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記事 34件
  • 1994:その34(1,637字)

    2024-12-19 06:00  
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    1994年は今年2024年のちょうど「30年前」だ。しかし2024年はもうすぐ終わってしまうので、やがて「31年前」ということになる。
    ぼくはもともと1994年を舞台に小説を書きたいと思っていた。だから1994年について調べ始めたのだが、調べるのが終わらなくなってしまった。1994年を知るにはその前の1980年代のバブルを知らなければならないし、バブルを知るにはその前の1970年代を知らなければならない。そんなふうに、どんどん脇道に逸れていったからだ。
    そうして連載を続けてきて、今は1991年まで来た。ここまで来て分かったのは、今思うと1991年の日本というのは大分「金属疲労」を起こしていたということだ。
    金属疲労というのは、古い文化のまま新しいテクノロジーを受け入れ、キメラ的な社会を作っていたという意味である。しかしその木製の部品と金属製の部品の接合部分の摩耗が激しく、上手く機能しなくな

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  • 1994:その33(1,829字)

    2024-12-12 06:00  
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    1988年初頭のときのぼくの学年を、前回「大学二年」と書いたが、正しくは「大学一年」であった。
    ぼくが大学生に入ったのは1987年4月で、その年の7月に19歳になっている。だから、1988年初頭はまだ19歳の未成年だった。その未成年最後の冬に、武蔵小金井駅のキオスクで買った「漫画アクション」誌を、東京行きの中央線を待ちながら階段下のホームのところで読んでいたのだ。

    そうしてぼくは、いつものように『迷走王ボーダー』から読み始めた。なぜなら、マンガ雑誌は好きな作品から読むようにしていたからだ。そのため、まだ電車が来る前にホームで読むことになったのである。買ったその場ですぐに読んだのだ。
    すると、そこで衝撃を受ける。はじめは意味が分からなかった。タクシーに乗った主人公の蜂須賀が、ラジオから流れてきたとあるバンドの曲にいたく感動するのだ。そうしてアパートに帰ると、友人で隣人でもある木村がたまた

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  • 1994:その32(1,794字)

    2024-12-05 06:00  
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    大学生のとき、中央線の武蔵小金井駅近くの祖父母の家に下宿していた。大学は上野にあったので、そこから40分くらいをかけて通学していた。
    ぼくは大学は現役で国立に入ったし、下宿先は祖父母の家なので、その点では全くお金のかからない子供だった。時代はバブルだからなおさらお金がかからなかった。

    大学時代のぼくは、アルバイトはしていなかったが、以前にも書いたようにパチンコで利益が年間で100万円くらいあった。一方、支出は全くなかったので(両親と祖父母に養ってもらっていた)、それなりに贅沢な暮らしをしていた。
    20万円くらいする29インチの巨大なブラウン管のテレビと、ベータの最高級ビデオデッキを買った。後にVHSのビデオデッキも買い足した。レンタルビデオ店にVHSのソフトしか置いていないケースもあったからだ。
    これも前に書いたが10万円のトヨタスプリンターも持っていた。当時はまだ高かったCDデッキも

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  • 1994:その31(1,643字)

    2024-11-28 06:00  
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    ぼくは「文化」が好きだ。バブルの頃(学生の頃)もやっぱり文化が好きで、可能な限りそこに浸っていた。
    特に当時のぼくは、人生の中で一番暇だった。お金はなかったが時間だけはあった。だから、それを活かして可能な限り文化に浸った。それゆえ、一般よりは深く文化にかかわったといえるだろう。
    ぼくが大学生だったのは1987年から1991年である。すっぽりバブルの真っ只中なのだが、当時はもちろんバブルなどという言葉も知らないし(そもそもなかった)、大学生だから脂っこいところにいたわけでもない。その周縁を彷徨っていたに過ぎない。
    しかし周縁を彷徨っていたからこそ見えていた景色というものもある。ぼくは1994年という年を知りたくてこの連載を書いているのだが、バブルというのはそこから5年ほど前のことである。「十年一昔」でいうなら「半昔」くらいのことだ。
    「半昔」にあったことが1994年に与えた影響は大きいはずで

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  • 1994:その30(1,765字)

    2024-11-21 06:00  
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    ぼくの大学時代は1987年から1991年だ。バブル崩壊が1990年の暮れからだから、ちょうど大学4年の卒業間際に崩壊したことになる。逆にいうと、大学4年生まではバブル絶頂だった。つまりぼくの大学生活はまるまるバブルの中で過ごしていたのだ。
    当然、就職活動期間もバブルの真っ只中、というよりも崩壊直前の絶頂期だった。ニュースではよく、内定に50社や70社受かったという大学生がインタビューを受けていた。ぼくは彼らと同学年だったので注目していた。ただしぼく自身は、就職するつもりはなかったので、就活はしていなかった。だから、内定をたくさん取ったという景気のいいニュースも、横目で見ていたという感じだ。
    ぼくの学部は生徒が17人で、半分が大学院へ進み、半分が就職した。何もしないのはぼくだけだったから、やはり多少目立った。それでも、この頃までにはぼく自身、変わり者というキャラをすっかり確立していたので、誰

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  • 1994:その29(1,723字)

    2024-11-14 06:00  
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    1980年代後半、つまりバブル期の「受験」はどうだったか?
    ぼくは1987年に受験した。つまりバブルのちょうどど真ん中で受験したことになる。当時はまだバブルという言葉もなかったからそんなことはちっとも分からなかったが、今から思うと当時はまだのどかな雰囲気が漂っていた。受験生はぼくから見るとみんな「ゆるく」見えた。命を賭けているという感じはなかった。
    探せばそういう人もいたのだろうが、少なくともぼくの周りにはいなかった。ぼくは東京藝大美術学部建築科にストレートで合格したが、おそらく一番真剣だったのがぼくだった。入学時の成績順は発表されなかったが、ぼくはおそらくトップ合格だったと思う。つまり逆立ちしても入れたような状況だ。逆にいうと、周りは緩かったのだ。それはやっぱりバブルだったからだろう。
    印象的だったのは、予備校の先生がベンツに乗っていたことだ。予備校の先生は藝大建築科の学生なのだが、まだ

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  • 1994:その28(1,629字)

    2024-11-07 06:00  
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    昔は「なぜヤンキーが生まれるのか?」などということは考えたこともなかったが、今なら、それを構造的に読み解くことができる。
    彼らには時間がなかった。中学あるいは高校を卒業すれば働かないといけないという枷があり、遊べる時間が限られていたのだ。
    だからどうしても遊びは過激な方向へ流れた。同級生には大学に進学する者もいただろうから、それが羨ましかった(恨めしかった)というのもある。それで、ハンデを取り戻そうと、しゃかりきになって悪いことをしたのだ。
    同時に、当時の学校教育の矛盾みたいなものもより強く感じていた。受験しない彼らにとって、勉強は何のためにするのか分からない。その「理由が分からないものを強制的に押しつけられている」という状態は、相当なストレスだったろう。
    思えば彼らは、今の子供たちの先駆けだった。意味のない勉強を押しつけられることのストレスで、心身に不調をきたしていたのだ。
    それが校内暴

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  • 1994:その27(1,641字)

    2024-10-31 06:00  
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    ぼくはバブル時代というのは1994年に強く影響していると思う。バブルはだいたい1985年に始まり1991年に終わる。約6年間の狂騒だった。
    そしてその終焉は、ある日突然起こったわけではない。段階的、なし崩し的にずるずると終わっていった。そのため、1994年にはまだその残像、残響、残滓というものが多数あったのだ。社会の至るところにまだまだバブル気分が居残っていた。
    それが最終的に排除させられるのが1995年である。つまり阪神淡路大震災とオウム真理教事件によってだ。ここが明確な潮の変わり目となったから、1994年はまだギリギリバブル時代だったといえなくもない。
    しかしこの頃になると経済は明らかに冷え込んでいて、特に就職戦線は異状をきたし、いわゆる氷河期世代が始まっていた。だから、その気分は高校生にももちろん伝播して、若者たちに暗い影を投げかけていた。
    その暗い影を振り払おうとして、少女たちは援

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  • 1994:その26(1,698字)

    2024-10-24 06:00  
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    1980年代後半に「おニャン子クラブ」ブームが到来する。これはぴったりバブル経済とシンクロしている。
    おニャン子クラブは1985年4月にデビューし、1987年9月に解散する。たった2年半の活動でしかなかった。しかし時代に強烈な爪痕を残した。
    おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』というテレビ番組を母体としている。この番組に出演していた女子高生を主体とする女の子たちのグループがおニャン子クラブだ。
    『夕やけニャンニャン』は、『オールナイトフジ』のスタッフが夕方の帯番組枠(月〜金の17時〜18時)を任されたことで始まったテレビ番組だ。企画主旨は、『オールナイトフジ』のテーマが女子大生だったからこっちは女子高生にしよう――という非常に安直なものだった。
    当時まだ女子高生ブームは来ていない。誰も女子高生などに注目していなかった。もちろん一部好事家の間ではセーラー服が性的アイコンとして定着してはい

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  • 1994:その25(1.866字)

    2024-10-17 06:00  
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    1983年4月、フジテレビの深夜番組として『オールナイトフジ』がスタートする。世の中は夕ぐれ族の話題などもあってちょっとした女子大生ブームだった。まだ本格化していなかったが、バブルはすでに始まっていた。若者の誰も彼もが遊びほうけるような時代がすでに始まっていたのだ。
    なぜこういう時代が始まったのか?
    1970年代前半、世の中はオイルショックやそれに伴うインフレ、また安保闘争の終焉などもあってとても暗かった。ところが、そこから経済が急回復する。インフレが一つの大きなきっかけとなって、給料が伸び始めるのだ。そうしていわゆる大量消費社会が到来する。
    地価がどんどん高騰し始めて、不動産を慌てて買う人が増える。銀行もお金をじゃんじゃん貸すようになって、市中にめぐる金が増える。当時はまだインターネットがなかったから、仕事はいくらでもあった。特に肉体労働がたくさんあったが、そうしたものは学生のアルバイト

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