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  • 「『建国記念の日』に反対した三笠宮崇仁殿下の情念」小林よしのりライジング Vol.74

    2014-02-18 13:10  
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     2月11日、わしは 田中卓 氏(皇学館大学名誉教授・古代史学の泰斗)に頼まれて大阪の国民会館で講演したが、そのとき「 建国記念の日 」の成立には、田中卓氏ら尊皇の本物の保守知識人と、左翼勢力のシンボルとしてこの祝日制定に猛反対した 三笠宮崇仁親王殿下 の激しい論争があったことを話した。
     安倍首相はこの日、「建国記念の日」を寿ぐメッセージを出し、産経新聞は社説で未だに政府主催の式典が開かれないことを嘆いていたが、そもそも安倍首相も産経新聞も自称保守派&ネトウヨも、この祝日の成立に最も寄与した人物を知っているのだろうか?
      それは皇統の「女系公認」を主張する田中卓氏である。
      そもそも神武天皇の実在を証明したのは田中卓氏なのだから、この学者がいなければ「建国記念の日」は2月11日に復活することはなかったはずだ。
     現在の「建国記念の日」は、昭和23年(1948)までは「 紀元節 」といった。
     初代天皇・神武天皇が橿原宮に即位した日を『日本書紀』の記述から推定し、日本の建国を祝う日として明治6年(1873)に定めたのである。
      しかし戦後、GHQによって紀元節は廃止されてしまった。
     そこで本土の占領が終了した昭和27年(1952)から「 紀元節復活運動 」が盛り上がりを見せるようになる。
     世論は復活賛成が圧倒的で、昭和32年(1957)に自由民主党の衆議院議員らが「 建国記念日 」制定に関する祝日法改正案を国会に提出。しかし日本社会党の反対によって審議未了となった。
     その後も根強い国民の希望がありながら、左翼政党や「進歩的文化人」らの反対により、「建国記念日」制定の法改正案は9回も提出と廃案を繰り返し、10年近くにも及ぶ攻防が繰り返された。
      その間、左翼側に立って「紀元節復活反対」の運動に大きな役割を果たしたのが、昭和天皇の弟で現在98歳の 三笠宮崇仁(たかひと)殿下 である。
     三笠宮殿下は昭和32年(1957)、日中友好論者(もちろん左翼)の東洋史学者、三島一の還暦を祝う会のあいさつで、次のような発言をした。
    「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、肝心の歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか」
    「先日松永文相に会ったとき、『日本書紀に紀元節は2月11日とは書いてない』といったら驚いていた」
    「このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか」
    「この問題は純粋科学に属することであり、右翼左翼のイデオロギーとは別である」
    「日本書紀に紀元節は2月11日とは書いてない」なんてことを問題視しているのにも驚くが、「純粋科学に属すること」という発言も不可解である。
     紀元節復活論争では、戦前の正史批判によって 左翼に絶大な人気があった 津田左右吉 でさえ「 史 実ではないが、キリストや仏陀の降誕も同様なことだ 」として、儀式としての祝日を是認 したのだが、三笠宮にはこのような見識もなかったのである。
     この三笠宮殿下の発言は毎日新聞同年11月13日付でスクープされ、大きな波紋を巻き起こした。
     これを機に、尊皇派の学者・論客が立ち上がり、翌昭和33年(1958)4月に『 神武天皇紀元論―紀元節の正しい見方― 』という本を刊行。
     この編集・刊行を担当したのが若き日の 田中卓 博士で、企画から出版までわずか1ヶ月半で、 平泉澄・肥後和男・樋口清之・葦津珍彦・小野祖教・田中卓 など、錚々たる25名もの学者が執筆し、「紀元節」賛成の論文集を発行したのだった。
      田中氏はこの本が完成するとすぐに、三笠宮家に献上。これは三笠宮殿下に対する「諫言」だった。
      しかし三笠宮殿下の「紀元節復活反対」はもはや「信念」と化しており、著名な左翼系の学者に電話をかけたり、自筆書簡を郵送したりと、直接の働きかけまでしていた。
     そして昭和33年11月、殿下は歴史学者として所属していた 「史学会」の東京大学における大会総会において、「反対決議をせよ」と強く主張。 坂本太郎理事長がこれを「政治的」だとして拒否すると、脱会を宣言して席を蹴ったのだった。
     三笠宮殿下は「文藝春秋」昭和34年(1959)1月号では、『紀元節についての私の信念』と題して次のように語っている。
    「真理を主張するのがなぜいけないのか」
    「紀元節の問題はすなわち日本の古代史の問題である」
    「(紀元節復活に反対するのは)生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての、責務である」
    「もし二月十一日が祝日にきまれば、われわれはその廃止運動を展開するであろう」
     この中で 「旧軍人としての」責務 という発言があることに注目してもらいたい。
     三笠宮は戦時中、陸軍大尉として南京の支那派遣軍総司令部に勤務していたが、その時にシナ軍のプロパガンダをすっかり信じ込んでしまったらしく、離任の際には総司令部の全将校を前に、「 軍部が中国に対して反省と謙虚さを欠いて侵略したことを厳しく批判 」する内容の講和を行ない、「 情誼的で人情を重んずる 」中国人の心情を理解せよと説いていた。
     戦後は「 人数は関係なく、南京大虐殺はあった 」とか、「 八路軍の婦女子に対する厳正な軍規と、モラルなき日本陸軍の蛮行 」とかを語り、「 天皇の戦争責任 」まで言及した。
  • 「『次は紀子さまを叩け!』バッシングの背景にあるもの」小林よしのりライジング Vol.62

    2013-11-19 16:45  
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    「雅子さまが回復なら、次は紀子さまを叩けという俗情」
     皇太子・雅子妃両殿下は今月2日、岩手県の被災地をご訪問。雅子さまにとっては、3年9カ月ぶりとなる泊りがけのご公務となった。
      雅子さまのご病気が徐々に回復の傾向を見せていることは、実に喜ばしいことである。 また、雅子さまはご病状が思わしくなかった間もずっと被災地の人々に想いを寄せられていたことも、広く知られるようになってきた。
      これまでさんざん雅子さまをバッシングしてきたメディアは、恥を知れ! …と言いたいところだが、どうせこういうことをやってる輩は、自分たちがどれだけ間違ったことを書き立て、どんなに人を傷つけようが、そしてその過ちがいくら明白になろうが、決して誰一人反省なんかしない。
      皇族という「反論できない身分」の方々に、嘘の情報で非難を浴びせる、いわば言論テロリストのような連中なのだ。
     しらばっくれて尊皇派のふりをするのがオチである。
     現にかつて皇后陛下をバッシングして失声症にまで追い込んだ週刊誌の編集長が、最近はそんなことなどなかったかのように皇后陛下をほめ称え、「それに引きかえ雅子妃は…」という論調で雅子さまをバッシングした例もある。
     今度も雅子さまが叩きにくくなったとなれば、連中はそれまでのことなどなかったかのように手のひらを返し、雅子さまを持ち上げて、それをダシにして他の皇族をバッシングし始めるだけなのだ。そして、その動きは既に始まっている。
     週刊新潮11月7日号に、 『ご不満「紀子妃」についた不敬なニックネーム』 という特集記事が載った。
     記事は、秋篠宮妃紀子殿下の最近の態度に対して、周辺から批判の声が上がっているというものだ。
     秋篠宮殿下と悠仁さま、家に皇位継承権者を二人も抱え、そのプレッシャーに対する気負いから、紀子さまが周囲の人にきつく当たるような場面が多く見られるとして、「宮内庁の宮務課関係者」がこう言う。
    「 ご公務の際などは、にこやかでおっとりしたお話し方でお馴染みですが、実際の妃殿下は正反対です。宮廷に詰める職員に対しては、いつも早口で次々とご用件をまくし立てられ、指示が出される場には張り詰めた空気が漂っています 」
      まさにデジャ・ヴュである。これは、20年前に皇后陛下を失声症にまで追い込んだ時のバッシングと全く同じ論旨なのだ。
     あの時も、「現役宮内庁職員」を名乗る正体不明の者が、皇后陛下は「 普段は慈愛に満ちたお顔からも分かるように優しいお方なのだが 」としておいて、実際の皇后は「癇性」で、職員たちに対しては失敗を厳しく叱ったり、お気に召さないことがあると延々と小言を言ったりするので、緊張感が絶えないなどと書いていた。
     まるで写したかのように、まるっきり同じなのである。
     紀子妃殿下はご結婚以来、一貫して皇后陛下をお手本として振る舞ってこられたことは知られているが、まさかバッシングの論法まで一緒になるとは思いもしなかったであろう。
     記事にはこの「宮務課関係者」による紀子妃バッシング発言がもう一つ載っている。
    「 悠仁さまのご誕生前とは打って変わり、ご一家を警護する皇宮警察の担当者らにも、めっきりお声かけをなさらなくなりました。仰ることはご自身のご要望と苦情ばかり 」
     そして、注目してもらいたいのはその続きである。
    「 意外なことに、雅子妃の方が、まめにご自身の担当にお言葉をかけ、和やかに懇談されているほどです 」
     こんな話は、今まで週刊新潮は決して載せなかった。別に雅子さまが最近になって急にお声かけをするようになったわけじゃないだろうし、急に週刊新潮が雅子さまに好意的になったわけでもない。
      ただ単に「雅子さまにひきかえ紀子さまは…」と叩くダシに使えるから載せてるだけなのだ。
     週刊新潮は、このようなことから疲弊した職員や皇宮警察の一部に、「紀子」を「のりこ」と読んで秘かに「 のりぴい 」と呼ぶ者がいるという、どうでもいいような話を載せて「不謹慎というほかない」とわざとらしく憤ってみせ、これを「 不敬なニックネーム 」と記事タイトルにまでしている。
      自称保守雑誌の皇室バッシング記事は、必ず「自分は皇室のことを思っているからこそ、あえて書いている」という見え透いたポーズをとって書かれる。
     これもそんないつもの手口だが、本当に不敬なのは「 雅子妃バッシングがやりにくくなったから今度は紀子妃だ! 」とばかりにこんな記事を載せている週刊新潮ではないか!!
     しかもその半月後には、これと全く同じ趣旨の後追い記事が週刊現代11月23日号に載った。
     今年6月に週刊新潮が「 雅子妃が皇后に不適格だから、皇太子が将来天皇に即位しても、短期間で秋篠宮、そして悠仁さまへと皇位を『禅譲』させるプランを宮内庁が進めている 」という完全事実無根の記事を載せた際も、週刊現代はすぐ翌週に後追い記事を載せている。
     とはいえ週刊現代は必ずしも「男系固執・雅子妃バッシング」の週刊新潮と歩調を合わせているわけではなさそうで、11月9日号では女性天皇誕生の可能性にも触れつつ、雅子さまについて好意的に書いた記事を載せている。
     記事を見ると、週刊現代編集部には皇室に関する知識を持っている人が全くおらず、外部から持ち込まれた情報をそのまま載せていそうな状況が窺える。おそらく週刊新潮と週刊現代を行き来し、無知な週刊現代を利用して皇室バッシング記事の拡散に努めている人物が存在するのだろう。
     週刊現代記事のタイトルは『 日本の「国母」になる紀子妃の大研究 』である。紀子さまを「 将来の国母 」とする表現は週刊新潮にも見られるが、ここにとんでもない無知と不敬が表れている。