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  • 1994:その40(1,793字)

    2025-02-20 06:00 19時間前 
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    松田聖子や中森明菜、小泉今日子など、当時は単なるアイドルにしか思っていなかったが、今振り返ると若者たちをリードし、それによって社会を大きく変えていった。彼らの存在が、文字通り「時代」を作っていった。
    「歌は世に連れ世は歌に連れ」というが、誠に真理である。アイドルは時代の要請によって生まれるが、その生まれたアイドルがまた時代を変化させていくのである。両者は相互補完的で、影響され合いつつ転がっていくのだ。
    中森明菜ははじめこそ松田聖子路線を踏襲したものの、隠し切れない「暗さ」というものがあって、すぐにその前の時代を席巻した山口百恵風に路線変更した。するとこれが上手くいって、松田聖子と山口百恵がミックスされつつ、そのどちらでもない「中森明菜風」が誕生した。
    中森明菜風というのは、ブリッコからは全く逆のアンニュイな路線である。そこにはどこか「スケバン」的な匂いもした。
    スケバンというのは女番長のこ

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  • 1994:その39(1,825字)

    2025-02-13 06:00  
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    松田聖子は当時は単なるアイドルあるいは芸能人として社会的には軽視されていたが、今考えると実に巨大な社会的アイコンであった。松田聖子の真に偉大なところは、無数の若い女性フォロワーを生み出し、日本の文化――特に恋愛文化を大きく変化させたことである。
    当時の松田聖子は、若い女性に巨大な影響力を持っていた。そして80年代から90年代にかけては、若い女性が社会の中で最も強い影響力を持った層だったから、それはそのまま日本そのものに巨大な影響力を持っていたということにもなる。
    松田聖子は女の子の在り方――「スタイル」というものを規定した。多くの女の子が、「松田聖子のようにならなければ男性からモテない」と強く信じた。そして当時は、多くの女性が「男性からモテたい」と思っていた。いや「モテなければ女じゃない」という強い強迫観念に縛られてさえいた。
    この二つの思いすなわち「松田聖子でなければモテない」「モテなけ

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  • 1994:その38(1,553字)

    2025-02-06 06:00  
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    1990年かそれより少し前辺りから、新しい「若い女性」というものが出てきた。80年代前半は松田聖子に代表されるかわいい「ブリッコ」が若い女性としてほとんど唯一の価値だった。顔がまずいと「ブス」と呼ばれ、それだけで社会における価値は大きく下落した。まだ今のような女性に対する人権意識は社会の中になかった。わずかに男女機会均等法が施行されたくらいだ。
    「かわいくなければ女じゃない」という価値観は当時の世間を覆い尽くしていた。だから顔がかわいくない女性と、たとえかわいくてもその価値観に賛同できない女性は隅っこで小さくなっているほかなかった。
    しかしそうした価値観に徐々にカウンターが現れ始めた。「顔だけが女性の価値ではない」という声がそこここに表れ始めたのだ。その端緒は「Olive少女」ではなかったか。
    Olive少女は松田聖子に代表されるブリッコ少女へのカウンターとして生まれ、広まっていった。では

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  • 1994:その37(1,854字)

    2025-01-30 06:00  
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    『おどるポンポコリン』は1990年暮れにレコード大賞を獲得する。このときがヒットの絶頂であった。この曲がエンディングテーマになっていたアニメ『ちびまる子ちゃん』の視聴率も、同年10月28日に39.9%を記録し、これが番組としての歴代一位であると同時に、全てのアニメの中でも歴代一位となった。この記録は、今後永遠に破られないだろう。
    39.9%という数字は、当時でもサッカーのワールドカップの日本戦をしのぐレベルである。しかもワールドカップは4年に1回だが、『ちびまる子ちゃん』は「毎週」なのである。毎週日曜、ワールドカップ並みの数字を文字通り叩き出し続けていた。
    このときの日本は、はっきりいって「躁状態」だった。躁状態の極まった感じが、このアニメと主題歌のヒットに集約された。
    ただし『ちびまる子ちゃん』と『おどるポンポコリン』は、その後も人気を保持し続ける。これだけの躁状態を記録した異常なヒット

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  • 1994:その36(1,673字)

    2025-01-23 06:00  
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    『クリスマス・イブ』と『ちびまる子ちゃん』は実は全く同じ時期にヒットしている。牧瀬里穂のCMが国民的ヒットとなったのが1989年暮れ。そして『ちびまる子ちゃん』のアニメがスタートしたのは、その数週間後の1990年1月7日である。これは偶然ではない。両者はともに、当時の世の中をビビッドに反映していた。だからこそ、同じ時期に同じくらいヒットしたのである。
    その「当時の世の中」を表すキーワードは「不安」である。80年代の暮れ頃から、日本には言い知れぬ不安というものが押し寄せていた。それはバブル崩壊への不安と同時に、予想もしていなかった「失われた30年」に対する不安でもあった。とにかく当時の日本人の多くが、バブルが長く続かないことは無意識のうちに分かっていた。
    そこで「安心」が求められた。『クリスマス・イブ』と『ちびまる子ちゃん』はその安心を提供するものだった。しかも全く同じ形で提供するものだった

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  • 1994:その35(1,835字)

    2025-01-16 06:00  
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    山下達郎の『クリスマス・イブ』という曲がある。この曲は、90年代を「代表」していたのではなく、ある種「支配」していたのではないだろうか。
    なぜかといえば、当時は「恋愛の時代」だったが、恋愛が最も盛り上がるのがクリスマス・イブだった。そしてクリスマス・イブの定番曲として、文字通りこの『クリスマス・イブ』が君臨していたからだ。
    当時は同時に「音楽の時代」でもあって、CDが異常なくらい売れていた。その中にあっても、この『クリスマス・イブ』は毎年クリスマスシーズンになると、必ずベストテンにランクインしていた。
    そんな曲は他にはなかった。そもそも一度ランク外に落ちた曲が再びランクインすることすら奇跡なのに、その奇跡を毎年、しかも最もCDが売れる苛烈なクリスマスシーズンに成し遂げていたのである。そんなふうに、音楽界でもこの楽曲は、王者としての揺るぎない地位を築いていた。
    そのため『クリスマス・イブ』は

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  • 1994:その34(1,637字)

    2024-12-19 06:00  
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    1994年は今年2024年のちょうど「30年前」だ。しかし2024年はもうすぐ終わってしまうので、やがて「31年前」ということになる。
    ぼくはもともと1994年を舞台に小説を書きたいと思っていた。だから1994年について調べ始めたのだが、調べるのが終わらなくなってしまった。1994年を知るにはその前の1980年代のバブルを知らなければならないし、バブルを知るにはその前の1970年代を知らなければならない。そんなふうに、どんどん脇道に逸れていったからだ。
    そうして連載を続けてきて、今は1991年まで来た。ここまで来て分かったのは、今思うと1991年の日本というのは大分「金属疲労」を起こしていたということだ。
    金属疲労というのは、古い文化のまま新しいテクノロジーを受け入れ、キメラ的な社会を作っていたという意味である。しかしその木製の部品と金属製の部品の接合部分の摩耗が激しく、上手く機能しなくな

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  • 1994:その33(1,829字)

    2024-12-12 06:00  
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    1988年初頭のときのぼくの学年を、前回「大学二年」と書いたが、正しくは「大学一年」であった。
    ぼくが大学生に入ったのは1987年4月で、その年の7月に19歳になっている。だから、1988年初頭はまだ19歳の未成年だった。その未成年最後の冬に、武蔵小金井駅のキオスクで買った「漫画アクション」誌を、東京行きの中央線を待ちながら階段下のホームのところで読んでいたのだ。

    そうしてぼくは、いつものように『迷走王ボーダー』から読み始めた。なぜなら、マンガ雑誌は好きな作品から読むようにしていたからだ。そのため、まだ電車が来る前にホームで読むことになったのである。買ったその場ですぐに読んだのだ。
    すると、そこで衝撃を受ける。はじめは意味が分からなかった。タクシーに乗った主人公の蜂須賀が、ラジオから流れてきたとあるバンドの曲にいたく感動するのだ。そうしてアパートに帰ると、友人で隣人でもある木村がたまた

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  • 1994:その32(1,794字)

    2024-12-05 06:00  
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    大学生のとき、中央線の武蔵小金井駅近くの祖父母の家に下宿していた。大学は上野にあったので、そこから40分くらいをかけて通学していた。
    ぼくは大学は現役で国立に入ったし、下宿先は祖父母の家なので、その点では全くお金のかからない子供だった。時代はバブルだからなおさらお金がかからなかった。

    大学時代のぼくは、アルバイトはしていなかったが、以前にも書いたようにパチンコで利益が年間で100万円くらいあった。一方、支出は全くなかったので(両親と祖父母に養ってもらっていた)、それなりに贅沢な暮らしをしていた。
    20万円くらいする29インチの巨大なブラウン管のテレビと、ベータの最高級ビデオデッキを買った。後にVHSのビデオデッキも買い足した。レンタルビデオ店にVHSのソフトしか置いていないケースもあったからだ。
    これも前に書いたが10万円のトヨタスプリンターも持っていた。当時はまだ高かったCDデッキも

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  • 1994:その31(1,643字)

    2024-11-28 06:00  
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    ぼくは「文化」が好きだ。バブルの頃(学生の頃)もやっぱり文化が好きで、可能な限りそこに浸っていた。
    特に当時のぼくは、人生の中で一番暇だった。お金はなかったが時間だけはあった。だから、それを活かして可能な限り文化に浸った。それゆえ、一般よりは深く文化にかかわったといえるだろう。
    ぼくが大学生だったのは1987年から1991年である。すっぽりバブルの真っ只中なのだが、当時はもちろんバブルなどという言葉も知らないし(そもそもなかった)、大学生だから脂っこいところにいたわけでもない。その周縁を彷徨っていたに過ぎない。
    しかし周縁を彷徨っていたからこそ見えていた景色というものもある。ぼくは1994年という年を知りたくてこの連載を書いているのだが、バブルというのはそこから5年ほど前のことである。「十年一昔」でいうなら「半昔」くらいのことだ。
    「半昔」にあったことが1994年に与えた影響は大きいはずで

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