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記事 4件
  • 「菅政権が狙うショック・ドクトリン」小林よしのりライジング Vol.376

    2020-10-27 16:00  
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     不思議な現象である。人出がかなり増えているが、全員マスクをしている。マスクをしてさえいれば感染しない、感染させないと信じているらしい。
     彼らは、コロナ禍はもう終わったとは思っていない。「不安」や「恐怖」はずっと変わらず、心理の奥底に沈殿したままだ。恐怖は本能に沁みつくから、そう簡単には払しょくされないのだろう。けれども自粛するには限界を感じてもいるようだ。
     そこでマスクだ。「マスクさえつければ」という信心だけは、彼らにとって必要なものだから、信心を奪うのはなかなか難しい。
     だが、そんな非科学的な迷信社会に自分を合わせるのが難しいというわしのような男はいる。泉美木蘭のような女もいる。理不尽に慣れない性格を持つ者にとっては、外出する度にうんざりと言うか、げんなりと言うか、「終わってない」という失望感に、怒りがこみ上げるのだ。
     多分、怒りがこみ上げるからには、失望はしても絶望はしていないのだ。
     そういう人間が、香港で中国共産党の弾圧を受けても、自由のために戦おうとして、人生を棒に振るのかもしれない。損な性格である。もっと器用ならば、全体主義に嫌悪感も湧かず、それが正義と信じてマスク警察に励むこともできるのかもしれない。
     恐怖と諦めが入り混じって、マスクにすがって外出するという、中途半端な心理状態の大衆にとって、菅政権の正体を真剣に考えるほどの気力は湧かない。ケータイの料金値下げとか、ハンコ不要論とか、不妊治療の保険適用とか、大衆受けしそうな分かりやすい政策を並べられると、「案外いいじゃん」と油断してしまうかもしれない。
     この先にとっておきの改革が待ち受けていようと、そっちの不安には気づかないままになってしまう。だが菅政権の目玉商品はこれからだ。
     菅義偉首相が本当にやりたいことは、小泉構造改革路線への回帰である。
     あの田舎のオヤジ然とした風貌にごまかされるが、菅は根っからの新自由主義者、市場原理主義者だ。それは、菅が掲げる理念が「自助、共助、公助」であることにも表れている。
     菅はこの理念を「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」と説明している。
     要するに「自助」とは「自己責任」のことである。まずは自己責任で何とかしろ、それで無理なら周りの者で助け合え、国が手を差し伸べるのは一番最後、というわけである。
     そもそも公助とは生活保護などの「福祉」だけを指すのではない。国や自治体による、消防・警察、そして自衛隊などを含む、公的支援全般のことである。
     国は「公助」を行うのが役割であり、政治家ならば、しかも政権を担っているならば特に、公助をいかに広く、手厚く行えるようにするかを考えるのが本来の使命だと言っていい。特に民間の体力が弱っていくときには。
     にもかかわらず、首相が「公助」を「自助、共助」よりも後に置いたということは、小さな政府路線の続行であり、 国の役割はできる限り縮小し、人は自助努力で行動させ、富める者はどこまでも富んでいき、貧しくなる者はどこまでも貧しくなる。その結果は自己責任。これが新自由主義の原則であり、菅は就任早々あからさまにそれを宣言したようなものだ。
     これは大いに不安を抱かせる政策路線のはずだが、大衆にはもっと本能で感じる不安と恐怖がある。もちろん新型コロナの問題だ。冬になれば第3波が来るはずだからと、今のうちに外出して飲み食いしてストレスを発散させている。
      菅首相は政府の有識者会議として「成長戦略会議」を立ち上げ、その委員に慶応大名誉教授の竹中平蔵や、国際政治学者・三浦瑠麗、元ゴールドマン・サックスのデービッド・アトキンソンを入れた。
     全員、ゴリゴリの新自由主義者である。特に竹中平蔵が入っていることだけでも、小泉構造改革路線への回帰という意図は明白である。
     そして注目すべきは、 デービッド・アトキンソン である。
      アトキンソンは日本の中小企業を「非効率」としか思っておらず、「競争力を高める」ために中小企業を統合・粛清すべきだというのが持論で、「日本の中小企業は半分消えていい」と力説している。
     日本の企業の99.7%を占める中小零細企業にこそ、他にはない技術などがあり、これが日本の潜在力の源泉であるということが、アトキンソンには全く理解できないのだ。
     菅はアトキンソンと以前から親交がある。経産省幹部は「菅さんはアトキンソン信者」だと言っており、実際に菅の政策は驚くほどアトキンソンの提言を丸呑みしたものだ。安倍政権の「影の首相」は首相秘書官の今井尚哉だったが、菅政権の「影の首相」はアトキンソンだと言われている。
  • 「日本学術会議事件の裏の問題」小林よしのりライジング Vol.375

    2020-10-20 19:10  
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     どうやら、菅政権が発足1か月で行った最も大きな仕事は、「日本学術会議の会員6人の任命拒否」ということになりそうだ。
     しかしわけがわからん話だ。この任命拒否は、学術会議や野党が言っているような、「学問の自由」の侵害の問題なのか?
     菅政権は6人の任命を拒んだ理由を頑として説明せず、 「総合的俯瞰的に判断した」 という何の説明にもならない言葉を繰り返しているが、説明されなくてもその理由は誰の目にも明らかだ。 さんざん指摘されているとおり、かつて安保法制や共謀罪に反対した人物だから外したのだろう。
     安保法制と共謀罪にはわしも反対したが、わしの反対と、任命拒否された学者たちの反対とでは、全然根拠が違っている。そのことは、特に強調しておく必要がある。
     学者たちの反対の根拠は 「日本を再び『戦争のできる国』にしない」 という、 完全な反戦左翼の平和ボケ感覚でしかない。
      それに対してわしは自主防衛が目標である。日本を「戦争に勝てる国」にしたいと思っているのだ。
      ところが安倍政権が成立させた安保法制や共謀罪は、ただアメリカへの従属を強化することだけが目的で、かえって日本の自主防衛を妨げるだけのものだった。
     そのためにわしは真正保守の立場から反対したのであり、動機が180度違う。
     菅政権が左翼学者を任命したくないという、その目論見はよくわかる。大っぴらに説明はできないだろうが、それは完全に見え見えである。
     だがこれが「学問の自由」の問題なのかと言えば、内閣府の特別機関である日本学術会議の会員になることと、学問の自由を守るということの間には、何の関係もない。
      別に日本学術会議に入らなくても学問は自由にできるのであって、会員に任命されなかったからといって、学問の自由を侵されたことには全然ならないのだ。
     日本学術会議は、 「戦時中に科学者らが戦争に協力させられた反省に立つ」 として昭和24年(1949)に設立された、政府から独立して政策提言等を行う機関である。
      昭和24年といえば、日本は占領下の真っただ中だ。学術会議の初代会長・亀山直人はGHQが「日本学術会議の成立に異常な関心を示した」と発言しており、実際に発足の際にはGHQの助言も受けている。
     当然ながら、そこには憲法9条と同様に、 「日本を二度と戦争のできる国にさせない」 というGHQの意図が明らかに入っていたわけである。
     そんな歴史的経緯があるため、今も学術会議は反戦左翼の色が非常に濃い。「学者の国会」などと言われるけれども、会員は選挙で選ばれるわけではなく、現会員が次の会員を推薦するという非民主的な手続きになっているから、どんなに時代が変わっても会議のカラーは全く変わらず旧態依然、占領下のままなのだ。
     日本学術会議は3年前、防衛省が創設した研究助成を批判し、 「研究者は軍事研究を行うべきでない」 とする声明を発表。この声明を受け入れ、研究をストップした大学もあった。
      しかし学問の自由を尊重するのなら、「軍事研究を行う自由」も守らなきゃいけないんじゃないか? 「軍事研究を行うべきではない」って、それこそ「学問の自由」を侵害しているのではないか? 
     そもそも、軍事研究は行わないとする理屈はおかしい。科学技術は軍事技術から切り離せるものではなく、民生目的の技術が軍事目的に転用されることも、その逆もいくらでもありうる。
      あらゆる科学技術は、軍需産業に利用されてしまう可能性がある。科学にはいい面も悪い面もある。それが科学の最初からの宿命であって、宿命にどうこう言っても仕方がない。 というか、『鉄人28号』くらい見たことないのだろうか?
     学者は軍事研究も含めて、ただ学問の自由を行使すべきものであって、反戦左翼イデオロギーを根拠に軍事研究を認めないなどと言っても、説得力は全くない。
     ただし今回の件に関しては、独立性の高い機関の人事に政権が介入し、「御用機関」につくり変えようというやり方に対して、わしは反対する。
  • 「PCR検査の無残」小林よしのりライジング号外

    2020-10-13 18:10  
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     もはやPCR検査は、ひたすら災厄をまき散らすものになってしまった。
     本来の用途に従って、 「必要な人に必要な時に必要なだけ」 の検査が行われていればよかったのに、 「誰でもいつでも何度でも」 検査すべきだという「PCR真理教」が現れて、全てを狂わせてしまったのだ。
     俳優の阿部サダヲがPCR検査で新型コロナ陽性と判定され、無症状だが、出演を予定している舞台の稽古は一旦休止となった。
     所属事務所は「関係者の皆様、ファンの皆様には、多大なるご心配とご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます」とのコメントを発表した。
     女優の広瀬すずもPCRで新型コロナ陽性となり、これも無症状なのだが、所属事務所は「仕事関係者、共演者の皆様、応援してくださっているファンの皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛け致しますことを、心よりお詫び申し上げます」とのコメントを発表している。
     さらには俳優の中川大志も新型コロナに感染。広瀬すずとの「熱愛関係」が噂されているために、同じタイミングの感染に「濃厚接触じゃないか?」とネットがざわついた。
     芸能人は、ドラマ撮影や舞台などで集団感染が起こることを避けるためという理由で PCR検査を受けさせられるから、感染者が炙り出されて発覚してしまうが、ほとんどの場合は全く無症状で、体調には何の異常もない。
     本当は無症状感染者なんか、どこにでもいくらでもいるはずで、わざわざPCR検査をしない限り、発見されることはないものだ。
      しかも、検査して陽性になったとしても、本当は既に治癒していて、ただウイルスの死骸が検出されただけかもしれないし、偽陽性かもしれないし、曝露しただけでも陽性反応が出るという説もあるし、本当に「感染者」なのかどうかも定かではない。
     ところがそれでも芸能人が検査で陽性となると、たとえ全くの無症状でもニュースになってしまって、隔離されなければならなくなってしまって、事務所が謝罪しなければならなくなってしまうのだ。
     プロ野球の千葉ロッテマリーンズは、選手7人とコーチ1人、チームスタッフ3人の計11人がPCR検査で陽性だったと発表。症状があるのはスタッフ1人だけで、10人は無症状だったが、全員自宅療養。さらに陽性者と移動の飛行機の座席が近く、濃厚接触者と判定された4選手も試合に出場できなくなった。
      これも、PCR検査さえしなければ誰にもわからなかったことだ。スタッフが1人風邪をひいただけとしか思われず、他の無症状者は本人すら気づかず、周りの誰にもわからないまま治って、そのまま何事もなく過ぎていっただろう。
     無症状者からも感染は拡がるといったって、それはインフルエンザも同じことである。ところが、インフルだったら無症状者まで検査して、炙り出して見つけようなんてことは、誰も思わない。
     無症状感染者はそこらへん至る所にいるかもしれないけれど、PCR検査さえしなければ誰にもわからない。 どっかで誰かからウイルスをもらうこともあるかもしれないが、そうなったらなったで仕方ないと、インフルエンザなら誰でもそう思えるのに、新コロだったらなぜそう思えないのか!?
     テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」の玉川徹なんかは、PCR検査さえ徹底すれば安心が得られると呪文のように繰り返している。
     医療用の検査とは別に、「社会政策」としての検査があり、全国民に週1回、合計3回の検査を行えば、安心感が得られて経済が回せるとまで言った。
      ところが実際は逆で、検査を増やせば増やすほど、見つけなくてもいい陽性者を掘り起こして、不安感を煽るだけになっている。
     それでもPCR検査の限りない拡大を唱える者は跡を絶たず、東大先端科学技術研究センター名誉教授の児玉龍彦は7月16日、国会で 「このままではミラノ・ニューヨークの二の舞になる。来週になったら大変なことになる。来月になったら目を覆うことになる」 と危機感を煽り、 「いつでも、誰でも、どこでも無料で」 検査ができるように臨時立法をすべきだと訴えた。
     そんな玉川や児玉に乗せられたのが、東京都世田谷区長の保坂展人だった。
     保坂は、児玉が国会で提唱した 「いつでも、誰でも、どこでも無料で」 の大量検査を「世田谷モデル」として全面的に受け入れ、実行するとぶち上げ、モーニングショーはそんな保坂を出演させて、大々的に持ち上げた。
     保坂は他にもいくつものメディアに出て「世田谷モデル」を宣伝しまくった。ところがその時点では、保坂はこの政策を区議会にも出しておらず、副区長以下事務方も全然理解していない状態だった。
  • 「自由がなくてもいい玉川徹」小林よしのりライジング Vol.374

    2020-10-06 22:10  
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     日本には、自称保守と自称リベラルはいても、本物の保守と本物のリベラルはほとんどいない。
     このことは前々から何度も言ってきたが、それにしても、あまりにもひどい思想崩壊状態を目にしたので、今回はそれを記録しておく。
     玉川徹(テレビ朝日報道局員)は普段「リベラル」を自称している。
     ところがコロナ騒動が起きてからの玉川は、政府は早く緊急事態宣言を出すべきだと発言し、権力が個人の自由を制限するように促したり、全国民にPCR検査を受けさせるべきだと、個人に一定の行動を強制するような主張をしたりするようになった。
     リベラリズムは「自由主義」と訳される。その訳は正確ではないとも指摘されているが、少なくとも日本では、個人の自由を第一の価値とする者がリベラルを標榜してきたはずだ。だからわしは、いったい玉川のどこがリベラルなんだと思いながら見ていた。
     そんな中、9月18日放送の「羽鳥慎一モーニングショー」での玉川の発言(9時17分頃)には、心底呆れ果てた。ほとんど毎日のように呆れてはいるのだが、さすがにこれは特に度が外れていた。
     今回はその発言を紹介して分析しよう。長めの発言なので、少しずつ区切りながらツッコミを入れていくことにする。
     なお、話し言葉のままだと読みづらいので最小限の語句の整理をしているが、その論旨はもちろん発言そのままである。
     その時の話題は対立を深める米中関係についてだったが、その中で玉川はこう言った。
      アメリカからすると、読み誤ってたところがあるんです、中国に対して。
     中国はだんだん豊かになってくれば、やっぱりみんなが自由になるだろうと、自由を求めると、自由主義国になるんじゃないかと思っていたんですね、アメリカは。
     ところが中国型の社会主義は、自由がなくてもみんな豊かになってるから、これでOKなんですよ。
     アメリカが中国の動きを読み誤っていたという分析は間違いではないが、問題は玉川自身が、この現象をどう評価しているかである。
     本当にリベラルを自認して、自由が一番の価値だと思っている人間なら、 たとえ中国が豊かになっていたとしても、自由がないことは問題だという言葉をひとことくらいは差しはさむはずで、 それがリベラルとして最低限の態度というものだろう。
     ところが玉川の発言にはそのような保留が一切ない。あまりにもあっけらかんと 「中国型の社会主義は、自由がなくてもみんな豊かになってるから、これでOKなんですよ」 と言い切ってしまっている。
     つまり玉川自身も、明らかに 「自由がなくても、豊かならOK」 という価値観なのである!!
     そして玉川は続けて言う。
      さらにこれからAIがものすごく大事なんです。AIにいろんなものを決めてもらう人生って嫌だと思うじゃないですか、我々自由主義にしたら。
     でもAIがかなり正しくなってしまったら、意外と職業だって、あなたはこうだからこの職業が向いてるよってAIに言われた、その職業をやってみたらやっぱりよかったねというのが、どんどん拡がってったら、わかんないですよ。
     これまた、唖然とする発言だ。
      コンピューターに自分の職業を決定してもらう人生なんて、完全にディストピアSFの世界で、いちいち説明するまでもなく、そんなのはまっぴらごめんだと即座に思うのが常識だと思っていた。
     ところが玉川は、それは単に自由主義国の固定観念にすぎないと思っていて、AIに適性を判断してもらって、間違いのない職業につくことができれば、人生それで「よかったね」ということになるし、それが拡がっていけばそんな考えが一般認識になるかもしれないと思っているのだ。
     そりゃ自分の意志というものがなく、人生でやりたいことが何もない人ならそれでもいいのかもしれない。
     だが、どうしても人生でやりたいことがあるという人はいる。
     成功するか失敗するか、そんなことは度外視して、何かに挑みたい人がいる。
      人間は往々にして「やりたいこと」と「できること」が異なるものだが、それでも自分の適性も才能も考えず、やりたいことをやって、失敗するのも人生だ。人生には失敗する権利だってあるのだ。
     これがあなたに適した職業ですよとお仕着せられた、好きでもないけどうまくこなせる仕事をやっつけて無難にやり過ごした人生よりも、自分の好きなことに全力を賭けて失敗した人生の方が、はるかに本人にとっては充実していたということだってありうる。人の幸福感は、AIには計算できないのだ!