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記事 23件
  • 死をどう考えるか?(1,910字)

    2020-07-31 06:00  
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    死を考えるのは難しい。
    死を考えるときに、ぼくが参考にしているのは「葉隠れ」である。
    「葉隠れ」とは、江戸時代に佐賀の鍋島藩の武士・山本常朝が、鍋島藩に伝わる武士道を若い弟子に伝えたのを書き起こした書とされ、その中の重要な文言に「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」というものがある。
    この文言はきわめて重要な概念だが、理解している人は少ない。なぜなら、第二次大戦中に神風特攻隊において「特攻隊員が死にやすくするため」に便利に使われてしまったからだ。
    この言葉を聞いた特攻隊員は、「死ぬことこそが男らしいのだ」と解釈し、死んでいった。しかしそれは、この言葉の意味するところとは全くといっていいほど違う。むしろ逆といっていい。
    鍋島藩の武士は、朝起きたときに必ず「死ぬ」ことをシミュレーションした。例えば、城へと向かう道を歩いていたら、隠れていた刺客に背後から襲われ、袈裟懸けに斬られてしまったために血し

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  • 医者が作った生命倫理(1,915字)

    2020-07-30 06:00  
    110pt
    医学の急速な進歩によって、「生命倫理」は社会的コンセンサスを置いてきぼりにしたまま大きく変容していった。そうした事態に現場で直面したのは、患者とその家族そして医師であった。
    ただし、たいていの患者や家族は無知であった。だから、生命倫理はもちろん「生きる」とは何かも知らず、医師の言いなりになるケースがほとんどだった。
    そして医師は(とりわけ20世紀の医師は)、権威主義と事なかれ主義のハイブリッドが大半だった。また金の亡者も多く、他者の痛みには鈍感だった。
    中には謙虚で思慮深い人もいたが、そういう人はたいてい周囲との調和を築けず、一匹狼で孤立していた。『赤ひげ』の主人公のようなものである。
    だから、彼らの生命倫理が主流派になることはついになかった。そうして、医師の権威と事なかれ主義とによって、「20世紀の新たな生命倫理」が形作られていった。
    おかげでそれは、大変に「無責任」なものとなった。基本

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  • [Q&A]人間のメカニズムを知るにはどうすればいいか?(2,260字)

    2020-07-29 06:00  
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    [質問]
    離婚をきっかけに「どうやったらパートナーと長く楽しく過ごせるのか」という問いを考えるようになりました。
    先日のれいわ新選組がテーマのメルマガで、人間関係で深刻な事態に至らないようにするには、
    「①人間のメカニズムを理解する②自分の欲求(他者支配の快感など)を許容する③他者の気持ちを許容する」との考え方がありまして、
    自分が足りなかったのはコレだ!と気付きました。
    ①②③を身に着けて、長期的に良好なパートナーシップを築けるきっかけにしたいと思いました。
    まずは①を徹底的に研究すると②③ができやすくなると思うのですが、
    もしそうであれば、①を研究するためには「社会心理学」や「認知心理学」的なものを学んで自分で考察していくことが一番の早道だと思うのですがいかがでしょうか?
    [回答]
    人間を理解する上では、確かに心理学が非常に役に立ちますね。思えばぼくも、自分では意識していなかったですが

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  • 生命倫理について(1,690字)

    2020-07-28 06:00  
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    京都でALSの患者が安楽死を依頼し、それに応えた医師が嘱託殺人に問われた事件について。
    これをきっかけに「安楽死について真剣に議論すべきだ」という人が現れた。すると、それに対して多くの人が「不謹慎だ」と吹き上がり、結局「議論すべき」の声はトーンダウンしてしまった。中には、「議論さえもすべきではない」という狂信者がいて、しかも多数の賛同を集めている。
    また、安楽死について述べる人がいると、すぐに「生命倫理についてしっかり勉強してください」などとマウントをとってくる人がいる。しかし、そういう人も別段生命倫理についてしっかりと学んだり考えたりしたことがあるわけではない。ただ、そういうふうに言うと相手も生命倫理についてしっかり考えたことがないから日和らせることに成功できる。そうしてマウントを取れるので、便利に使っているだけなのだ。
    そこで今回は、生命倫理について考えてみたい。ただし、最初に結論から

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  • Wii Uの2画面について(1,706字)

    2020-07-27 06:00  
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    Wii Uにおける2画面は、画面同士の距離を大胆に引き離した。これまでニンテンドーDSでは数センチだったのが、一気に数メートルにまで広がった。
    ここまで広がると、「視点移動の煩わしさ」はむしろ「前提」となる。そのため、短所もある種の個性になるといえよう。
    だから、それを利用したゲームというものも考えやすくなる。短所というのは、極端だとかえって長所となる場合が多いのだ。
    Wii Uで、この極端な短所を最もうまく活用したのが「マリオチェイス」ではなかったか。「マリオチェイス」とは、「ニンテンドーランド」というパーティーゲームの中に入っているミニゲームの一つなのだが、内容は「逆鬼ごっこ」ともいうべきものだ。一人の鬼が逃げ、残りのプレーヤー(1名から4名まで)がそれを捕まえる。
    このとき、鬼はスクリーン付きのコントローラーを持ち、逃げる方はスクリーンなしのコントローラーを持つ。そして鬼だけは、手元

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  • れいわ新選組はなぜカルト集団化したのか?(2,000字)

    2020-07-24 06:00  
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    ぼくは去年、「モラル・ハラスメント」という本を読んで、大きな衝撃を受けた。ぼく自身、モラハラの虜になっていたことに、齢50にして初めて気づけたからだ。

    モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
    その後、安冨歩先生から、先生自身がモラハラの研究について書かれた「誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠」という本をすすめられ、さらにモラハラへの理解が深まった。

    誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠
    だから、安冨先生には大変感謝していたのだが、その先生が去年、突然れいわ新選組から参議院選挙に出馬することになった。
    それで、ぼくは具体的に何かを手伝ったわけではないが、彼に投票した。また、同時にれいわ新選組や山本太郎氏にも興味を持ち、東京選挙区ではれいわ新選組から出馬した野原ヨシマサ氏に投票した。そういうふうに、れいわそのものに好意を抱いていた。
    とこ

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  • デュアル・スクリーン(DS)の盲点(1,719字)

    2020-07-23 06:00  
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    デュアル・スクリーン(DS)の理想型は、オリエンテーリングである。オリエンテーリングは、手元の地図と目の前の風景とを見比べる「リアル・デュアル・スクリーン」だ。この面白さを、なんとかゲームで再現しようとしたのだ。
    しかしながら、それは機能しなかった。
    なぜか?
    例えば、「マリオカート」というゲームがある。これなどは、実に「DS向き」に思えた。
    なぜかといえば、マリオカートにはたいてい「マップ」が表示される。コースを俯瞰から見下ろした図に、各プレーヤーがどこを走っているか、示される。「トゲゾー」という攻撃アイテムも表示されるなど、ゲームにおいてきわめて重要な役割を果たしている。
    このマップ、シングルスクリーンのときには画面の右下隅に表示されているのだが、DSにすれば下画面に大きく表示でき、視認性が高まる。
    つまり、「地図を見ながら移動を楽しむ」という「オリエンテーリング」的な遊び方が、そのま

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  • [Q&A]三浦春馬さんの自殺についてどう思うか?(2,070字)

    2020-07-22 06:00  
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    [質問]
    いつもありがとうございます。
    ハックルさんのメルマガや文脈くんを1年ほど読ませて頂いて、恥ずかしながらようやく少しずつ「文脈」の大切さがわかってきました。
    現在の私の理解では、文脈をつくることの意味は、「文脈をつくることである特定の出来事の解釈が出来上がり、価値を感じにくかった出来事に、価値を生み出すことができる。」みたいなニュアンスで理解しているのですが、こういう感じの理解で合ってますでしょうか?
    もし、上記で合ってるのであれば、「文脈が生み出す価値」とは、世の中の出来事に何らかの感情や興味を持たせることが価値になってくると思います。(実際にハックルさんのメルマガを読んで、まさに膝を打つような理解することへの快感が何度も起きました。)ということは逆に考えると、やはり人間にとって、特定の出来事の意味が分からないという状態は不快や苦しさを伴うとも考えられます。
    しかし、現代は、神話

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  • ゲーム&ウオッチのマルチスクリーンについて(1,839字)

    2020-07-21 06:00  
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    「ニンテンドーDS」の「DS」とは「デュエル・スクリーン」の略だそうである。これまで「ダブルスクリーン」と記述していたのを訂正したい。
    さて、このデュエル・スクリーン(DS)はなぜ機能しなかったのか? DS、3DS、Wii Uと三度やってもダメだった。
    では逆に、DSが機能したことはあるのか?
    それは、ゲーム&ウオッチのときにデュエル・スクリーン(当時はマルチスクリーンといった)で発売したところ、好評を博したということがある。そこでここでは、ゲーム&ウオッチの歴史を簡単に振り返ってみたい。
    まず1980年に、第1シリーズとして「ノーマルスクリーン」のものが発売される。これが空前のブームを巻き起こした。特に「ファイア」という機種が売れた。
    続いて1981年に第2シリーズの「ワイドスクリーン」が発売された。これは、最初のノーマルスクリーンがあまりにも小さく、ゲーム性が限られていたからだ。
    さら

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  • Wii Uの失敗(1,973字)

    2020-07-20 06:00  
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    Wii U失敗の原因はどこにあるのか?
    それは、どこまでも「ダブルスクリーン(DS)」にこだわったところだろう。
    ただし、その姿勢は評価できる。たとえ根拠がなくとも一つのことにこだわるのは、いつか一点突破で巨大なイノベーションにつながる。
    もちろん、失敗したときのダメージは大きい。だが、それでいいのだ。その派手な失敗は、必ず明日の糧になる。これは結果論に見えるかも知れないが、Wii Uで派手に失敗したことが、その後Nintendo Switchの成功につながった。
    Wii Uは、ダブルスクリーンの「発展系」である。
    これまでのダブルスクリーンは、スクリーン同士が近接していた。しかしWii Uにおいては、初めてその距離を離してみた。テレビの画面に加え、コントローラーにも画面を設けることで、大きさも違えば距離も離れている変形ダブルスクリーンを構成したのだ。
    これは明確に「DSの失敗」に対するリ

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