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2024年を振り返り、2025年を展望する(5/5)(1,892字)
2024-12-27 06:00110pt22025年は「少子社会元年」になるだろう。いや、社会的にはならないかもしれないが、少なくともぼく個人はそうなる。
「少子社会」とは少子化を受け入れ、それを前提とする社会のことである。そういう社会を、ぼく自身がぼくの周囲だけでも構築していく。
そういう社会の中では、次の三つのことが肝要になるだろう。一つは子供のシェア、二つはロボット化、三つは死の需要である。
子供が少ないことの一番の問題は、街角から子供の笑い声が消えることである。多子時代(戦後しばらく)の一番の幸福は、子供の笑い声が街角に溢れていたことだ。
小津安二郎の戦後の映画にはよく子供が出てくる。それも街角に出てくる。そうして彼らは街角を笑い声で満たした。小津がその光景を描いたのは、街角の子供の笑い声こそが、戦後の日本において最も描くべきものと感じたからだろう。
この光景が、今の社会にはない。子供は隠されるようになってしまった。この状 -
2024年を振り返り、2025年を展望する(4/5)(1,724字)
2024-12-26 06:00110pt1わずか10年前まで日本の出生数は100万人前後であった。そこからガタガタと減って今年は70万人を割るという。およそ3割が減った。これは「激減」という表現が相応しいだろう。
もちろんコロナもあったが出生数の減り方はここ2年の方が激しい。つまりコロナ禍が終わってからの方が激しい。
なぜこうなったのか?
それにはいろんな理由があって、みんなその理由を知っていると言えば知っているが、知らないと言えば知らない。
「知らない」というのは、「そうなる『必然』がある」ということを知らないということだ。その必然というのは、社会がそれを許容している――ということである。もっと言うと、望んでいる。社会がそれを望んでいる。だから少子化になったのだ。
昨日も書いたが、今、子供を生まないのは非インテリ層である。インテリ層――知識層は生んでいる。イーロン・マスクもたくさん生んでいる。
なぜ知識層は生むのか? それは、理 -
2024年を振り返り、2025年を展望する(3/5)(1,694字)
2024-12-25 06:00110pt1「反知性主義」という言葉がある。これは多くの日本人が誤解しているのだが、「反知性・主義」という意味ではない。「反・知性主義」という意味だ。つまり「知性」に反するのではなく、知性にばかり頼る「知性主義者(知性主義思想)」に反するという意味だ。
なぜ知性主義者に反するかというと、彼らは実践抜きに理屈ばかり振りかざすため、机上の空論に終わる場合が多いからだ。それよりは、経験や感覚を重視する方がよっぽど問題解決に近づく。そうした考えから、昔は反知性主義になる人が多かった。20世紀前半頃のことである。
これは感覚としても分かる人が多いだろう。映画などでも、インテリが出てきて論理的に正しいことを言うが、最後は粗野な主人公の経験や感覚が勝り、インテリを打倒する。そんなストーリーがよくある。
また、面白いことに「コンピューターの歴史」というのは、理論家と実践家のタッグによって進化するという黄金パターンがあ -
2024年を振り返り、2025年を展望する(2/5)(1,850字)
2024-12-24 06:00110ptこれから世界は右傾化していくだろう。右傾化というと警戒する人も多いが、人間社会で一番怖いのは「左傾化」である。なぜなら、左傾化の行き着く先に待っているものこそ、最大の恐怖である「全体主義」だからだ。
これは多くの人が知らないことだが、戦前戦中の日本は、陸軍による左翼国家(右翼ではない)になり、最後には全体主義国家となった。それは石原莞爾や東條英機など、当時の日本を率いたリーダー層の来歴を知れば知るほどよく分かる。彼らはそれまでの右翼社会に激しく反発して日本を左傾化させた。その結果全体主義が台頭し、戦争が起こって多くの人が死んだのである。
もちろん、激しい左傾化が起こったのはその前の社会が右傾化し、それに対する揺り戻しが起きたからだ。従って右傾化も危険は危険である。右傾化が極まったとき、反動として左傾化が起き、全体主義が台頭して、社会は破滅へと向かう。
20世紀前半のドイツも同様の動きを見せ -
2024年を振り返り、2025年を展望する(1/5)(1,652字)
2024-12-23 06:00110pt
今年(2024年)も残り僅か。もうすぐ2025年である。
そこで今年を振り返り、来年を展望するということを5回に分けて書いてみたい。10年後、20年後にこの記事を振り返ったとき、あのときの時代はああなっていた。あのときはこのようなことを考えていたんだと、参考になるようなものが書けたらと思う。
ぼくの2024年はといえば、まず特筆すべきはいよいよバカと本格的に決別したことにある。ネットで発言するということをしなくなった。より正確に言えばSNSで発信しなくなった。このメルマガもnoteの連載も有料記事で無料では全部を読めないようになっている。だからいわゆる一般の人の目に触れることはない。
それはいよいよぼくがバカに耐えられなくなって、これと決別したからだ。感覚としてはアルムおんじである。山に籠もって世捨て人のように生きている。
しかしながら一人で生きているわけではない。なぜかは分からないが -
野球道とは負けることと見つけたり:その10(1,624字)
2024-12-20 06:00110pt蔦文也は1951年に池田高校の野球部監督に着任した。27歳になる年のことであった。
池田高校野球部は、戦後すぐの1946年に発足した(当時はまだ旧制の池田中だった)。はじめは同好会だったが、翌年の1947年から正式に部としての運営をスタートし、甲子園を目指す公式戦にも参加した。
当時の徳島県の公式チームは15校である。夏は、このうちの2校までが南四国大会に進める。つまり3回勝てば進める。そこで高知代表2校も含めた4校で、甲子園出場をかけた勝負をする。このとき、勝ち残った1校しか出場できない。そういう狭き門であった。
県大会に参加し始めてからの池田は、しばらくは連敗が続いた。それでも、2年後の1949年の夏の大会で、初めての勝利を記録する。さらに1950年は躍進し、夏の大会の県予選で2回勝った。もう1勝で南四国大会に出場できたが、名門鳴門商業に大敗する。
文也が着任したのはその次の年である。 -
1994:その34(1,637字)
2024-12-19 06:00110pt1994年は今年2024年のちょうど「30年前」だ。しかし2024年はもうすぐ終わってしまうので、やがて「31年前」ということになる。
ぼくはもともと1994年を舞台に小説を書きたいと思っていた。だから1994年について調べ始めたのだが、調べるのが終わらなくなってしまった。1994年を知るにはその前の1980年代のバブルを知らなければならないし、バブルを知るにはその前の1970年代を知らなければならない。そんなふうに、どんどん脇道に逸れていったからだ。
そうして連載を続けてきて、今は1991年まで来た。ここまで来て分かったのは、今思うと1991年の日本というのは大分「金属疲労」を起こしていたということだ。
金属疲労というのは、古い文化のまま新しいテクノロジーを受け入れ、キメラ的な社会を作っていたという意味である。しかしその木製の部品と金属製の部品の接合部分の摩耗が激しく、上手く機能しなくな -
[Q&A]モンスターペアレンツにどう対処するか?(1,729字)
2024-12-18 06:00110pt2[質問]
岩崎さんはChatGPTなどの生成系AIは何かお使いですか? 使っていたらどのように使うことが多いか、知りたいですね。
[回答]
ぼくは生成系AIは使っていないです。話題になったとき、一応触ってみたのですが、長続きしませんでした。
そのときはイラストを描きたいと思って触りました。自分でマンガやアニメを作ってみたかったんです。AIでイラストを描けるかなと思って試したんですが、どれもいわゆるAIっぽい絵になる上、希望の構図で作ることも難しいので、思っていたようにはできませんでした。
それで、今は様子見といったところです。そのうち、時間ができ、またイラストの描き方のTIPSなども確立したら、再チャレンジしたいですね。
一方、テキスト系のAIにはほとんど食指が動きません。それはきっと、自分が書いた方が早いからというのがあるでしょう。また翻訳も試したのですが、いまいちでした。それで今は放置 -
本質的に生きる方法:その12(1,747字)
2024-12-17 06:00110ptコルビュジエの有名な言葉に「住宅は住むための機械である」というものがある。これはコルビュジエがその建築において何よりも「機能」を重視したことの証しだ。そして、その「機能」を可能な限り「美」しく見せようとした。つまり「機能美」を追求したのだ。
サヴォア邸には、その思想が十全に表れている。それはピロティ構造の実現と、その「アピール」においてである。
鉄筋は、これまでの石造りや木造には不可能だった「強度」というものを建築に与えた。その結果、建築は高層化、あるいは超高層化が可能になった。それで、経済合理性と相まって、建築は上へ上へと伸びていった。
しかしその結果として人間性が失われてしまった。芸術性も居心地も失われてしまった。これでは犠牲が大きいというので、アール・ヌーヴォーを経てアール・デコにおいて、機能性を伴った高層建築の道が幾人もによって模索された。
しかしこの試みは失敗に終わった。高層建築 -
石原莞爾と東條英機:その66(1,738字)
2024-12-16 06:00110pt
石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。
そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。
後に石原は、この妨害工作を「自分の人生の中でも一番の失敗」あるいは「最大の後悔」として挙げている。理由は、宇垣内閣が流産したことで陸軍の力がますます強まり、結果的に暴走を許して、対中国の戦争が始まってしまったからだ。これは石原の構想とは真逆だった。
石原は中国との戦争は何が何でも避けたかった。そして、軍縮に積極的な宇垣なら、これをなし遂げられたかも知れなかった。だから石原は、中国で戦争を起こさないためには、本来なら宇垣を積極的に支援しなければならなかったのだ。
しかし石原は逆のことをした。陸軍のいつもの政治工
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