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野球道とは負けることと見つけたり:その13(1,719字)
2025-01-31 06:00110pt文也が監督になったのは1951年、29歳の年だった。全国制覇をするのが1982年だから、そこから実に31年が経過したことになる。このとき、文也は60歳になっていた。ちょうど教師を定年する年だった。
その文也の30余年の苦闘とはどのようなものだったか?
まずは「甲子園の呪い」ともいえる日々だった。監督に就任したときから、文也は甲子園にこだわり続けた。甲子園に連れていくことこそ高校野球指導者としての使命という信念を持ち続けた。
さらにいうと、「勝つ」ということにこだわった。文也の辞書に、実は「負け」の文字はなかった。彼はとことんまで勝ちにこだわったのだ。
なぜなのか?
一番の理由は、文也自身が、自分のことを好きではなかったことだ。彼は今の言葉でいえば自己肯定感が極端に低かった。自分は負け犬のどうしようもない人間だと思っていた。それを払拭するために、半分は酒に頼っていたところもあった。酒に溺れて -
1994:その37(1,854字)
2025-01-30 06:00110pt『おどるポンポコリン』は1990年暮れにレコード大賞を獲得する。このときがヒットの絶頂であった。この曲がエンディングテーマになっていたアニメ『ちびまる子ちゃん』の視聴率も、同年10月28日に39.9%を記録し、これが番組としての歴代一位であると同時に、全てのアニメの中でも歴代一位となった。この記録は、今後永遠に破られないだろう。
39.9%という数字は、当時でもサッカーのワールドカップの日本戦をしのぐレベルである。しかもワールドカップは4年に1回だが、『ちびまる子ちゃん』は「毎週」なのである。毎週日曜、ワールドカップ並みの数字を文字通り叩き出し続けていた。
このときの日本は、はっきりいって「躁状態」だった。躁状態の極まった感じが、このアニメと主題歌のヒットに集約された。
ただし『ちびまる子ちゃん』と『おどるポンポコリン』は、その後も人気を保持し続ける。これだけの躁状態を記録した異常なヒット -
[Q&A]フジテレビ港社長の会見をどのように見たか?(2,190字)
2025-01-29 06:00110pt[質問]
中国の格安AI、DeepSeekが話題です。NVIDIAは株価を大きく下落させました。このことは何を意味しますか? AIはこれからどのような方向へ進化していくのでしょうか?
[回答]
ぼくは全然詳しくないですが、しかしこれは「AIの進化が加速していく」という現象の一旦かと思います。なぜならAIの進化は、AIによってなされるからです。まだ自己進化の領域には至っていないでしょうが、しかし人間がAIの進化の方向性を模索するという手伝いをすることで、これまででは考えられないくらい新しいAIを生み出すスピードは速くなっていくでしょう。そしてこのサイクルが確立すれば、いつかは自己進化の領域になり、AIが勝手にAIを生みだすという時代が来ることになるのです。
そしてその「時代」というのが、10年後といったレベルではなく、下手したら今年中、いや4月までにできたっておかしくはないのです。
Deep -
本質的に生きる方法:その15(1,686字)
2025-01-28 06:00110pt1これからの時代は「本質的」に生きる必要がある。なぜならAIの登場で「表面的」な魅力の価値が損なわれたからだ。病院経営においては、病院の外観を整えることより医療の質が重要になった。当たり前といえば当たり前だが、今までは病院の外観がだいじな時代がずっと続いていたのだ。
そして医療の質を上げるためには、技術を上げるだけではダメになった。なぜなら技術だけならロボットの方が上だからである。そこで医師は「人間力」を上げる必要が出てきた。立派な人間になる必要が出てきた。
ではどうしたら立派な人間になれるのか?
そこにおいて重要な役割を果たすのが「建築」である。なぜなら人間は、建築空間に驚くほどの影響を受けるからだ。そのため立派な人間になるには、いい建築で過ごす必要がある。逆に悪い建築で過ごしていると、凡庸な人間にしかなれない。
では、立派な人間になるために過ごす必要があるいい建築とは何か?
その理想こそ -
石原莞爾と東條英機:その69(1,825字)
2025-01-27 06:00110pt東條英機は1935年まで久留米に左遷されクビ寸前だった。そこからほんの6年で首相の座にまで上り詰めるのである。1935年の時点で東條の首相就任を予見した者は、本人も含め皆無だろう。
東條は良くも悪くも事務方の人間である。そのためリーダーにとっては頼もしい部下だったし、東條もそれを自認していた。けっしてリーダーではなかった。しかし東條には不思議なカリスマもあった。それはナンバーツーとしてのカリスマだ。
すぐれた組織には必ずといっていいほど優秀なナンバーツーが存在する。このナンバーツーの存在が組織の優秀さを決めるともいえる。いかにすぐれたリーダーでも、すぐれたナンバーツーがいなければ組織としての成功は果たせないのだ。
そして真にすぐれたナンバーワンは、組織の成功はすぐれたナンバーツーの有無にかかっていると知っている。だからすぐれたナンバーツーは喉から手が出るほど欲しい存在なのだ。何よりも貴重な -
野球道とは負けることと見つけたり:その12(1,630字)
2025-01-24 06:00110pt1951年、蔦文也は池田高校の監督に就任したが、ベンチに入ることはできなかった。当時の規定で、元プロ野球選手は引退後一年間、監督になれないという高野連の規定があったからだ。それでこの年だけ、文也は球場の観客席で試合を見守ることとなった。
この年の池田は、エース蔵の活躍で二回戦を突破し、準決勝に進出する。この試合に勝てば決勝に勝ち残りの二校に入り、勝っても負けても南四国大会に進める。つまり準決勝は、事実上の決勝戦ともいうべきだいじな試合だった。
その対戦相手は鳴門高校だった。前年夏の大会では甲子園で準優勝し、そればかりか今年の春に甲子園で優勝したばかりの超強豪だった。つまり日本一の高校だ。この大会でも優勝候補の筆頭で、下馬評では鳴門の圧勝だった。
その通り、鳴門はエースを温存し、二番手投手を先発させた。ところが、池田はその二番手投手を打ち崩し、大量5点を先制する。そうして、慌てて相手エースを -
1994:その36(1,673字)
2025-01-23 06:00110pt『クリスマス・イブ』と『ちびまる子ちゃん』は実は全く同じ時期にヒットしている。牧瀬里穂のCMが国民的ヒットとなったのが1989年暮れ。そして『ちびまる子ちゃん』のアニメがスタートしたのは、その数週間後の1990年1月7日である。これは偶然ではない。両者はともに、当時の世の中をビビッドに反映していた。だからこそ、同じ時期に同じくらいヒットしたのである。
その「当時の世の中」を表すキーワードは「不安」である。80年代の暮れ頃から、日本には言い知れぬ不安というものが押し寄せていた。それはバブル崩壊への不安と同時に、予想もしていなかった「失われた30年」に対する不安でもあった。とにかく当時の日本人の多くが、バブルが長く続かないことは無意識のうちに分かっていた。
そこで「安心」が求められた。『クリスマス・イブ』と『ちびまる子ちゃん』はその安心を提供するものだった。しかも全く同じ形で提供するものだった -
[Q&A]フジテレビはこの先生きのこるのか?(1,860字)
2025-01-22 06:00110pt[質問]
フジテレビの炎上が収まりません。フジテレビは、これからどうなってしまうのでしょうか。ハックルさんの未来予測があればお聞かせください。
[回答]
フジテレビがどうなるかというのは、おそらくホリエモンの方が詳しいと思います。ぼくは、残念ながら平凡な答えしかできません。
その平凡な答えというのは、結局はコンテンツ制作会社に生まれ変わるしかないということです。あるいはNetflixのような配信事業にも力を入れるでしょう。これまでのソフトのアーカイブ販売も大きな事業の柱になるかと思います。
フジテレビは、今は経営が混乱を極めていますが、なんだかんだいって財務的にも文化的にも豊富な財産を持っていることは事実です。これを有効に使えば、今後も大きな企業として生き残っていくことはできるでしょう。
ただその際、もちろんこれまでの経営は全否定されて然るべきでしょう。アメリカのような、ドライな実力主義の -
本質的に生きる方法:その14(1,829字)
2025-01-21 06:00110ptここ20年くらい、ぼくは建築あるいは空間についてこだわり、研究してきた。なぜかというと、今から20年ほど前に、人間の生き方を決定づけるものこそ「空間」だと気づいたからだ。そして空間を本質的にすれば、本質的に生きられる。逆に空間を非本質的にすれば、非本質的な生き方にしかならないと分かった。
そこからぼくは「本質的な空間とは何か?」ということを追求してきた。それを追求すれば、おのずと本質的な生き方ができるようになれると考えたからだ。あるいは生き方の本質度を上げていけると思った。
生き方の本質度を上げる理由は、そうでないと率直に生きにくいからだ。2010年代までは、はっきりいって「本質」は逆風だった。社会が固着化し、非本質的な生き方の方がずっと有利だった。だから、非本質的な人が世の中にはびこった。今でも、そのときのことを引きずっている人は多い。
しかしまずインターネットがその価値観を根底から覆し -
石原莞爾と東條英機:その68(2,034字)
2025-01-20 06:00110ptここで少し時系列を整理したい。
1936年2月、二・二六事件が起きる。
1936年11月、満州に駐屯する関東軍の北支分離工作が激しくなる。北支分離工作とは、華北(中国の北の地方)を満州同様に中国から独立させ、中国の弱体化をはかる工作だ。
1936年12月、当時中央の作戦課長だった石原莞爾は、わざわざ満州まで赴き、分離工作を止めるよう部下たちを説得する。しかし二・二六事件を鎮圧した同志でもあり、直前に満州に赴任したばかりの武藤章から、「我々は石原閣下が満州事変でしたことを踏襲しているだけです」と皮肉を言われてしまう。さらに、盟友である板垣征四郎は、これを黙認していた。それで、石原も引き下がるしかなかった。
その後、陸軍中枢は「北支」の駐屯軍を増やしていった。実はこの頃、わずかだが北支にも陸軍を駐屯させていたのだ。これを増やすことで、満州の信仰を抑えようとしたのである。陸軍は縄張り意識が強いか
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