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庭について:その71(1,796字)
2024-03-29 06:00110pt岡山城の周囲は、もともとあった川をねじ曲げてお堀としたため、たびたび氾濫に見舞われていた。それを、別の川を放水路として設けることで緩和し、おかげで湿地帯だったところが使える土地になった。それで、藩主は喜んでそこに庭を作った。そういう物語を持っている。
ときは1687年である。江戸開闢からすでに90年近くが経過して、戦はもはや過去のこととなった。攻めてくる敵はいない。一方、経済や文化芸術の発展はだいじだ。
そこで、安全になった城の外に、経済発展と文化芸術の促進を兼ね備えた庭を作ることが大名の間で流行った。いわゆる大名庭園である。
その大名庭園の中でも、代表的なのが兼六園、後楽園、偕楽園なのだ。この3つの庭園は、建設当時から評価が高かった。後楽園も、文句なくできがよかった。それで、自然と守ろうとする気運が高まり、現代にも受け継がれている。
大名庭園の最大の魅力は「権威」だと以前に書いた。権威は -
1994:その9(1,551字)
2024-03-28 06:00110pt宇多田ヒカルは1983年生まれなので、1994年には11歳だった。人間にとってさまざまなものを吸収するとてもいい時期だ。
それを1994年で過ごし、ミュージシャンとして大成したのだから、この年にも何か魔力があったのだろう。
パッと思いつくのは、日本は音楽業界が空前のバブルを迎えていたので、その活況を肌身で感じたということだ。井上雄彦の11歳が、ちょうど『ドカベン』が一番盛り上がっていた時期だったようなものだ。
一方、1994年にルーズソックスをはいていた1977年生まれは、11歳を1988年で過ごしている。
1988年はどういう年か?
バブルのちょうど真ん中ともいえるし、昭和の最終年ともいえる。
1988は、毎日昭和天皇の芳しくない容態がニュースの速報で流れていた。そうしてプロ野球のビール掛けが中止になるなど「自粛」という言葉が流行語にもなった。バブルで浮かれる一方、表面的には自粛している -
[Q&A]大谷選手と水原通訳のアメリカでの受け入れられ方は?(1,802字)
2024-03-27 06:00110pt1[質問]
大谷選手と元通訳の賭博事件で、アメリカにおける大谷選手の見られ方というのはどうなるでしょうか? 岩崎さんのご意見をお聞かせください。
[回答]
正直、あまり気にしていないと思います。アメリカは、日本とは違って犯罪には甘く、逆にポリコレにはうるさいお国柄です。これが人種差別とかだったら大変なスキャンダルですが、ギャンブルの場合はむしろポリコレ的な観点から中毒者を擁護、あるいは保護する立場に回ります。
従って、水原通訳もむしろギャンブル依存症の被害者と見られ、保護されこそすれ、非難されることはありません。ただし、これが横領となると話は別です。アメリカでもけっして小さくない犯罪である上に、かなり軽蔑もされるので、誰の同情も得られません。しかしこれもギャンブル依存症が原因だとすると、情状酌量の余地はあると見なされるでしょう。
大谷選手には、逆にこれで成績に対する厳しい目がつきまとうと思い -
劣化する人:その16(1,607字)
2024-03-26 06:00110pt1インターネットができて、それが文字通り人間の関係(ネットワーク)に影響を与えた。リアルな関係と同等かそれ以上のつながりが、インターネット上に生まれたのだ。
そうして、インターネットの人間関係は流行し、発展した。その中でSNSが勃興し、隆盛を極めた。特に2010年代において、信じられないくらいに巨大化した。
ところが、2020年代に入ると徐々に凋落し始めた。そうして、頭の良い人はインターネットから離れるようになった。以前のリアルにしかネットワークのない暮らしに舞い戻った。
一方、インターネットにしかネットワークがない人は残った。そして、残念ながらそういう人はおしなべて頭が悪い。
リアルとSNSを上手に行き来する人は、2010年代にはよく見られた。そこで皆このモデルを志向したが、2020年代に無理だと分かった。SNSが、頭が悪い人が支配する世界になったからだ。
ぼく自身も、自分で意図したという -
石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)
2024-03-25 06:00110pt関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。
溥儀とは誰か?
愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエンペラーだ。1906年に生まれ、1967年に亡くなる。生まれたのは最後の封建国家で、多感な時期に革命や戦争を経験し、20世紀後半の平和の中で亡くなった。まさに激動の生涯だったといえよう。
溥儀は、1908年にわずか2歳で清の第12代皇帝に即位する。が、1912年の辛亥革命で清が倒れたことにより退位させられる。このとき6歳だった。2歳で即位し、6歳で退位するのだから、なんともいえないジェットコースターだ。
その後、中国の政局が二転三転するに連れ、立場を翻弄させられる。次第にヨーロッパ各国が中国を実 -
庭について:その70(1,912字)
2024-03-22 06:00110pt今回は、日本三名園の一つ、後楽園について見ていきたい。
岡山後楽園の成り立ちは、これもまた江戸時代っぽい。まずまだ戦国時代の1597年、豊臣家の家老であった宇喜多秀家が、今の岡山市を南北に貫く旭川のほとりの小高い丘の上に城を建てた。これを、小高い丘の上に建てたことから「岡山城」と名づけた。
このとき、横を流れる旭川をお堀として有効活用するため、できた城をぐるりと取り囲むように大きく流れを迂回させた。すると城の安全性は高まったが、流れが不自然になってしまい、水量が増えると水が詰まって、城の上流がたびたび洪水に見舞われるようになった。
この築城したときはちょうど戦国時代のピークだったから、城はなによりも戦争のためのものだった。多少の洪水には目をつむって、防御力を最大限高める必要があった。
しかし戦国の世が終わって平和になると、洪水のうっとうしさだけが残った。しかし、今さら流れを元に戻すこともで -
1994:その8(1,568字)
2024-03-21 06:00110pt1994年に17歳の子供は、1977年生まれである。3歳のときに1980年代を迎え、13歳のときに90年代を迎える。そんなふうに、子供時代がそのまますっぽり80年代だ。3歳から13歳のさまざまなものを吸収する時期に、80年代という異常な時間・空間の中で過ごすことになるのだ。
その結果、1997年の子供たちはチョベリバルーズソックスになった。空前の女子高生ブームを引き起こした。ただ、最初の女子高生ブームはおニャン子クラブが1985年に起こしている。1994年の9年前だ。しかしこのときは単発的、局所的だった。むしろ時代の主役は女子大生で、ジュリアナ東京などが流行っていた。まさにバブルの時代だ。
バブル時代の主人公は女子大生で、女子大生ブームが起こった。そのブームに乗って、1983年にフジテレビで『オールナイトフジ』という番組が始まった。この番組は、女子大生ブームを生み出したわけではない。むしろ -
[Q&A]成田悠輔氏の炎上についてどう思うか?(1,425字)
2024-03-20 06:00110pt[質問]
「氷結」広告を取り下げの件で成田悠輔が炎上していますが、ハックルさんは彼をどのように評価していますか?
[回答]
ぼくは成田氏はけっこう好きです。彼は本当に頭が良いですよね。ぼくとは違って勉強ができるタイプですが、考える力もちゃんと持っています。
その一方で、彼には弱点もあるように思います。それは信念がないということですね。生きるのが余りにもつらかったがために、能力のほぼ全てを「危機対応能力」あるいは「生き抜く能力」に全振りしてしまっていて、余白がありません。彼はユーモラスな人物を装っていますが、それもまた生き抜く能力の一つでしょう。
やはり信念が必要だと思います。信念とは、ゴッホのように「絵とはこういうものなのだ」と思う心です。ところで、ゴッホは自殺ではなく、他殺説があるようですね。ゴッホの生き方なら、他殺の方がしっくりきます。もちろん、自殺してもおかしくないような状況ではあり -
劣化する人:その15(1,475字)
2024-03-19 06:00110ptChatGPTに大騒ぎしている人がいまだにいるが、実はもう無意識的に飽きられているのではないかと思う。最近気になるのはAIの描いた美人がみんな同じ顔であることだ。AIが発展したことによって、逆にAIができないことが見えてきた。
ネットの番組で「そこらの学校の先生や塾の講師よりChatGPTに聞いた方がなんでも知っているし安価だから教育は変わる」と話していた。しかしそれは違うと思う。そもそも教師や講師、あるいはChatGPTに教わらないと成長しない人間は、勉強に向いていない。だから勉強などしない方がいい。
勉強に向いているのは自分で調べ物ができる人間だ。今ならネットだが、昔だったら辞書だったし、図書館だった。柳瀬尚紀のエッセイに、電子辞書の楽しさを語ったものがある。電子辞書には項目の説明文に用いられている言葉にそれぞれリンクが張ってあって、ボタン一つで飛べる。するとついついその言葉の説明も読 -
石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
2024-03-18 06:00110pt石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。
しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さらに永田鉄山のプロデュースがあった。この謀略の首謀者は、一夕会そのものだともいえる。一夕会が軍部を動かし、政府を動かし、日本を動かしたのだ。
張学良が指揮する軍隊の兵力は、総勢で約45万だった。これに対して石原が率いる関東軍は、約1万だった。実に45倍の差がある。
それでも石原は、電光石火の早業で張学良を混乱させた。そうしてずるずると反撃のいとまを与えないまま、順次満州各都市を占領下に置いていったのだ。
こうして満州の占領は既成事実化され、日本政府もそれを追認する形となった。全ては事後承諾だったが
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