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記事 22件
  • 生きるとは何か?:その12(1,864字)

    2021-11-30 06:00  
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    今回は、「自分がこの世界の一部であることを思い出す方法」について見ていきたい。
    トルストイの『アンナ・カレーニナ』という小説がある。ここには、二人の主人公が出てくる。タイトルにもなっているアンナという女性と、そしてリョーヴィンという青年だ。物語は、この二人のエピソードが交互に展開するので、二人は全く対等の主人公といえる。
    ところが、この作品におけるアンナは人気で有名であるにもかかわらず、リョーヴィンは不遇だ。映画化や舞台化などをされると、決まって話がアンナのパートに集中し、リョーヴィンのパートは全部カットになったりする。
    あるいは、20世紀の偉大な小説家であるナボコフも、「リョーヴィンのパートは不要だ」などと言ったりしている。そのため、この作品におけるリョーヴィンは、今に至るまでほとんど注目されていない。『アンナ・カレーニナ』という、世界の小説史の中でも指折りの作品の主人公であるにもかかわ

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  • 好きなことを見つける方法:その25(1,807字)

    2021-11-29 06:00  
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    1991年3月、ぼくは大学を卒業しようとしていた。ちょうどそのとき、つくば市の実家に帰省していたのだが、家の近くの西武デパートの最上階にある映画館に、『ゴッドファーザー PART III』がかかっていた。
    この作品は、盛んにテレビCMを打っていたので、そこで知った。そうして、自然と興味を惹かれたので、見てみることにしたのだった。
    なぜ興味を惹かれたかといえば、CMで見た映像の、そのセピア調の色彩が魅力的だったからだ。また、音楽の醸し出すムードも良かった。いずれも、その雰囲気が良かった。それで、ほとんど内容も知らないまま見ることにしたのである。
    実は、恥ずかしながらこのときまで、ぼくは『ゴッドファーザー』の1も2も見たことがなかった。見るのはこの3が初めてだった。
    ところが、そんなふうに過去作を知らなかったにもかかわらず、見て、圧倒された。前段は分からずとも、その雰囲気、ムードに圧倒された。

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  • なぜ大谷翔平くんの活躍を素直に喜べないのか?(1,619字)

    2021-11-26 06:00  
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    大谷翔平くん(なぜか「くん付け」がしっくりくる)がMVPを獲得したが、ぼくは複雑な気持ちにさせられた。なぜなら、ぼくはまさに彼の活躍をきっかけに、自分の中に新しい価値観が萌芽していることに気づいたからだ。
    というのも、彼の活躍を素直に喜べないぼくがいるのだ。なぜかというと、理由は一つで彼の遺伝子が恵まれていることによる。彼は、野球選手として類い希なる先天的才能を有している。そのことに、ぼくは複雑な気持ちにさせられるのだ。
    なぜ複雑な気持ちにさせられるかというと、それは現代の「差別」につながるからだ。才能のある大谷くんを褒め称えるのは、才能のない他の選手をけなすのと一緒である。それで、大谷くんを素直に褒められない。
    この論理はしかし、まだ多くの人には理解してもらえない。なぜなら、けなすことは誰かを傷つけるので良くないが、褒めるのは誰も傷つけないのでいいではないか、と考える人が多いからだ。

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  • マンガの80年代から90年代までを概観する:その32(1,494字)

    2021-11-25 06:00  
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    1
    1980年代後半は、今から思うとマンガがつまらなくなりつつあった。
    『ボーダー』が1986年に始まり1989年に終わるのだが、これが一つの時代の転換点になった。スピリッツでは柳沢きみおが1987年から1990年まで『妻をめとらば』を掲載していたが、これもバブルの時代を象徴するような内容であった。
    今思うと、バブル経済が社会に及ぼした影響はとてつもなく大きかった。1980年代後半、世の中は紛れもなくバブルに浮き立っていたのだ。
    そんな最中の1989年1月、手塚治虫が亡くなる。その直前に昭和天皇が崩御した。しかもこの年は、美空ひばりや松田優作、そしてぼくの好きな色川武大も亡くなる。そんなふうに、時代が転換した年となった。
    ただし、バブル経済はまだ続いていた。バブルが弾けるのは1991年の1月だから、ちょうど2年後だ。手塚が亡くなって2年後にバブルが弾け、マンガ界も本格的な低迷期に入る。
    しかし

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  • [Q&A]文章の構成が上手くなる方法は?(2,997字)

    2021-11-24 06:00  
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    [質問]
    たばこ自販機でたばこを買うため必要なタスポが終了するようです。たばこは衰退していっています。一方カナダでは嗜好大麻を街で吸っている人が普通にいるようです。大麻は方法により、たばこよりも害がすくなくできるため。将来的に、たばこ自販機が大麻自販機に変わっていく可能性もあるのでしょうか。たばこの制度を活用して大麻の制度を取り入れれば受け入れ易いかと思いご教示願います。よろしくお願いいたします。
    [回答]
    大麻は法律で禁止されているので、普及するのはとても難しいと思います。一般に、今の日本の法律を変化させるには、何らかの社会的きっかけが必要です。特に、大麻を認可するというような大きな変化となると、よほどのことでないと無理でしょう。それこそ、「大麻がコロナの特効薬だと判明した」くらいのことが必要です。
    [質問]
    先日のQAで、「みんな、そもそもコミュニケーションが成立すると思っているんです

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  • 生きるとは何か?:その11(1,679字)

    2021-11-23 06:00  
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    今回は、「将棋的に生きる」ということを見ていきたい。
    将棋というのは、そもそもは「一局」という単位に区分できる。その一局は、「一手」の積み重ねによって形成される。
    そこでは、前述のようにこれから指す未来の一手が、過去の一手の価値を変えることもある。さらに、そこで変わった過去の手の価値が、さらにその先の一手によって再度変わったりする。
    その意味で、一手の価値は死ぬまで決まらない。いや、死んでからも決まらない。死んだ後、後世の人々によって将棋の研究が進み、悪手かと思われていたその一手が実は偉大な一手だったと分かる――ということだってある。
    その意味で、将棋の「勝敗」というのは、盤上の一手だけではなく、生まれる前からの将棋の歴史や、死んだ後の将棋界の方向性によっても決まる。つまり、全ては関連しているのだ。全てはつながっている。
    森羅万象――取り分け時間は、全てつながっているのだが、それは一見する

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  • 好きなことを見つける方法:その24(1,707字)

    2021-11-22 06:00  
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    感情がない人は「冷笑的」だ。メタ的な立場を装って、物事を俯瞰で見る。それも、まるっきり俯瞰というわけではなく、斜めから見る。そして腐す。
    なぜそうするかといえば、斜めのポジョンを取ることで、自分の立場を有利にできるからだ。相手よりいくらか上位に立てる。
    冷笑的な人間は、相手より優位に立ちたい気持ちを常に抱いている。そして、斜めからものを見ることによって、相手より優位に立つ。このとき、物事を斜めから見ることの副作用として、冷笑的になり、感情を失う。
    そのため、感情を取り戻すには、この逆をする必要がある。つまり、相手より優位に立ちたい気持ちを捨て、物事を斜めから見るのをやめる。その逆に、ぐっと肉薄して、いやいっそその内側に入り込んで、そこから主観的な眼差しで見る。つまりは、「当事者」になるということだ。「自分ごと」にするのである。
    では、人はどうすれば物事を「自分ごと」にできるか? その前に、

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  • 53歳のキモいおじさんだけどアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』を見てみたよ(2,280字)

    2021-11-19 06:00  
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    タイトル通り、おれは53歳のキモいおじさんだけど、アニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』を見てみたよ。なので、今日はその感想を書いてみたい。ちなみに、Amazonプライムで見た。
    おれは、スマホゲームは全くしない。また、一期も見ていない。なので、純粋に二期のアニメだけの感想d。キモいおじさんの感想なので、そこら辺は割り引いていただけるとありがたい。
    結論から言おう。泣いた。他のキモいおじさんは知らんが、おれは若い頃からキモかったので「走る少女萌え」だ。薬師丸ひろ子が相米慎二に「走るのが上手いね」とキモく褒められたというエピソードが好きで、「だからおれは薬師丸ひろ子が好きなのかぁ」と気づかされた。
    ちなみに、走る薬師丸はここにちらっと出てくる。
    『野性の証明』劇場予告編
    そういえば、「お湯をかける少女」というのも好きだったな。これはおれだけではなく、当時かなり話題になったけど

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  • マンガの80年代から90年代までを概観する:その31(1,579字)

    2021-11-18 06:00  
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    マンガの黄金期は1960年代半ばもしれない。赤塚不二夫と石ノ森章太郎が、それぞれ『おそ松くん』と『サイボーグ009』でヒットを飛ばした。手塚治虫は『ワンダー3』の不発でミソをつけるが、コムでは『火の鳥』を描き、これが結局生涯の代表作となった。ガロでは滝田ゆうや楠勝平がいい仕事をしていた。貸本も永島慎二や矢代まさ子が最後のあだ花を咲かせていた。
    そして、何よりマガジンで『巨人の星』と『あしたのジョー』が平行して連載していた。そんなふうに、多様な方向性がそれぞれでスパークしていたのだ。マンガの可能性が急激に広がっていた時代だった。
    70年代は、噴火した火山のマグマが固まった時期といえよう。そこで天下を取ったのが、意外にも貸本から来た水島新司の『ドカベン』だった。これで80年代以降のマンガの方向性がある程度固まった。
    70年代後半になると、しかし『ドカベン』の勢いは急速に衰え、代わってジャンプが

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  • [Q&A]本質に目を向ける人と向けない人の差は?(2,976字)

    2021-11-17 06:00  
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    [質問]
    ここ最近、ハックルさんのメルマガを読んでいると、事象の本質に目を向けようという内容のものが多いように感じます。ただ、ハックルさんが書いた言葉を読みながら「本質に目を向けるのことができる人と、それができない人との差は何だろう?」と考えてしまいます。
    ハックルさんは、その差はどこにあると感じられますか?
    僕は本質に目を向けることができない人は「分からない」という状態に耐えられないのではないかと思います。分からないという状態に向き合うことを恐れて、本質を見ることから逸してしまうのではないかと思います。そして本質に目を向けることができる人とできない人の差にあるのは「愛ではないか?」と考えています。誰かを愛したこと。誰かから愛されたこと。人ではなくても何かを愛したこと。そういった経験が大事なのではないかと思います。
    少し話が変わってしまいますが、以前、ハックルさんが書かれた『台獣物語』(第

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