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庭について:その79(1,898字)
2024-06-07 06:00110pt京都東山の麓、琵琶湖疎水の出口、南禅寺の参道入口のところにある「無鄰案」は、庭師小川治兵衛の代表作であると共に、近代日本庭園の代表作、大傑作でもある。治兵衛のほとんどデビュー作といっても差し支えないが、彼が残したいくつもの名庭園のうち、真っ先に名前が挙がるのがこの無鄰菴だ。
ただ、ややこしいことにこの無鄰菴は、単に「治兵衛作」というのではない。そこには、クライアントである山縣有朋の意思や意図、あるいはデザインも、大きく反映されているのである。
この山縣有朋は庭作りを一つの趣味としていた。生涯に、いくつもの庭を作っている。しかもその庭のどれも評価が高いのだが、中でもこの無鄰菴と、晩年を過ごした小田原の古稀庵は傑作庭園として、今も当時の姿のままで残されている。
つまり、山縣有朋も、庭園史に燦然と輝く偉人なのである。我々は、山縣有朋がどんな人物かを知っているだけに、この事実には正直なかなか複雑な -
1994:その18(1,722字)
2024-06-06 06:00110ptユーミンは1954年の生まれだ。1946-1949年に生まれた団塊の世代より少し遅れてきた世代だ。遅れてきたからこそ、団塊の世代の喧噪を横目に、クールな生き方を選択、実践してきた。それが、団塊の世代以降の人々に圧倒的な支持を受けることになる。
団塊の世代はあらゆる意味で特別なので、他の世代の共感はなかなか得られない。その意味で団塊の世代は孤立しているが、そもそもが圧倒的多数なので、その孤立に気づかない。
このねじれた状況が、そのまま日本社会のねじれにもつながった。団塊の世代の常識は他の世代の非常識なのだが、その他の世代がマイノリティだから、ここ70年ほど、社会は団塊の世代の非常識を中心に回らざるを得なかった。
しかし唯一音楽だけは、団塊の世代に対するカウンターがマジョリティになった。団塊の世代を魅了したグループサウンズやフォークソングはすぐに廃れ、その直後に始まったニューミュージックを始祖 -
[Q&A]パンデミック条約反対デモについてどう思うか?(2,305字)
2024-06-05 06:00110pt1[質問]
先週末に、パンデミック条約に反対する大規模なデモが東京であったようです。テレビなどではあまり報道されていません。この諦め気分の日本でそれなりに大きなデモだったようです。岩崎さんは、このような動きに対してどのようにお考えですか?
[回答]
これは難しいところですね。ワクチンを巡る思想の対立はこの先も解決できないと思います。なぜかというと、そもそもインフルエンザワクチンが特にそうですが、多くのワクチンは効果が限定されるからです。そもそも健康な人には全く必要ありません。
その一方で、健康な人が打ったから死ぬ、ということもありません。つまり、健康な人は打っても打たなくても一緒。だとしたら打たない方がいいということにはなりますが、その一方でプラシーボ効果もあるので、思想的に「打った方がいい」と考える人は、打つと気持ちが落ち着くということがあります。その逆に、不健康な人はもちろん、打って死ぬ -
劣化する人:その25(1,760字)
2024-06-04 06:00110ptモノマネ人間というのはたいてい表層だけを真似る。本質を理解しそれを自分なりに咀嚼して作り変えたりしない。
本質を理解しそれを自分なりに咀嚼して作り変えることを「換骨奪胎」あるいは「守破離」という。そんなふうに、四文字熟語や慣用句になるくらい、この方法は古来より伝わってきた、確立された人間の成長メソッドなのである。
それゆえ、モノマネ人間にも二種類いるといえよう。表層を真似ただけのものと、換骨奪胎をしたものである。両者は似て非なる存在である。
この両者は、モノマネ人間の一つの究極ともいえる「モノマネ芸人」にも存在する。表層を真似ているだけのモノマネ芸人と、換骨奪胎したモノマネ芸人である。
そうして、以前は「表層」タイプばかりだったが、近年は「換骨奪胎」タイプが増えている。原口あきまさが鏑矢だったように思うが、モノマネをすると、その相手になりきれるという芸である。
換骨奪胎タイプは、モノマネ相 -
石原莞爾と東條英機:その50(1,817字)
2024-06-03 06:00110pt「国体」とは何か? それは「日本」という美しい国のことである。この我々が愛してやまない美しい日の本の国――自然ももちろん美しいが、何よりそこに住う人々が美しい。この日本の美しさこそが「国体」である。我々日本人の祖先が、古来より連綿と命懸けで守ってきたものだ。
この考えをナチュラルに持っている日本人は、今でも90パーセントはいるのではないか。今でも日本人の90パーセント以上が、この美しい国である日本を守り、伝えていきたいと、誰に教わったかは分からないが、ナチュラルに考えている。
今でさえそうなのだから、今から100年も前にそのことを疑えた人など1人もいない。この連載に出てくる人たちも、全員が全員(当時の日本人で最も頭のいい石原莞爾も含めて)、この「国体」という存在の価値を1ミリたりとも疑っていなかった。石原さえ疑えないものを、他の国民が疑えるはずもない。
ただ、その「信じ方」は人によってそれ
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