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「歪んだ動機の正義」小林よしのりライジング Vol.365
2020-07-21 23:20150pt先週は、たとえ動機が純粋で、善意と正義のつもりでやったことでも、結果が酷いことになったら、その責任からは逃れられないということを書いた。
それは大前提とした上で、今週は、そもそもハンセン病の恐怖を煽った医師・光田健輔や、新型コロナウイルスの恐怖を煽っている玉川徹・岡田晴恵の動機は「純粋」で「善意と正義」に基づいたものなのかを検証したい。
先週も書いた通り光田健輔はエリートの出ではなく、博士号すら取っていない。「独学で医学を学んだ」と言われるほどの苦学の末、私立済生学舎を経て東京帝国大学医学部選科に進んだ。
そして光田は、ここで他の医学生が触ろうとしなかったハンセン病患者の遺体をただひとりで解剖。この「美談」の解剖で切り出したリンパ節の染色実験から初の論文を書き(先週、初の論文は養育院時代と書いたのは誤り)、それ以降東大でハンセン病研究に没頭した。
そして、 そんな光田に東大医学部長が目をつけ、ハンセン病の入所者が数多くいた救護施設の東京養育院で勤務するよう命じたのである。
ではなぜ、光田はハンセン病研究に没頭したのか?
その動機は何だったのか?
ここからは推測になるが、東大医学部選科にいた他の医学生は、ほとんどが帝大医学部を経たエリートぞろいだったはずで、私立済生学舎の出で、学士ですらない光田は相当に異色の存在だったはずだ。
そしてそんな状況では、世の中の脚光を浴びるようなメジャーな研究テーマは全て他の医学生に持っていかれてしまい、 光田が手掛けることができたのは、誰も手を付けないようなニッチな領域しかなかったであろう。そして、ハンセン病研究こそ、まさにそれに打ってつけのテーマだったのではないだろうか。
東大を出て、養育院勤務の医官となった光田は、日本初のハンセン病専門医となった。当時の日本には、他にハンセン病の専門医は一人もいない。 光田はたちまち日本における「第一人者」となり「権威」となったのだ。
それからの光田は、苦学生時代の怨念からか、それとももともとの性格からか、「ハンセン病研究の第一人者」としての自らの権威を高めることにのみ没頭していったように思える。
そしてそうするためには、ハンセン病自体に対する世間の関心が大いに高まらなければならない。だから光田は、わざとハンセン病はペストと同然の恐怖の伝染病だと大宣伝したのではないか。
光田は、患者の体からまき散らされた病菌が日本全土を病の国とするかのような誇張までしていたが、それが完全にウソだということは、実際にハンセン病患者を扱ってきた光田自身が一番よく分かっていたはずだ。
そして、この恐怖の宣伝によって日本中が震えれば震えるほど、そんな恐怖の病と闘う医師として、光田のステイタスは上がることになったわけである。
光田はさらに財界・政界に人脈を広げ、国策に強力な影響力を発揮し、持論であったハンセン病患者の 「絶対隔離」 を実現する。
そして、日本癩学会の中心を全て自分の弟子で固め、押しも押されもせぬ権威に成り上がった。
動機がハンセン病患者のためではなく、自分の権威を高めるためであれば、当然のごとく自分の学説を否定するような意見は徹底して排除するだろう。
ハンセン病の感染力が非常に弱く、治療薬が開発されて完治する病気になっても、徹底隔離方針を変更することなどできなかっただろう。そんなことをしたら、それまで自分がやってきたことが否定され、権威が失墜してしまうから。
気前がよく、患者のためにも惜しみなく自腹を切ったというような「美談」も、あくまでも自分が患者を完全支配しているという、絶対的上下関係が存在しているところでのみ行われていたことだったのではないか? 患者の名前を全て記憶していたというのも、単に記憶力がよかったというだけのことじゃなかったのだろうか?
全て推測だが、そう外れてはいないと思う。
なお、光田に反対する学説を発表して学会で潰された医師・ 小笠原登 は京都帝大卒のエリートだった。
エリートが冷淡で、たたき上げが人情深いというステレオタイプがどこでも通用するとは限らないものだ。
さて、それでは岡田晴恵や玉川徹の「動機」はどうだろうか? -
「善意と正義のはずの残酷」小林よしのりライジング Vol.364
2020-07-14 21:50150ptたいていの人は、自分は正しいことをしていると思って行動しているはずだ。
中には正義感と使命感を抱き、信念をもって何事かを為す人もいる。
しかし、それが完全に誤った結果をもたらすこともある。
そんな時、 「結果を見て非難するのはたやすいが、善意に基づく行為だったことまで否定すべきではない」 と擁護するのは、正しいことだろうか?
日本はハンセン病に対して、長年にわたって 絶対隔離政策 を採ってきた。
戦前は警察が患者を管轄しており、病院でハンセン病と判明した者がいるとの報が入ると、家に警官がやってきて、家族全員に検査を受けさせる。
そしてハンセン病と診断された者は、鉄格子と金網こそ張っていないものの囚人護送車と同じ車に乗せられ、外から鍵をかけられて隔離施設に送られる。
病気が治るまでと思って出かけたら、それが家族との永遠の別れだったという者も少なくない。
施設に着くと施設内の服に着替えさせられ、所持金を施設内だけで使える独自の通貨と交換させられる。脱走を防ぐためである。
施設には「監房」が用意され、園長は命令に逆らう患者を、裁判を経ることなく自分の判断で入れることができた。
各施設によって差異はあるが、総じて衣食住はすべて悪く、個室もなく、ある施設では12畳半に成人4人が生活し、夫婦寮ではカーテンも仕切りも何もない12畳半に夫婦4組が入れられていたという。
入所者同士で夫婦になるケースは多かったが、結婚を認める代わりに男は断種、その前に女が妊娠していたら堕胎するというのが絶対条件だった。
脱走者は後を絶たなかったが、外に出たからといって普通の生活に戻れるわけもなかった。
施設には「煙突から退園」「洋館ゆき」という言葉があった。 「煙突から退園」 は、火葬されてようやく退園できるという意味。 「洋館ゆき」 は、火葬場や解剖室が洋館で立派な造りだったので、死ぬことを「洋館に行ける」と自ら揶揄して言ったのだという。
ハンセン病患者はその家族も差別にさらされ、ハンセン病患者が兄弟姉妹にいることで、縁談が破談になったなどという話は枚挙にいとまがなかった。
施設内では、家族に迷惑が掛からないように偽名を名乗ることが推奨され、ほとんどの患者が、本当の名前をも奪われた。
ハンセン病が完治する病気となっても、治った「元患者」が施設の外に出ることは許されなかった。たとえ出たとしても、外の世界で生きていく方法はもうなかった。
そして、死んでも遺骨が故郷に戻されることはなく、全国友園納骨堂には今も里帰りのできない二万有余の遺骨が眠っている。
このようなハンセン病政策をリードしたのが、 光田健輔 という医師である。
そもそも当初、日本政府は徹底隔離ではなく、「浮浪らい」だけを収容・隔離の対象とする方針だった。
だが光田は「全患者隔離」を信念としていた。 そして、それが予算的に厳しいということで、まずは浮浪らいの隔離で妥協して実績作りをする一方、政界・財界に人脈を作って政策決定への影響力を強め、 さらにハンセン病は悪魔の伝染病だとの宣伝で世論を喚起した。
当初日本でハンセン病を専門に研究していた医師は光田ひとりしか存在せず、その後につくられた日本癩学会の中心は全て光田の弟子が占め、その癩学会が医学界全体を動かした。そして光田も自ら保健衛生調査会に入って国策づくりに加わり、ついには全患者隔離政策を実現したのだった。
今から見たら、その判断は完全に誤りだった。 だが光田はこれが正しいと信じて行い、「慈父の光田先生」「救癩の父」と呼ばれて神格化されたのである。
光田健輔はエリートの出ではない。高等小学校を出て、開業医の兄を手伝いながら私塾に通い、医師を目指して上京して軍医の家の住み込み書生をしながら勉強し、医術開業前期試験に合格。そのため後の伝記には「独学で医学を学んだ」と書かれているほどだ。
その後、私立済生学舎(日本医科大学の前身)に入学し、開業後期試験に合格。軍医を目指すが視力不足で断念し、病理学者を目指して東大医学部選科に学ぶが、この時、 医学生が誰も触れたがらなかったハンセン病者の死体を、光田だけが解剖に当たった。
このエピソードは「救癩の父」の原点の美談として語られることが多いが、 実は光田はかなりの「解剖好き」で、ハンセン病者だけで3000体の解剖をしたという前代未聞の記録を持ち、 東大を出て東京市養育院(困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設)に勤める医療官僚になってからも、養育院で死んだ者の死体をろうそくの明かりで解剖していたという話もあるほどだから、それが「美談」だったのかどうかは怪しい。
光田は養育院時代にらい菌と結核菌が同一のリンパ節に共存することをつきとめて初の論文を執筆、以後、ハンセン病の研究に没頭する。
だが、光田はハンセン病の権威になってからも生涯大学教授にならず、医学博士号すら取らなかった。これを謙虚な人柄の表れだと言う人もいる。
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