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「映画『風立ちぬ』が炙り出した心理背景とは?」小林よしのりライジング Vol.59
2013-10-22 23:40157pt「「風立ちぬ」をどう見るか?」 映画の感想は人それぞれで、正解があるわけではないが、その感想を通じて製作者や観客の心理背景を探ることは出来る。
宮崎駿監督最後の長編アニメ映画となった 『風立ちぬ』 ほど、賛否両論、観客に多様な感慨を抱かせる作品も珍しい。
それは戦前をどう捉えるか、戦争をどう捉えるか、近代をどう捉えるか、日本的なるものをどう捉えるか等々の命題が、製作者が意図せぬままに映画に込められてしまったからであり、観客の側も戦前・戦後の評価が定まらぬままに分裂しているからでもある。
リベラル・サヨクの評論家が、ゼロ戦に「 暗黒の時代の殺戮兵器 」とレッテルを貼ったが、なにしろ宮崎駿本人が、ゼロ戦の設計者・堀越二郎を主人公にすることに躊躇いを感じているのは明らかだ。
わしの小学生の頃は、『ゼロ戦レッド』『ゼロ戦はやと』『ゼロ戦太郎』『紫電改のタカ』などの漫画が大人気で、日本の戦闘機が米英機を撃墜する痛快さが少年漫画誌で堂々と描かれており、子供たちは無邪気にそれを楽しんでいた。
ゼロ戦や戦艦大和への憧れは、現在の子供たちのガンダムやエヴァンゲリオンなどへの憧れと通じており、子供の頃はわしもゼロ戦のプラモデルを作って楽しんでいたものだ。
少年漫画誌から戦時中のパイロットの活躍が消えるのは1970年代くらいからであり、朝日新聞や朝日ジャーナルが「日本の戦争責任」を追及し始め、旧日本軍の加害行為を過剰に報道するようになり、学生運動が過激化し、団塊の世代が急激に左翼化していった時代からである。
兵器マニアの宮崎駿が、テレビアニメにもなった『ゼロ戦はやと』を知らないはずはなく、ちばてつやの名作『紫電改のタカ』を知らないはずもなかろう。
兵器マニアは宮崎の童心であり、ゼロ戦を「殺戮兵器」と捉える感覚は、70年代以降に芽生えた宮崎のイデオロギーのはずである。
もちろんリベラル・サヨクの最近の言論人も、70年代以降に形成された空気に汚染された頭脳で、相変わらず自虐史観を唱えているだけのことだ。
「ゼロ戦はカッコいい!」それは単なる童心であるから、誰に恥じる必要もない。子供アニメを作ってきた宮崎が、大人向けのアニメを作った途端にイデオロギーに嵌ったというのが残念なことだ。
そもそもゼロ戦を「 殺戮兵器 」というのは間違っている。 ゼロ戦は 戦闘機 であって爆撃機ではない。
「殺戮」とは民間人を無残に殺す場合に使う言葉だが、 爆撃機は民間人を殺戮する可能性があるものの、戦闘機は敵戦闘機と決闘する兵器であって、民間人殺戮には使われない。
戦闘機が戦時国際法を違反する可能性は極めて低いのである。
したがってゼロ戦を描くことに罪悪感を持つ必要などないはずなのに、『風立ちぬ』には堂々たるゼロ戦の勇姿は描かれない。妄想の中のヘンテコな飛行機ばかりが描かれるので、童心を失わないわしとしては物足りない映画である。
それでも多くの大人が感動したと言うのは、日本人の職人的な気質と、控え目で節操のある純愛が描かれるからであり、戦前の人々の礼節と美しい風景がノスタルジーを誘うからであろう。
近代化されない美しい風景や、童心でしか見えない日本的な神々や精霊を描くのは、宮崎アニメの特徴なようだが、それが今まで大人の観客も増やしてきた要因となっている。
ところがまさにその前近代的なものへの憧憬が、近代主義者であるリベラル・サヨクの論客の反発を誘う原因でもある。
近代主義的なサヨクは、資本主義や情報社会を、「 時代を支配する重力 」と考えている。だからグローバリズムへの反発も、原発推進への反発もない。それは戦前回帰であり、前近代へのノスタルジーに過ぎず、そんなことを唱えている者は、「 重力に抗って飛ぼうとする 」ジジイとしか映らないのだ。
だがそもそも飛行機も鳥も重力に抗って「揚力」で飛ぶのであり、もし重力に抗わなければ、墜落して地上に叩きつけられるだけである。
グローバリズムも原発も重力ではないのだが、もし重力なら、抗って自然の力で軽やかに飛んだ方が良いに決まっている。
近代主義サヨクは『風立ちぬ』の二郎と菜穂子の関係性も、前近代的なマチズモ・男性優位だと非難する。これは大きな勘違いだろう。 -
「土下座、おもてなし、へりくだりを考える」小林よしのりライジング Vol.58
2013-10-15 16:15157pt「土下座、おもてなし、へりくだりを考えよう」 「土下座ブーム」だそうだ。
ドラマ『半沢直樹』の最終回のクライマックス、「100倍返し」達成の土下座シーンは香川照之の演技過剰がほとんどギャグの域に達していたが、46.2%という驚異的な視聴率を記録したという。
もともと土下座は身分の高い人に対する儀礼であり、謝罪という意味合いはなかったらしい。
古くは『魏志倭人伝』にまでさかのぼり、「 あるいは蹲(うずくま)り,あるいは跪(ひざまず)き,両手地により恭敬をなす 」と記されているんだそうだ。
江戸時代の大名行列で平民が土下座していたのも、同じ意味である。もっとも実際には時代劇のように道端に人々が深々と土下座しているということはなく、しゃがむ程度だったらしいが。
土下座に「謝罪」という意味合いが強くなったのは戦後のことで、NHK『クローズアップ現代』(10月8日)の調べでは、辞書の「土下座」の項に「謝罪」の意味が記されたのは、確認できた限りでは昭和49年(1974)が最初であり、NHKのカメラが土下座による謝罪を写したのは平成8年(1996)、薬害エイズ事件で製薬会社「ミドリ十字」の幹部が被害原告団に対して行なったものが最初だったという。
奇妙な因縁である。当時わしは「薬害エイズ訴訟を支える会」の代表をやっていて、この時は訴訟の和解を成立させるために製薬会社に「加害責任」を認めさせるべく、大阪のミドリ十字本社前まで行っている。
ただし人集めに利用されただけで本社の中にも入れなかったので、土下座までさせたというのは後で知り、何とも後味の悪い思いをしたものだ。
製薬会社にしてみれば、加害責任を認めたという時点で完全に罪を認めたに等しく、その責任は和解条件の中で果たさなければならず、それだけでも十分重いのに、さらにそのうえ土下座を強要され、 その無様な姿を日本中にさらし、家族や社員にも目撃され、ほとんど人間としての尊厳を踏みにじられ、それでも許してもらえずに、その後歴代社長3人が逮捕され、刑事責任を追及されたのである。
わしはこのことを踏まえて『ゴー宣』で「 心からの謝罪など無意味! 」と描いたこともある。
ところが21世紀に入ると、何か不祥事があると土下座というシーンを頻繁に見るようになり、「土下座」の価値はどんどん安くなっていった。
そして今や「 土下座のデフレ・スパイラル 」とでもいうような有様で、必要がなくても客に要求されれば土下座するという事態まで起きている。
先日は、店員の土下座写真をツイッターに投稿した43歳の女が、強要容疑で逮捕されたという事件があった。
女は衣料品店で購入した980円のタオルケットに穴が開いていたと抗議に訪れ、返金を求めて受け取った。さらに交通費を要求して拒否され、激怒して店員に土下座を強要したようだ。
女は勝利宣言のつもりなのか、その写真をわざわざ自分でツイッターに上げ、店員の容姿や名前まで書いたらしい。さらに店員を自宅に呼びつけて、謝罪の念書も書かせている。
しかしこのツイッターが「炎上」し、この女の氏名や年齢、住所、職業、家族構成、顔写真等々、あらゆる個人情報が調べ上げられてネットにさらされ、ついに逮捕に至ったというわけだ。
なお「強要罪」とは、相手を脅して義務のないことを無理やりやらせることで、3年以下の懲役になるという。
この事件がきっかけで、現在の日本社会では「土下座」が日常化しているという実態が各メディアで報じられた。
テレビの街頭インタビューでは、「土下座を強要された」という体験談が意外なほど多く出てくる。
「 領収書の宛名の書く位置を間違えたら、お金を投げつけられ『土下座しろ』といわれた 」
「 職場の管理者をやっていますが、部下の言葉遣いが悪かったということで、客から土下座を強いられた 」
「 デパートへ勤めていたことがあるので、土下座したことはよくあります。取りあえず謝ろうと 」
デパートに勤めていれば、土下座はよくあるというのが普通の感覚になっているのが驚きだが、店の側も、謝るのがサービスの一つという風潮があるらしく、これにつけ込んで、クレーマーみたいな人がどんどん増えているようだ。 客という立場を利用して居丈高に無理な要求を押し付け、断られたら罵詈雑言を吐いてもいいというような状況がいま、作られつつある。
中には土下座を強要された屈辱に耐えきれずに仕事を辞める者や、精神に傷を負う人も出てきている。「人間としての尊厳のある仕事がしたい」という悲痛な声もある。それでもサービス業では「お客様は神様」だと耐え忍んでいるケースが多いようだ。
「 お客さまは神様です 」
…というのは歌手の三波春夫が流行らせたフレーズだが、本人がこのフレーズに込めた真意は「 自分は神前で祈るときのように雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な芸が見せられないから、お客様を神様とみて、歌を唄う 」というものだったそうで、三波春夫といえどもマナーの悪い客まで認めていたわけではない。
それが「クレーマー容認」の言葉のようになっているのは不本意だということで、三波春夫オフィシャルサイトでは本来の意味を説明している。
http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
しかし実際のところ、「お客様の意向は絶対であり、店の側は客の言うなりにならなければならない」という意味での「お客様は神様」の感覚が日本に蔓延してしまっているのは事実である。
『AKB48論』 の第7章に 「 消費者は権力者ではない 」 という話を描いている。あれはAKB48の握手会に特有の問題ではなく、この消費社会そのものの問題点だ。
「 モンスター・ペアレント 」という言葉も流行ったが、 この消費社会そのものが、消費するだけで個人の人格が完成していると思い込む馬鹿を育ててしまった。 -
「旧皇族を騙る者の宗教活動」小林よしのりライジング Vol.57
2013-10-08 23:30157pt「旧皇族を騙る者の宗教活動」
竹田恒泰の影響力が最近、急速に増してきているらしい。
この「ライジング」の読者にとっては、竹田恒泰といえば生まれも育ちも一般国民であるにもかかわらず自身を「旧皇族」と詐称している「ニセ旧皇族」であり、天皇陛下のご意思に逆らう「男系絶対固執派」であることは周知の事実だろうが、残念ながらこのことが一般には浸透していない。
竹田が主宰する「竹田研究会」は発足5年ほどで全国16カ所に設立され、会員数は現在2万8千人、9月に発売した新書は1週間で8万部が売れたという。
朝日新聞WEEKLY「AERA」は10月7日号の特集『日本「右傾化」の真実』の筆頭に竹田を取り上げている。
全国の「竹田研究会」が定期的に行なう竹田の講演会には重々しさも堅苦しさもなく、「お笑い芸人のライブに、雰囲気は近いかもしれない」という。
竹田の講演は「肩のこらない口調と、漫談家を思わせる巧みな話術」で笑いをとりながら、「天皇は神の子孫です。私たちはみんな、神の子孫なんです」「日本の特徴は、君民一体という点にあるんです」など、天皇の存在を理由として「日本は素晴らしい」と訴えるもので、参加者は「日本人ってすごい、という気持ちになるんです」「竹田先生のお話を聞くと、自己肯定感を覚える」などと言っているそうだ。
わしも17年前に「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた頃は「日本に誇りを持とう」というようなことをシンポジウムや講演会で全国あちこち回って言っていたから、なんだか既視感を覚える。
だが17年前と現在では、世の中の風潮がまるで違うことを強調しておく。
あの頃は、日本人が世界で一番劣った民族だ、世界一悪い民族だ、謝罪し続けなければならないのだという自虐史観が蔓延していたから、決してそうではないと訴えなければならない必然性があったのだ。
そして当時それを訴えることには、ものすごいリスクがあった。ありとあらゆる誹謗中傷、バッシングを受け、マスコミ・出版業界から完全に干されてしまう恐れすらあったのだ。
一例として、わしが『戦争論』を描いた翌年、「AERA」1999年1月11日号に載った特集「日本の不安」の記事を挙げておこう。
記事は70年代に大ブームを起こした『ノストラダムスの大予言』の影響で「1999年7月に世界が滅亡する」という「終末願望」を持った人々を延々とレポートし、「ノストラダムス・ブーム」に思春期を直撃された世代にオウム真理教に入信した者が多いことなどを紹介している。
その上で、若い世代は「イデオロギーのような共同幻想に背を向けてしまった」ために「自分自身の存在を一片の疑いもなく肯定できる確信を失った」と断じ、そのような立つ瀬を失った若者の心理の「補償作用」を果たすのが『ノストラダムスの大予言』のような「破滅的あるいは破壊的なドグマ」(ドグマ=宗教上の教義、もしくは独断的な説)だと決めつける。
奇妙な記事だ。赤軍派や極左のテロ活動によって、イデオロギー(例えばマルクス主義)によって「自分自身の存在を一片の疑いもなく肯定」する若者の方が危険だということは当時もう証明されていたのだが。
論理に飛躍がありすぎとしか思えないが、そんな話を長々と続けておいて、最後に突然こんなことを言い出すのだ!
ノストラダムスの役割は90年代、オウム真理教、尾崎豊、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」へと連綿と引き継がれている。
世紀末の団塊ジュニア世代を震撼させる最強のドグマは、ゴーマニズム宣言のマンガ家、小林よしのりが著した『戦争論』だ。
もう10万光年ワープしたような飛躍っぷりで、全く意味がわからない!
尾崎豊まで悪しき者になっている。
とにかく『戦争論』が『ノストラダムスの大予言』以上の破壊的・破滅的な狂信的危険思想だということにしたかったようだ。
そして記事はこんな記述で締めくくられている。
(『戦争論』を読んで) 日本人であることの誇りを感じられるようになったという女子大生(22)もいる。彼女はいままでに教え込まれた太平洋戦争の知識をまるで信用できなくなっている。
「アジアの国で無闇に謝り続ける政治家と自分をだぶらせて日本人は恥ずべき存在なのだと思い込んでいたけれど、いまは、たとえ負けたにせよ、あの壮烈な戦争を戦い抜いた日本人の子孫であることになんら恥じ入る理由はないと思いを改めています」
彼女も『戦争論』を読んですぐ、戦争中のファシズムのプロパガンダをテーマにした大学の夏季集中講座を聴講した。そこで、すべての従軍慰安婦に一刻も早く補償を、と説く講師の言葉に釈然としない疑念に捕らわれたという。
たとえこの世が終末の予言の通りに滅ばなくても、ノストラダムス的ドグマは肥大する。
かつては「日本人の誇り」なんて言ったら、『ノストラダムスの大予言』と同じ「破壊的ドグマ」だと言われたのである!!
それが今ではどうだろう? 同じ「AERA」がほとんど「竹田研究会」の宣伝みたいな記事を載せている!
記事にはそこに危険性が孕んでいるかのように書こうとしている意図も見えるのだが、結局はそれができず仕舞いに終わっているのだ。隔世の感とはこのことだ。
高森明勅氏にこの話をしたら、「 17年前、小林さんや『つくる会』の面々がデタラメな攻撃を受けながら必死に種をまいたものを、いま竹田が何の労も負わずに楽々と収穫しているわけですよ 」と言われた。
なるほど。そういう構図か。
現在はもうそれほどの自虐史観はない。今ではテレビで毎日のように、日本の文化は外国人が目を見張るすごいものばかりで、他の国がマネしようとしているといった情報が流れている。
かつては中国・韓国の批判などもってのほかという強固な空気ができ上がっていたのに、今では中国・韓国には公共性がなく、どこか劣等な国だなんてことは普通の主婦の会話にも出てくるし、週刊誌は韓国批判をすれば売れるという状態だ。
教育現場にはまだサヨク教師が残っているかもしれないが、もうそんなに影響力はないだろう。
従来は、自分が社会で正当に評価されていないという不遇感や、自分の将来に対する不安感を持っている人が「右傾化」すると言われてきた。しかし「AERA」の記事に登場している「竹田研究会」の会員は平均より多めの収入があり、特に満たされない思いを抱えているわけではないと言っている。
さらに「AERA」が1千人規模のアンケートを行なったところ、特に不遇感や将来への不安感を持たない層でも、自国に対して誇りを持っている割合が高いという結果が出たという。
「AERA」にしてみれば、「右傾化」は不遇感や将来不安のはけ口という結果の方が好都合だっただろうが、データに否定されてしまったのである。
いまは「日本人の誇り」を言っても攻撃してくる者はなく、みんな納得できて、それが普通の人の感覚だと認識される時代になっている。
それならわざわざ今さら講演会に「日本の誇り」の話を聞きに行く必要もないはずなのに、竹田の講演を聞いて感激している者が増えているというのは、何とも不可解だ。
本来、天皇とは何なのかといったことは学校で教えるべきなのに、それが一切行なわれていないから、皇室の話が新鮮に聞こえるというのはわかる。
しかし、だからといってそれで「研究会に参加すると、みんな笑顔で元気になる」などと言っているのはものすごい違和感を覚える。この空気は一体何なのか?
この「AERA」には竹田のインタビューも載っている。
だがここで竹田が言っていることは疑問だらけだ。 -
「新国立カブトガニ競技場の異様」小林よしのりライジング Vol.56
2013-10-01 19:45157pt「新国立カブトガニ競技場の異様」
2020年東京五輪のメイン会場として、現在の国立競技場等を取り壊して建設される新国立競技場のデザインを見た時、即座に「なんじゃこりゃ?」と思った。
これは自転車のヘルメットか? 宇宙船か? カブトガニか?
これをデザインしたのは、イラク・バグダッド出身でイギリス在住の女性建築家、ザハ・ハディドである。何でも彼女は「 現代建築における脱構築主義の旗手の一人 」だそうだ。
で、その「 脱構築主義 」とは何かというと、特定の形式や先入観(イメージによる把握)等々を解体して、既知と未知の世界のエッジに挑戦するとかいう思想なのだそうで、特定の何かに似ているようなデザインは絶対にしないのだそうだ。
だから、たとえこのデザインが「自転車のヘルメット」や「宇宙船」や「カブトガニ」のように見えたとしても、それは「偶然」でしかないんだそうだ。
今どきポスト・モダンか? 「あらゆる意味から逃げろや逃げろ」か!?
わしは80年代の昔懐かしい感覚がしてしまうのだが、若い人が聞いたって「中二病か?」と揶揄するんじゃなかろうか。
歴史も文化も破壊し尽くされたイラクからヨーロッパに逃れ、世界を舞台に個人の実力だけを頼りに生きてきた人がそういう思想に嵌るというのもわかりやす過ぎる構図であるが、それはこの際どうでもいい。
ここでは、このデザインコンセプトは歴史や伝統文化といったものとは全く無縁、というよりむしろ敵視しているということだけ確認しておきたい。
新国立競技場のデザインは国際的に公募が行われ、コンペの結果決定されたのだが、そもそも公募のあり方自体に問題があったのではないかと指摘されている。 というのも、その応募資格が次のような、とんでもなくハードルの高いものだったからである。
応募者の代表者若しくは構成員が次のいずれかの実績を有する者であること。
① 次のいずれかの国際的な建築賞の受賞経験を有する者
1) 高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門)
2) プリツカー賞
3) RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダル
4) AIA(アメリカ建築家協会)ゴールドメダル
5) UIA(国際建築家連合)ゴールドメダル
② 収容定員 1.5 万人以上のスタジアム(ラグビー、サッカー又は陸上競技等)の基本設計又は実施設計の実績を有する者
①で挙げられている賞は「建築界のノーベル賞」といわれるプリツカー賞をはじめ、国際的に権威のある賞ばかり。日本人受賞者は槇文彦、磯崎新、谷口吉生、伊東豊雄、安藤忠雄、SANAA(妹島和世+西沢立衛)だけで、安藤忠雄はこのコンペの審査委員長だから、応募資格のある日本人は5組しかいない。
あとは②に該当する、収容定員 1.5万人以上のスタジアムを設計した実績のある人だが、それもそんなにいるはずないだろう。 最初から応募資格をここまで限っているのに、主催する「独立行政法人日本スポーツ振興センター」は公募の際に新聞全面広告まで出していた。
①の賞のうち、高松宮記念、プリツカー、AIA、UIAの4つを受賞し、幕張メッセなどの作品で知られる 槇文彦氏 は、国際コンペは無名に近い建築家が歴史的建造物を作る可能性もあるという夢やロマンがあるべきだという理由から、このコンペには参加しなかったと語っている。
その槇文彦氏が、決定した新国立競技場建設案に異議を唱えたエッセイが話題を呼んでいる。
http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/034/0000034/file/bE2fOwgf.pdf
槇氏はまずこの決定案を見て、美醜や好悪の問題以前に、この狭い敷地にこんな巨大なものを建てるということ自体に疑問を持ったという。 建築物はそれ単体で存在するものではなく、周囲の環境と調和し、人々に愛されるものでなくてはならないからだ。
「 巨大建造物は必ずしもそこに住むもの、通過するものにとって親しまれ、愛されるものであるとは言えないのだ 」と槇氏は言う。
国立競技場は、道路一本を挟んですぐ明治神宮外苑に隣接している。そのためまず明治神宮の説明をしなければならない。
明治神宮は、未曾有の国難を乗り越えてきた時代の中心にあった明治天皇を永遠に称えたいとの思いから創建された。
明治天皇の陵墓が遺言によって京都に作られることになったため、それならば御霊をお祀りする神社を建てたいという声が民間の側から澎湃として沸き起こったのである。
場所については、富士山をはじめ、筑波山、箱根山などの景勝地が名乗りを上げたが、明治を記念するには、明治に首都となった東京に建てるべきだという意見が通り、代々木御料地に決まった。
しかし当時のその地は「不毛原野」であり、近郊の発電所などの煙害もあり、神聖さに欠けると懸念された。
そこでこの地を人の手によって神域にふさわしい鎮守の森にしようという、前代未聞の大プロジェクトが行われたのである。
計画には西欧に留学した林学者たちの最先端の知見が投入された。 全国からは365種類10万本の樹木が寄付され、植樹は全国からのべ11万人の若者が上京し、ボランティアで行なった。そして、今では自然林としか思えないような豊かな森が作り上げられたのである。
明治神宮はこの鎮守の森や社殿などがある「内苑」と、その東側に位置する「外苑」で構成されている。
外苑はプロ野球ヤクルト・スワローズの本拠地である神宮球場(正式名称は「明治神宮野球場」)などのスポーツ施設で有名だが、ここはれっきとした明治神宮の一部である。
外苑はスポーツ公園として作られたものではなく、本来の中心施設は明治天皇のご誕生からご葬儀までの人生と、その間の歴史的出来事を描いた80点の絵画を展示する「 聖徳記念絵画館 」(以下「絵画館」)である。
この絵画館には、『江戸城開城談判』や『憲法発布式』など、誰もが歴史の教科書で見たことがある有名な絵画の実物が常設展示されている。
そして、そのすぐ隣に今度建て替えられる国立競技場が位置していることを、まず上の地図で確認してもらいたい。
青山通りから外苑に入ると見事ないちょう並木が続き、その焦点に絵画館が位置している。
槇文彦氏は「 その姿に強い印象を受けないものはないであろう。特に周縁が闇に包まれ、絵画館の灯りだけが夜空に浮かび上がるその光景は、東京の数少ない都市景観の一つに数え上げてよい 」と絶賛する。
これを見ると、神宮外苑がいちょう並木と絵画館を中心に設計されたことがよくわかる。
スポーツ施設は当初の計画にはなく、市民憩いの公園として整備していく途中で各スポーツ団体から陳情が相次いだため、「外苑創設の精神」に抵触しない範囲でということで受け入れたら、いつの間にか「軒を貸して母屋を取られる」状態になってしまったのである。
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