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記事 28件
  • 1994:その30(1,765字)

    2024-11-21 06:00  
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    ぼくの大学時代は1987年から1991年だ。バブル崩壊が1990年の暮れからだから、ちょうど大学4年の卒業間際に崩壊したことになる。逆にいうと、大学4年生まではバブル絶頂だった。つまりぼくの大学生活はまるまるバブルの中で過ごしていたのだ。
    当然、就職活動期間もバブルの真っ只中、というよりも崩壊直前の絶頂期だった。ニュースではよく、内定に50社や70社受かったという大学生がインタビューを受けていた。ぼくは彼らと同学年だったので注目していた。ただしぼく自身は、就職するつもりはなかったので、就活はしていなかった。だから、内定をたくさん取ったという景気のいいニュースも、横目で見ていたという感じだ。
    ぼくの学部は生徒が17人で、半分が大学院へ進み、半分が就職した。何もしないのはぼくだけだったから、やはり多少目立った。それでも、この頃までにはぼく自身、変わり者というキャラをすっかり確立していたので、誰

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  • 1994:その28(1,629字)

    2024-11-07 06:00  
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    昔は「なぜヤンキーが生まれるのか?」などということは考えたこともなかったが、今なら、それを構造的に読み解くことができる。
    彼らには時間がなかった。中学あるいは高校を卒業すれば働かないといけないという枷があり、遊べる時間が限られていたのだ。
    だからどうしても遊びは過激な方向へ流れた。同級生には大学に進学する者もいただろうから、それが羨ましかった(恨めしかった)というのもある。それで、ハンデを取り戻そうと、しゃかりきになって悪いことをしたのだ。
    同時に、当時の学校教育の矛盾みたいなものもより強く感じていた。受験しない彼らにとって、勉強は何のためにするのか分からない。その「理由が分からないものを強制的に押しつけられている」という状態は、相当なストレスだったろう。
    思えば彼らは、今の子供たちの先駆けだった。意味のない勉強を押しつけられることのストレスで、心身に不調をきたしていたのだ。
    それが校内暴

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  • 1994:その27(1,641字)

    2024-10-31 06:00  
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    ぼくはバブル時代というのは1994年に強く影響していると思う。バブルはだいたい1985年に始まり1991年に終わる。約6年間の狂騒だった。
    そしてその終焉は、ある日突然起こったわけではない。段階的、なし崩し的にずるずると終わっていった。そのため、1994年にはまだその残像、残響、残滓というものが多数あったのだ。社会の至るところにまだまだバブル気分が居残っていた。
    それが最終的に排除させられるのが1995年である。つまり阪神淡路大震災とオウム真理教事件によってだ。ここが明確な潮の変わり目となったから、1994年はまだギリギリバブル時代だったといえなくもない。
    しかしこの頃になると経済は明らかに冷え込んでいて、特に就職戦線は異状をきたし、いわゆる氷河期世代が始まっていた。だから、その気分は高校生にももちろん伝播して、若者たちに暗い影を投げかけていた。
    その暗い影を振り払おうとして、少女たちは援

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  • 1994:その26(1,698字)

    2024-10-24 06:00  
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    1980年代後半に「おニャン子クラブ」ブームが到来する。これはぴったりバブル経済とシンクロしている。
    おニャン子クラブは1985年4月にデビューし、1987年9月に解散する。たった2年半の活動でしかなかった。しかし時代に強烈な爪痕を残した。
    おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』というテレビ番組を母体としている。この番組に出演していた女子高生を主体とする女の子たちのグループがおニャン子クラブだ。
    『夕やけニャンニャン』は、『オールナイトフジ』のスタッフが夕方の帯番組枠(月〜金の17時〜18時)を任されたことで始まったテレビ番組だ。企画主旨は、『オールナイトフジ』のテーマが女子大生だったからこっちは女子高生にしよう――という非常に安直なものだった。
    当時まだ女子高生ブームは来ていない。誰も女子高生などに注目していなかった。もちろん一部好事家の間ではセーラー服が性的アイコンとして定着してはい

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  • 1994:その24(1,601字)

    2024-10-10 06:00  
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    1080年代のはじめに女子大生ブームがあった。これはバブルの始まりで豊かになった親が自分の娘を女子大に入れ始めたのがきっかけだろう。これに呼応して女子大もまたいっぱいできた。1970年まで女子大はあまりなかったが1970年代になって急に増えるのだ。
    団塊の世代で女子大に行った人はあまりいない。女子大に行ったのはその下の「シラケ世代」だ。1955年から1965年くらいに生まれた世代だ。彼らが18歳になる1973年から、徐々に女子大と女子大生が増え始める。そして1980年代になってそれが本格化する。
    女子大ブームを印象づけたものは二つある。一つは「夕ぐれ族」でもう一つは』オールナイトフジ』だ。
    夕ぐれ族は1982年に実在した売春組織である。経営者が若い女性だったことで世間の注目を集めた。その女性経営者は短大卒を自称していたが実際には通っていなかったらしい。しかし彼女の運営する売春組織(愛人バン

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  • 1994:その23(1,620字)

    2024-10-03 06:00  
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    1994年、日本の中心は渋谷だった。渋谷が文化の発信地で、けっして大袈裟ではなく老若男女にとって注目の的だった。
    中でも若者にとっては一種の聖地だった。当時の社会における若者に対する注目度はきわめて高く、経済も若者中心に回っていた。だから若者の街渋谷は「経済の中心」でもあったのだ。
    1990年代は渋谷が最も輝いていた時期だ。この頃の渋谷を象徴するのが「音楽」である。
    渋谷と音楽には大きく二つの関係がある。一つはレコードショップが多かったこと。当時の渋谷は、世界で一番単位面積当たりのレコードショップの数が多かった。
    おかげで日本全国はもとより世界中からもコレクターが渋谷にレコードを買いに来ていた。当時すでにCDは普及していたがDJ用のレコードもまだまだたくさん売っていた。だから世界中のDJにとって渋谷は憧れの街となった。
    もう一つは「渋谷系」という音楽が流行ったこと。フリッパーズ・ギターとピ

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  • 1994:その22(1,749字)

    2024-09-26 06:00  
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    なぜ1994年のことを書こうと思ったかといえば、それが1995年の前の年だからだ。1995年はなにしろ阪神淡路大震災とオウム真理教事件があったので、人々の記憶に今も鮮やかに残っている。ここが日本社会の一つの転換点だった。ここから失われた30年が本格化した。最も景気が悪かったのが1997年頃だ。
    出版界の売上げのピークも1995年だ。CD売上げのピークもまた1995年である。テレビ業界は2000年くらいがピークだった。いずれにしろ古いメディアが隆盛を極めたのがこの頃である。
    ここから古いメディアは下り坂になる。なぜかというとインターネットが普及したからだが、その前段としてパソコンが普及した。そしてパソコンが普及した背景には、Windows95の爆発的なヒットがあった。これも1995年である。
    そんなふうに1995年は、さまざまな意味で変わり目なのだ。境目なのである。そのため、1994年は「古

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  • 1994:その21(1,633字)

    2024-09-12 06:00  
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    桑田佳祐と松任谷由実という二人のシャーマンの存在で、1980年を境にした日本の恋愛事情の急激な変化というものが見えてくる。
    松任谷由実に『埠頭を渡る風』という歌がある。ユーミンの代表曲の一つだが、この曲が全く売れなかった。発売したのは1978年10月である。『勝手にシンドバッド』が1978年6月だから、その半年後だ。
    この『埠頭を渡る風』と『勝手にシンドバッド』の関連性について論じる者は皆無だろう。ユーミン本人にしたって、『勝手にシンドバッド』を意識して書いたとは思っていないはずだ。
    しかし『勝手にシンドバッド』は大ヒットしたから、当然聞いたことがあったはずだ。そのためこの曲の持つ真価というものが無意識に響き、知らず知らずのうちに影響を与えていたということは考えられるだろう。勝手な想像に思われるかもしれないが、しかしこれは誰が証明できるわけでもない。
    『埠頭を渡る風』という歌の最大の特徴は

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  • 1994:その20(1,752字)

    2024-09-05 06:00  
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    桑田佳祐はやはりすごいと思う。「歌は世に連れ世は歌に連れ」というが、彼こそはまさに時代を先取りしたシャーマンだった。ユーミンが「世に連れた歌を歌う存在」ならば、桑田佳祐は「世を連れさせる歌を歌う存在」だった。桑田佳祐が歌った歌を追いかけるように、世の中が変化していくのである。桑田佳祐は時代を完全に先取りしていた。
    まずデビュー曲の『勝手にシンドバッド』で、女性とうまくいかなくても強がる情けない男を歌う。これは映画の二枚目ではなく三枚目を歌の主人公にしたJ-POPにおける大革命だった。
    もちろん、モテない男の悲哀を歌った歌はそれまでもあったが、それらはあくまでもコミックソングという扱いであった。そして当初、『勝手にシンドバッド』もその歌詞の内容からコミックソング扱いであった。しかしそれを聞いていた若い男性の多くは、そのコミック性の裏に溢れ出るほどの詩情を感じた。
    そうして感情移入した。みっと

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  • 1994:その19(1,620字)

    2024-08-29 06:00  
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    桑田佳祐は「弱い男」だった。それも、単なる弱い男ではなかった。その弱さが格好良かった。だから、時代のシャーマンたり得た。
    桑田佳祐がデビューした当時、世の中にはまだ「弱くて格好いい男」あるいは「その弱さこそが魅力になっている男」は存在していなかった。巷には存在はしていたかもしれないが、エンタメ界にはいなかった。
    そこに初めて明確な形と言葉を伴って登場したのが桑田佳祐だった。だから彼は、時代の(そして次代の)シャーマンとなったのである。
    ところで、桑田佳祐の「格好いい弱さ」における原由子の存在は重要である。原由子が、桑田佳祐の弱さにおける「格好良さ」を際立たせているからだ。
    そして面白いことに、松任谷由実はその対称となっている。松任谷由実にとっては、松任谷正隆の存在が重要なのだ。彼がいるからこそ、ユーミンの強さも魅力的になっている。
    ユーミンと桑田佳祐は、それぞれ「女が強くなる時代、男が弱く

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