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記事 33件
  • マンガのはじまり:その33(1,800字)

    2023-05-29 06:00  
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    マンガとはなんだろうか?
    元々日本には江戸時代から豊かな出版文化、そして絵画文化があった。浮世絵が人気で北斎が「北斎漫画」を描き、かなり受けたので巻を重ねた。そうして「漫画」という言葉は江戸時代、すでにそれなりに根づいていた。
    「漫画」はもともと「そぞろに描いた絵」という意味で、つまりはスケッチ集のことだ。ただしそこには「滑稽味」がはじめから備わっていた。北斎は「滑稽なスケッチ集」のことを漫画と呼び、それが人気を博した。だから、漫画という言葉には「滑稽な絵」という意味もはじめから包含されている。
    そもそも日本人は、滑稽な絵を好む傾向があった。実生活でふざけるのが下手なので、絵(バーチャルな世界)でふざけたいのだ。ふざけた絵を見てストレス解消をするのが日本文化だった。あるいは「ふざけ方」を学ぶという目的もあった。
    だからこそ、浮世絵ではふざけた絵が人気だった。そのため絵師たちは「ふざけ」の技

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  • マンガのはじまり:その32(1,689字)

    2023-05-22 06:00  
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    近藤日出造は、読売新聞に連載された政治風刺漫画が人気を博し、見事に復活する。特に、自分が支持する吉田茂が首相になってからは厭世観も抜け、しばらく安泰に過ごしていた。
    しかしながら、そんな近藤に新たな不安の種が宿る。それは手塚治虫が登場し、新しい漫画をヒットさせたことだ。特に、赤本をヒットさせたことだった。
    赤本は、手塚が一番人気だったが、それ以外の数多くの漫画家も描いていた。ただしその内容は、子供におもねった低俗なものがほとんどだった。戦争直後であるにもかかわらず(いやだからこそか)、時代劇やスパイものの「殺し合いアクション漫画」がブームとなったのだ。
    近藤の息子も、ご多分に漏れずそうしたマンガの大ファンで、父の描く政治漫画にはほとんど興味を示さなかった。近藤は、そんなふうに息子が自分の作品に関心を示さなかったからというわけではないが、ただの殺し合いが延々とくり広げられる低俗な赤本漫画には

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  • マンガのはじまり:その31(1,673字)

    2023-05-15 06:00  
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    近藤日出造は、戦争直後に郷里上田に無事帰還し、しばらくは平穏に暮らしていた。しかし何もすることがないのと出身地であるにもかかわらず田舎の暮らしに馴染めなかったので、数ヶ月後に菅生定祥に手紙を書き、東京に戻ってもいいかと打診した。すると、なんと菅生はすでに「漫画」誌を細々とながらも再開しており、すぐに戻ってきてまた編集を頼みたいという。
    そこで近藤は妻子を郷里に残したまま勇躍上京し、西荻窪にある弟子の塩田英二郎宅に仮住まいしながら、漫画家及び編集者生活を再開するのだ。
    しかしながら、近藤のこの活動はしばらく迷走を続けた。というのも、近藤は元々保守派の人間だったのだが、戦後の世の中の急な左傾化ですっかり調子が狂ってしまったのだ。そうして世を儚み、厭世的になった。GHQや政府が信じられず、緩やかなアナーキストとなっていった。
    ところで、これは近藤も含め多くの人が誤解しがちなのだが、戦中の陸軍はけ

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  • マンガのはじまり:その30(1,689字)

    2023-05-08 06:00  
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    1944年11月、空襲で「漫画」誌のオーナーである管生定祥の家が焼け、家族が皆死んでしまうという悲劇があった。これを機に「漫画」誌は休刊になる。さらに、翌1945年3月、今度は漫画家仲間たちが合宿していた借家も空襲で焼けてしまう。そうなると、近藤日出造にもすることがなくなり、すでに家族を疎開させていた自分の郷里である長野県上田市に戻った。
    故郷に戻った近藤は、ただごろごろ寝て過ごしていたという。漫画を描けなくなったということもそうだが、戦争にも負けそうだということが肌感覚として実感できたため、何もする気が起きなかったからだ。それまでがむしゃらに働いてきた分、糸が切れてしまったように動けなくなった。
    そんな近藤に、ほどなくして新たな展開が訪れる。それは徴兵である。なんと7月になって召集令状が来るのだ。
    このとき、戦況はすでにどん詰まりだったが、当然のように全ての日本人はまだ一月後に「終戦」を

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  • マンガのはじまり:その29(1,937字)

    2023-05-01 06:00  
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    近藤の漫画家人生は、皮肉なことに戦争中がピークであった。しかも彼は、戦時中だからこそ、その生来の能力を十全に発揮することもできた。彼は戦時下に向いていたのだ。困難な時代をたくましく生きることに長けていたのである。その点、他の漫画家とは大きく違った。
    ただ、戦争は日本そのものを沈潜させた。そのため、当然のように近藤もそれに足を引っ張られた。戦争中は、とてもではないが国民にマンガを読む余裕がなかった。マンガを読んでいるのはよっぽどの変わり者かモノ好きだけだった。
    それでも近藤はめげずに漫画を描き続けた。そしてこの時期の近藤は乗っていた。まず作品の評価が高かった。また人間としても信頼が厚かった。新漫画派集団のリーダーとして、八面六臂の活躍をした。多くの仲間を助け、難局を逞しく生き抜いた。
    開戦してからしばらくは、「漫画」誌が好調だった。ただし「好調」といっても戦時下のことなのでたかが知れていた。

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  • マンガのはじまり:その28(1,696字)

    2023-04-24 06:00  
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    近藤日出造は、1932年に新漫画派集団を作って波に乗り、1933年から読売新聞の嘱託となって売れ始めた。
    しかしこの頃から段々と戦争の影が忍び寄る。近藤は政治家や役人が嫌いだったから、なるべく距離を取ろうとしていた。戦争に対しても、なるべく中立な立場を取ろうとしていた。
    ただ、持ち前の風刺精神、ナンセンス精神は旺盛だったから、中国戦争初期にはこれを皮肉り、あざ笑う漫画をいくつか描いた。すると、2回ほど憲兵に捕まってしまい、手ひどい取り調べを受けた。近藤の皮肉が不敬罪に当たるというわけだ。
    しかし近藤は、二度ともなんとか起訴を免れた。理由は、憲兵に土下座して謝ったからだ。無駄な抵抗は一切しなかった。
    近藤は、役人が好きではなかったが、抵抗するプロレタリア勢力とも一線を引いていた。自分はあくまでも一介の漫画家であり、運動家ではないという矜持を強く持っていたのだ。だから、国家とは距離を取りつつも

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  • マンガのはじまり:その27(1,660字)

    2023-04-17 06:00  
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    近藤日出造は、知れば知るほど複雑な人物である。「多面性」というより、多面的な「二面性」があって、なかなかとらえきれない。頑固に見えて柔軟である。頭が良いことは確かだが、ふとしたところで抜けている。逞しいようで存外にもろい。
    近藤と横山、それに杉浦を中心とした新漫画派集団は、結成後に「ナンセンス漫画」というジャンルを確立した。そうして、それまでの北澤楽天一派や岡本一平らの漫画を駆逐し、大きな人気を獲得していった。
    それは、ちょうど大正から昭和への「時代の移り変わり」でもあった。大正時代は経済的に豊かで、人々は社会性や物語性のある娯楽色の強い漫画を求めた。ところが、昭和に入って世の中が混沌とすると、娯楽性よりもっと刺激の強い「ナンセンス」を求めるようになったのだ。
    ナンセンスは、第二次大戦直後にも流行する。このときは、ほとんどの人がひもじい思いをするというどん底の経済状況を背景にしてのことだっ

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  • マンガのはじまり:その26(1,940字)

    2023-04-10 06:00  
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    新漫画派集団は近藤日出造と横山隆一がツートップだった。近藤が政治的なリーダーシップを発揮すれば、横山は人気と実力でグループを牽引した。
    この2人の間を杉浦幸雄が取り持った。杉浦は都会育ちの垢抜けた人間で、ともに地方出身で頑固な近藤と横山の両者と相性が良かった。この3人が上手く関係を構築したからこそ、新漫画派集団は機能した。
    そんな中で、近藤は読売新聞と契約する。1933年のことだ。新漫画派集団の結成が1932年なので、結成からほどなくしてのことだった。
    近藤は、そもそも新聞社からの仕事がもらえないから窮余の策として新漫画派集団を作った。ところが、作った途端にその新聞社から仕事の依頼が来るのだから、皮肉なものである。
    近藤は、最初は新漫画派集団がすでにあるからということと、読売のような最大手に行くことに戸惑い、この依頼を固辞しようとした。しかしどうしてもと強く請われたので、杉浦と一緒に入った

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  • マンガのはじまり:その25(1,893字)

    2023-04-03 06:00  
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    1929年、一平塾に杉浦幸雄が参加する。杉浦は後に、独特のお色気描写が特徴の「風俗漫画」で名をなす。なんと90歳を超えるまで雑誌連載を持つなど、生涯を現役として過ごした。
    杉浦は、1911年の生まれで2004年に91歳で亡くなっている。近藤は1908年の生まれなので年は近藤の方が3つ上なのだが、2人は馬が合って親友になった。そして2人とも一平の最も熱心な弟子になった。一平の家に入り浸っては、一平との会話に興じたりご飯を食べさせてもらったりした。
    そんな2人の前にほどなくして横山隆一が現れる。横山も一平塾に参加したのだ。彼は紆余曲折を経た後に一平塾に参加するが、塾生たちがあまり漫画の話をしないため、塾自体はすぐに離れてしまった。それでも、後述するが近藤や杉浦とのつき合いはこの後長くなる。
    横山は、一平塾の中で突出した才能の持ち主だった。かわいらしいタッチの絵と笑いのセンスが秀逸で、後に「フク

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  • マンガのはじまり:その24(1,610字)

    2023-03-27 06:00  
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    近藤日出造は1908年生まれ。1876年生まれの北澤楽天より32歳下。1886年生まれの岡本一平よりも22歳下である。一平の息子の岡本太郎が1911年生まれなので、3つ上。つまり近藤は、一平の息子のような年齢だった。
    長野県北部の生まれで、実家は衣料や雑貨を扱う商店。6人兄弟の次男だった。
    小学校卒業後、東京に働きに出るも脚気を患い、すぐに実家に戻る。今度は長野市内の洋服屋に丁稚に出るも、やはり性に合わず、戻ってくる。
    そうして実家にいたところ、朝日新聞の懸賞マンガで入選し、3円を得る。これを契機に投稿を重ね、やがて漫画家を志すようになると、再度上京して東京美術学校に入ろうとする。ところが、小学校しか卒業していなかったため入学資格がなかった。そこで、遠い知り合いだった漫画家の宮尾しげをを頼り、宮尾を通じて岡本一平に会う。それが縁で、一平塾へと入るのだ。1928年、近藤20歳のときであった。

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