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記事 48件
  • 1994:その48(1,694字)

    2025-04-17 06:00  
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    そろそろこの連載も終盤に近づいてきた。
    1994年は今から31年前である。そのときぼくは26歳だった。26歳になる年だった。その年に何が起きたのか、振り返ってみたい。
    ぼくは1991年に大学を卒業して社会に出た。秋元康さんの会社で最初の1年はADをしていたが、1992年度つまり1992年の4月から放送作家見習いに転籍して働き始めた。
    放送作家見習いは会社員ではないから文字通りの丁稚奉公だ。会社に寝泊まりしてみんなの手伝いなどをしながら、ご飯を奢ってもらったり細かな仕事をもらったりして食いつないでいた。
    当時はとにかく金がなかったが、それだけに歯を食いしばって頑張っていた。1992年も1993年もなかなか芽は出なかったが、それでも石にかじりついて飛躍のチャンスをうかがっていた。
    そんなぼくに転機が訪れたのは1993年の暮れである。つまり放送作家見習いを始めてから1年と9ヶ月が経過したときだ。

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  • 1994:その47(1,735字)

    2025-04-10 06:00  
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    先日たまたま逮捕されたが広末涼子は自身が女子高生のときポケベルのCMをやっていて、それが当時話題となった。1996年のことで、広末は16歳であった。
    このCMをきっかけに、女子高生がポケベルを持つということが一般的になった。だから、その2年前の1994年はまだ女子高生がポケベルを持つには早かった。この頃は働いている女性が持っていることが多かった。
    ぼくが初めてケータイを持ったのは1994年のことで、それもやっぱり少しだけ早かった。ただしぼくはお金がなかったので、ドコモのケータイは持てずに当時あった「東京デジタルホン」を持った。SoftBankケータイの前身である。
    東京デジタルホンCM - YouTube
    これは当時関東エリアしかカバーしていなかったが、やがて全国へ波及していくという触れ込みだった(実際にそうなった)。そのため当時はすでに全国をカバーしているドコモに比べて安かった。
    今とな

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  • 1994:その46(1,770字)

    2025-04-03 06:00  
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    今考えるとぼくがケータイを持ち始めたのが1994年だった。そして1994年は最初の妻とつきあい始めた年でもある。つまりぼくにとってはケータイと恋愛が強く結びついていた。そういう人間は、ぼくだけではなかったはずだ。
    ぼくは26歳だった。25歳までつまり1993年まではケータイのない生活だったが周囲の諸先輩はすでにケータイを持っていた。ぼくの師匠である秋元康が『ポケベルが鳴らなくて』というドラマをプロデュースし主題歌の歌詞も書いたのが1993年である。
    このドラマは、視聴率はいまいちだったが、主題歌はスマッシュヒットを記録した。主演の裕木奈江が視聴者の反感を買いバッシングされた。不倫の話だったのだが、裕木奈江が男を誘惑するという話だったので、女性からの嫌悪感が募ったのだ。
    話が逸れたが、問題はポケベルである。このとき、裕木奈江が演じた若い女性が年上の妻子ある男性と不倫関係に陥る。その際の連絡手

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  • 1994:その45(1,931字)

    2025-03-27 06:00  
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    この連載もいよいよ1994年の核心部分に近づきつつある。
    何度目かの言及になるが、そもそもなぜ1994年をテーマにこの連載を書き始めたかといえば、1995年が時代の大きな転換点だったからだ。そして、その転換点を知るには、転換後の1995年以上に、転換前の1994年を知ることが重要だと思ったからである。
    1995年は、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件も転換の大きなきっかけとなったが、それ以上に大きかったのはWindows95の登場と、それによって広まったインターネットだ。これで一気に世界が刷新された。新たな時代が幕を開けることとなったのだ。
    そのため1994年は「インターネットがない時代」ということになる。では「インターネットがない時代」がどういうものかといえば、大きくは「近代社会」である。「人口増加時代」であり、「一億総中流社会」だ。あるいは、ジャパン・アズ・ナンバーワン社会、ホワイトカラ

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  • 1994:その44(1,729字)

    2025-03-20 06:00  
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    1990年代になって、突如「恋愛ブーム」が始まった。それまでも若者たちは恋愛していたが、それとは違った形の恋愛が、90年代になって急速に広まったからだ。そしてそれに、ほぼ全ての若者が参加した。
    そのブームの兆しは、70年代後半にまで遡る。70年代後半にラブコメブームが巻き起こり、中高生の恋愛が一般的になった。そんな彼らが80年代に入って本格的な恋愛にのめり込み、それを一種のレジャーにまで昇華させたのである。
    そうして90年代に入ると、80年代に広まったそのレジャーとしての恋愛が、一つの形式として整備され、ほとんど全ての若者が参加可能になったのだ。バブルはすでに終わっていたが、バブルの頃に始まった恋愛文化だけは、90年代に入ってもとどまるところを知らず、むしろ拡大することとなったのである。
    バブルの中で、新しい恋愛形式が醸成されていった。その中で最も重要だったのは男性が自動車を持っていること

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  • 1994:その43(1,637字)

    2025-03-13 06:00  
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    1990年前後に「月9」というブーム(ブランド)が生まれ、ふくらんでいった。1990年代の半ばには支配的になって世間を席巻する。それはまさに「テレビの時代」だったともいえよう。そしてテレビの時代の中心にいたものこそ「月9」だった。
    それがバブル崩壊や『ちびまる子ちゃん』の隆盛、あるいは音楽ブームと同時に起こっているのが面白い。いずれもバブル崩壊の後遺症がもたらしたものという見方もできるが、同時に虚飾から本質へと移行する、その過渡期に咲いた一つのあだ花とも見ることができる。
    なぜ「あだ花」かというと、その在りようが「夢」だったからである。夢には2つの意味がある。1つは、現実とは別の世界(夜に見る夢)。もう1つは、これから叶えたい願い(将来の夢)。いずれも、「現実」ではない。だからこそ、結局はあだ花で終わったのだ。
    1990年代、日本人は虚飾の宴が終わったことによって現実を突きつけられた。その

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  • 1994:その42(1,853字)

    2025-03-06 06:00  
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    おニャン子クラブは、1985年4月にデビューし、1987年9月に解散する。わずか2年半の活動であった。
    ただし、シングルレコードオリコン初登場連続1位記録は継続中であった。さすがに絶頂期は過ぎていたが、しかしまだまだ人気は保っていたのだ。
    それでも解散に至ったのは、母体となっている「夕やけニャンニャン」の視聴率低下に歯止めがかからなかったからだ。そしてその主因に「とんねるずロス」というものがある。
    とんねるずは、最初から「夕やけニャンニャン」のレギュラー出演者であったが、おニャン子クラブの人気が上がるに連れ、次第に「この番組は自分たちのものではない」と感じるようになった。そのため一時は月曜日から金曜日まで毎日出演していたのを、徐々に減らし最後はとうとう水曜日だけとなった。
    そして、この水曜日担当のディレクターこそ、後に「みなさんのおかげです」を立ち上げ、さらにはフジテレビの社長となって、最

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  • 1994:その41(1,863字)

    2025-02-27 06:00  
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    おニャン子クラブは1985年にデビューすると、瞬く間に国民的な人気を獲得する。グループとしてはもちろん、そこから数々のメンバーやユニットがソロとしてレコードデビューし、毎週のようにシングルを発売する。
    すると、そのことごとくが大ヒットを記録し、オリコンの週間1位になる。1986年、オリコンのシングル1位は46曲あったが、そのうちなんと30曲がおニャン子クラブ関連曲だった。
    おニャン子クラブはフジテレビが夕方の帯番組として放送していた「夕やけニャンニャン」のレギュラーメンバーだった。若い女の子(その多くが女子高生)を集め、番組のマスコットとして出演させた。常時20人くらいのメンバーがいたため、いつも決まったメンバーが出るわけではなかった。20人もいると、なんらかの理由で欠席するメンバーも多かったのである。
    「夕やけニャンニャン」は、フジテレビが土曜日の深夜に生放送していた「オールナイトフジ」

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  • 1994:その40(1,793字)

    2025-02-20 06:00  
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    松田聖子や中森明菜、小泉今日子など、当時は単なるアイドルにしか思っていなかったが、今振り返ると若者たちをリードし、それによって社会を大きく変えていった。彼らの存在が、文字通り「時代」を作っていった。
    「歌は世に連れ世は歌に連れ」というが、誠に真理である。アイドルは時代の要請によって生まれるが、その生まれたアイドルがまた時代を変化させていくのである。両者は相互補完的で、影響され合いつつ転がっていくのだ。
    中森明菜ははじめこそ松田聖子路線を踏襲したものの、隠し切れない「暗さ」というものがあって、すぐにその前の時代を席巻した山口百恵風に路線変更した。するとこれが上手くいって、松田聖子と山口百恵がミックスされつつ、そのどちらでもない「中森明菜風」が誕生した。
    中森明菜風というのは、ブリッコからは全く逆のアンニュイな路線である。そこにはどこか「スケバン」的な匂いもした。
    スケバンというのは女番長のこ

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  • 1994:その39(1,825字)

    2025-02-13 06:00  
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    松田聖子は当時は単なるアイドルあるいは芸能人として社会的には軽視されていたが、今考えると実に巨大な社会的アイコンであった。松田聖子の真に偉大なところは、無数の若い女性フォロワーを生み出し、日本の文化――特に恋愛文化を大きく変化させたことである。
    当時の松田聖子は、若い女性に巨大な影響力を持っていた。そして80年代から90年代にかけては、若い女性が社会の中で最も強い影響力を持った層だったから、それはそのまま日本そのものに巨大な影響力を持っていたということにもなる。
    松田聖子は女の子の在り方――「スタイル」というものを規定した。多くの女の子が、「松田聖子のようにならなければ男性からモテない」と強く信じた。そして当時は、多くの女性が「男性からモテたい」と思っていた。いや「モテなければ女じゃない」という強い強迫観念に縛られてさえいた。
    この二つの思いすなわち「松田聖子でなければモテない」「モテなけ

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