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  • 「幼児化する大人たち」小林よしのりライジング Vol.104

    2014-10-14 22:05  
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     先日開催した「ゴー宣道場」のテーマ「 幼児化する大人たち 」の議論に沿って、わしの考え方を簡略に整理しておく。
     ゲストは批評家・ 宇野常寛 氏と社会学者・ 古市憲寿 氏。
     日本の将来は今の若者たちの考え方にかかっている。宇野・古市両氏は今の日本をどう分析しているのか、何を守りたいのか、何を理想とするのか、彼らはこれからの日本や世界をより良いものに出来るのか?それを確認しておかねばならない。
     そして、若い観客にとっては、若者だからこそ共感できる意見や感性もあるだろうし、わしが思想し続ける上でも、彼らから学ぶこともあろう。

     宇野氏は「 そもそも戦後日本において、『大人』なんて本当にいた試しがあるのか? 」という疑問を呈した。
     宇野氏によれば、「大人」とは、本当は存在しないことがわかっていても、「立派な大人」という概念があれば世の中はもっとよくなるんじゃないかという理由で、存在するかのように扱われていた一種のマジック・ワードではないかと言う。
     さらにもっと俗なレベルで「大人」とは何を意味しているかといえば、「 世間の空気になじむこと 」だという。そして、 日本的な「世間」の力は弱くなってきて、個人化が進んでいるからこそ「大人」が成立しづらいのではないか と分析した。

     一方、古市氏は「 幼児化する大人たち 」を普段自分が使っている言葉に置き換えると「 階級社会化 」と「 おじさん化 」の二つだという。
     そもそも 「若者」という言葉が日常的に使われるようになったのは1960~70年代、「一億総中流」と言われるようになったのと同じ時期 だそうだ。
     戦後すぐの日本には、今よりもはるかに階級差があり、同年代の人をひとくくりにして「若者」として論じることはなかったが、経済成長で格差がなくなったことによって、初めて年齢だけで「若者」としてくくられるようになったという。
      ところが今は格差社会化によって再び揺らぎ始めており、年齢で区切るよりも階級や生まれで区切ったほうが、理解ができるという議論が起きてもおかしくなくなっている。
     そうなると、 「幼児化」とは年齢が低いということだけではなく、階級が低いということを含んでいるかもしれない という。
     もう一点の「 おじさん化 」だが、「おじさん」とは、ただ単に年齢が上の男性という意味ではなく、 一個の組織やコミュニティの中にずっと居続けてしまって、自分のことを疑わなくなった人、既得権益にどっぷり浸かってしまった人 をいうそうだ。
     日本の大企業には「おじさん」が多い。会社の価値観に染まり、会社の論理だけを、社会のルールや世の中のルールよりも優先してしまう態度こそが、その「幼児化した大人」だというわけである。

     高森明勅氏は、ヨーロッパ人が江戸時代の日本人を見た時の描写と、文明開化以降の日本人を見た時の描写では、イメージが全く違っていたという、民俗学者・石田英一郎の研究を紹介。
     近代の日本人は、矮小で、どこか落ち着かない、頼りなさげな「子供」のように描かれていたが、江戸時代の日本人は恰幅がいい、堂々としている、落ち着いた「大人」に描かれていたそうだ。
     その理由を石田は、 明治の日本人は自分たちが受け入れようとする文化をしっくりと着こなせておらず、自らのアイデンティティーに対する安心感、信頼感、自信を喪失しており、それがまして自分たちのモデルとしているヨーロッパ人の前に立たされた際には、なおのこと萎縮したふるまいになっていたのだろう と分析したという。
      近代以降の日本に「大人」がいないとする根の深い問題に加え、戦後は日本という国家自体が一人前の大人になれず、アメリカという保護者の前で良い子を務めることに汲々としているという国際的なポジションがある。
     そして政治家たちも最後の責任は取るろうとせず、アメリカにお願いをするという政治構造があるため、社会の中にも本来の大人を成立させにくくしていると、高森氏は指摘した。

     古市氏は、 ある時期までは社会に目標があった。宇野氏の言葉で言うと「 大きな物語 」があった。その時代には、生きる意味のようなものを社会が与えてくれたから、人は浮遊しないで済んだと言う。
     それがこの数十年、特にバブル崩壊以後変わって、これからは自分で生きる意味を探さなければならない。そうなると「 終わりなき自分探し 」が始まり、人々がますます浮遊していく。
     ただし、これはどちらがいいという話ではなく、 「安定」と「自由」はトレードオフの関係にあり、自由になればなるほど安定は失われるものである。
      そこに耐えられない人がネット右翼になったり、わかりやすいナショナリズムの物語に飛び付くということはありうるし、別にそれは右翼イデオロギーじゃなくてもよかったのではないか と古市氏は指摘した。

     一方宇野氏は、日本人は国家というものに対する参加意識が希薄であると言う。