-
「動物権というカルト」小林よしのりライジング Vol.496
2024-02-27 17:05300pt『ゴーマニズム宣言SPECIAL 日本人論』が3月21日発売される。
この本では、昨年ジャニーズ事務所に対して吹き荒れた「キャンセル・カルチャー」を題材として、日本には欧米とは異なる、日本独自の文化や価値観があるということを論じている。
そもそも、日本人に対して 「日本には欧米とは異なる、日本独自の文化や価値観がある」 などとわざわざ主張しなければならないこと自体がおかしな話なのだが、実際に今の日本人はこんな簡単なことすら見失っていて、いともたやすく欧米の価値観に洗脳されてしまう。その端的な例がジャニーズに対するキャンセル・カルチャーだったわけで、だからこそこの本を書かなければならなくなったのである。
これからはことあるごとに、 「日本には日本の価値観がある」「グローバル・スタンダードの価値観などない」 ということを唱えていかなければならないのだろう。
「人権」にせよ、「民主主義」にせよ、グローバル・スタンダードは存在しない。
それぞれの国ごとに、その国の文化や歴史に基づいた人権感覚があり、民主主義が形成されるものだし、国によっては決して民主主義が成立しないということだってあるものなのだ。
さて少々前の話になるが、昨年の秋ごろ、熊が頻繁に人里に出没するようになり、これを駆除したら抗議が殺到したというニュースがあった。
それについてわしは昨年11月17日のブログで、(https://yoshinori-kobayashi.com/27487/)「最近、『熊権』を主張する人々が現れたことは実に日本人らしい」「欧米人なら『熊権』なんて絶対認めない」「日本人は欧米人とは違う。人間にも熊にも生きる権利があると考えるのだ」と書いたのだが、そうしたら 「欧米にも『動物権』の思想がある」 という指摘があった。
確かにそれは事実であり、欧米人の中には日本人の人権よりも 「鯨権」 や 「イルカ権」 の方が上と思っているような者がいる。だが、これって一体何なのだろうか?
今回は、この問題について整理しておきたい。
わしの子供時代、『しゃあけえ大ちゃん』(1964.7-1965.1 TBS系で放送)という子供向けの人気ドラマがあった。
主人公は岡山の山奥から東京に出てきた大ちゃんという子供で、バカボンみたいな絣の着物に学帽を被った風体で、「しゃあけえ、しゃあけえ」(岡山弁で「でも」「そうはいっても」といった意味らしい)が口癖というキャラだ。
そのエピソードのひとつに、 大ちゃんが普段の食事で食べている肉が、動物を殺して得たものであるということに気づき、動物が可哀想になってしまって「しゃあけえ、食べられんじゃないの~」と言い出す という話があった。
当時10歳のわしは、子供心にこのドラマにものすごい問題提起をされてしまい、「本当だ、これじゃあ肉が食べられんじゃないか、どうするんやろ?」と思いながら見た。
そしてこのドラマの結末は、和尚さんみたいな老人が 「豚とか鶏とかいうものは、そもそも人間に食べられるために生まれてきたんじゃ」 というようなことを言って、それで大ちゃんを納得させるというものだった。
おそらくこの老人の説明は、 仏教の輪廻転生観 あたりから来ているものだろう。 前世の因縁によって、豚は豚に、鶏は鶏に生まれてくるものであり、人間に食べられることが運命づけられているのだ というわけだ。
ということは、自分が食べた豚や鶏も、今度は人間に生まれ変わるかもしれないし、自分も行いが悪ければ、来世は豚や鶏に生まれ変わって、人間に食べられるかもしれないということになるわけだが、まあ、そんなところまでいちいち考える人はいないだろう。
わしはその説明で大ちゃんが納得したのに影響されて、「そうなのか~、動物は人間に食べられるために生まれてくるのか~」と、原体験にその感覚が刷り込まれていた。
それで、ともかく日本人の庶民感覚としては漠然と 「豚や鶏や牛は人間に食べられるために生まれてきた」 程度の回答でもいいんじゃないかと、今でも思っている。
だが考えてみれば、 欧米のキリスト教文化の方がずっと「動物は人間に食べられるために生まれてくるものだ」という観念は強固である。
わしは以前、『戦争論3』で、こう描いた。
「キリスト教は大陸の過酷な環境の中から生まれてきた絶対神、一神教の思想である。
そもそも日本人は自分たちがどれだけ恵まれた環境の中に住んでいるかという自覚がなさすぎる。
ヨーロッパでは冬が長く日照時間が少ない。雨も少ない。
地面は硬質な岩盤で牧草しか生えないが、土地は広い。
日本のように人間が直接食べられる穀物が育たないから農耕が発達せず…
牧草を動物に食べさせて育ててから殺して食う。
動物を殺すことに一切、罪悪感を持たなくても済むように、キリスト教は人間と動物の間に厳格な一線を引いた。
牛や豚は、人間に食べられるために神様が創ってくださった。
…そう言って食肉文化を正当化するのが、一神教たるキリスト教だった」
一見、「動物は人間に食べられるために生まれてくるものだ」という同じことを言っているようにも見えるが、これはかなり似て非なるものである。 -
「被害者側に立たない言論は許されないのか?」小林よしのりライジング Vol.495
2024-02-20 19:15300pt言論は社会的に正しいと(現時点では思われている)意見しか許されないのだろうか?週刊誌がスキャンダル記事を書いた時点で、加害者・被害者が決定し、社会から「キャンセル(排除)」されることが正しいのだろうか?
その社会的正しさが間違っていた時は、誰が責任を取るのだろうか?
「地球は丸い」という言論が罰せられていた時代もあったのだ。
ジャニー喜多川や松本人志や伊藤純也が加害者で、被害を訴えた者たちは、間違いなく被害者であり、疑問を呈したら「セカンドレイプ」とする判断は、正しいのか?
草津町長を性加害者として糾弾していた者たちは、自称被害者が嘘をついていたと判明したのち、反省したのだろうか?
わしは月に1回「週刊エコノミスト」の巻頭エッセイ『闘論席』を担当しているが、ここでも「キャンセルカルチャー」に対する批判を書き、「自称・被害者側に立たない」文章を書いた。
ところがこれに編集部から異議が唱えられ、担当編集者や編集長と何度も協議を重ねたものの、書き直しを余儀なくされてしまった。『闘論席』を担当して5年以上になるが、そんなケースは今回が初めてである。
まずは、わしが最初に書き、ボツになった原稿を読んでもらおう。
ジャニー喜多川という人物が存在した痕跡まで抹消せよとする「キャンセルカルチャー」は、次の標的にお笑い芸人・松本人志やプロサッカー選手・伊東純也を選んだ。
しかし、これを煽動している週刊文春や週刊新潮の記事を熟読しても、彼らのやったことは絶対にレイプではなく、何の犯罪行為でもない。
週刊誌は「レイプ」とも「性犯罪」とも書かず、「性加害」としきりに書いているが、それは何なのかが問題なのだ。
どうやら、それはセックスを目的とした合コンのことらしいが、合コンで出会って気に入った男女が即ホテルに行くことなど、膨大にあることだろう。同意があるなら、それを非難できない。
松本人志ほどの有名人なら、スキャンダル記事を恐れるのは当たり前で、女遊びも難しいのだろう。「性接待」などと表現しているが、拉致したわけでもなく、女性が拒否できたのなら、犯罪性はない。
人間の下半身の話は醜悪になるのは当たり前で、週刊誌は何ら犯罪にも当たらない、単なる不良の行儀の悪い遊びを、レトリックで嫌悪感を催す記事に料理しているだけである。
男だろうと、女だろうと、遊びでセックスしている者は多いし、異性を道具扱いしている女性だって普通にいる。遊びの性的関係から、ロマンチックな恋愛に発展することもあれば、怨恨が残る関係になることもある。
たとえ遊びの性的関係から怨恨が残ろうと、あくまでも私的な問題であり、それを週刊誌が社会正義を背負ったかのように書き立てて、才能ある人物を抹殺するのは社会の損失である。
キャンセルカルチャーを正義とする風潮には、決して与してはならない。
これのどこが悪いのか未だにわからないのだが、とにかく「被害者」の言い分に配慮していないのがいけないらしい。
締め切りの翌日、担当編集者が仕事場に来てスタッフと協議、それをもとに、上の文章を書き直した原稿を送った。
だがそれでも納得してもらえなかったので、わしが直接電話して、まず週刊文春の記事中から、「レイプ」に該当する記事を送ってくれと頼んだ。わしは毎回週刊文春の記事を赤線引っ張りながら読んでいて、文春が一度も「レイプ」という言葉も、「性犯罪」という言葉も使っていないということを確認していたのだ。
担当氏は誠実な女性で、全部の記事を読んでくれて、最初の一回だけ「性的被害」と見られる記述を見つけたと報告をくれた。松本が無理矢理、フェラチオをさせたという証言だが、そのことを「レイプ」と表現されてはいない。この証言が真実なら、「性被害」とは言えるかもしれないが、なにぶん「証言」しかないので「犯罪」と立証することが難しいだろう。
担当氏はわしの言い分を分かってくれて、自ら「修正案」を考えてくれた。それは、この編集者は相当に有能だとわしが確信するほどの文案だった。
その議論の最中に、もしそれが性犯罪ならば、なぜ被害者が「刑事告訴」しないのかと言ったのだが、編集部側が言うには、昔はレイプは「親告罪」だったから、被害者側が「刑事告訴」しなければならなかったが、 現在は法律が変更されて、レイプは 「非親告罪」 になったから、被害者の刑事告訴の有無は問題ではないという見解 だった。
レイプは2017年の刑法改正までは「親告罪」で、それまでは確かに被害者が自ら「刑事告訴」をしなければ事件とはならなかったが、 法改正によって現在は「非親告罪」になっており、被害者による告訴がなくても事件化できる というのだ。
じゃあ、被害者が何も訴え出ていなくても、警察が週刊文春の記事を読んで自主的に捜査に入り、松本人志を逮捕する可能性があるというのか? もしそんなことがあったら、恐るべき警察国家だということになる。
実はこの時点で、わしは「親告罪」「非親告罪」についてよく理解していないところがあったため、その先の議論はうまくかみ合っていなかった。
そこで、後で調べてわかったことをここに書いておく。 -
「週刊文春はレトリックで醜悪化してるだけ。」小林よしのりライジング Vol.494
2024-02-06 19:55300pt麻生太郎が講演で、上川陽子外相のことを 「そんなに美しい方とは言わんけれども」 と言って、案の定たちまち炎上した。
麻生の発言は、全体を見ると
「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った。 そんなに美しい方とは言わんけれども、 堂々と英語できちんと話して、外交官の手を借りずに自分でどんどん、会うべき人に予約を取っちゃう。あんなこと出来た外務大臣なんて、今までいません」
…と、上川外相を褒めまくる趣旨なのだが、褒めるだけ褒めちぎる一方で、関係ないところでちょっと落としたら、それが冗談として面白がってもらえると根っから思い込んでいるのである。
全体の趣旨として褒めているのだから、ヒステリック・フェミや、リベラル左翼が、ほんの一部分を抜き出して、 「上川陽子外相は怒るべきだ」 と言い募るのはオカシイ。
わしは麻生より14歳年下で、同じ昭和の人間ではあるが、 「笑えもしない余計な一言を付け加えなきゃいいのに」 と思った。
基本的に麻生氏の上川陽子評を支持しつつ、女性のルックスをわざわざ茶化すなというリベラル感覚もわしには身についている。
ところが、これに対して目くじらを立てて、完全なルッキズムだ、差別だ、セクハラだ、許せない、あんな政治家は存在してはいけないとまで責め立てる者がいるのだ。
テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で、元AERA編集長の浜田とかいう女もそんな徹底批判をしていたが、こういう野党精神のヒステリック・フェミが最悪なのだ。与党精神で言えば、じゃあ誰が外務大臣ならいいと言うのか?
世界にはプーチンだの金正恩だの習近平のような「殺人も厭わぬ悪人」がぞろぞろいて、そんな奴らとも渡り合わなければならないのが外交の現実というものだ。品行方正の学校秀才優等生で、内弁慶なリベラル左翼の政治家なんかに任せられるわけがない。それよりは、麻生太郎くらいの悪党ヅラの政治家の方がまだマシだ。
世界には「品行方正」なんかクソの役にも立たない局面がある。どれだけ悪賢くて、ドスが利くかで勝負が決まる、ヤクザモンじゃなければ通用しない政治の世界でもある。だが、そんな現実を一切考えないのがリベラル左翼フェミなのだ。
松本人志の件も同じだ。あれはもともと不良だろう。面構えからして不良だし、筋肉付けて、下の毛を剃ってるのは、多くの女とセックスしたいからに違いない。松本は不良だから面白いのだ。
松本に「品行方正」を求めるマスコミは頭がオカシイ。ところが、そんな当たり前のわしの意見がネットを含めどこにも出て来ないのだから、大衆は完全にマスコミに洗脳されて、「常識」を失ったマス(塊)人と化している。
松本人志がレイプ魔だったというのなら話は別だが、週刊文春が毎週毎週書きまくっている松本の「性加害」の記事をいくら読んでも、どこにも「レイプ」とは書いていない。「レイプ」という単語を巧妙に避け、「性加害」と書いている。しかも「暴力」も伴わないから、「言葉による暴力」を臭わせて、「セクハラ暴言」を吐いたらしき記述になっている。
こういう記述方法を「修辞法」、あるいは「レトリック」と言うのだ。
週刊文春は「レトリック」で「イメージ操作」をしているに過ぎない。さも性犯罪があったかのような「筆致」で、吐き気がするような描写をしながら、読者に嫌悪感を植えつけているのだ。
しばしばわしの漫画で似顔絵を描くことが「イメージ操作」だとリベラル左翼は批判してきたが、漫画より文章の方が大衆は「イメージ操作」に引っ掛かりやすい。大衆は文章に「権威」を感じる権威主義者だからだ。
「人権真理教」による「キャンセルカルチャー」の暴風が吹き荒れ、ムサいオッサンでさえ「性被害を受けた」と言えば、疑いもなく同情されるという悪しき前例ができてしまったものだから、ましてや女性が「性被害」を訴えたら、いまや最強コンテンツに成り果ててしまった。
レイプ(不同意性行為)をしていなくても、ただ暴言を吐いただけで、それを「性被害」として訴えられたらイチコロ、社会的に抹殺されるようにまでなってしまったのだ。
1 / 1