,011字)

    2024-11-29 06:00  
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    同志社大学はミッションスクールでアメリカとの親和性が強かった。そのため軍国教育や日本の国家主義には最後まで抵抗した。だから戦時中は、相当肩身の狭い思いをしただろう。それでもキリスト教徒の頑なさで、かなりギリギリのところまで抵抗した。
    キリスト教徒は抵抗することへの抵抗が少ない。なにしろ教祖のイエス・キリストが「抵抗の人」なので、弾圧に抵抗するのは最も教義に適った行動ということもできるからだ。
    それゆえに長期的に見ると強い。なぜなら弾圧するのはいつでも守旧派で、弾圧されるのはたいてい革新派である。そして長期的に見れば、革新派が勝利することは間違いないのである。それが、キリスト教が2000年以上にわたって栄え続けた最大の理由だろう。
    逆に、キリスト教2000年の中で最大のピンチだったのが、キリスト教自体が守旧派に回った中世だった。そんな中で活版印刷が生まれ、キリスト教内にキリスト教に抵抗する革

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その6(1,599字)

    2024-11-22 06:00  
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    蔦文也は1923年の生まれである。ぼくが好きな『二十四の瞳』という映画に出てくる12人の少年少女は、1921年生まれの設定である。
    そのため文也は、彼らより2学年下ということになる。また、場所も徳島と小豆島でそう遠くない。だから『二十四の瞳』を見れば、文也の少年時代の日本、文化というものがなんとなく体感できる。
    『二十四の瞳』の主人公で、12人の子供たちの先生である大石久子は、1907年生まれの設定だ。明治40年である。そのため、青春時代を大正デモクラシーの中で過ごした。大正の好景気の中で育った。「モボ・モガ」の文化である。
    大石先生が月賦で買った自転車に乗っているのを、小豆島の女性たち(生徒の母親たち)ははじめ、良く思わない。それは、自転車は女性が乗るものではないという明治の古い女と、女でも自転車に乗っていいという大正の新しい女の文化がぶつかったからだ。明治と大正で、大きな世代間ギャップ

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その5(1,968字)

    2024-11-15 06:00  
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    いきなりドラマの構成を考えるのはとても骨が折れることなので、その前段階として、第一話に描くエピソードの背景というものをあらためて書き出していきたい。
    蔦文也は徳島商業に入学する。それは徳島商業監督、稲原幸雄に請われたからでもあった。当時の甲子園はまだ小規模で、四国からは一校しか出られなかった。そして四国には高松商、松山商という二大強豪校があった。だから徳島商は、県下一の強豪校ではあったものの、1915年に全国中学校野球選手権大会が始まって以来、一度も甲子園に出られていなかったのだ。
    その負の歴史を覆そうともがいていたのが徳島商業稲原監督だった。稲原は1907年の生まれで、徳島商を卒業後、関西学院大学を経て東京で就職した。しかし1932年、徳商OBから監督就任を強く要請され、これを引き受ける。25歳のときであった。
    そこから稲原の指導が始まるのだが、それは「猛特訓」そのものだった。練習は朝か

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その4(1,937字)

    2024-11-08 06:00  
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    第一話「死ねなかった男」構成
    1945年、22歳の蔦文也が酒をあおっている。場所は鹿児島県の知覧。特攻隊の基地があるところだ。隊員宿舎の自室で、文也は一人、どこからか手に入れた酒をあおりにあおっている。
    翌朝。目覚める文也。起きて早々、二日酔いの頭痛を覚える。ふと時計を見ると、大遅刻したと分かる。「ありゃ……」と嘆き、慌てて宿舎を飛び出す。
    川沿いの土手を駆ける文也。すると、その足下に野球のボールが転がってくる。拾って飛んできた方を見る。すると、河川敷のグラウンドを、二人の少年が逃げていく。「こりゃ、待て!」呼び止める文也。「どうして逃げるんじゃ」。すると少年たちは項垂れて、「兵隊さん。敵国アメリカの野球をして申し訳ありませんでした!」と頭を下げる。
    それに対して、文也は相好を崩し「よかよか。よしそこにおれ」と言う。そして、だいぶ離れた少年に向かって、矢のような遠投。ボールは、音を立てて少

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その3(2,052字)

    2024-11-01 06:00  
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    前回に続き、蔦文也を主人公とした5話完結のドラマの構成について書いていく。
    第四話「手も足も出せなかった男」
    星稜対箕島は、延長18回と二度の奇跡的な同点ホームランという劇的な内容の末、箕島がサヨナラ勝利した。そうして箕島は、なんとそのまま決勝戦まで勝ち進み、同じく勝ち上がった蔦の池田と当たるのだ。
    この決勝戦も、なんの因縁かまた雨。そして蔦は、またしても指示をミスし、負けてしまう。そうして、三度目の雨中の敗戦を経験するのだ。
    この試合に負けたことで、蔦はほとほと自分の指導力のなさ、特に采配の下手さ加減に嫌気が差す。
    そうして再び監督を辞めようと決意するが、そこで一種の奇跡が起こる。池田の敗戦を見て意気に感じた徳島中学野球界の大スター、畠山準が入学してくるのだ。これで「5回の甲子園出場」は間違いなく、それどころか初の甲子園優勝も成し遂げられるかと思われた。
    ところが、そこからなかなか勝てな

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その2(1,656字)

    2024-10-25 06:00  
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    今回は、蔦文也を主人公とした5話完結のドラマの、構成について書いてみたい。
    第一話「死ねなかった男」
    蔦文也は、特攻隊員だった。
    徳島県三好市池田町の素封家の息子として生まれた文也は、何不自由なく甘やかされて育った。そのため心が弱かった。
    幼い頃から野球が得意で、徳島商業に入学すると、見事甲子園出場を果たす。その後同志社大学に進むも、折からの戦争で学徒出陣をする。そうして特攻隊員になり、出撃を命じられる。
    死の恐怖から、酒ばかり飲んで酔っ払い、数々の失態をくり返す。そうした中でも仲間たちが次々と死んでいき、いよいよ自分の番が来たかと思ったそのとき、不意に終戦を迎える。
    そうして彼は、とうとう死ねなかった。特攻隊では、隊員たちに葉隠の一節「武士道とは死ぬことと見つけたり」をくり返し説いていたが、蔦はとうとう死ぬことを見つけられなかった。
    第二話「サインを出せなかった男」
    終戦後、蔦はすぐに郷

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その1(1,451字)

    2024-10-18 06:00  
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    I found that the path of baseball means losing.
    大谷翔平選手の活躍や、その前のイチロー選手や松井秀喜選手の活躍、あるいはWBCでの三度の優勝などで、世界野球における日本の地位はいやがうえにも向上した。野球は、他のメジャースポーツに比べると人気そのものは下降気味ではあるものの、それでもまだまだ十分メジャーで、アメリカを中心に世界中にファンがいる。
    そこでこの連載では、そんな世界的スポーツで特異な地位を築いてきた「日本野球」とは何なのか――ということについて考えてみたい。それを通じて、日本の文化や歴史、あるいは世界とのかかわり、そして何より野球というものについて描けたらと思う。
    これを書こうと思ったきっかけは、Netflixのドラマ『極悪女王』を見たことだ。女子プロレス――つまり女性がするプロレスというのは、1980年当時日本にしかなかった。アメ

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