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記事 5件
  • 庭について:その80(1,748字)

    2024-08-30 06:00  
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    無鄰菴について書きたい。
    無鄰菴は現代人にも人気だが、一方でそれはありふれた庭にも見える。なぜ人気かといえば理由は二つで、一つはそれが街中にありながら、街中にはないように感じる「箱庭感」「異世界感」「異化効果」である。つまり、「市中山居」の系統を受け継いでいるのだ。
    もう一つは東山の借景の使い方が上手で、素人にもその魅力が分かるところである。そういう「素人受け」する二大要素がある。それに、山縣有朋という一般人にはよくは分からないが、とにかく明治の偉い人の別荘だったということで、なんとなく納得感、歴史観がある。そうしたことから人気なのだ。
    さらに、現在でも自由に観覧できることも、人気の一因である。しかしそれらは無鄰菴の本当の魅力ではない。無鄰菴には、庭に詳しい人が見ても唸るようないくつかの魅力が詰まっているのだ。
    まずは水の使い方。京都の名園でも、自邸に川を引けるというのは極めて希である。山

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  • 1994:その19(1,620字)

    2024-08-29 06:00  
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    桑田佳祐は「弱い男」だった。それも、単なる弱い男ではなかった。その弱さが格好良かった。だから、時代のシャーマンたり得た。
    桑田佳祐がデビューした当時、世の中にはまだ「弱くて格好いい男」あるいは「その弱さこそが魅力になっている男」は存在していなかった。巷には存在はしていたかもしれないが、エンタメ界にはいなかった。
    そこに初めて明確な形と言葉を伴って登場したのが桑田佳祐だった。だから彼は、時代の(そして次代の)シャーマンとなったのである。
    ところで、桑田佳祐の「格好いい弱さ」における原由子の存在は重要である。原由子が、桑田佳祐の弱さにおける「格好良さ」を際立たせているからだ。
    そして面白いことに、松任谷由実はその対称となっている。松任谷由実にとっては、松任谷正隆の存在が重要なのだ。彼がいるからこそ、ユーミンの強さも魅力的になっている。
    ユーミンと桑田佳祐は、それぞれ「女が強くなる時代、男が弱く

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  • [Q&A]集合的無意識とはなんですか?(1,713字)

    2024-08-28 06:00  
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    [質問]
    いつも大変面白くて勉強になるお話をありがとうございます。質問させてください。文脈ノートで、集合的無意識の話があったのですが、この概念がピンときません。
    以前、(美的感覚を磨くために美術史を読んだほうが良いとあり、美術史のマンガを読んでみたのですが)例えば、集合的無意識とは、ルネッサンスのときに偉大な芸術家が急にたくさん現れたり、印象派の画家がある時期に急に増えたことなども、これは集合的無意識によって急増した例と言えるのでしょうか?
    どうぞ宜しくお願いします。
    [回答]
    集合的無意識とは、その存在は科学的には証明されていませんが、流行などが起こるときに、存在していると仮定すると、いろいろと状況を読み解きやすいという「考え方」のことです。ユングが提唱して、絶対的に認められているわけではありませんが、ぼくは好きな考え方です。
    例えば、近代化が起こったときに、学校というものが生まれ、それ

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  • 劣化する人:その26(1,652字)

    2024-08-27 06:00  
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    劣化する人は傾向として「解剖」を軽視する。彼らの思想は「現れるのは表面だから、表面だけ整えておけば(モノマネしておけば)いいではないか」というものだ。
    そのためモノマネ人間は、どうしてもオリジナリティがなくなる。オリジナリティのある人間は、解剖した結果として構造を理解する。その上で、表層には別のものを持ってくる。だから、構造は似ているが表層は違ったもの――が出てくる。これがオリジナリティの正体である。
    また、構造を理解した結果、表層の違うものを持ってきても、一見似たようなものになることもある。しかし、実は表層は異なっている。ややこしいが、これは「似て非なるもの」という現象だ。
    明石家さんまのモノマネでいうと、明石家さんまが言ったことは、モノマネ人間でも構造人間でも同じようにマネできる。しかし明石家さんまが言わないことは、モノマネ人間にはマネることができないが、構造人間にはマネができる。これ

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  • 石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)

    2024-08-26 06:00  
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    東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。
    しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身は、相変わらず中央の最も重要なポストで周囲ににらみを利かせていた。だから、荒木や真崎がやがてなんらかの形で脇へ退くことになったとき、また復帰すると見る向きも多かったのである。
    ところで、東條本人はどうだったか?
    ここが東條の面白いところだが、彼はけっして「腐る」ということをしなかった。どんなポストでも、就けばそれなりに一生懸命やる。そうして、その中で最善を尽くす。
    「置かれた場所で咲きなさい」を地で行くタイプが東條だった。もとより、彼はそこまで出世にこだわっていたわけではなかった。自分はと

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