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2015年8月の記事 4件

「寝屋川中1殺害事件、近代化の闇に魔物の徘徊」小林よしのりライジング Vol.145

 偏見は差別を助長する。  だが偏見が人間の警戒心として有効に機能する場合もある。  偏見という言葉の持つ両義性の間で、「これは差別か?」「これは真っ当な警戒心か?」とバランスをとる判断能力が必要になる。  大阪・寝屋川の中1男女二名誘拐・殺人犯は、2002年にも同様の監禁事件を犯していたとテレビで言っていた。  その時は男の子が監禁されてるから、どうやら今回の事件は男の子の方が目的だったようだ。女の子は一緒にいたから、先に始末したということか?  少年監禁性欲という極めて特殊な変質者もいるのだろう。  性的な変質者は再犯する可能性がある、これは一概に偏見とも言えず、性欲の問題だから抑制できずに暴走する危険性を考慮せざるを得ない。  だからアメリカでは「ミーガン法」で性犯罪者にGPS探知機の装着を義務付けて、近所の人々が追跡できるようにして再犯を防止している。  人権問題のようにも見えるが、被害者になり得る女子供の人権の方が大事だというのは、わしには理解できる。  しかし深夜に子供を徘徊させる親も問題だが、何度でも同様の事件が起こっているし、「親は何してるんだ?」とその度に思ってしまう。  それほど家族間の絆は切れてるのだろう。子供は家族共同性の綻びをツイッターやラインなどのSNSで繕って、誰かと繋がっていれば安心するようだ。  親は親で、ケータイを持たせているから安心と思うらしく、貧困層の親は仕事だけでくたびれて、子供を見守る余裕もないという状態なのだろう。  ケータイがあり、コンビニがあり、ファミレスがあり、漫画喫茶があり、近代化されて便利な社会だから、我が子を放っておいてもどこかで生きているはずとしか思わないようだ。     便利で近代化された時代にも、人間という獣は蠢いている。  今の時代は弱者が弱者を狙うから、男子も女子も関係なく、獣に狙われる。

「寝屋川中1殺害事件、近代化の闇に魔物の徘徊」小林よしのりライジング Vol.145

「安倍首相の戦後70年談話を検証する」小林よしのりライジング Vol.144

 8月14日、安倍首相の戦後70年談話が発表された。  安倍談話は戦後50年の村山談話の約2.6倍、戦後60年の小泉談話の3倍近い長ったらしいものだった。   もともと安倍晋三が戦後70年談話を出そうとしたのは村山談話を否定するためであり、安倍を支持する自称保守派はみんなそれを期待していたはずである。  ところが蓋を開けてみれば、 ただ村山談話を冗長にしただけの代物。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「心からのおわび」という村山談話の4つのキーワードも全て入れ、「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と、村山談話の揺るぎない踏襲を宣言してしまった。    同日に出演した「朝まで生テレビ」では、この談話は事前にアメリカに見せているはずだと指摘しておいたが、案の定、 談話の作成にあたっては事前にアメリカに内容を説明し、理解を求めていたという報道がすぐに出てきた。   国民はこれを普通の事として受け入れているが、首相自らが「内政干渉」を申し出るというのは属国の証明である。  もし中国に日本の首相談話をチェックさせていたら、大騒ぎになったはずだ。中国には内政干渉させない、アメリカなら内政干渉されていいといのが、この国の従米属国精神なのだ。  結局のところ、安倍首相やそのコアな支持者が唱えていた首相談話からの自虐史観の克服は、戦勝国の監視を恐れてどんどん後退し、ついには安保法制を通すために、村山談話を踏襲するしかなくなってしまったわけだ。  これは完全に安倍首相自身の変節であり、保守派は激怒してデモを起こさねばならないのだが、静かなものである。相変わらず、安倍ちゃんのやることなら何でも支持の、安倍真理教に嵌ってしまっている。  こんなことなら、新談話を出す意味など何もない。村山談話でよかったのである。  わしは外国特派員協会の記者会見で「アメリカの戦争史観に染まったような談話だったら批判する」と表明しておいた。   もちろん、先週批判した有識者懇談会の報告書を見た時点で予想がついていたことだが、 談話は完全に欧米中心の歴史観によって書かれていた。 これについても、批判する以外にない。  談話では日本は満州事変以降、道を誤ったとして次のように言っている。   世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。  当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。  満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。  日本は、平和を望む欧米諸国が作った「新しい国際秩序」への「挑戦者」になったというのだ。   こんな単純な「欧米=善玉、日本=悪玉」の歴史観は、実は欧米の研究者でさえ否定している。  少々長くなるが、イギリスの歴史家クリストファー・ソーンの『満州事変とは何だったのか』(市川洋一訳、草思社)から引用しよう。

「安倍首相の戦後70年談話を検証する」小林よしのりライジング Vol.144

「アジア解放は理念も実行もあった」小林よしのりライジング Vol.143

 8月6日、「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」という長ったらしい名称の会議が、安倍首相に報告書を提出した。  戦後70年にあたり、14日に閣議決定の上で発表されることになっている安倍談話とやらの下地になる歴史観をまとめた報告書である。  これを一読して、『戦争論』以降の17年間の論戦は、一体何だったのだろうと思わざるをえなかった。   その歴史観は完全なる「司馬史観」であり、「東京裁判史観」だったのである。  まず報告書では19世紀について触れ、 「 世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な戦争に敗北してしまった 」 結果、 「 西洋諸国を中心とする植民地化は世界を覆った 」 とする。  そしてその一方、 「 アジアにおいては、植民地化を免れようと近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利 」 、さらに 「 日露戦争で日本が勝利したことは、ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった 」 と書いている。  アヘン戦争を 「 極めて非道な戦争 」 とまで表記し、そんな西洋列強の植民地化から免れるために日本は近代化したこと、そしてさらに日露戦争の功績も十分に認めて書いている。  ところが、昭和に入ったあたりから一変。 「 日本は、満州事変以後、大陸への侵略を拡大し 」「 世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた 」 等々、これでもかとばかりに断罪をし始め、しまいには 「 1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない 」 と切り捨てるのだ。  そして、戦後になるとさらに一変。 「 日本は、先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった 」 と言ってのけるのだ。  日露戦争までの日本はいい国。1930年代に入ると魔法にかかったように極悪な国になり、戦後はまた全く異なった国に生まれ変わった、というのだ!!   歴史を分断し、自分の気に食わない時代の日本を「別の国」にしてしまうのだ。歴史教科書論争の頃にも散々批判してきた「便利すぎる歴史観」が、こんなところで大手を振ってまかり通っている。 こんなこと、まともな学識者だったら主張できるはずがない。バカの歴史観と言うしかない。  さらに報告書では、満州事変以後を「侵略」と書いている。これに朝日新聞などは「侵略」と明記した!と大喜びしているのだが、実は報告書には「侵略」の語に注釈を付け、 「 複数の委員より、『侵略』と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった 」 として、その理由を以下のように書いている。 1.国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、 2.歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、 3.他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである。  左翼新聞のウェブサイトの中には、この注釈を省いて載せるという悪質なものもあった(さすがに朝日新聞デジタルには載っていた)。  この3点の理由を退けて「侵略」と表記したからには、そう判断した理由も明らかにする必要があるはずだが、それはどこにも書かれていない。  国際法上、「侵略」の定義が定まっていなかったというのは確かにその通りである。パール判決書でも、日本のいかなる戦争も国際法上「侵略」とはされていない。   だが、わしは国際法上の観点とは別に、道義上の観点が必要であると考えるようになった。

「アジア解放は理念も実行もあった」小林よしのりライジング Vol.143

「天皇機関説事件の再来」小林よしのりライジング Vol.142

 憲法学者の圧倒的多数が、安倍政権が成立させようとする安保法制を「違憲」と判断している事実は、もはや動かしようがない。  安倍政権は「合憲」と主張する憲法学者も普通にいるはずだとたかをくくっていたのだろう。だからこそ、ろくに調べもせずに参考人に違憲論者の長谷部恭男教授を招致するという特大オウンゴールをやらかしたわけだし、それを取り繕おうとして菅官房長官は「合憲とする憲法学者もいっぱいいらっしゃる」と発言し、実際には3人の名前しか挙げることができないという醜態をさらして、さらに傷口を広げたわけである。  ここまで来てようやく、安倍政権やその支持者である自称保守派の言論人たちは憲法学者の「違憲」の見解は覆せないということを理解したようだ。そこで今度は、違憲論を唱える圧倒的多数の憲法学者の意見は、無視してもいいと主張し始めた。  例えば拓殖大学特任教授・森本敏は、「 憲法学者の意見が憲法に関する意見のすべてではない。政治家は現実を見て憲法解釈のギリギリを行っている 」と発言している。  要するに、憲法学者の意見は憲法の条文だけを見て言っているが、それでは現実に対処できない。そこは政治家が判断すると言うのだ。  こんなのが防衛大臣をやっていたことにも呆れるが、現実を見ていようがいまいが、 今回の安保法制は「憲法解釈のギリギリ」ではなく、明らかに「逸脱」である。   現憲法では現実に対応できないというのなら、改憲しなければならないのである。  そして、「ギリギリ」か「逸脱」かを判断するのが憲法学者の役割である。   立憲主義とは憲法が国家権力を縛るものであり、その時の権力者である与党政治家の判断で憲法がどうとでも解釈できるというのなら、もう憲法に意味はない。 こんなことは、立憲主義の基本中の基本である。  ところが安倍政権やその取り巻き連中はほとんど「立憲主義」という言葉すら知らないほどの低レベルで、今や自称保守の間では「安保法制を違憲とする憲法学者たちは現実知らずだ」という言説が大流行という有様である。

「天皇機関説事件の再来」小林よしのりライジング Vol.142
小林よしのりライジング

常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!

著者イメージ

小林よしのり(漫画家)

昭和28年福岡生まれ。昭和51年ギャグ漫画家としてデビュー。代表作に『東大一直線』『おぼっちゃまくん』など多数。『ゴーマニズム宣言』では『戦争論』『天皇論』『コロナ論』等で話題を巻き起こし、日本人の常識を問い続ける。言論イベント「ゴー宣道場」主宰。現在は「週刊SPA!」で『ゴーマニズム宣言』連載、「FLASH」で『よしりん辻説法』を月1連載。他に「週刊エコノミスト」で巻頭言【闘論席】を月1担当。

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