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「安倍晋三を信じたわしの黒歴史」小林よしのりチャンネル Vo.442
2022-07-26 19:50150pt安倍晋三殺害の背景について、統一協会の問題が報じられるようになったが、それを嫌がる「安倍マンセー派」がいるようだ。八木秀次(自称保守)から三浦瑠麗(自称リベラル)までというのが可笑しい。
そういえば三浦瑠麗は、皇位継承は悠仁さままで続けるべしと言っていたから、リベラルというよりは「安倍マンセー派」なのだろう。
三浦は安倍銃撃事件で、統一協会と政治の結託を報じるマスコミは「倫理的ではない」と言っていたから、呆れかえった。
「テロリストの動機を報じることはテロに屈することになる」という定型文を信じているんだろう。まさに学歴秀才の答案のようだ。
こういう「安倍マンセー派」の圧力にマスコミがどこまで耐えられるか分からない。また沈静化したら、再びカルト集団の政治への浸透が始まるのだろう。
統一協会と政治との関りこそが「非倫理的」なのだ!その不都合な真実を隠蔽することも「非倫理的」である。
それはまた追及するとして、今回は安倍晋三とわしの係わりについて、実際の交流を中心に今まで書いていなかったことも含めて記録として残しておきたい。
安倍晋三とは、今から20数年前「新しい歴史教科書をつくる会」で初めて会った。わしも安倍も40代半ばで、まだ若かった。
その頃の安倍は、歴史のことなんかほとんど知らないようだった。そんな安倍に、わしや藤岡信勝など「つくる会」のメンバー数人がどんどん「反・自虐史観」を吹き込んでいった。
安倍に歴史観のようなものを最初に啓蒙したのは、基本的にはわしや「つくる会」の数人であり、それがスタートだったのである。
早逝してしまったが、中川昭一も同じように「つくる会」を通して知り合い、 中川とも安倍とも会食して酒を飲んで話をした。二人ともそのうちにわしらの歴史観に同意し、つくる会にも賛同してくれて、その時は蜜月状態という感じだった。
当時は自虐史観の全体主義が強固に出来上がっていた。
平成12年(2000)12月にはある反日左翼団体が 「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」 なるイベントを開催。法廷を模した舞台で 「天皇裕仁及び日本国を、強姦及び性奴隷制度について、人道に対する罪で有罪」 とする「判決」を勝手に下した。
もちろん一切の法的根拠もなく、反日左翼がただ悦に入るだけの「裁判ごっこ」でしかなかったが、こんなものをNHK教育テレビ(現・Eテレ)が取材し、ETV特集シリーズ『戦争をどう裁くか』第2夜「問われる戦時性暴力」という番組にしてしまった。
放送前には右翼団体などがNHKに街宣活動をかけ、NHKは急遽、現代史家・秦郁彦から「女性法廷」に批判的なコメントをもらって入れるなどの再編集をして放送した。
そしてその4年後の平成17年(2005)1月、朝日新聞は1面トップで 「NHK『慰安婦』番組改変 中川昭・安倍氏『内容偏り』前日、幹部呼び指摘」 という見出しの記事を出した。中川昭一と安倍晋三がNHKの幹部を呼び出し、「圧力」をかけて番組を改変させたというのだ。
そもそも、反日左翼の自己満足イベントを一方的に扱って番組を作ったこと自体がとんでもない偏向だったのだが、朝日の1面トップを使ったキャンペーンによって、問題は「報道・表現の自由」と「政治権力の圧力」にすり替えられ、中川と安倍には「言論弾圧」をする政治家というイメージがつけられそうになった。
だが、中川と安倍がNHKの幹部に会ったのは放送後であり、朝日新聞は今に至るも、未だに中川・安倍の圧力で番組が改変されたと認められる確かな根拠を提示していない。
わしはこの時、二人を擁護する言論を展開し、安倍氏からは仕事場に直接お礼の電話が来た。
当時は自虐史観こそが絶対の正義であり、これに異を唱える政治家など、どんな手を使っても潰していいという狂った正義感が、朝日新聞などのメディアには普通に存在していたのだ。
そしてさらに翌年・平成18年(2006)9月、ついに安倍晋三は内閣総理大臣に就任した。
自らを「闘う政治家」と称し、 「戦後レジームからの脱却」 を掲げる安倍に、わしは最大限に期待した。
ところが安倍は首相に就任するや否や、 「村山談話」(侵略史観)を踏襲する と言い、 「河野談話」(慰安婦強制連行)を踏襲する と言い、 「東京裁判」に異議を唱える立場にない と言い、挙げ句の果てには祖父の 岸信介が東条内閣の閣僚として開戦の詔書に署名したことを「間違いだった」 と言ってしまった。
肝心の歴史認識について、全て「ベタ降り」してしまったのである!
前年の「NHK改変報道」以降、朝日新聞を始め左翼メディアは、自虐史観に従わない政治家を潰そうと虎視眈々の状態だった。安倍はその圧力に屈したのだ。
そしてそれ以上に、 安倍は米国を恐れたのだろう。 自虐史観は東京裁判史観であり、つまりは米国中心史観である。これを否定して米国との間に軋轢が起きることまでは、安倍は覚悟できなかったのだ。
わしはこのことを、SAPIO誌に連載していた『ゴーマニズム宣言』で痛烈に批判した。
安倍内閣の閣僚の不祥事に対しては、メディアはすさまじい追及を行い、現職大臣の自殺という事態まで起きた。そして安倍は就任1年足らずで病気を発症し、政権を投げ出した。わしはもう、茫然自失だった。そして自民党政権はその後も迷走を続け、民主党に政権交代してしまった。 -
「ウクライナが徹底抗戦しているのが悪い!?怒りのデスロードだぜ!」小林よしのりライジング Vol.441
2022-07-19 16:25150ptあんな事件が起きてしまった以上、安倍晋三や統一協会について書かないわけにはいかないのだが、それは次回以降にする。
それよりも先に、前々回・前回と続けている「表現者クライテリオン」7月号のウクライナ戦争に関する論評の批判を済ませなければ、これがすっかり霞んでしまいかねない。これだけは、どうしてもやらねばならないのだ。
同誌は「『ウクライナ』からの教訓」と題して約100ページにもわたる特集を組んでいるのだが、ライジングで2回書いても、まだ藤井聡編集長による巻頭言と、藤井氏が筆者であろう匿名の巻頭コラムしか批判できていない。それほどまでに酷いのだ。
今回はようやく特集そのものを扱うことができる。その冒頭に収録されているのは、藤井氏と元外交官・東郷和彦氏のオンライン対談である。
わしは藤井氏らと本を出す予定だったが、「オンライン」で話して作ると言われたので断った。しかし藤井氏にとってはオンライン対談での記事づくりは普通のことらしい。
対談の冒頭、藤井氏はこんなあいさつをする。
このたびはお時間をいただきまして、ありがとうございます。我々『表現者クライテリオン』は、東郷先生もお付き合いいただいていた西部邁先生がつくられた『発言者』『表現者』の後継の雑誌としてやっております。
わざわざ「我こそは西部邁の後継者なるぞ」と宣言してから対談を始めることに違和感を覚える。権威主義的な態度に見えて、つい顔をしかめてしまった。クライテリオンは皇室論にしろ、ウクライナ問題にしろ、西部の思想を受け継いでいるとは到底思えないから、なおのことそう思わざるを得ない。
続けて藤井氏は、対談の趣旨をこう説明する。
今回の企画は「『ウクライナ』からの教訓」です。テレビ・新聞・雑誌を見ると、「ロシアの軍事侵攻は許されざる暴挙であり、ロシアが全面的な悪でウクライナが完全に被害者である」という勧善懲悪のストーリーになっています。
それで何も悪くないはずなのだが、藤井氏はそれにこう異議を唱える。
もちろん、そういう側面があることには同意するのですが、それ以外の様々な文脈もあることもまた事実です。そうである以上、アメリカ・ウクライナ側の激しいプロパガンダ戦も割り引きながら、第三者の視点で冷静にウクライナとロシアの戦いを眺め解釈し、淡々と教訓を引き出していく必要があります。
要するに、 「『ウクライナ=善、ロシア=悪』以外の視点もある」という「価値相対主義」 を言っているのだ。
だが、そんなことを言い出せば、これは間違いなく前々回に詳しく批判した 「どっちもどっち論」 に行きつく。
(https://ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar2106378)
それは確実にロシアの「悪」から目をそらし、ロシアの味方をする結果となる。そう批判されるのが分かっているから、藤井氏は 「もちろん、そういう(勧善懲悪の)側面があることには同意するのですが」 という逃げの一言を用心深く、忘れずに入れておくのだ。その学校秀才優等生的臆病さには、もう笑うしかないが。
そもそもロシアの国際法無視、ウクライナ侵略というあまりにも明らかな事実を目の前にしながら、なおも 「第三者の視点で」「冷静に眺め解釈し」「淡々と教訓を」 なんて呑気なことを平気で言っていられる藤井氏は、日本人としての立場を完全に忘却しているとしか思えない。
日本とロシアの間には未だに第二次世界大戦の講和条約も締結されておらず、北方領土を不法占拠されたままである。
ロシアは日本にとって「敵国」であり、しかも「隣国」である。ロシアに侵略されているウクライナのことは 「明日は我が身」 として見なければならないのだ。
それを全くの他人事のように「第三者の視点」だの「冷静に」だの「淡々と」だのと言えるのは、価値相対主義に芯まで染まって、日本人としてのナショナリズムを完全に失っているからである。
ナショナリズムのない保守なんて、ありうるのだろうか?
そんな藤井氏は、北方領土問題に関してはこう言っている。
しかも、日本はロシアとの間で北方領土問題を抱えています。そうした関係がある中で、単に欧米と同じ論調でロシアを非難し、ウクライナを支援するだけでは適当とは言い難いように思います。
何を言っているのだろうか? 北方領土問題があるからこそ、ここは欧米と歩調を合わせてウクライナを支援し、ロシアを追い込むべきじゃないか。 ロシアが徹底的に弱体化した時にこそ初めて北方領土返還のチャンスが生まれるはずであり、むしろ領土拡張に意欲を燃やす「帝国主義化」しているときに、北方領土を日本に返すなんて、100%ない!
今回に関しては欧米と協調すること日本の国益になるのだ。
ところが、藤井氏は決してそうは考えない。むしろ欧米とは違う論調を探るべきだと思っている。
藤井氏は、どの立場にも立たずに高みに上り、「第三者」として「冷静に」「淡々と」見ることが「中立」で「客観的」で「知的」な態度であり、これこそが知識人たる態度だとでも思っているのだろうか? だとしたら、あまりにも単純で幼稚な感覚だと言うしかない。
以上、疑問だらけの前口上を述べた上で、藤井氏は本題に入る。 -
「ロシアと戦前の日本が同じだと?」小林よしのりライジング Vol.440
2022-07-05 18:45150pt先週予告したとおり、「戦前の日本」と「プーチン・ロシア」は同じだと主張する「表現者クライテリオン」7月号の巻頭コラムを徹底批判する。
それにしても、仮にも西部邁門下を名乗る知識人たちが、臆病者の戦後民主主義サヨクと全く同じ心性によって価値相対主義に陥り、誰一人わしの『戦争論』にも追いついていなかったという事実には、唖然とするばかりだ。
問題の巻頭コラムで、匿名の筆者(どう見ても編集長の藤井聡氏だろう)は、次のように述べている。
さらに言えば、今回のプーチンの決断を眼にした際に思い浮かべるべきは、「ヒトラー」などではなくて、むしろ、追い詰められていった先で暴発した戦前の日本だろう。 (中略) 戦前の日本がアメリカと衝突する直接の切掛けを作ったのは、「日本の利益線・生命線」であるところの満州――ロシアにとってのウクライナ――であったことを想い出すべきである。そんな過去を持ちながら、今回の戦争を前に、狂気の膨張主義者の所業だと他人事のように批判できてしまう日本人の感覚が私には分からない。
えらそうに言っているが、言ってることが全て間違っている。
プーチンが戦前の日本と同様に 「追い詰められていった先で暴発した」 なんてことは、断じてない!!
確かに戦前の日本は、経済制裁によって極限まで追い詰められた末に戦争に踏み切った。ただし、わしは決してそれを「暴発」とは言わない。
日本は「ABCD包囲網」(A=アメリカAmerica、B=イギリスBritain、C=中国China、D=オランダDutch)と呼ばれる対日経済封鎖網によって対外資産を凍結され、さらに石油やゴム、タングステン、ボーキサイトなど、生活必需品の原料となる資源をことごとく禁輸され、徹底的に経済を締め付けられた挙げ句に開戦を決断したのだ。
だが、 ロシアが欧米から経済制裁を受けたのは 「開戦後」 である!
ロシアが経済制裁で追い詰められて開戦したという事実は一切ない。
たった4,5カ月前の出来事の前後関係も分からないのだろうか?
戦前の日本がアメリカから受けた経済制裁の中で、致命的だったのは 「石油全面禁輸」 だった。
石油のほとんどを輸入に頼る日本では、 「石油の一滴は血の一滴」 と言われていた。石油備蓄量は平時で2年分、戦時で半年分しかなく、これを使い切ったら軍も産業も全てが崩壊する。日本はまさに国家存亡の崖っぷちまで追い込まれたのだ。
それに対してロシアは、 世界第3位の原油産出国 である!!
ロシアはウクライナ侵略後に強力な経済制裁を受けても、「石油輸出」をカードにして欧州に脅しをかけ続けることができて、今も石油で1日10億ドルの利益を上げている。
これでどうして、戦前の日本と現在のロシアが同じと言えるのか?
これだけでも、あまりの狂いっぷりに大爆笑である。
だが、藤井氏の歴史認識の誤りはこれに留まらない。あまりに多すぎて手が付けられないほどだが、なるべく丁寧に解説していこう。
対米開戦前、日本・東条英機内閣は戦争を回避すべく、アメリカに「甲案」「乙案」という譲歩案を提出した。
「甲案」の概要は以下のとおりで、軍の猛反対に抗して東郷茂徳外相が必死にまとめたものだった。
1.日本と支那の間に和平が成立した際は、支那に展開している日本軍を2年以内に全面撤兵させる。
2.支那事変が解決した際は、「仏印」(フランス領インドシナ=現・ベトナム)に駐留している日本軍も撤兵させる。
3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那に対してもこれを認める。
4.日独伊三国同盟への干渉は認めない。
後の「東京裁判」において、アメリカ人弁護人・ブレークニーは 「日本の真に重大な譲歩は東条内閣が作成した『甲案』であり、『甲案』において日本の譲歩は極限に達した」 と言っている。
そして東条内閣は「極限の譲歩」をした上さらに、甲案での交渉が決裂しても、 日米開戦だけは防ぐための暫定協定案として「乙案」も用意していた。 その概要は以下のようなものである。
1.蘭印(オランダ領東インド=現・インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した際には、南部仏印から撤退する。
2.更に、支那事変が解決した際には、仏印全土から撤退する。
経済制裁さえ解除されれば撤退するというわけで、つまり日本の南方進出はあくまでも経済的問題のためであり、 「領土的野心」はないという意思の表明だったのである。
ところが、アメリカは「甲案」「乙案」を一顧だにせず、それまで積み重ねてきた日米交渉の経緯も全て無視した 「ハル・ノート」 を突き付けた。その概要は以下のとおりだ。
1.日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵。
2.支那における重慶政権(蒋介石政権)以外の政府・政権の否定(日本が支援する南京国民政府=汪兆銘政権の否定)。
3.日独伊三国同盟の死文化(独伊両国との同盟を一方的に解消)。
つまり、日本に対して明治以降大陸に築いた権益の全てを放棄せよと迫ったわけである。
これは、後に「東京裁判」で パール判事 が、このようなものを渡されたら 「モナコやルクセンブルクのような小国でも矛をとってアメリカと戦ったであろう」 と評したほどのものだった。
しかも、これを渡したら戦争になるということはアメリカの側も百も承知で、ハル国務長官は「ハル・ノート」を日本側に手交した後、スチムソン陸軍長官に、 「私は日米交渉から足を洗った。今や、この問題は貴方とノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」 と言った。
ハル・ノートを渡したらもう交渉はなく、あとは軍隊の仕事だと分かっていたのである。
さて、ロシアは戦争を回避するために「甲案」「乙案」を出したか?
アメリカはロシアを開戦に追いこむために「ハル・ノート」を突き付けたか?
そのようなことは一切なかった。
ロシアは一方的に軍を展開し、戦争回避のための外交交渉など何ひとつやらず、問答無用で侵略を始めたのだ。
また、日本は米英に「宣戦布告」をして(米国への通達が遅れるという大使館のミスはあったが)戦争を行ったが、ロシアはウクライナに宣戦布告もしていないし、「特別軍事作戦」と称して未だに「戦争」であることすら認めていない。
どこをどう探しても共通点が見つからないではないか!
そして何よりも、この立論の根本である 「日本にとって満州が『生命線』だったのと同様に、ロシアにとってもウクライナが『生命線』である」 という主張が、根本的におかしいのである。
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