-
「WGIP(ウォーギルト)洗脳」小林よしのりライジング Vol.452
2022-11-08 16:00150pt統一協会の被害救済法案を巡る議論で、「洗脳」や「マインドコントロール」の定義が問題になっている。
与党側は「マインドコントロール」の定義が難しいとして、法案にこの言葉を使うことに難色を示しているという。
だが、定義が難しいからといって「洗脳」や「マインドコントロール」の概念を曖昧にしてはいけない。これは統一協会などカルトの問題だけには留まらないので、一度整理しておく必要がある。
そもそもの 「洗脳」の語源は中国語 で、成立から間もない中華人民共和国が、旧体制の知識人などを監禁のような特異な環境下に置き、物理的・社会的圧力を加えて 強制的に行った「思想改造」 のことを意味しており、 1950年代から 広まった言葉である。
一方、 「マインドコントロール」は強制力を伴わない手段を用い、心理操作によって自律的な決定権を奪い、様々な判断を自らの意思ではできない精神状態にしてしまうことをいう。 これは90年代に統一協会が問題になった頃から一般化した言葉である。
そして、実は学校や刑務所での 「教育」も、ある情報操作によって人の心理を一方向に導くものであり、これもマインドコントロールの一種 なのである。
本来の「洗脳」は、あくまでも強制的な手段を用いて行われるものを指していたのだが、「洗脳」の語は一般的に使われるようになるにつれ、意味合いが拡がっていった。
そして今では強制力の有無とは関係なく、人の主義・思想を恣意的に改めることは全て、普通に「洗脳」と呼ばれるようになっている。
つまり、狭義の洗脳は強制力を伴う本来のものに限られるが、広義の洗脳はものすごく幅があり、強制力を伴わない「マインドコントロール」も「教育」もその中に含んでいるのである。
なお、平凡社の百科事典「マイペディア」では 「程度の差、手法の巧拙はあれ、あらゆる教育が洗脳である」 と明記している。
というわけで、普通に使われる広義の意味での「洗脳」は、
【狭義の洗脳】>>>【マインドコントロール】>>>【教育】
となっている。
その強制力の程度にはかなり差があるが、それぞれの境界はグラデーションになっていて、はっきり区別することはできないものなのである。
さて、わしは『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(1998年・幻冬舎)で、日本敗戦後の米軍による占領政策について、次のように描いた。
アメリカGHQは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という、日本人に戦争の罪悪感を植えつける洗脳計画を実行した。
あらゆるマスコミを検閲し、日本は戦争中こんな残虐なことをした、悪の軍隊だった、原爆落とされても仕方ないくらいの愚かな国だった、日本人は軍部にだまされていたのだ…という情報を、映画・ラジオ・新聞・書物などで徹底的に流し続けたのである。
日本国民はコロ~ッとこれに洗脳され…
「軍部にだまされていた私たちを救ってくれたのはアメリカ様だ、GHQ様だ」
「日本に民主主義のプレゼントありがとう」
「日本人の戦犯はさっさと処刑しちゃってください」
「戦争はもうイヤです」
「もうしません。歯向かいませんとも」
「戦争は悪です」
「軍隊もいりません」
「平和が何よりです」
「ギブミーチョコレート」
「ギブミー日本国憲法」
当時、GHQには「マッカーサー様ありがとう」と感謝する手紙が次々と舞い込んだという。
こうしてオウムの信者並みにGHQにマインドコントロールされた日本人は50年たった今も、よりキツイ「洗脳されっ子」となって、当時、東京裁判でもまったく問題にならなかった戦場慰安婦のことまでも「従軍慰安婦」と名づけ、自ら…
「ここにも犯罪があったじゃないか――」
…と世界に叫び始めたのである。
(第4章『東京裁判洗脳されっ子の個人主義』)
この部分は『戦争論』の中でも特に反響が大きく、「自分も洗脳されていた」「目が覚めた」といった感想を実に数多くもらった。
当時は「従軍慰安婦」が全ての中学歴史教科書に記載され、自虐史観が極限まで達していた。
なぜ教科書までがここまで自虐史観に染まり切ってしまったのかといえば、それは確実に洗脳の結果だった。
だからこそわしは西尾幹二氏、藤岡信勝氏らと共に「新しい歴史教科書をつくる会」を作り、自虐史観をひっくり返そうとしたのである。
ところが『戦争論』から24年経って、 「自虐史観はGHQの洗脳のせいではない」 と主張する本が出て来た。名古屋大学大学院特任准教授・賀茂道子著 『GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防』 (光文社新書)である。
もしこの本が正しければ、わしは『戦争論』の記述を大幅に修正しなければならないが、果たしてどうなのか?
1 / 1