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  • 「戦後最大の宮さま詐欺」小林よしのりライジング Vol.466

    2023-04-18 19:30  
    150pt
    「論破祭り」の快進撃は、もう止まらない。
     もはや男系固執派の論客は誰もが精神的に追い詰められつつあり、その様子もまた手に取るようにわかるから、面白くてたまらない。
     なぜ「論破祭り」がそこまで効果的なのかというと、それは参加する全員がひとりひとり、自分の言葉で書いているからだ。
     男系固執派など自称保守派の者たちもSNSで意見を発信しているが、必ずみんな判で押したような、何かのお手本をコピペした文章になっているから、いくら頭数だけ多くても全然効果を感じない。
     しかし論破祭りでは、ひとりひとりが違っているから、全くリアルな人間の数とその意思を感じる。
     そこが決定的な違いで、これが批判される側にとっては相当のプレッシャーになる。倉山満などもかなり嫌がっていて、ダメージを受けている様子が丸見えだ。
     今まで男系派が言いたい放題できたのは、単に双系派がおとなしくしていたためで、ただ図に乗ってどんどんのさばっていただけだった。
     そこでいざ双系派の公論戦士が沈黙を破ったら、男系派はたちまち何も意味のあることが言えなくなってしまったのだ。
     いまや男系派は反論にもならないことを叫びまくって防戦に努めるか、あるいは沈黙するしかなくなっている。
     同じ土俵に上がってみたら論破祭りの公論戦士の方がはるかに強く、人数も多くて、周りからもそれが良識だと見えているのだ。
     これはいわば 「良識のデモ」 のようなものだ。
     従来の街中でのデモは、シュプレヒコールで全員ひとつの言葉しか言えないから、たとえ多彩な人々が集まっていたとしても、単色のひとかたまりの集団にしか見えないところが弱点だった。
      しかし幸いにもツイッターでは、ひとりひとりの意見を見ることができる。 これだと全体としての統一感がありながらも、それを主張する言葉のニュアンスがそれぞれ違い、ひとりひとりの異なる個性や切り口が見える。これは大きな利点であり、通常のデモよりも効果を上げられるのではないか。
     そしてこれが実際に非常に効果的であるからこそ、男系派は論破祭りをものすごく嫌がっているのだ。
     これはあくまでも議論なのだから、嫌なら片っ端から論破し返せばいいだけのことだ。そもそも、ロジック自体にはそんなに種類があるわけではないのだから、いくら相手の人数が多くても、ひとつ完璧な論理で反論することができれば、かなりの人数をまとめて倒すことができるはずなのだ。
      ところが、男系派にはそれが全くできない。たったひとりの人間すら返り討ちにできないのだから、そんな相手がさらに何十人、何百人といると思ったら、それはもう怖くて怖くてたまらないだろう。
     そんなわけで男系派の論客は、ゴー宣道場とか、ちぇぶとか、わしとかがとにかく嫌で、恐怖にかられて常軌を逸した精神状態になっており、騒げば騒ぐほどバカをさらすしかなく、またそれを大勢に指摘されるものだから、さらに逆上して、もっとバカなことを言い出すという悪循環に完全に嵌っている。
     そんなバカのループ、バカの無間地獄に陥っている男系固執派に比べれば、雑誌「表現者クライテリオン」はまだ若干は頭がよかったようで、すっかり沈黙してしまった。
     クライテリオンは昨年3月号で「皇室論」の特集を組み、そこでなんと、この期に及んで男系固執派への新規参入を表明した。
     そこでわしは同誌編集長の藤井聡と、執筆者の九大教授・施光恒を招いて「よしりん十番勝負」で1対2のハンディキャップマッチを行ったのだが、結果は藤井・施のあまりのレベルの低さに、観客全員があきれ返って終わりとなってしまった。
     するとその後、「『皇室論』を国民的に加速せよ!」と主張していたはずのクライテリオンは、皇室のコの字も語らなくなった。
     わしは、武士の情けで深追いはしない。ヤバいと気づいた男系派がみんなこっそり逃亡してくれれば道は開けるのだから、ここは逃亡も認めてやらなければ仕方がないというものだ。
      ただしこの場合、言論人として一番立派な態度は、自分の言論を総括して転向を表明することであると、それだけは教えておいてあげよう。
     クライテリオンは、この分野に触ったら危ないから傷が浅いうちに撤退して、他のジャンルの言論に移行しようという判断がまだ可能だったわけだ。
     わしとしては、皇統という重大問題であんなに幼稚で杜撰な言論を平気で繰り出した人物が、他の何を論じたところでもうとても信用なんかできないのだが、少なくともクライテリオンは、わざわざ皇統問題で勝負をかけなくてもいいと思っているから黙って静観することができるのだろう。
     しかし他の自称保守知識人は、そうはいかない。 皇統問題の議論における勝敗が言論人としての生命にも、自らのアイデンティティそのものにも直結していて、これがまさに文字通りの「死活問題」なのだ。それは必死になるわけである。