-
1994:その5(1,909字)
2024-02-29 06:00110pt51994年の若者を象徴するものといえば、まずは「ルーズソックス」である。次に「渋谷」であり、「援助交際」だ。「テレクラ」ブームもあった。いわゆる「女子高生ブーム」だった。渋谷の街をルーズソックスの女子高生たちがポケベル片手に闊歩していた。
1994年に17歳ということは1977年生まれである。小学生の頃にバブル社会だったが、中学になってそれが弾けた。そして高校生になる頃から、経済がおかしくなり始める。
この世代は「ポスト団塊ジュニア」とも呼ばれる。団塊ジュニアの少し後に生まれた世代だ。1975年から1981年生まれくらいを指す。
なぜこの世代の子供たちは「絶望」していたのか? それは、バブル崩壊で経済が落ち込んだということ以上に「学校が完全に崩壊していたこと」が大きい。
日本の学校(教育)には、潮目が180度変わった巨大な転換点がある。それは「金属バット殺人事件」だ。
1980年11月、受 -
[Q&A]集中力がないときはどうすればいいか?(1,610字)
2024-02-28 06:00110pt1[質問]
頭が良く人格も優れていて、なおかつマネタイズが上手な人とはどういう人だと思われますか? 岩崎さんのご意見をお聞かせください。
[回答]
頭が良い人、マネタイズが上手い人に、「人格が優れている人」はいないですね。そもそも「頭が良い人」というのは「価値判断が正しくできる」ということであり、価値判断が正しくできると、いわゆる「人格が優れている」というのは「合理的な生き方ではない」ということが判断できます。
そもそも、「人格が優れている」というのは正しくない生き方なのです。例えば、頭が良くて正しく価値判断ができると、「この世界には生きる価値がない人がいる」ということが分かります。しかし、人格が優れていると、その判断ができません。
ですので、人格が優れているというのは、頭が悪いということでもあるのです。実際、人格が優れている人というのは、頭が悪い人に多い印象があります。そのため、彼らはたと -
劣化する人:その12(1,806字)
2024-02-27 06:00110pt「劣化」というのは、一つの老化現象でもあるといえよう。教育が機能するのは、体力がある40歳までだ。40歳以降に体力が衰えたとき、受けた教育が機能しなくなり、劣化するのである。
そう考えると、能力における「体力」は、きわめて重要な役割を担っているといえるし、40歳以降は、むしろそれに頼らないことが必要になるともいえるだろう。
ところで、「老化」や「体力の衰え」ということについて、ぼくに強烈なインパクトを与えたドキュメンタリー映画があった。それは『ギフト―僕がきみに残せるもの』だ。
ギフト―僕がきみに残せるもの ― Amazon
内容は、スティーブ・グリーソンという米アメフトNFLの一流選手だった人が、引退直後の34歳のときにALSと診断され、そこからの闘病生活を自分で自分を撮影しながら記録したものである。
自分で自分を撮影したのは、もし自分がALSで死にゆくなら、病気が分かった当時妻のお腹の -
石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)
2024-02-26 06:00110pt満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。
さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り乱れている状況だった。
そういう状況の中で、日露戦争においてロシアの侵略を排撃した日本及び日本軍は、満州における鉄道の運営と国土の防衛を担うようになった。これを契機に日本の資本などが入って、近代化と開発とが急激に進んだ。そうして、石油や石炭などの発掘が盛んに行われるようになったのだ。
この鉱物資源は、戦争に欠かせないエネルギー供給源となったため、日本陸軍に重要視される。特に第一次世界大戦における「総力戦」をヨーロッパ現地で視察した永田鉄山は、「満蒙(満州とモンゴル)こそ日本の生命線」と考える。そも -
庭について:その66(1,876字)
2024-02-23 06:00110pt千利休の業績と影響はとてつもなく大きく、その弟子たちもまた活躍した。彼らは利休七哲などと呼ばれた。
このうち、よく名前を挙げられるのが古田織部である。彼は、利休の「人の真似をするな」という言葉に従い、そのマインドは継承しつつも、師匠とは趣の違った自分なりの趣味というものを押し出し、茶人として大成していった。
それはマンガ『へうげもの』で紹介され現代人にも知られるところとなったが、一言でいうと「ケレン味がある」というものだ。例えば、利休ははからずも歪んでしまった陶器の茶碗を「侘び寂び」あるいは「ケレン味がない」ものとして好んだが、古田織部は逆に、作るときにわざと歪ませ、その数奇さを楽しんだ。
古田織部の好んだ茶室や茶庭も、千利休のようにぎりぎりまでバランスを突き詰めた精神性の高いものではなく、型破りの、戯画的で、アバンギャルドなものだった。いうならば、古田織部は利休の「アンチテーゼ」あるいは -
1994:その4(1,678字)
2024-02-22 06:00110pt1994年は地味な年である。政権は非自民系の連立与党が担った。首相は村山富市である。このときの連立与党の失敗が、自民党の再生を促したといってもいいだろう。1996年から、自民党が再び政権に返り咲き、橋本龍太郎が首相になる。
そう考えると、1995年の阪神淡路大震災は村山内閣だった。また、2011年の東日本大震災は菅直人内閣だった。2つの大震災が、ほんの束の間しか成立していない非自民系の政府だったことは、日本にとって運命的である。自民党はある意味で運がいい。その運の良さに、日本国民は賭けているのかもしれない。
ただ、1994年はまだ阪神淡路大震災も起こっていないし、東日本大震災も起こっていない。関東大震災は1923年なので、なんと70年前である。人々が、最も震災から遠ざかった時期といえるだろう。
イチローが200本安打を達成するが、この年は野茂が日本のプロ野球で投げた最後の年でもあった。ドジ -
[Q&A]「子供を生みたくない」という若者についてどう思うか?(1,708字)
2024-02-21 06:00110pt1[質問]
岩崎さんは、「この人にほめられていたら、逆にダメなものである可能性が高い」という考えをお持ちだと思います。確かにその界隈に近づかない方がいいでしょう。でも、そのものが完全にダメというわけでもありません。いいものは、どういう立場の人であっても良いという可能性が高まるからです。その辺のあんばいをどのようにされていますか?
[回答]
例えばダメな人が『新世紀エヴァンゲリオン』を褒めているときもあるかと思います。しかしそこで、ダメな人は必ずダメな褒め方をします。分かりやすくいえば、「アスカはどうのこうの」などとキャラ萌えしていたりしますね。あと、気楽に「庵野は〜」などと語りたがるのもダメです。
もし『新世紀エヴァンゲリオン』の「キャラ」を語るなら、まずシンジくんのやりきれなさというか、人はなぜシンジくんに魅力を見出すのか、とか、そういうところから語らなければなりません。「語りの切り口」と -
劣化する人:その11(1,625字)
2024-02-20 06:00110ptイチローは面白い。彼は「劣化しない人」の典型であるが、同時に典型的な「意志の弱い人間」でもある。
これは、一般的なイメージとは真逆である。一般は、イチローほど「意思の強い人間」はいないと見ている。
ところが、実態は逆なのだ。イチローは意志が弱い。だからこそ、劣化から遠い立場にいる。その逆に、かつてオリックスで先輩だった門田博光は、意思の強い人間の象徴だ。彼は40歳を越えてもホームラン王を取るなど活躍したが、現役の時からアルコール中毒と糖尿病を患い、引退したときにはボロボロの体だった。その意味で、「劣化する人」ともいえよう。
こういう人は、努力でのし上がった。逆に劣化しない人は、努力ではのし上がらない。ところで、イチローはたゆまぬトレーニングを続けたことで有名だが、それは努力ではないのか?
実は、努力ではない。イチローのトレーニングは、趣味なのだ。もっというと、生きる目的である。イチローが一 -
石原莞爾と東條英機:その36(1,686字)
2024-02-19 06:00110pt張作霖爆殺事件の後、日本陸軍の陰謀だったことが、やがて張作霖陣営はもちろん、満州の一般人にさえ知られるようになった。しかし陸軍及び日本政府は、その事実を最後まで否定した。その一方で、陰謀の首謀者であった河本大作を左遷し、またその責任を取って田中義一内閣が総辞職するなど、ちぐはぐな事後処理となった。
それで、陸軍の仕業だったということはもはや公然の秘密になる。おかげで、満州の日本に対する反発はかつてないほど高まった。すると、その後押しを受けて張作霖の息子である張学良が、父の軍閥を引き継ぐ。
しかも張学良は、中国と協力体制を取り始める。父の張作霖は、中国とも対立し、満州の独立を目指していた。そのため日本にもつけいる隙があったのだが、張学良がその中国と手を結んでしまったため、日本の満州での影響力はさらに低下せざるを得なくなった。これが1928年のことである。
一方その頃、日本では二葉会、木曜会、 -
庭について:その65(1,628字)
2024-02-16 06:00110pt茶室は戦国時代に都市部の町家(商家が立ち並ぶところ)で、豊かな町人たちの間で発展した。市中の人工の建物が林立するところに、朽ちかけた山奥の農家(侘び寂びの理想)を写し取ろうと、小さな庭つきの応接小屋を建てたのが始まりだ。
町家は、通りに面した間口はだいたい商店になっているため、人々はその奥に住んでいた。それで、家に入るには間口の脇の、細い道を通っていかなければならない。今でも、京都の町家などに残る人二人がようやくすれ違えるだけの細い道である。
これを昔は「通り道」といって、そもそも商人たちは小さな庭として飾り立てることを好んでいた。それが、やがて茶室が流行って屋敷の最奥にそれが設けられるようになると、そこに至る道を、茶室の庭としての役割も兼ね、「山寺へと至る道」に見立てるようになる。屋敷の奥に、山中に佇む古屋のミニチュアを作ろうとしたのだ。
その「道兼庭」を「露地」と呼んだ。今でも、建物が
1 / 3