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記事 22件
  • 劣化する人:その21(1,922字)

    2024-04-30 06:00  
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    今の教育のどこが問題かというと、満7歳の年度から始まる小学校での、生徒同士の関係性の在り方だ。ここで同じ学年全員に対して横並びの教育が始まるため、出遅れると劣等感を味わう羽目になる。
    人間は、7歳にもなるともう立派な社会性を身につけているので、横並びの中での自分の順位は本能的に、かつ非常に気になる。この特性を利用して子供たちを勉強に追い込むのが、明治以降に始まった学校教育の最も基本的なスキームだ。
    そして、このスキームの中では当然のことながら本当に勉強ができる子以外は誰も幸せになれない。勉強はできないがモノマネだけは上手い子は、ここで「勉強ができるフリ」をし、なんとか急場を凌ぐ。するとモノマネに味を占め、ますます励むようになる。そうして33年後、あえなく「劣化する人」となってしまうのだ。
    さらに、勉強ができない上にモノマネもできない子は、ただただ劣等感を募らせて、以降はいじけた人生になって

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  • 石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)

    2024-04-29 06:00  
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    1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。
    東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の量を少なくするなど配慮した。これは、自分が陸大受験に苦労した経験によるものだ。
    東條はとにかく人情にあつかった。人間味があったのだ。それが、エリート揃いの天保銭組の中ではいかにも異色であった。天保銭組のほとんどは、歩兵など歯牙にもかけないどころか、人間扱いすらしなかった。エリートたちにとって、歩兵は単なる駒、もっというと道具に過ぎなかった。道具としてのケアはしたが、人間扱いすることはなかったのだ。
    しかし東條は違った。彼は歩兵たちを人間扱いし、あつい人情をかけた。それで、東條は「人情連隊長」な

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  • 庭について:その75(1,655字)

    2024-04-26 06:00  
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    大名庭園は徳川家康が江戸に幕府を置いたことによって始まった。
    家康は、もともと駿府(静岡市)に本拠地を置いていたが、豊臣秀吉が1590年に小田原を本拠地とする北条氏を滅ぼしたため、北条氏が管轄していた関東の土地を家康が管理しなければならなくなった。
    そこで家康は、太田道灌が1457年に築いた「江戸城」に本拠を構え、部下たちを周囲に住まわせた。そうして「大名屋敷」が、江戸城下にいくつも作られたのだ。
    ところが、後に江戸幕府が開闢し、しばらく経った1657年、明暦の大火という大火事が江戸で起こり、多くの大名屋敷が燃えてしまった。これをきっかけに、幕府は大名たちに「第二第三の屋敷」を持つことを許可した。再び火事が起きたときの避難場所として使うためだ。
    そうして、江戸城に近い屋敷を「本屋敷」、第二の屋敷を「中屋敷」、第三の屋敷を「下屋敷」と呼ぶようになった。江戸城から近い順に「上・中・下」で、下に

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  • 1994:その13(1,737字)

    2024-04-25 06:00  
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    1994年を語る上では1980年代がだいじになってくる。
    ところで、ぼくは1980年に12歳になり、1989年に21歳になっているから、ティーンエイジャーの青春時代を丸々80年代で費やした。そして、当時は分からなかったが、そのときも歴史は動いていたのだ。抗いがたい力が社会に作用して、人々を右往左往させていた。
    当時ティーンエイジャーだったぼくには、そういう意識は全くなかった。自分が時代の流れに翻弄されている意識すらなく、ただ毎日をがむしゃらに乗り越えようとしていた。日々をどうにか耐えしのぐことで精一杯だった。
    だから、極めて近視眼的だった。俯瞰できていなかった。メタ的な視点がなかった。自分が今どこにいて、どこに向かおうとしているのか、分からないだけではなく、そういう考え方が存在するということすら知らなかった。
    井の中の蛙とはこのことだ。周囲を壁のようなもので目隠しされているので、そこが「時

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  • [Q&A]なぜ新NISAはブームになったのか?(2,163字)

    2024-04-24 06:00  
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    [質問]
    noteの『これからの資産形成』という記事を読みました。「安い畑があったら買い取っておくこと」と書かれていましたが、以前から、農地(地目が田畑)が欲しいと思っても、農業従事者でないと買うことができないので仕方がなく山林を購入して自分で開拓して農地を作りました。自治体によっては空き家バンク制度で、狭いですが農地付きの家を購入する事ができます。ハックルさんは農業従事者の資格は持っていないと思われますが、何か農地を購入する手段をお持ちでしょうか? それと、もし農地をお持ちでしたら、効率的な農地の維持管理方法など知っていれば教えて下さい。
    [回答]
    実はぼくも知らなかったのですが、去年に農地法の一部が改正されて、取得条件が大幅に緩和されたんです。
    「農地法関係事務に係る処理基準について」の一部改正について
    上のリンクには明記されていませんが、実は「専業農家」でなくとも、「兼業農家」あるい

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  • 劣化する人:その20(1,942字)

    2024-04-23 06:00  
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    1
    劣化する人が増えたのは、結局勉強に向いていない人に勉強をさせてきたからだ。今から60年前の1960年代までは、勉強に向かない人は勉強をしなかった。しかしそこから勉強社会、受験社会に移行し、全ての子供にほとんど強制的に勉強をさせるようになった。
    その結果、勉強に向いていない子供も勉強をするようになった。だから、心に不調をきたす子供が増えたのだ。
    それでも、中には勉強ができないのに、心に不調をきたさず、学校の成績を上げられる人々も現れた。いわゆる器用で、モノマネが上手い人たちである。彼らは、勉強ができる人のモノマネをすることで、学校時代を乗り切った。そしていい会社に就職し、最初はできる社員のモノマネをすることで好成績をあげた。
    ところが、30代後半からきつくなった。10年くらい前まで、「プログラマー40歳定年説」というのがあった。プログラマーは若い人にしか向いていないため、40歳が限界である。

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  • 石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)

    2024-04-22 06:00  
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    満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?
    彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。
    一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。
    ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。
    そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。
    そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就

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  • 庭について:その74(1,816字)

    2024-04-19 06:00  
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    偕楽園といったらなんといっても「梅」である。園の北東側に広大な梅園が広がっている。その数は約3000本にも及ぶ。
    そして、園のもう半分、南西側には竹や杉の鬱蒼とした森が広がっている。この梅園と森との関係が、「太極図」のような陰陽の世界を表現している。明るい梅園に対し、暗い森。それらが対になることで、偕楽園は一つの世界観、あるいは思想を示している。
    偕楽園の梅は、もともとは水戸の領民に楽しんでもらうのと同時に、弘道館の生徒たちにも心安まる場所を提供したいという思いがあって植えられた。つまりそこには、この世の「陽」を多くの人に味わってもらいたい――という思想があった。
    徳川斉昭は、陽の世界に通じること――すなわちよく遊び、よく休んでこそ、陰の世界――すなわちよく学び、よく働き、よく戦えると考えていた。
    ちなみに、偕楽園から弘道館までは徒歩で30分ほど離れているが、弘道館の庭にもたくさんの梅が植

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  • 1994:その12(1,602字)

    2024-04-18 06:00  
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    1
    「恋愛」というのは、60年代には存在していたものの一般大衆からは遠い存在だった。映画の中だけで起こる憧れのようなものだった。
    それが70年代になると、一般大衆にもゆっくりと広がり始める。ところが多くの人にとって不慣れだったため、上手くいかないケースが多く、四畳半フォーク的な悲しい結末に終わることが多かった。
    80年代に、入ってその傾向に劇的な変化が見られる。それまでの暗さから、急に明るい存在になっていくのだ。理由はただ一つで、女性の地位向上である。恋愛において、女性が主導権を持ち始めるのだ。
    なぜ主導権を持ち始めたかの理由ははっきりしていて、1980年くらいから恋愛適齢期における男女の数が逆転するのだ。それまでは女性が多かったのだが、この頃から男性が多くなる。
    なぜ男性が増えたかというと、そもそも有史以来、男性は女性よりも5%多く生まれている。女性が100人生まれれば、男性は105人生まれ

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  • [Q&A]好きな植物はなんですか?(1,489字)

    2024-04-17 06:00  
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    2
    [質問]
    文脈ノートで、「社会認識の差が格差社会を生んでいる」とありましたが、これは、世の中の大きな流れと、共同親権問題などの小さな社会的な事象を結びつけられる能力がないから、結果として大きな流れを利用できた人との差が深まり、格差がより大きくなるという意味でしたでしょうか? 理解が間違っていたら、教えて頂けますと幸いです。
    [回答]
    「社会認識の差」は、「客観的に見る」ことと「主観的に見る」ことによって生まれます。例えば、個人的には共同親権に反対でも、「客観的に見る能力」があれば、共同親権の方が正しく、世の中がそれを選ぶだろうということは納得できます。
    例えばぼくは男ですから、男がもっとモテる世の中が来た方がいいと、個人的には思っています。しかしながら、世の中は男性の方が多いため、女性の方がどうしても基調価値が高く、女性がモテる世の中になっています。そのことを客観的に見る能力があるから、た

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